お便りのご紹介

2005.07.07

私が信頼している方が、次のような感想を寄せられました。

この5月、呉市に市立海事歴史科学館が開館しました。大和ミュージアムとして、毎日多くの来館者でにぎわっている施設です。(夏休みには年間目標の40万人を達成するとか、、、)しかしながら、私自身、この博物館の誕生をどのように受け止めればよいのかよくわかりません。

確かに、海事に関する貴重な歴史資料などを収集保存し、これを研究し、公開するという、博物館的な性格を有する施設としての評価は、客観的にみても高いといえるでしょう。専門職としての学芸員を有する体制も取られております。館のこうした活動は歴史を後世に残すという点で、存在意義の高い施設ですが、一方で、あまりにも戦艦「大和」に依存しすぎている気もします。キャッチフレーズや展示内容からは、戦争の美化につながりかねないのではと思います。

館の人気はマスコミ報道の影響もありますが、そのマスコミでさえ、今後どのように報道するのか、また検証していくのか、問題提起の姿勢すら見えません。

開館以来の入館者数、戦艦大和に依存した展示、地元マスコミの報道姿勢、、、。異様にみえるこのような現象はどのように理解すればいいのでしょう。

所長(注:私のこと)が引用された「既成事実への屈服」につながる現象と思いますが。「時代の空気」と一言で済まされないものを感じます。

大和ミュージアムに行って、私自身の目で確認することが、まず先決だと思いつつ、忙しさに紛れて未だ足を運んでいません。それ以上に、何かがひっかかっているんだと思います。 政治の動きや社会的な出来事に敏感になることは大事とはいえ、あまりにも気にしすぎなのでしょうか。大和ミュージアムの話題になると、いつもこのような気持ちや考えが頭の中を回ります。私自身、もう少し勉強し、自分の考えをまとめないといけないと思っています。これまでと軸足を変える気はありませんが。

この感想に対し、私は次のような返信を書きました。

呉市立海事歴史科学館(大和ミュージアム)についてのご感想、ご懸念、私も100%共有しております。私も同じく、今の割り切れない気持ちを整理するためにはとにかく一度見に行って、自分の目で館の有り様を確かめてみなくては、と思いつつ、今日まで行きそびれております。

また、ご指摘のとおり、マスコミの報道姿勢にも重大な問題を感じます。科学性(客観性)を前面に押し出している館が、しかしかつての軍国主義日本の象徴(「大和」という名前を冠した戦艦の展示がそのことを集中的に表していることは間違いないことでしょう)を「売り物」にしているということは「どう見てもおかしい」、という疑問がわくはずなのに、館の説明をそのまま額面通りに報道するマスコミによって、多くの人々も「慣らされてしまう」現実が明らかにあると思います。

これが軍事的国際貢献論が大手を振ってまかり通る以前の時代だったならば、到底簡単には見過ごされはしなかったと思うのですが、やはり15年以上にわたる既成事実の積み重ねは人々の気持ちから「おかしい」と思う気持ちすら奪いあげるに至っているし、そういう人々の「慣れ」の気持ちをつかんでいるからこそ、大和ミュージアムというキャッチ・フレーズを臆面もなく打ち出す発想が出てくるのではないか、とも思います。大和ミュージアムは、それだけ日本社会全体がおかしくなっているということを端的に反映しているのではないでしょうか?

自分の目で確かめた時に、以上に申し上げたことが杞憂であったと改めてご報告できることを願っていますが、おそらく私たちの懸念は当たっているのだろうと思います。このままズルズルと日本は「戦争する国」に向かって突き進んでいくいやな予感がしてなりません。先ほども、私を目の敵にしている右翼の人から電話がありまして、「日の丸・君が代」強制反対裁判の呼びかけ人に加わっている私の名前をビラで見つけたらしく、「国賊」呼ばわりされました。しかも、「そのうちにおまえなどは不敬罪でぶち込まれることになるからな」と勝ち誇られてしまいました。

「既成事実への屈服」の名言を残した丸山真男氏は、「日本人の歴史意識というものは、いま中心主義である」「過去というものはすんでしまったことなんです」とも発言していますが、本当に過去とどう向き合うか、という課題すら直視できず、ひたすら「いま」に埋没しようとする日本人を前提にするとき、「かつての道を繰り返す」おそれは十分にあると思います。