朝日新聞広島支局『原爆ドーム』(朝日文庫 1998年)を読んで

2005.05.29

朝日新聞広島支局『原爆ドーム』(朝日文庫 1998年)が本屋の店頭に置いてあったのを見つけ、早速読みました。原爆ドームにまつわる基礎知識を得るのにとてもタメになりました。原爆ドームの世界遺産化(1996年12月2日に登録決定)について様々な考え方があることも知ることが出来て、自分自身の考え方を深める上で、非常に参考になりました。幾人かの発言を引用しておきたいと思います(太字は、私が付しました)。

〇原爆ドーム世界遺産化推進委員会東京委員会副会長として、ドームの世界遺産化実現に尽力した日本画家・平山郁夫氏(被爆者)の発言(pp.27-28)

「原爆ドームはしばしば、アウシュヴィッツと比べられる。アウシュヴィッツはナチス・ドイツの殺戮の跡だ。『二度と繰り返しません。忘れません』と残した『負の遺産』だ。原爆ドームもアウシュヴィッツと同様の『負の遺産』であるが、同時に『ここから未来が始まる』と、核兵器廃絶に向けた希望が込められている遺産でもある。

私は被爆し、同級生も失ったが、『私たちが犠牲者だ』とヒステリックに叫んでも、世界では通用しない。『ではなぜ、日本が戦争を仕掛けたのか』『真珠湾があったではないか』と反論されるだろう。日本が起こした戦争は、アジア・太平洋で大きな犠牲者をもたらした。

原爆の被害を訴える場合でも、恨みを乗り越え、国際的に説得力のある説明をすることが必要だ。相手の立場を考えたうえで、普遍的な考えを訴えていく必要がある。そう考えて、遺産化にあたっては『ドームを核兵器廃絶の一里塚の象徴とするよう協力してほしい』『歴史の教訓としてドームを認知してほしい』と、米国、中国、フランスの人々に働きかけた。国家間でばらつきは大きかったが、核廃絶の必要性についてはみんなが賛成してくれた。

文化遺産は骨董品のように古いから尊いのではない。歴史を見つめることで、国や民族が誇りと人間性を回復し、平和や人権を取り戻すきっかけになるから尊いのだ。国際協力で世界遺産を守るー。それは、互いの歴史、文化の個性や違いを認め、尊敬し合い、それを人類の遺産として後世に伝えようとする努力なのだ。」

〇同じく同委員会の委員だった日本ユネスコ協会連盟理事長(当時)の村井了氏の発言(p.160)

『広島だけが被害者だ』との意識で運動をするなら、海外からの孤立を招くだけだ。推薦に反対だったわけではなく、原爆ドームだけが惨禍の象徴、との主張に陥ることを戒めた。」

〇ユネスコで20年にわたって文化行政に携わった経歴を持つ河野靖氏の発言(pp.168-170)

—「負の遺産」については(ユネスコは)どういう認識でしたか。

「ユネスコには『普通の文化遺産の保護で手一杯なのに、負の遺産まで手を出せるか』との意識があるに違いありません。『負の遺産』は政治的に論争の種になりかねない。ある遺産について価値を認める国、認めない国があって意見が分かれると、人類の普遍的な価値となりにくいのです。」

—原爆ドームも、そうした性格の遺産でしょうか。

「ドームは、過去の栄光へのノスタルジアをそそるものではありません。今も続く苦悩の象徴です。しかし、負の遺産は人間が決意し、行動することによって、『正の遺産』に転換もできる。苦悩を乗り越えてよりよい未来をつくるための足がかりとして、ドームを見るべきです。」

—今後こそが大切なのですね。

「だから、登録で『一段落だ』『祝杯を上げよう』では意味がない。登録は到達点ではなく、出発点なのだから。」(中略)

