舟橋喜恵・広島大学名誉教授とのインタビュー
「広島平和研究所のニューズ・レター」Vol.1

2006.04.29

27日に広島の前市長・平岡敬氏にインタビューした(広島平和研究所のニューズ・レターに掲載する目的)のですが、お会いする前に同氏が1972年に未来社から出版された『偏見と差別 ヒロシマと被爆朝鮮人』と題する著作を読んで、質問の下準備をしました。広島にものすごくこだわる内容で、非常に感銘を受けました。インタビューそのものもとても中身が濃く、内容をまとめた上でこのコラムでも紹介したいと思っていますが、ここでは私が同著作の中で特に感銘を受けた部分を抜粋してまとめたもの(平岡氏とのインタビューの際にも用意しました)を紹介します。この本の副題にもあるように、平岡氏は早くから在韓被爆朝鮮人の問題に深い関心を寄せられており、「彼らの呻きは地底から日本人の頽廃した精神構造を照らし出し、日本と日本人の責任を告発しつづける。それこそ私の追究する“ヒロシマ”なのであった」という指摘にも端的に示されているように、この問題は「ヒロシマ」そのものに直結するという認識を持っておられます。私は、平岡氏のこの認識にハッとさせられましたし、全くその通りであると共感しました。インタビューでの同氏の発言はこの著作の線上にあるものであり、平岡氏の「ヒロシマ」に対するこだわりは、この1年間の私の広島における滞在において初めて出会った強烈かつ問題意識のもっとも鮮明なものであります。

(1) (「終わりと始まり」 1969年7月)

全国からの募金額は(ドーム保存)工事費をはるかに上回った。…この事実は日本人の胸の底に燃え続けている平和への願いの強さと、そのエネルギーを結集できないでいる既成の原水禁運動の停滞ぶりをあらためて印象づけるものであった。

しかし、ドームは保存工事が終わった瞬間から、完成された一つの“もの”として存在し始めた。合成樹脂で固められた整った壁面は、もはや何も語りかけてこない。たとえ瓦礫の山となろうとも、何の手も加えず、風雨にさらされ崩れ落ちるままにしておくべきではなかったか。そんなことを思うのも、平和の問題が依然としてイデオロギーを中心とした権力政治の論理のワクの中でしか論じられず、原水禁運動が核兵器絶滅へのはっきりした展望をつくり出すことができないままに、相も変わらず被爆体験や国民のナイーブな感情によりかかっていることに対するいらだちのせいなのかもしれない。

たしかに被爆体験は、日本国民の戦争や核兵器への抵抗感覚の核として作用してきた。それゆえに原水禁運動は、運動が行きづまるたびに「初心に還れ」「原点に立ち戻ろう」と呼びかけたのであろう。しかし体験そのものは未体験者に伝えることができない。したがって、被爆体験を反戦・反核の中心に据える限り、歳月による体験の風化や被爆者の減少によって抵抗感覚がマヒして行く危険性もはらんでいるのである。個人個人の体験を次の世代へ伝えるには、その体験が思想化され、日本人の歴史的経験とならねばならないそのための思想的営為を怠るとき、ドームは“もの”になる。…

その意味でも、原水禁運動は転機に立っていると思われる。一九五〇年代から六〇年代へかけて、貴重な歴史的役割を果たした原水禁運動の思想と運動方法は、七〇年代を迎えるいま、徹底的に検討されなければならないだろう。(pp.51-53)

(2)(「被爆者の「目」 1970年7月」)

占領直後のプレスコードから万国博での被爆写真撤去まで、支配者たちはいかに原爆の残虐さを民衆の目から隠匿し続けてきたことか。それは彼らがどのように言いつくろおうと、核兵器は民衆を殺すものであり、さらにそのような兵器を開発し使用する国家は民衆と敵対する存在であることが明らかになることを恐れたからにほかならない。『原子爆弾の効果』の公開に際して、文部省が人体場面をカットした理由は「人権尊重」であった。そのことばは、これまでいかにも原爆被害者の人権が尊重されてきたかのように、平然と語られる。本質を覆い隠すそらぞらしい美辞。ことばと実体との乖離−これこそ現在の政治状況そのものである。(p.78)

