シンポジウム『NPT体制の再検討ー広島・長崎からの提言』の報告書

2005.05.01

私が広島平和研究所に着任する直前の3月19-20日に『NPT体制の再検討ー広島・長崎からの提言』と題するシンポジウムを、研究所が主催して行い、その報告書ができました。様々な報告者が発言していて、とても興味深い内容です。特に私が注意を惹かれた発言を抜粋して書き留めておこうと思います(太字は私が付しました。同感、共鳴という意味では必ずしもありませんが、常に頭に入れておく必要がある言葉だと感じた、という意味です。)

〇岡本三夫(広島修道大学)

—そもそも非人道性の極みである核兵器の保有を前提とした条約(NPT)自体が矛盾している。「核抑止論をヒロシマは絶対に容認することができない」と平岡敬前広島市長はいった(1992年8月6日『平和宣言』)。核拡散防止のために必要なのは、「核兵器は一発も許さない」というヒロシマ・ナガサキの視点でなければならない。

NPTはかつてキ−ジンガー西独首相が「アルコール依存症患者の禁酒運動だ」と皮肉ったほど、身勝手な条約ではある。が、悲しいかな、これ以外に米国などの核兵器大国を縛ることのできる条約はないのだ。だが、米国が国際的な合意を反故にするということになると、世界の平和NGOも対応を根本的に再考しなければならない。

—もう一つの大問題は、ヒロシマ・ナガサキの人類史的悲劇に関する日本国政府の無理解をなくし、認識を新にするキャンペーンだ。…核兵器の残虐性に対する政府の無理解は目に余るが、ヒロシマ・ナガサキに関わる研究者や活動家の責任でもある。核実験や核兵器使用に対する被爆国政府の肯定的態度が国際的核廃絶運動のブレーキ役を果たしているのは由々しい事態だ…。

「核兵器は一発も許さない」というヒロシマ・ナガサキの悲願が人類共有の要求とならない限り、いかなる手段を持ってしても核拡散を阻止することはできない。

〇水本和美(広島平和研究所)

ー被爆体験を核軍縮・核廃絶とリンクさせるために必要と思われる内容を若干、指摘してみたい。とりわけ広島・長崎が、日本でもそれ以外の地域の人々や、国境を越えた人々と連帯する上で、重要だと思われる内容である。

被爆体験の多角的な分析

被爆体験を個人的な体験談の集積だけにとどめるのではなく、さまざまな専門性に基づく分析や、断片的なデータの総体化による、新たな事実関係の再現・発見を行う。…

被爆体験や記憶の多面的な検証

被爆体験を、被爆者や広島・長崎の視点からだけ見るのではなく、異なる経験の持ち主、異なる地域(国内)、異なる国、異なる民族がどのような視点で見ているのかについて、冷静に検証する。
 また、被爆という出来事は、人類史的視点から見れば、多様な問題が存在する「平和」の課題の一つであることも、念頭におくべきではないか。

被爆体験の特殊性と普遍性の認識

原爆被爆は、人類が経験した最も悲惨な出来事の一つであるが、それ以外の悲惨な体験とは際だって異なる特殊性もあれば、他の悲惨な体験と共通する普遍性も備えている。その両面を認識することは重要だと思われる。

〇土山秀夫(長崎大学)

—要は惰性的に米国の核抑止力に依存し続けることが、実はNPTの精神にも反することを日本政府にも認識させ、その姿勢を改めさせることこそ、私たち被爆地の責務である…。

〇木村朗(鹿児島大学)

—「核不拡散の禁止・防止」と「核軍縮の義務的推進」は表裏一体の関係ではあるが、NPT体制の存続にとって決定的な鍵を握っているのが後者であることは確かである。なぜなら、非核保有国は、核保有国の核軍縮義務の誠実な履行を前提条件として、この不平等な条約を受け入れたのであり、もしそれが履行されなければ、このNPT体制を存続させる意味の大半は無くなるからである。NPT体制の崩壊は、直ちに核拡散のなし崩し的拡大という無秩序・混乱をもたらすものではなく、それが必ずしも「最悪のシナリオ」であるというわけでもない。なぜなら、NPT体制を離脱した非核保有国だけで、新に「核兵器禁止条約」体制を構築し、核保有国に対して、より有効な形で、非核保有国に対する先制使用の禁止や核兵器廃絶の履行を迫るという選択もできるからである。

