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広島保険医新聞への寄稿

2005.12.04

広島保険医新聞に寄稿することになり、準備した原稿を紹介します。

(はじめに)

私が広島平和研究所に着任したのは2005年4月ですから、広島での生活が既に8ヶ月になろうとしています。しかし、原爆投下の重い歴史を背負う広島はとても奥が深く、わずか8ヶ月の時間ではまだ何も分からない、という強い実感があります。広島の目線を我がものにすることができるようになるには、どれぐらいの時間がかかるでしょうか。そもそも広島の目線を我がものにすることなどできるのでしょうか。今の私の頭の中を占めるのは、この問いかけです。

他方で、皮相かつ限られた体験・観察に伴う(したがって的はずれである可能性が大きい)様々な疑問・問題意識がわき起こっていることも事実です。これらの疑問・問題意識に納得のいく答えを見いだすべくこだわっていきたいと思っておりますが、皆様から忌憚ないお叱りやご意見をお聞きしたい一心で、あえてそれらの疑問・問題意識の一端をご紹介することにします。

1.核廃絶問題

私が東京に住んでいたときに感じていたことの一つは、「唯一の被爆国」という言葉の持つ意味が、ごく一握りの人々の間を除けば、多くの国民の間でなんの重みも持たなくなってしまっている、ということでした。こうなってしまったのにはいろいろ原因がありますが、一番責任があるのは、政府(国家)が一貫してホンネとタテマエの使い分けをしてきたこと、次に、そのことに多くの国民が、はじめのうちこそ強い批判・抗議の声を上げましたが、次第に「これが現実だ」、さらには「今更何か言ってもどうにもならない」と諦めてしまったことにあると思います。

「唯一の被爆国として核廃絶を誠実に希求する」という決まり文句は、今でも国際会議で政府首脳が繰り返すタテマエです。しかしその政府はホンネでは、軍事同盟関係にあるアメリカの核政策を批判する気持ちは毛頭ありませんし、核廃絶に本気で取り組む気持ちもまったくないのです。非核3原則も本当は守られてきませんでした(アメリカ艦船の核持ち込みはライシャワー発言などで明らか)。核廃絶を目指す国民運動も、いつの間にか政府によって仕組まれた「究極的」核廃絶という言葉が忍び込むのを許した結果、運動の分裂など厳しい試練に見舞われてきました。私がショックを受けた一例を申し上げれば、原爆ドームを世界遺産に推薦する国(文化庁)の文書の中で、原爆ドームのことを「究極的核廃絶…を訴え続ける人類共通の平和記念碑」としていたことです。原爆ドームを世界遺産に登録する際にも、国はこんな小細工をしたのです。

対米関係を優先する国のこうした動きに対して、国民は当初こそ批判しましたが、時が経つとともに、いつの間にか既成事実としてあきらめが先行するようになり、その諦めは核廃絶運動の活力そのものにもじわじわと暗い影を落とすことにつながってきたのではないか、と思います。先ほどの原爆ドームの世界遺産登録の問題に即して言えば、当時、文化庁が「究極的核廃絶…の記念碑」と位置づけたことに世間の注目が払われた形跡はありません。というより、社会的に問題にもならなかったのではないでしょうか。その時、広島では問題視されたのかどうか、どなたかから経緯を教えていただければ幸いです。

以上は、私が東京に住んでいたときに感じていた全国レベルの核廃絶に関する一般的状況です。

私は、被爆地・広島はそうではないだろうと思っていました。私が広島でやるべきことは、広島の高い問題意識・エネルギーに学んで、それを糧にして日本国内そして世界に向けてのメッセージに練りあげ、発信することだ、と考えていました。

わずか8ヶ月弱の体験・経験から見当はずれのことを申し上げるのは厳に慎むべきであることを十分承知した上で、私の素直な気持ちを申し上げると、少なくともこれまでの8ヶ月の間においては、そうした広島の問題意識・エネルギーを感じ取れないでいます。

被団協をはじめ被爆者の一部の方が懸命に努力しておられることは理解しています。原水爆禁止の真剣な取り組みについてもそうです。でも、そういうことは、東京にいても分かっていたことでした。私が広島に期待していたのは、広範囲にわたる市民の核廃絶に寄せる高い意識とそこから出てくるはずのエネルギーでした。思想化された広島、といってもいいかもしれません。それが今のところ見えないでいます。被爆60年の8月6日までは様々な企画があり、メディアも盛んに特集を組んで取り組みました。しかし、8月6日が終わると、正に「潮が引く」ように、広島市全体も広島市民も日常生活に戻っていったという印象が強く残りました。