(3)(「七〇年・広島の夏」 1970年8月)

〇ことしもまた、首相は広島に来なかった。…戦後二十五年間、政治から見棄てられ、政治に踏みにじられて来た被爆者が、今さら政治に期待するものは何もないはずである。とすれば、首相の出席は官製の式典を権威づけるためのものでしかないであろう。(pp.84-85)

(中略)

核への権力志向が続く限り、首相は広島に来ないであろう。もし来ることがあるとすれば、それは権力者が日本の平和勢力との対決に自信を持ち、あらゆる意味での戦後体制に決着をつけようとする時である。(p.87)

〇かつて原水禁運動が困難に遭遇するたびに叫んで来た「原点に立ち戻ろう」の延長線上には、ヒロシマと被爆者の聖化があった。人々は「ヒロシマ」に何かを求めて集まった。まるで「ヒロシマ」には理論を超えた不思議な力があるようであった。例えば一九六三年、「いかなる国の核実験にも反対」という表現をめぐって社共が対立した時も、組織分裂を回避するために日本原水協の安井郁理事長は「ヒロシマ」のイメージを利用しようとしたのである。そこには広島で話し合えば、何とか打開の道が開けるのではないかという期待があった。だが、このヒロシマ信仰はみごとに打ち砕かれた。そして以後の原水禁運動の無残な荒廃。“ヒロシマ神話”の崩壊。(pp.89-90)

〇日本人が片仮名の「ヒロシマ」に託して来たイメージは一体何であったのだろうか。…これは想像でしかないが、恐らくは「平和」「原爆」「原水禁運動」「戦争反対」といったことばが上位を占めて、「悲惨」「恐怖」「死」などは下位になるのではないか。仮に日本人が「ヒロシマ」にそのようなイメージを抱いてしまっているとすれば、それは広島・長崎の被爆が原水禁運動の契機とはならず、ビキニの被災が契機となっているからであろう

しかし「ヒロシマ」とは、核の持つ力の論理がつくり出す非人間的状況以外の何物でもない。だからこそ、地球上には無数の「ヒロシマ・ナガサキ」が存在する。原水禁運動が「原点への回帰」を追体験運動→ヒロシマの聖地化に終わらせないためには、非人間的状況に生きる被爆者をことばの上だけでとらえていたのではむずかしいのである。(pp.90-91)

(4)(「天皇とヒロシマ」 1971年4月)

広島にとって重要なことは、天皇来広(注:1971年4月16日に原爆慰霊碑を参拝)を機に天皇の戦争責任、国家責任の問題がようやく表面化したことであろう。これまで広島、長崎の体験を基盤に展開された原水禁運動、平和運動は、原爆被害の残虐さを国の内外に訴えることに終始し、戦争責任の問題を自らの手で追及することにかけていた。一九六三年(昭和三十八年)末に決着をみたいわゆる“原爆裁判”にしても、米国への損害賠償請求という形をとり、日本国民自身の問題である“戦争責任”は棚上げにされていた。その発想は、終戦詔書を隠れミノにして、敗戦の責任を原爆に押しつけた戦争指導者たちと同様である。日本の平和思想の弱点は、自らの手で戦争指導者と自分自身を裁かなかったところにある。しかも、広島の体験は、戦争への反省と戦争責任の追及という視点を持たぬ限り、いつまでも被害者意識のワクを突き破れず、非被爆者との連帯の基盤となりえないのである。(pp.108-109)

(5)(「被爆朝鮮人の怒りと悲しみ」 1969年1月)

〇被爆朝鮮人の問題が、日本人からではなく朝鮮人から提起されたことは、私には衝撃だった。韓国に被爆者がいることを知っていながら私が何もしなかったことは、彼らの苦悩が自分の苦悩となっていないことだ。新聞記者として原爆問題にタッチしてきた私ではあったが、私もまた原爆問題の中に朝鮮人の占める場所を持たない日本人の一人ではなかったのか、朝鮮と朝鮮人に対して抱き続けてきた私の関心はしょせん郷愁めいた思いにすぎなかったのか−そんな反省に、私は胸をさいなまれた。
私は韓国の被爆者に会いたいと思った。それは私にとっての“ヒロシマ”と“朝鮮”とのかかわり合いの意味を確認しようとしたからであり、そしてその二つを重ねて透視することは、自分自身を見つめることになるだろうと予感したからである。(pp.124-125)