—今後日本、ヒロシマは世界遺産とどう向き合っていけばいいのでしょうか。

世界遺産の背景にある理念は、ある国民だけが持つ価値を人類普遍のものとして広めること。そこから連帯感、信頼感、期待と希望が生まれてきます。
  核兵器には政治的有効性と非人道性の2側面があります。核兵器廃絶に向けて人道性という価値を発展、普遍化して人類が共有しうるようにする努力が、広島と日本に期待されていると思います。…」

〇平岡敬広島市長(当時)の発言(pp.209-212)

「原爆ドームの世界遺産リスト登録実現には、歴史の流れを感じます。冷戦のさなかだったら、こうはならなかったでしょう。当時、広島の訴えが国際社会で受け入れられる状況にはなかった。

冷戦が終わり、核兵器の意味が問い直されることになった結果です。ふと気づくとあまりに核兵器が増えていたことに、人々が恐怖感を抱くようになったのかもしれません。

原爆ドームの世界遺産リスト登録を決めた世界遺産委員会で、米国と中国が棄権しました。米国は実際に核兵器を使用した国。中国は日本に対し、戦場での残虐行為への反省を求めている国。こうした国は、そう簡単に核兵器否定のシンボルを認めるわけにはいかなかったのでしょう。

それでも正面切って『遺産化に反対だ』とは言えなかった。それは、世界の流れが確実に、核兵器のない世界を求める方向に向かっているからです。包括的核実験禁止条約(CTBT)が調印され、国際司法裁判所(ICJ)も核兵器の違法性を指摘した。被曝50周年を境に、国際社会の流れが一つの方向に集約されてきたように思います。
 (浅井注:NPT再検討会議が失敗に終わった2005年の時点で以上の平岡前市長の発言を読むと、本当に複雑な思いにおそわれます。)

今回も、さまざまな人々が『原爆ドームを世界遺産に登録しよう』と努力しました。日本政府も、曲折はあったものの、最終的には国民の声を受け止めて、国際社会に根回しするなど尽力した。それは、人々の間で『核兵器を使ってはいけない』との共通認識が生まれてきているからです。…

広島で登録を求める動きも、連合広島や広島弁護士会や医師会が中心的な役割を務め、従来にない新しい形の運動となりました。派手さはなかったが、市民の関心は高まったと思います。

現代は核時代といわれ、地上には数多くの核兵器が存在しています。軍縮の話し合いは進んでいるが、なかなか核兵器はなくならない。私たちは今なお、核兵器の脅威の下で暮らしている。でも、こうしたことを、私たちはしばしば忘れてしまうんですね。それを思い出させてくれる存在が、原爆ドームなのです。

見るたびに人類に反省を強いるー。そんな存在としてドームがあるのです。この遺産をないがしろにすると、人類は核兵器で滅びてしまうかも知れない。人類が生き延びていくために保存しなくてはならない遺産なのです。

『原爆ドーム』は核兵器廃絶への意思のシンボルとして定着しました。ドーム以外にも、どのようにして私たちは平和を訴えていくことができるのか。それを考え、その方法を見つける努力を広島は忘れてはならないと思います。」

〇原爆ドームの世界遺産化に寄せて「広島よ、おごるなかれ」と題する論文(97年3月)を書いた本島等元長崎市長の発言(pp.214-218)

「遺産化に際しては、メキシコ・メリダ市で開かれた世界遺産委員会の場で、米国と中国が不支持を表明しました。私は、この両国の反応が、とてもよく理解できます。広島の考え方はまだ、世界には受け入れられていないのです。…

中でも、広島から出征した陸軍第五師団は、アジア侵攻に大きな役割を果たした。米国やアジア諸国にしてみれば、そのような侵略・加害の足下『広島』が原爆投下の標的になるのは、当然の流れなのです。

ところが、95年8月、平岡敬・広島市長が読み上げた平和宣言には、『被害と加害の両面から…』という表現がある。『被害』が『加害』の前に来ています。日本の侵略が一員になって戦争が起き、結果として原爆投下があったわけだから、順序は『加害と被害』となるはずです。『被害は加害を超えた。原爆の被害で、加害の歴史を清算した』と、広島は考えているのではないでしょうか。加害から目を背けた姿勢では、『原爆ドームは核兵器の悲惨さを後世に伝える遺産だ』という訴えは、世界に受け入れられません。

