被爆60年のこの年に立ち会えたこと

2005.08.07

広島市民1年生の私にとって、被爆60年のこの年に立ち会えたことは、広島を理解する上でこれ以上ない機会を与えられたと思っています。本当に過密なスケジュールをこなすことを強いられましたが、様々な体験ができる絶好の機会だからと思い、申し出のあった催しにはすべて参加しました。幸い、炎暑の中だったにもかかわらず、体調を崩すこともなく、すべての行事をこなしきり、8月6日の夜は、家族(妻と来広中の次男及び長男の息子である孫)と、ライトアップされた原爆ドームと元安川の灯籠流しを感慨深く鑑賞することもできました。

私の1週間余の行動を紹介させていただきます。

広島平和研究所主催の国際シンポジウムが7月30日に開かれたのが皮切りでした。私はパネリストとして参加し、憲法を生かし切る立場に立つ側が広島・長崎を視野に収める思想を構築する必要性、また、核廃絶運動の側においては平和憲法を守りきる視座を運動の不可分の一部として据える必要性を強調しました。

8月2日には原水爆禁止世界大会全体会に出席しました。私は、核兵器の使用が正当化されるかどうかという問いかけに、アメリカ人の60%以上が今や「正当化されない」と答えている世論調査の結果を紹介し、アメリカ政府とアメリカ人の間の核意識の変化に注目し、アメリカ世論に働きかけを強めることによって、核廃絶への展望を切り開く主体的努力の必要を指摘しました。

8月3日は、朝日新聞主催の核廃絶をテーマにしたシンポジウムにパネリストとして出席しました。民主党の岡田代表が、アメリカの「核の傘」に依存するのはやむを得ないと公然と主張したのに対し、私は、「核の傘」に入ることを認めることは、ノー・モア・ヒロシマではなく、ワンス・モア・ヒロシマを受け入れることになると指摘しました。岡田代表が核肯定論者であることを広島市民の前に明らかにしたことは、それなりに意味のあることだと思っています。

8月4日には広島市教育委員会主催の、高校生による「平和」をテーマにしたプレゼンテーション・コンテストに審査委員長として出席しました。広島では平和教育がまだまだ元気があることを実感できて、私は大いに勇気づけられました。

8月5,6日には平和市長会議に第2分科会のチェアパーソンとして出席しました。対人地雷禁止条約成立に深く関わった女性から、その成功の重要な一因は、市民、NGOが条約に賛成する国々を巻き込んだ運動を展開することができたことにあったとし、その経験を核廃絶運動の展開にも参考にするべきだ、との指摘があったのに対し、私は、核廃絶の最大の障害はアメリカとそれに追従する日本の頑迷な核政策にあることを指摘し、対人地雷禁止条約の有意義な経験をそのまま核廃絶運動で実現するには、日本の政治を根本から改める必要性など、解決しなければならない問題があることを指摘しました。

そして8月6日の原爆死没者慰霊式・平和祈念式には、NHKのラジオ実況放送にコメンターとして出席しました。秋葉市長の平和宣言は、「汝殺すなかれ」という真理を永久に採用したのが日本国憲法であり、憲法は「21世紀の世界を導く道標」という表現で、護憲の立場を示した、と私は理解しました。

驚き、失望を禁じ得なかったのは小泉首相の挨拶でした。要するに昨年の挨拶の焼き直し(2節目と3節目とを入れ替えただけ)であったことにも唖然としましたが、臆面もなく「平和憲法を遵守するとともに、非核三原則を堅持してまいります」(昨年とまるきり同じ表現)と言い放つ彼の傍若無人な感覚には恐れ入るしかありませんでした。

その彼は、面会を希望する被爆者との面会に応じず、なんと福山で美術館を訪れたのです。その冷たさに、都市型訓練に対する巨大な怒りをぶつける沖縄県民に対する政府の冷淡さがダブって見えました。

このように、私の7月30日から8月6日までは、正に「死にそうな思い」の日々でした。しかし終わってみれば、一応大過なく過ごすことができましたし、体調に一抹の不安を抱えてきた自分がこの時期を乗り切ることができたことは、これからの自信回復につながるものだと、開放感と充実感を味わっています。

明日は仙台まで受験生相手のお話をしに出かけます。その翌日(9日)には八王子に戻ります。といいますのは、ミクとのりこが夏休みを利用して来広するので、二人を出迎えるためです。11日には一緒に新幹線で広島に戻ります。二人の滞在にあわせて夏休みを取りましたので、しばらくは孫が2人広島に滞在するというにぎやかさを味わうことになります。