「ヒロシマを聞く 被爆者から若者へ 未来への伝言」(中国新聞連載)

2005.04.24

今朝も、中国新聞で連載している「ヒロシマを聞く 被爆者から若者へ 未来への伝言」のいくつかを読みました。 「爆心地から一キロ前後の八丁堀地区で作業をしていた崇徳中一、二年生と教師のうち、原爆の犠牲者は四百十一人を数える。生き延びたのはわずか五人。生き残った者の務めとして竹村(伸生)さんは、三年生以上を含めれば五百十人とされる母校の動員学徒犠牲者の生きざま、死にざまをたどる作業をこつこつと続ける。」という被爆者・竹村さんに関する最初の紹介の記述に、思わず心にズシンと来るものを感じました。

また、次の竹村さんと若者の間の会話にも、思わず考え込む自分がいました。


-竹村
十年前から生徒の名前、死んだ日や場所、死に方を調べとるんよ。「天皇陛下万歳」と言って死んだんがおる。「お母さん」と息を引き取ったんがおる。玉音放送に涙していったんもおる。残しておけば、原爆の悲惨さが分かる。子どもが、どんなにむごい死に方をしたか分かる。みな助けを待ちよった。生き残ったのが、無念を伝えにゃ。
-中島
先日、サダコ像(中区の平和記念公園にある原爆の子の像)前で「広島は平和だと思いますか」とアンケートを取ったんです。協力者の中には被爆者もいたけど、「原爆を思い出したくない。それよりも平和な未来のことを考えてほしい」って。つらい記憶を話したくないんだなって思った。
-藤原
(中区の原爆養護ホーム)舟入むつみ園に被爆者を訪ねたとき、「あまり話したくない」って言われた。でも「残り少ない人生だから、話しておきたい」とも言われた。
-竹村
年を取って「今のうちに話さにゃ」という人が、思った以上にいっぱい出てきとる。わしはその声を聞いとるんよ。じっくり時間をかけて。数はまだ(崇徳中の犠牲者の)一割程度じゃがね。あなたら若い人に協力してもらえたらうれしいね。」

中島慶人さんは16歳、藤原かすみさんは15歳。平和講座「ピースクラブ」のメンバーだそうだです。以上のやりとりにも、被爆者の方が過去のことを話したがらない傾向があるということ(特に、「原爆を思い出したくない。それよりも平和な未来のことを考えてほしい」という発言を、私たちはどう受け止めることが求められているのか)が重く伝わってきます。他方で、藤原さんが紹介し、竹村さんが指摘しているように、「残り少ない人生だから、話しておきたい」、「年を取って「今のうちに話さにゃ」という人が、思った以上にいっぱい出てきとる」ということにも襟を正される思いがします。竹村さん自身、「生き残ったのが、無念を伝えにゃ」という気持ちで、母校の動員学徒犠牲者の生きざま、死にざまをたどる作業をこつこつと続けておられるわけです。「被爆の継承」という課題の重さ、難しさ、それだからこその大切さを深く考えさせられます。

竹村さんは、中島さんと藤原さんと語り終えた後の気持ちとして、「(若者たちが)被爆体験を聞き、それをそのまま話すのは難しいと思う。それでも、勇気をもって一歩を踏み出してほしい。「8・6」だけの行事ととらまえないで、継続して取り組んでほしい」と発言しています。

実は、昨日、報道関係の若い友人がお好み焼きのうまい店に連れて行ってくれたのですが、彼が、報道各社(広島だけではなくテレビのキー局なども)は「8.6」にかけて様々な特集や企画を組んでいるという話をしたとき、私は大きな違和感を覚えました。その違和感とは、竹村さんの「「8・6」だけの行事ととらまえないで、継続して取り組んでほしい」という気持ちと重なるものでした。

私自身にも似た経験が最近あるのです。私はたまたま被爆60周年の年に広島平和研究所の所長に就任したわけですが、報道各社の取材の際に、必ずと言っていいほど、「被爆60周年という年に就任した抱負を」と尋ねられます(お好み焼きに連れて行ってくれた若い友人は、「報道をやっていると、どうしてもそういう発想になるんですよ」と漏らしていました)。私は正直に、私の人事は前任者の退任希望によって始まったもので、被爆60周年の年の就任はたまたま時期が重なっただけであることを申し上げています。

誤解がないように断っておく必要を感じるのですが、そういう私がこの新しいポストに就くことについて、抱負がないということでは決してありません。

私は挨拶状の中で、「25年の外務省での実務体験、17年の大学での教員体験は、非常に納得のいくものでした。他方、内外の情勢が厳しさを増す中で、もう一働きする可能性がないかとも考える自分がおりました。そういうときに広島平和研究所からのお誘いがあり、熟考の上、仕事人生の仕上げとしてチャレンジすることを決意いたしました。内外に向けたヒロシマからの発信のあり方を精一杯模索していくつもりでおります。」と書いています。微力ではありますが、本当に一所懸命やっていきたいと思っています。

以上のことを述べた上で、私の今の正直な気持ちを述べれば、「8.6」や「被爆60周年」が、私たちの過去の歴史を直視し直し、核廃絶を重要な要素とする戦争のない世界を実現することを目指す運動の新たなエネルギーを盛り上げるための節目として意識され、位置づけられるのであるならば、それは素晴らしいことだと思うのですが、どうも現実は、上記の竹村さんの指摘にもあるように、「行事」としてのとらえ方がなんとなく広がってきてしまっているのではないかと感じられてしまう、ということです。「まだ、ヒロシマのことを何も勉強もしていないのに、生意気なことを言うんじゃない」とお叱りを受けることを十分意識した上でなお、こう書いているのは、これからヒロシマを勉強していく過程で、私の認識もそれなりに深まっていくことを自分自身期待しているのですが、最初の時に抱いた印象を書き留めておくのは、自分自身の認識の深まり・変化を確認する上での判断の物差しになるという点で無意味ではないのではないか、と思ったからです。

ちなみに数日前には、「被爆50周年の時と比べると、被爆60周年の今年は市民の関心の高まりが感じられない。なんでじゃろう」と発言する市民の声にも接しました。もしそうだとすると、「行事」としての位置づけすら危うくなる兆候なのかもしれません。ますます深く考え込まされます。