舟橋喜恵・広島大学名誉教授とのインタビュー
「広島平和研究所のニューズ・レター」Vol.2

2006.04.29

1月19日付で触れました舟橋喜恵・広島大学名誉教授とのインタビューをまとめたものをこのコラムで紹介していないことに気がつきました。おくればせながら、広島平和研究所のニューズ・レターに載せた内容を下記の通り紹介させていただきます。

日本における核廃絶運動が本格的に始まったのは、1954年の第五福竜丸事件以後のことであり、原爆投下を契機としてのことではない。その原因として、占領期にプレス・コードがかけられていたという説明はつくが、それなら対日平和条約で独立を回復(1952年)した時にできなかったのか、という疑問がわくし、最初のチャンスだったと思う。1952年の原爆慰霊碑の除幕式直後からいわゆる碑文論争が起こったことを顧みても、被爆者の間にアメリカの原爆投下責任を問う気持ちは強くあったことが窺える。もっとも、占領政策の影響とか天皇に対する当時の民心とかを考えると、当時の広島が運動を起こすことを考えるのは無理だったろう。そういう動きがどこにもなかったとすれば、その理由を究明すべきだろう。

日本被団協(1955年の原水爆禁止世界大会の翌1956年成立)の初代事務局長だった藤居平一氏の述懐によれば、核廃絶と被爆者救援は運動の車の両輪という位置づけ(大会宣言)だったにもかかわらず、被爆者救援の活動は、初期に原爆医療法の成立という成果もあげたが、「救援派」と身内からも揶揄されるなど苦しい立場に置かれる時期もあった。被団協が独自の活動を開始したのは、皮肉なことに原水禁運動が分裂してからのことである。ただし、日本被団協は分裂しなかったが、広島の被団協は分裂し現在もそのままである。

被爆者問題を考える際の画期は1977年に開催されたNGO被爆問題シンポジウムであり、被爆者にかかわるあらゆる問題が議論された。その報告書「被爆の実相と被爆者の実情」は、今日においても被爆者問題を考える際にはまず読むべきものであり、被爆50年、60年においてもこれを越えるものは出ていない。その後このレベル以上に取り組みが発展することができなかったのは何故か、ということを考えさせられる。

1965年に厚生省(当時)は第1回の被爆者調査を行い、2年後にその結果を発表したが、当時から既に「被爆者のために何かやらなければならない」という内容ではなくなっていた(石田忠教授)。1980年12月11日に厚生大臣の私的諮問機関であった原爆被爆者対策基本問題懇談会が、被爆者行政に大きな影響を落とすことになった答申を出した。その内容は、戦争の被害は国民が等しく受忍しなければならず、被爆者の扱いも一般の戦災者の扱いとの均衡がとれなければならないとするものであった。

これに対して広島の被爆者たちが厚生省へ抗議文を出したが、それを手伝った医療ソーシャルワーカたちは、1981年6月に「原爆被害者相談員の会」を立ちあげ、相談活動のほかに、毎年8月6日に証言のつどい・全体交流会を、12月11日にシンポジウム・講演会を行ってきている。しかし、会の歴史を振り返ってみるとき、基本問題懇談会の答申をのりこえる理論や活動を生みだせなかった、その視点から被爆の全体像・実相を伝えるということができなかったという反省もある。被爆者一人ひとりに当たれば、皆さんが強い気持ちをもっているが、運動、抗議という形で広がっていくということがなかなか難しい。「おかしいことはおかしい、と言おうではないか」という方向に結びつけ、つなぐという動きは出てこず、草の根が草の根で終わってしまってきたことは大きな反省点だ。

被爆者の運動を押さえ込む原因となってきた背景として、広島が時の政権に対して極めて従順であり、「お上に逆らう」という感覚がとても薄いということを指摘することができると思う。広島では、行政に対してもの申すと言うことがあまりない。時の政権の意向に沿わないことはやらない。広島に来て間もないときに、「広島は被爆都市ではあるが、必ずしも再軍備に反対しているわけではない」と言われたことがある。

そのことに対して、広島を訪れる人々からは、「唯一の被爆国」「被爆都市として」と言うことはやめなさい、という趣旨の発言がなされる。それは一方では、「被爆都市ということが形骸化しているではないか」という問いかけであり、あるいは「本当に被爆都市というつもりならちゃんと言いなさい」という意味合いが込められていると感じる。ところが広島の人々は、外からそのように見られているということに気がついていないようだ。広島は非常に疲れている、と思う。かつての藤居平一氏のようにすごいエネルギーを発揮する人物が現れず、新しいアイデアを出すことができなくなっているのはそのせいだろう。被爆60年に際しても、広島は何かを生み出すことはできなかった。

最後に、今後の展望として、藤居氏の遺言でもあるが、被団協が世界の核被害者を結集して「世界の被団協」を作るために活動することを提唱したい。チェルノブイリをはじめとする世界の核被害の問題について、政治・行政と渡り合う上のノウハウを被団協はもっている。被爆2世や周りの理解者を動員して世界の被団協の結成に向かうべきだ、といいたい。そういう被団協であれば、ノーベル平和賞を受ける意味が出てくるだろう。