〇戦前、戦後を通じて徹底的に無視され続けた朝鮮人の問題を避けて、日本人が訴える平和とは何であろうか。

日本の平和思想・平和運動のひ弱さは、日本人の歴史を一九四五年(昭和二十年)八月十五日で断絶させ、一切の過去を切り捨ててしまったところから出発したことにある日本人は自らの責任を解除するために、自らを許すために、過去を切断したのである。しかし、私たちは決して自らの歴史やその責任と絶縁することはできない。むしろ“負の歴史的遺産”を正しく受けとめることによってのみ、新しい強じんな思想と運動が生まれるはずである

私は最初の韓国訪問の報告の中で「日本人が彼ら(被爆朝鮮人)の悲惨を認識することは、日本人の歴史的責任を自覚することである。日本が朝鮮を植民地として支配したことから日本国民の精神の退廃が始まったとすれば、韓国の被爆者の悲惨さを見過ごすことは私たち自身の現在の頽廃に目をつぶることになる」…と書いた。私は被爆朝鮮人の存在の中に“ヒロシマの思想”の頽廃を見たように思った。戦後、世界に向かって平和を叫び続けてきた広島が、この問題から目をそむけて生まれながらの“平和の使徒”のような顔をしていることが、私には耐えられなかった。被爆朝鮮人の訴えを聞くことは、私たちが自らの裏切りの重さを自覚し、自らの精神を検証することである。そして日本人被爆者が被害者であると同時に加害者でもあるという関係の中から、新しい“ヒロシマの思想”を生み出すべきだと思った。

平和の思想は“人権を守る”思想から生まれる人間一人を大切にしない国がどうして世界平和を口にすることができよう。私たちが戦争に反対する論拠は、戦争こそ人権をふみにじることによって遂行されるものだからである。被爆者にとって戦争はまだ続いている。彼らの人間はまだ回復されていない。その象徴的存在として韓国の被爆者がある。したがって韓国の被爆者の人権を守ることは、日本の被爆者の人権を守ることにつながる。その意味で、朝鮮、さらにベトナムはヒロシマの延長線上にあるのである。(pp.174-176)

(6)(「若いスチェビ」 1970年10月)

彼ら(徴用被爆者)は原爆の悲惨を訴えているのではない。日本の植民地政策、米国の原爆投下、韓国の貧困など、あらゆる国家犯罪を証言しているのである。とりわけ、彼らの呻きは地底から日本人の頽廃した精神構造を照らし出し、日本と日本人の責任を告発しつづける。それこそ私の追究する“ヒロシマ”なのであった

執拗に私を追ってくる彼らの視線は、鋭い刃となって私を貫く。しかし撃たれるのは「記念撮影」をした私一人でよいはずはない。すべての日本人は、彼らの視線でその胸板を撃ち抜かれるべきではないか。そのためにこそ、私は彼らのことばを記録しなければならない。(pp.218-219)

(7)(「ヒロシマ」をめぐって 1972年6月)

〇戦後しばらくの間、広島では原爆による被害は宿命、あるいは一種の天災として受け止める空気が強かった。国家の枠の中で考え、生きてきた明治以後の日本人にとって、戦争とその結果は個人の意思ではどうにもならないものとして諦めるしか自らを納得させることはできなかったに違いない。そのうえ、占領下という事情も手伝って、被害者たちはこの世のものとも思われぬ残虐行為を、ただ黙って甘受したのである。

このような諦観を否定して、原爆被害は人災、つまり政治の犠牲だという考え方が出て来たのは、日本が“独立”してからのことである。広島大学の長田新教授は「原爆投下の動機ないしはその歴史的条件についての国民の無知が、戦争と平和との問題についての正しい考え方と実際的な行動とが生まれてこない一つの重大な要因をなしている」…として、原爆投下は米ソ冷戦の犠牲であって天災ではない、と主張した。…

