「憲法改定阻止」、「加害責任」という言葉について再考

2005.06.19

二つの考え込まされることがありました。

私が関わるシンポジウムが7月末と8月後半に開かれます。7月のシンポではパネリストとして、8月の方ではコーディネーターをやることになっています。7月のシンポの冒頭発言について、私が付したタイトルは「広島の課題−核廃絶と憲法改定阻止を結びつける発想を−」でした。また、8月のシンポのタイトルとして私が提案したタイトルは、「〇〇〇事件  東北アジアの平和のための条件を考える〜日本の加害責任・歴史認識にどう向き合うか〜」でした。

前者については、「憲法改定阻止」という言葉について、後者についても、「加害責任」という言葉について再考が求められました。前の方については、「改定阻止」という言葉を見ただけで反感を感じ、シンポに来なくなる人が出てくるだろう、という意見でした。後の方については、いろいろな人の立場の人が「〇〇〇事件追悼事業をやる」という1点でまとまってやってきたことから、「加害責任」という言葉が入るだけでまとまりにひびが入る心配があるというものでした。

私は、自分の配慮の足りなさを感じ、二つの申し出に対してすぐ訂正に応じました。確かにタイトルだけを見て反発を感じ、シンポに来なくなる、あるいはシンポの土台にあるこれまでの蓄積が崩されるということは、私としても本意ではないし、また、シンポにおいても、ストレートな主張をするよりは、相手側が少なくとも耳を傾けてくれるような発言内容を心がけることが必要だ、ということは、常々自分の至らないところという自覚症状はハッキリ持っていたからです。

他方で、自分の不注意をきっかけとしてではありますが、前者とのかかわりでは、核廃絶を本気で言うなら、憲法改悪にも反対しなければならないし、そうでない核廃絶の声は説得力を持たない(両者の間には必然的なつながりがある)ということが広島においても認識されるに至っていない状況があることを再確認させられる気持ちを味わいました。また後者とのかかわりでは、現在の日本を覆いつつある、日本を美化しなければすまない歴史認識の影響力がこういう事業をする運動にまで影を落とすまでになっているのか、という気持ちでとても複雑な思いになりました。

日本という国がますます「戦争する国」への歩みを強めつつある現在、加害責任問題と憲法「改正」問題は、相互につながっているもっとも根本的な問題です。加害責任を正面から受けとめる側、憲法改悪を阻止しなければならない側による反動攻勢に対する不退転のエネルギーが、これまでにも増して求められているときであることは間違いありません。焦点は、反動側と私たちの側のどちらが国民の多数派を引きつけることができるかという1点に絞られます。

私自身の課題としては、一人でも多くの人が私の考えに耳を傾けて貰えるようにするための「切り口」についてもっともっと考えなければならない、と改めて強く反省しました。同時に、加害責任に向き合い、憲法改悪を阻止することが必要だという立場の側としては、反動攻勢にひるまず、国民の多数派形成に向けた大胆で説得力のある運動のあり方を、実践の中で積極的に模索していく必要があるのではないか、ということも強く感じています。