〇高橋昭博(元広島平和記念資料館館長)

核兵器廃絶への日本政府の態度は、私たち被爆者の期待を常に裏切ってきました。「唯一の被爆国」というのであれば、加盟国の先頭に立つべきであると思うのですが、アメリカに追随し、気兼ねするばかりで、「唯一の被爆国」としての責任も役割も果たしておりません。

—2000年の再検討会議において全会一致で採択された最終文書に「核兵器廃絶への明確な約束」との文言が盛り込まれました。被爆地ヒロシマは一様に「高く評価」しました。私は共同通信のインタビューに答え、「廃絶への期限のない約束」は「明確な約束」とは言えない。「それはホゴ同然だ」と断じました。…5年後の今、そのとおりになろうとしているではありませんか。核兵器廃絶への努力は何一つなされていないではありませんか。

—申し訳ありませんが、私は5月の再検討会議には期待を持っておりません。核兵器廃絶への道を明らかにし、期限を付けなければ、核兵器保有国はどのようにでも言い逃れはできます。

—平和市長会議が提唱している「核兵器廃絶の2020年ビジョン」は、内容的には賛成ですが、余りにも長い。…私たち被爆者には被爆60周年はあっても70周年はない、と思っています。2020年はさらに5年先ですから、被爆者は死に絶えているでしょう。私はせめて、核兵器廃絶への道筋が決められたことを見とどけて、この世を去りたいものだと思っております。

〇ターニャ・ホワイト(ニュージーランド・カンタベリー大学)

—NPTが直面する様々な障害の大半は、安全保障環境が大きく変化し、同条約の信頼性を揺るがすような一連の危機が発生したことによるものです。…その最たるものが北朝鮮による条約脱退の決定であり、それはNPT始まって以来のことです。次に、核兵器国による、NPTの文言と精神に反する戦略ドクトリンと兵器体系の採用も挙げられます。…

—念頭に置くべきことは、進化している核不拡散体制の価値と、その中でNPTが重要な役割を果たしていることへの認識が生まれたのは、1995年の条約無期限延長決定と、その年及び2000年に一連の文書が採択されたことがきっかけだったということです。…1995年と2000年の再検討会議において、合意文書を採択したことで、NPT加盟国は、軍縮努力に関してやや曖昧な表現が残る第6条について、大きな進展を得たということです。…これにより、NPTは不拡散と核軍縮という複合する相互補完的な目標達成のための実際的な枠組みを与えられました。

1996年に国際司法裁判所は勧告的意見の中で、NPT第6条を他の法的義務に照らして解釈し、核軍縮問題を「一般的かつ完全な軍縮」から切り離しました。上述の「明確な約束」(注:2000年の再検討会議で採択された最終文書では、核兵器廃絶を達成するための核兵器国による「明確な約束」が含まれている)は、これに外交的重みを与えるものです。同勧告的意見のもう一つの重要な点は、第6条の課す「誠実な軍縮交渉義務」が、交渉を「終結」させることをも意味する、と明言したことです。

—近年もっとも憂慮すべきなのは、米国が1995年と2000年に合意した検証可能で不可逆的な核軍縮の約束を故意に無視する戦略をとっていること、および自らの核軍縮の約束の不履行を、第6条の条文に法的に言及しながら正当化しようと試みていることです。

理想的には、NPTに代わる様々な規範や禁止条項に基づいた核兵器禁止条約を成立させ、それを核兵器の取得や使用の規制のため公平かつ普遍的に適用することが望ましいでしょう。…しかしそうした条約がまだないため、NPTとそれに関する法的手段は、核拡散を予防する不可欠な措置であり、国際的な安全保障に大きく貢献しているのです。