連続市民講座第6回講師:ドキュメンタリー映画監督の海南(かな)友子さん

2005.11.15

テーマ:「中国における戦争の傷跡とヒロシマ観」

14日に行われた広島平和研究所主催の連続市民講座第6回の講師は、ドキュメンタリー映画監督の海南(かな)友子さんでした。テーマは「中国における戦争の傷跡とヒロシマ観」。広島県は、被爆地・広島とともに、中国大陸で使用され、敗戦に際して大量に遺棄された毒ガス弾の製造地・大久野島があった県であり、被害と加害の双方を併せ持つという解説から始まった海南さんのお話は、今日なお遺棄弾によって被毒する中国人達の肉体的・生活的苦しみを映すDVDの映像とともに、私たち日本人が被害の歴史だけではなく、加害の歴史も直視することの大切さを強調するものでした。海南さんは、中国人のなかに「原爆投下によって中国の解放が早められた」という評価があることを認めた上で、被毒した中国人の方が、「広島の人々も、私と同じく被害者だ。悪いのは戦争を起こした軍国主義者だ」と語る映像を紹介したのが印象的でした。

これまでの回と違い、会場からの質問が少なく、とぎれがちだったことが気になりました。そんな中で、一人の方が、被害者が国を相手取って起こした訴訟の判決(原告勝訴)に対して国が控訴したこと(注:DVDで紹介されました)に関連して、「中国人被害者に対する補償は財政上大きな負担になるから、国は国民への負担を考えて控訴したのではないか。しかし、国民としては財政負担を覚悟して対処する気持ちを持たなければならないのではないか」という趣旨の発言をされました。

国が控訴したのは国民の負担を考えてのことではない(後述)のですが、この質問に対して海南さんは、国家の安全保障という観点からの視点を示したのが私には半分意外でした。海南さんは、確かに財政的にきついけれども、武器を買い、その他いっぱい無駄なところにお金を使っているのだから、そういうところからお金を回せばいいし、誠意を持って対処することで中国人の対日感情を好転させる方が安全保障の点からいってむしろ安上がりになる、という趣旨の発言をされたと記憶しています。おそらく、会場からの発言者の発想にあわせての返答だったのではないか、と思いましたが、放影研での坪井氏の発言を引きずったままの私には、正直言って違和感が残りました。

原爆投下したアメリカは、放射線被害の実態を調べることだけに関心があって、放影研の前身であるABCCを立ちあげました。検査はするが治療はしない(ましてや補償など論外)というその姿勢に、多くの広島市民が抵抗感をもったということは、Tさんからのメールでも確認できるところです。最終的に世論の前に、日本政府がアメリカに代わって被爆者「援護」(しかし、被爆者も戦争の「受忍」義務を負うから、政府が行うのはあくまで、お気の毒だからという趣旨の援護であって、国家の戦争によって奪われた人権の回復という意味での権利としての補償ではない!)で対応することになっているわけですが、戦争被害者に対する基本的に突き放した姿勢という点では、日本政府は一貫しているし、相手が中国人となればなおさらその冷たさが露わになっているのです。

そういう基本認識が私たちに備わっているならば、財政事情、安全保障という切り口で物事を論じる前に考えるべきことがあるのではないか、と思うのです。その基本的なところ(国家としての戦争責任を承認し、償うことにあくまで抵抗しようとするのは他ならぬ戦後保守政治が支配してきた国そのものであるということ)を押さえないと、私たち日本人の戦争責任を主体的に考え、判断する場合の座標軸が確立できないことにつながってしまう、と考えるのです。以上のやりとりには、そういうあぶなっかしさが潜んでいるのではないかな、と感じたのでした。