この冷戦構造の面からの広島原爆の把握は、その後ビキニ水爆実験による第五福竜丸事件をきっかけに国民運動にまで高まった原水爆禁止運動に継承され、広島は一方的な被害者として<ヒロシマ=平和>の図式が完成する

一方、戦後日本の独占資本主義が確固とした地盤を築きあげたのは一九五七年(昭和三十二年)ごろといわれるが、それは朝鮮戦争や沖縄県民の犠牲の上に成り立った繁栄であった。その経済発展の中で、広島もまた次第に原爆の傷跡を消していった。原水爆禁止運動はこの現実に目をつぶったまま<ヒロシマ=平和>の論理に基いて、被爆者の被害者的側面を強調した。広島からの訴えは原爆被害の深さ、広さに力点がおかれ、自らの悲惨さを顕示することに終始した。…

私は、ある年はケロイドの残る被爆者、次の年は原爆小頭症と、“目玉商品”を求めては、年に一度の儀式をとり行なう平和の司祭たちを責めようとは思わない。むしろ、そのような被害者の立場に容易に乗ってしまう被爆者、さらには日本人の意識を問題にしたいのだ。つまり、自らを被害者だと思いこんでいるばかりに、いつの間にか国ごと加害者に転化してしまったことが見えないのである

広島は日清戦争から敗戦まで軍都であった。そして現在も日本資本主義の一翼を支える存在である。“経済大国”として復活した日本は、政治的にも経済的にもアジア諸国に大きな影響を与えている。その関係を基礎において初めて、広島は被害者意識を超える視点を獲得することが出来るはずである。

だからといって、核兵器の残虐性を内外に伝えることの重要性を否定するわけではない。ただ原爆被害者の実態をつかまえないかぎり、被爆者のかかえる真の苦悩は伝えられないのではないか。つまり、私は被爆者の問題を考える場合、既に被爆者の間で完了してしまった階層分化と、経済至上主義の社会風潮とともに民衆の内部で被害者が疎外されてゆく傾向が強まっていることを忘れてはならないと思う。被害を訴えれば訴えるほど孤立してしまう被爆者−それは長期保守政権の下で、政治が民衆のエネルギーを吸収することがなかったゆえに、社会の中に大きな無関心層が形成されてしまったからである

日本の原水爆禁止運動が定型化し、形骸化したのは、もちろん保守支配の構造がますます強固になり、管理の体系が完備していったことと裏腹の関係にあるが、運動の側がこのような被爆者と社会の変化を見落として“原体験ベッタリ主義”に終始したことも大きな原因といえよう。(pp.264-267)

被爆朝鮮人が問いかけているのは、日本人にとって「ヒロシマ」とは何なのか、ということである。それは被害者意識だけに埋没して来た被爆者に対する一つの告発である。日本人はこの告発を真正面から受け止めねばならないだろう。彼らは日本の国家責任の明確化と日本人の精神の検証を要求する。そして、日本人の朝鮮人に対する偏見と差別は、日本の社会において次第に顕在化してきた被爆者に対する差別と偏見と共通の根を持っているのである。(p.272)

〇従来、広島から平和を語る場合、一九四五年(昭和二十年)八月六日のあの瞬間に基づいて平和にかかわり合うことが多かった。しかし、いま広島で原爆問題を考えようとする人たちは八月六日以前の広島へも目を向けるようになった。…ようやく被害者意識を脱却して、加害者の意識が生まれてきたということであろうか。罪責感のないところに反戦思想は生まれない。被害者意識から生まれるのは厭戦思想だけである。(p.273)

〇これまでのほとんどの運動が状況の先取り競争に終始してきたことを思うとき、私は原爆孤老にしても、被爆二世にしても、被爆朝鮮人にしても、つまり「ヒロシマ」から逃げ出せない以上、私は国家から徹底的に冷たい仕打ちを受けている人たちの側に身を寄せて、その怒りを共有しながら私なりの歩みを続けて行こうと、ひそかに思うのだ。(p.274)