原爆投下は『核時代の幕開け』とされ、戦後、『ヒロシマ』は『反核の象徴』になりました。そして人々の間で『ヒロシマ』が意識され、それ以前の軍都としての姿を覆い隠してしまったようにみえます。しかし、広島・長崎は、『加害』という歴史的背景を引きずっています。

例えば、原水爆禁止運動は、54年にビキニ環礁の水爆実験で被曝した第五福竜丸事件をきっかけに、東京都杉並区の主婦らから始まりました。本来なら核被害を経験した『反核の象徴』である広島・長崎から始まるべきだった。

広島は無意識のうちに影を引きずっていて、それが原水禁運動の出発点になれなかったことや、原爆ドームの世界遺産化がもろ手を挙げて受け入れられなかったことに、つながっているのです。
 (浅井注:この三つのパラグラフの本島氏の議論の展開については、素直に理解できていない自分がいます。あるいは、聞き手が本島氏の言おうとする趣旨を正確に捉えきっていなかったのではないか、とも考えられますが、ここでは、そのまま載せておきます。)

『原爆は残虐極まりない兵器だ。使ってはならない』というのが、反核運動のスローガンです。確かに核兵器は、その威力や放射線の後遺症など、特異な兵器ではある。しかし、果たして特別な兵器による死が、特別な死なのでしょうか。…戦争に巻き込まれた沖縄や中国の『死』と原爆で亡くなった広島・長崎の『死』は、本質的になんの違いもないのです。

原爆ドームの世界遺産化を米国、中国が支持しなかったことは、そういった広島・長崎、そして日本が抱える『戦後の宿題』を浮き彫りにしました。両市の被爆者や市民、行政や議会、そしてマスコミは、原爆と戦争を、歴史の流れの中できちんと認識しなければならない。

私は、21世紀を『和解の時代』だと考えています。『謝罪』を日本政府任せにしてはいけない。まずアジア・中国にギャップの存在を知り、許しをこうて、次に米国の原爆投下を許す。これが広島と長崎が世界に受け入れられ、ドームの世界遺産化が世界全体から認められるため、最も必要なことではないでしょうか。」

〇工藤父母道・日本ユネスコ協会連盟評議員(当時)の発言(pp.220-223)

『原爆ドーム』と一般に言われていますけど、世界遺産リストの中にそんな名前の遺産はないんですね。正式には英・仏語で記載されています。日本名で言うなら『広島平和記念碑(原爆ドーム)』。これが、登録されている正式な遺産名です。

なぜ遺産名がこうなったのかを十分認識する必要があります。それは、世界遺産の本質にもかかわることなんです。今なお、日本の加害者としての戦争責任を問う声が、根強くあります。

外に向けては『広島平和記念碑(原爆ドーム)』として国際社会の了承を得ておきながら、国内では、『原爆ドーム』の名称だけを使おうとする動きもあります。こんな二枚舌ととられかねないような態度はいけません。

日本では『戦争遺産の原爆ドーム』ですが、世界に出るとそれでは通用しない。『戦争の被害を訴える遺産ではない。未来に向かって平和の大切さを示す記念碑なのだ』として、国際社会から認知されたのです。…

原爆ドームを通じて被爆の恐ろしさを伝えようとした日本、広島と、ドームを『平和記念碑』として認めた国際社会との間には、厳しい温度差があります。この『広島の願い』と『世界の受け止め方』との間にある大きな溝の存在を知ることがまず第一歩なのです。

それを知らずにただ日本の立場を訴えるばかりでは、単なる自己満足に過ぎない。世界の共感を得られるような普遍的な平和運動にはならないでしょうね。

逆に言うと、ギャップの存在を知り、そこから学びあうことこそ、世界遺産のひとつの重要な役割なのです。世界遺産は人類の歴史の多重性の存在と、多様性の大切さを伝えるものなのです。…」