失礼な言い方を許していただくならば、多くの市民にとって、「核廃絶」は、いまやお祈りの対象であり、時々思い出して手を合わせればそれで終わり、程度のものになってしまっているのではないか、と思うことがあります。全国レベルでは、お祈りする気持ちすらなくなっていますから、広島の意識は、全国レベルと比べれば高いことは確かでしょう。しかし、その程度の意識レベルでは、到底全国を揺るがすだけのエネルギーの素にはなり得ないのではないでしょうか。

私は今、広島においてもまず、全国そして世界に対して発信できる素になる「核廃絶」の緊要性についての問題意識・エネルギーを高めるという課題(広島の思想化)について衆知を集めて考えなければならないのではないか、と思うようになっています。この文章をお読み下さる方たちから率直なご意見をお寄せいただくことを強く期待しています。

2.平和・平和憲法の問題

「平和」と「平和憲法」をめぐる広島の状況について受ける印象も、私が広島に来る前に予想していたものとはかなり違っていました。非常に身近な例で言いますと、私が勤務する広島平和研究所について、私は市民の支持の上に成り立っているという先入主がありました。世界的なレベルの平和研究機関を目指すという設立の趣旨は、広く市民の方たちに共有されているだろうと思っていたのです。

しかし、現実ははるかに厳しいものでした。研究所の存在はほとんど知られていないといった状況ですし、知っている人でも、「研究所は何をやっているの?」という程度の意識しかない方がほとんどだと思います。

市民の間で広島平和研究所の認知度が低いということは、この研究所を広島市民の税金で設立することについて、全市民的な議論を必ずしも経ていないという歴史的経緯に依るところがあると思います。同時に、「平和」そのものに対する市民の関心が、一部の人々を除けば、かなり薄れていることの反映ではないか、とも私は考えるようになっています。

今、岩国基地への米軍機能移転問題が起きています。私が素直に受け止められないのは、平和都市・広島からほとんど声が上がっていないことです。地元紙・中国新聞がもっと大々的に取り上げ、市民に情報を提供し、関心を高める材料を提供するのは当然だと思うのですが、そういうこともありません。これも市民の平和問題に対する関心の低さを紙面が反映している、とも受け止められます。

先ほど、「核廃絶」がお祈りの対象になっていると言いましたが、「平和」についてもそう言えるのではないでしょうか。「平和は大切」と一言言えば、それで終わり。「平和」について論じるということにはならないのです。

ですから、隣の呉市にいわゆる大和ミュージアムができても、ごくごく一部の人々の間でそのあり方について議論されることはあっても、広島の平和記念資料館の入場者が減少傾向をたどる一方で、大和ミュージアムが当初予想以上の訪問者を集める活況を呈しても、とくに大きな議論がわき起こらない、ということにもなるのではないでしょうか。

詳しくはまだ調べていませんので、印象的なことを申し上げるのを許していただきたいのですが、被爆都市・広島をどういう内容の平和都市にするかという出発点において、広島が明確な「平和」に関する自己定義をしないまま経済的復興に邁進してきたことに、広島の平和意識の曖昧さの根っこがあるのではないか、と思われます。

そういう曖昧さをこのまま引きずっていくと、広島は大変な試練に曝される日が近いと思わずにはいられません。2006年度には、広島市は、核攻撃を想定した国民保護計画を策定することが求められています。広島市民が平和のあり方について自覚と問題意識を強めないと、「ノーモア・ヒロシマ」を叫んできた広島市が、核攻撃を前提にした「国民保護」計画(核攻撃の前には市民を保護できるすべがないことは、1945年以後今日までの悲惨な体験で、私たちが知り抜いていることです)を作る羽目になってしまいます。

そして、日本を「戦争する国」にする憲法「改正」の動きも強まっています。私は、この問題について、戦争のもっともひどい被害をうけた広島が無関心のままでいるように見受けられることに、とても強い危機感を覚えます。広島は、侵略戦争の結果として原爆投下を受けました。この事実を噛みしめるとき、広島こそが全国に向かって、戦争を繰り返さないことを誓った平和憲法の大切さを説くべき立場にあるのではないでしょうか。広島が全国に対して発信をしなかったならば、一体他のどこがその役割を果たせるでしょうか。残念ながら、そういう声も上がらない広島の現実に、私は大きなとまどいを覚えています。

以上に述べたことについても、率直なご意見やお叱りをいただけたら幸いです。