埼玉県の高校が広島に修学旅行:先生からのご質問

2005.09.21

埼玉県のK高校が広島に修学旅行に来るということで、担当の先生と修学旅行担当の生徒さんからの質問が寄せられたので、私なりに一所懸命考えた文章を送りました。ここにも載せておこうと思います。

1.原子爆弾についての考え

(1)原爆体験を積極的に継承するための取り組みのあり方

いま広島で大きな課題として意識されているのは、被爆者の高齢化が進む中での原爆体験の継承という問題です。「被爆者には、被爆60年はあっても70年はない」と、被爆者で原爆資料館の元館長である高橋昭博さんが仰いましたが、被爆者がご健在な間にどのようにして原爆体験を次の世代に伝えていくかという問題が、一刻の猶予もならない課題として突きつけられています。率直に言って、この問題に対する有効な回答は見つかっていません。皆さんたちは今回、被爆者の方からお話を伺うという貴重な経験をするのですから、そのお話を通じて自分が何を実感するかということをしっかり見つめてほしいと思いますし、その実感から出発して、どうしたら自分自身が原爆体験の継承者になることができるか、という切実な問題に向き合ってほしいと願います。

他方、被爆者の方たちは今後ますます高齢化が進み、被爆体験を語り伝える上でますます難しい状況が出てくることは、客観的に避けられません。原爆体験の語り伝えという方法だけでは、原爆体験はもちろん、戦争体験そのものを持ち合わせていない若い世代に対する原爆体験の継承という課題に対する恒久的な答えにはならないのです。もっと別な視点に立った新しい原爆体験の継承の方法を模索しなければならない時期(しかも一刻の猶予もできない時期)にきていると思います。

私は個人的には、次のような継承方法を考えていますので、皆さんにも真剣に考えてほしいと願います。それは、国際社会で起こっている様々な悲惨な出来事を原爆体験に重ね合わせ、そうすることによって広島、長崎の原爆体験をいわば追体験するという方法です。現実に起こっている悲惨な出来事の映像を見るとき、私たちは大きな衝撃を受けます。そして、そういうことはあってはならない、なくさなければならないと痛切に思う気持ちがほとばしり出てきます。なぜそういう思いになるかといえば、どの出来事も人間のもっとも大切なもの(生命そして尊厳)を大量かつ無差別に奪い挙げるもっとも反人道的な行為であるからです。

広島、長崎は、世界各地で起こっている様々な悲惨な出来事を何十倍も、何百倍も、何千倍も悲惨さの規模を大きくした出来事です。世界で起こる現実の悲惨な出来事に胸を痛め、二度と起こしてはならないと感じる皆さんが、少し想像力を豊かにするだけで、広島、長崎を二度と繰り返すことがあったのではならないのだという強い気持ちにつなげていくことができるはずです。こういう想像力をあなた達若い世代が育むようにすることが、原爆体験の継承、そしてそこから「ノー・モア・ヒロシマ」「ノー・モア・ナガサキ」「ノー・モア・ウォー」の訴えを自分自身の心からの訴えとさせていくことを可能にするのではないでしょうか。

国際社会で現実に起こっている悲惨な出来事と原爆体験を結びつけて考えることは、皆さんにわずかな想像力さえあれば非常に簡単なことです。原爆による被害には、大きくいって、大量無差別殺戮と放射線被害(二つの反人道性の極み)という意味で普遍的な訴えを持った内容があります。

ナチスによるホロコーストも、ドレスデン、重慶、東京などに対する無差別爆撃も、近年のニュースとして皆さんもある程度は知っているルワンダ、旧ユーゴ、スーダン・ダルフールなどでのジェノサイドも、すべては大量無差別殺戮です。皆さんは、どの出来事についても、テレビの画面の映像を見るとき、いたたまれない思いを持つでしょう。その思いに基づいて、広島、長崎はこれらの大量無差別殺戮の何百倍、何千倍もの被害を一瞬にして体験したことを想像すれば、広島、長崎についての理解・認識は一瞬にして深まるでしょう。そうです。広島と長崎は、大量無差別殺戮という反人道性の極みを体現する普遍的な訴えをもっている人類共通の負の遺産なのです。その点を皆さんが深く認識することができれば、原爆体験の継承という課題への大きな手がかりをつかむことができるのではないでしょうか。

広島、長崎はまた、大変な放射線被害も蒙りました。その被害は今日なお被爆者を苦しめています。放射線による被害という点についても、国際社会は悲惨な現実を生み出しています。チェルノブイリ原発事故、セミパラチンスク、マーシャル群島、アメリカ本土の核実験場周辺等での核実験による放射線被害、劣化ウラン弾による後遺症等々、放射線被害は世界に広がっています。世界各地での放射線被害のむごさに胸をかきむしられる思いをする私たちは、その状況が1945年以来今日まで延々と続いている広島、長崎を思い起こさないわけにはいきません。そうです。広島と長崎は、放射線被害という今ひとつの反人道性の極みを体現する普遍的な訴えをもっている人類共通の負の遺産なのです。その点を皆さんが深く認識することができれば、原爆体験の継承という課題への今ひとつの大きな手がかりをつかむことができるのではないでしょうか。

