「ヒロシマを聞く 被爆者から若者へ 未来への伝言」(中国新聞連載)

2005.04.06

今朝、中国新聞の記者の取材を受けたのですが、彼が中心になって連載している「ヒロシマを聞く 被爆者から若者へ 未来への伝言」の存在を聞き、早速HPに載っている同新聞のそのコラムを訪れました。すでに19回連載しており、毎回新聞紙面の1枚分をカバーする重量感あふれるものですので、私は最初の4回分までしか読んでいない状況ですが、それでも、心にずっしりと響く内容でした。ここでは、その4回分の連載の中から私にとってとても印象に残ったやりとり(毎回、被爆者と若者の間の会話を中心にして構成されています)を抜き書きの形で紹介したいと思います。全部を読み終えた段階で、私の印象と感想を書き留めたいと思います。特に第2回のやりとりは、純真な若者の気持ちと被爆者の苦渋に満ちた気持ちの交流が読むものの気持ちを激しく揺さぶらずにはすみません。こういう企画が全国的に紹介されないのは実に残念な気持ちがしてならないことを強く指摘しておきたいと思います。

(第1回)

(若者)
「原爆や戦争について絵で伝えたい思いは何ですか。」
(被爆者)
「原爆を売り物にしてはいけないと思う。東京大空襲、身近には呉や福山でも空襲があって、同じように身内を失った人は多い。戦争は家族をなくす。親やきょうだいと仲良く暮らせる世の中が何よりも大切とつくづく思う。」

(第2回)

(若者)
「当時、二十歳ですね。以後、人生が一変したんですか。」
(被爆者)
「原爆は僕にとって人生の転換点。生まれてからの二十年は軍事下の環境に支配された。今と違い、民間人も戦争に参加していたからね。戦後はとにかく、無我夢中で生きた。被爆した事実と向き合ったのは、心と時間に余裕ができた老後になってからです。」
(若者)
「被爆したうちの祖母も体験を話したがらない。そのせいだけではないけど、身近にあるはずの原爆がイメージできない。震災を思い浮かべればいいのかな。」
(被爆者)
「きっと、平和が知識にとどまっているんじゃないかなあ。本当に平和を願うのなら、思いが自然とわき起こってくるはず。」
(若者)
「そうかもしれない。平和教育は「やらされていた」気がする。被爆者を招き、原爆はいけない、戦争はいけないと訴えるだけ。正直うんざりだった。継承はしなければならないとは思っているけど…。」
(被爆者)
「あのすさまじさは、体験した者にしか分からんと思いますよ。」
(若者)
「それじゃ誰かに伝えようにも、伝えられないのではないですか。」
(被爆者)
「被爆は追体験できない。でも、世界初の大量破壊兵器が広島で使われた。その事実を忘れてはいけない。どう伝えたらいいか考えてほしい。僕も八十年近く生きて、答えを見つけられずにいる。」
(若者)
「広島出身でない僕には、原爆と東京大空襲で失われた命の重さが違うとは思えない。なぜ原爆被害ばかりが特別視されるのですか。」
(被爆者)
「原爆はたった一発で多くの命を奪った。放射能による後障害と向き合って生きねばならない恐怖もある。しかし、あなたが言う通り、戦災の一つでしかないかもしれない。」
(若者)
「でも「広島人」には、伝えていかなきゃいけない重圧がある。その重さが若者を平和への取り組みから遠ざけているのではないですか。平和運動を担っているのは高齢者ばかりでしょう。」
(被爆者)
「楽しいことではないので、安易には取りかかれない。思いが強い人たちに任せてしまいがちになる。僕もその一人だった。踏み込めなかった。本当は平和運動に加わりたかった。誰かが何かをしないと世の中は動かないからね。でも、政治運動と化し、一般人が加わりづらい体質が異質に映った。」
(若者)
「難しいですね。原爆と平和をどう受け止めたらいいのか。どうすれば強い思いが生まれるのか。結論はすぐには出ない。」
(被爆者)
「何を伝えたいかを考えてほしい。被爆の実態か、大量破壊兵器の恐ろしさか。原爆投下の事実を、戦争や歴史の一部としてとらえてみるのも大切かもしれない。」

(第3回)

(若者)
「原爆を落としたアメリカが憎いですか。」
(被爆者)
「国と国の戦争。やられても、仕方がなかった。」
(若者)
「私なら憎む。」

(第4回)

(若者)
「広島出身でない友人が、平和教育を受けたことがないと話していました。今でこの状況なら、この先、もっと先細るって思うんです。」
(被爆者)
「私も十年前なら黙っていたかもしれない。やっぱり墓場が近づいているのかな。誰かがせんと、いけんのんですよ。」