青山学院高等部の入試(英語)での出題について

2005.06.14

朝日新聞など「本土」の新聞でも報じられましたが、青山学院高等部の入試(英語)で、元ひめゆり学徒の沖縄戦に関する証言が「彼女の証言は退屈で、私は飽きてしまった」との出題が行われていたことに関し、沖縄タイムスは、6月9日付の夕刊トップで取り上げました。その後も沖縄タイムスはほぼ連日この問題を重視して報道を行い、6月12日付では「想像力が欠如している」と題する社説を掲載しました。広島においても、被爆者の証言を如何にしたら継承していくことができるか、という問題が真剣かつ深刻に議論される状況があります。私にとって、沖縄タイムスの報道ぶり、社説で取り上げる問題意識は決して他人事ではありませんでした。

他方で、3月まで東京に暮らしていた私は、こういう出題が行われても不思議ではない沖縄、広島、長崎以外の「本土」の精神状況を感じてもいました。実は、沖縄タイムスの社説でも取り上げているのですが、私がいた明学の学生たちの沖縄訪問に関する報告書でも「似たようなこと」(沖縄タイムス社説)が記されたことがあって、大きな問題になったことがあるからです。

戦争体験の「風化」と言われる状況がここまで来たか、この「本土」の精神的荒廃の状況が「戦争する国」に向けようとする保守政治を下支えする政治的土壌を生み出している、という表現しようのないどす黒く、行き場のない気持ちになる自分を、私はコントロールすべもありません。しかし、今日私の部屋を訪れた記者にしゃべったように、「諦めたら、何事もおしまい」であることを自分に改めて言い聞かせ、自分の気持ちを振るい立たせるほかありません。

沖縄タイムス社説は、「亡くなった人や体験者の「思い」を受け止める感性を身に付けることが、平和を享受する世代の責務である」と指摘しています。それはその通りです。しかし、そのような言いっぱなしではすまされないのが、今の「本土」の実情です。沖縄、広島、長崎以外の「平和(?)を享受する」「本土」の人々(戦争の加害と被害について真剣に考える気持ちすら失ってしまっている「本土」の人々)にそうした感性を身に付けさせるために、被害を一身に負わされた沖縄、広島、長崎がどのような発信をしていくことが必要なのかを真剣に考えなければならないのが、今日の厳しい実情であると思います。

日本の侵略戦争・植民地支配によって途方もない被害を受けた中国、韓国の人々の日本に対するやるせないまでの気持ちは、沖縄、広島、長崎の「本土」に対する気持ちと通じるものがあるとつくづく感じます。しかし、純然たる被害者の立場にある中国、韓国の人々と異なり、日本の一部として加害の立場にもあった沖縄、広島、長崎としては、「本土」の無理解を嘆くだけではすみません。加害と被害の両方を体験した沖縄、広島、長崎であるからこそ、「本土」の無理解に立ち向かい、これを克服する使命を担っているのではないでしょうか。