ただし、大量無差別殺戮という被害と放射線による被害を一身に背負っているのは、これまでのところ広島と長崎だけです。そういうことに皆さんたちの考えが及べば、いかに広島、長崎が繰り返してはならないことか、ということが実感として分かるのではないでしょうか。

ですから、私は、皆さんたちが受け身的に被爆体験を継承するために学ぶという気持ちを持つだけではなく、積極的に目を国際社会に広げ、世界各地の出来事に広島、長崎を重ね合わせる想像力を身につけるように努力することによって、主体的に広島、長崎に対する思いを我がものにしていってほしいと願います。そういう想像力、発想力を皆さんたちが身につければ、被爆体験を確実に継承していくことが可能になるのではないか、と私は思うのですが、どうでしょうか。

(2)原爆体験を人類共通の負の遺産とするために考えてほしい課題

原爆体験の継承という問題を考える上では、もう一つ重要なことを考えておかなければなりません。それは、ドイツで起こったホロコーストについては「絶対に2度と起こってはならないこと」という認識が国際社会で広く共有されているのに、「広島、長崎を2度と繰り返してはならない」という認識が国際的に広く受け入れられていない現実があるということです。

皆さんは、「そんなことはない」と思うかも知れません。しかし、世界から核兵器がなくなっていない現実は何を物語っているでしょうか。アメリカでは今日もなお、「広島、長崎への原爆投下はやむを得なかった」と考える人が多い現実があります。アメリカ以下の核兵器保有国を中心にして、核兵器の使用を前提とする核抑止の考え方も国際的に根強いものがあります。また、厳しい現実として、日本の侵略・植民地支配を受けた中国、韓国などでは、「原爆投下によって、自分たちの解放が早まった」と原爆投下を肯定的に捉える人が少なくありません。このような考え方が存在する限り、「広島、長崎を2度と繰り返してはならない」という認識が国際的に広く受け入れられる条件は出てきません。その点がホロコーストと広島・長崎との間の決定的な違いです。広島・長崎がホロコーストと同じく人類共通の「2度と起こってはならない」負の遺産としての地歩を確立するためには、様々な形で存在する「核兵器は必要(必要悪)」とする見方を克服しなければならないということです。

その点で皆さんに考えてほしい現実的な問題が二つあります。

第一に、ホロコーストについては、先にも述べたように、ドイツは国を挙げてこの問題に取り組んできたということです。それに対して日本はどうでしょうか。日本政府もことあるごとに「唯一の被爆国」といいます。しかしその日本政府は、アメリカの核抑止力に依存して日本の安全保障を守るという政策をとっているのです。そして、アメリカの核政策に支障が起こらないように、核廃絶を言う場合にも「究極的」という言葉を必ず付けるのです。「究極的」ということは、将来の限りなく遠い時点ということであり、要するにアメリカの核政策を認めているということです。日本人の中にも、「核廃絶には賛成だけど、現実問題としてはアメリカの核に守ってもらわなければ仕方がない」と平然と言う人が結構多いのです。

政府や国民が核兵器の必要性を認める立場でいる限り、いくら私たちが「広島、長崎を2度と繰り返してはならない」と訴えても、国際社会はそんな私たちの訴えを本気で受け止めるはずがありません。逆に言えば、広島、長崎がホロコーストと同じく人類共通の負の遺産として国際的に認められるようになるためには、私たちはまず何よりも、政府の政策を改めさせなくてはならないし、核兵器は必要と考える国民の考え方を正さなくてはならないのです。まずは自分の足元の土台をしっかり打ち固めなければなりません。

第二に、日本の侵略・植民地支配を受けた中国、韓国などで、「原爆投下によって、自分たちの解放が早まった」と原爆投下を肯定的に捉える人が少なくない、という問題に対しては、私たちはどのようなことを考える必要があるでしょうか。私は、広島、長崎についても、下記2.で扱う日本の戦争責任の問題と結びつけて考えることによって、これらの国々における原爆についての受け止め方と私たちの考え方の隔たりを埋めることができると考えます。

紛れもない事実は、広島、長崎に対する原爆投下は、日本の侵略戦争を出発点とする戦争政策に対してアメリカが行ったものです。日本が侵略戦争を行っていなかったのであれば、広島、長崎の悲劇はなかったのです。私たちは、この因果関係をしっかり受け止めることが重要です。日本の侵略戦争・植民地支配で塗炭の苦しみを味わわされた人々に対して、そのことをしっかり受け止めないままで「核兵器は絶対悪」と言っても、自分のことしか考えない主張と受け止められてしまうだけでしょう。私たちがとるべき立場は、まず中国、韓国などに対する日本の戦争責任を率直に認めることであり、その上で、如何なる理由にせよ反人道性を極める原爆の使用は2度と認められることがあってはならない、ということについて、相手側との間で共通の認識を実現することであろうと思います。