歩いていこう熊野古道その1



今回、参考にしたのは、大阪府の歴史街道ウォーキングマップです。
https://www.pref.osaka.lg.jp/doroseibi/kakusyusesaku/rekishikaidou.html#kumano

天満橋~東住吉駅まで

東住吉駅~鳳駅まで


去年の暮れにまだまださんに行こうかと誘っていた。一月も半ばが過ぎて実行することにした。
15日の土曜、天満橋駅を8時の待ち合わせを約束した。

第一日目(2022年1月15日) 八軒屋浜から浜寺公園まで

京阪電車の天満橋駅の改札を出た所で、まだまださんはもう来ていた。
さっそく川のほうに出た。
昔とは川も違うし島もあったので、ここが昔からの場所とは違うが
今でも観光の船の発着をしている。(乗ったことはないが・・・)
このへんの地理は、まだまださんが詳しい。

この近くの昆布屋さんの前に、船の発着場の碑がある。


現代の熊野海道の起点として、ここから歩いていくことにします。

最初の目的地は、窪津王子。歩いてすぐのところにあります。
最初の王子で、昔の人は旅の無事を祈ってお参りをしたのだろう。私たちをこの先の無事を祈っておまいりをする。
お賽銭は、まだまだくんに任した!!



坐摩神社行宮と呼ばれていて、ちょうど15日の例際のようで神社の方がこられて神事を執り行う準備をされていました。その方にいろいろと聞いておりました。うん勉強になった。

北大江公園、中大江公園そして南中公園と道をとる。この道は、御祓筋(おはらいすじ)と呼ばれ歴史をかんじさせる通りとなっている。
その昔は、お公家さんが通るために、きれいに道を祓いつまり掃除をした道だということらしい。

御祓筋を南に行くと、南大江公園。この公園の片隅に坂口王子がある。

朝日神明社の場所は、元々は坂口王子とのことです。


熊野古道は、ここから東に向かい谷町六丁目あたりから南に行くようだが、ここはこのまま南に。
高津宮の郡戸王子に向かおうことにする。





高津宮のなかに、郡戸王子が推定地との石碑がたててある。
ここで9時すぎ、まだこんな時間かと・・・まあたいした距離を歩いているわけではないが。
ここでも道中の祈願を。


熊野古道からは、外れるがまだまださんに、神社の裏手に案内してもらった。

裏手に回って石段を下りていくと、陰陽石があった。

陰陽石は、男性と女性の石をシンボルとしてまつっているのだ。

ここから東に谷町九丁目の交差点をわたり熊野古道に道をとる。今このレポートを書いていて気がついた。
それは上野王子を見落としていた。上之宮の名前は、ここからでているのだろうか。

このまま歩いてい路地裏をうろうろしていたら四天王寺に入っていた。

亀の池の亀さんは冬眠か、はたまた外来生物ということで駆除されたのか不明ではあるが、ひっそりとしていた。
本堂にお参りしてうろうろ。昔クラブランでうろうろしていたような気がする。
右の写真は、義経がよろいを掛けたといわれる松。
義経さんて、こんなとこにも来ていたのか。

西門からのぐるぐる回す、船のハンドルのようなものは、触れないようにしてあった。
コロナの影響はここにも。

コースは外れるのだが、一心寺に向かう。ご先祖様も会長も骨仏になってまつられているいる一心寺。
手をあわせる。
境内に本多忠朝(ほんだただとも)の墓に。
大坂夏の陣で、酒を飲みすぎて失敗した人らしい。
酒で困っている人の絵馬が、たくさんあって切実な内容もある。
興味のある人は、見にいってやってください。
一心寺から、天王寺公園の中に、てんしばを歩く。
まだまださんのコーヒーをもらって休憩する。
そろそろ腹が減ってきたようだが、堺あたりで昼飯にしようと。

熊野古道にもどる。
天王寺の陸橋に上がって、これからは阪堺電車沿いに歩く。

人どおりも多い道を南に、熊野古道を歩く。
熊野古道の王子ではないが、阿倍野清明神社に。


阿倍野清明は、陰陽師として有名だが実際は天文にたけていたのだろう。
天文は時を司るわけで、暦を支配するのは帝であったわけだから、かなりの位の高い人だったのだろう。

安倍王子(あべのおうじ)はすぐ南にある。

こちらは、阿倍野清明神社ほどのにぎわいはないが、正月の十五日のせいか人は多い



ここを出て手塚山の路面電車のコースを南に進むと、住吉大社に。
電車道のほうの正門側ではなく、旧道の裏のほうから走るとすごいにぎわい。

今日は年があけて初めての辰の日ということで、初辰(はったつ)でにぎわっている。お参りする人が列を作って並んでいる。

お参りにくると、ネコの置物を買って帰り、集めると良い事があるらしいと、まだまださんから聞いた。彼の家にもあるそうだ。
普段は、人が少なくて閑散としているが初辰ということで店も出ている。

ここから住吉大社の本殿のほうをお参り、神功皇后にも手をあわせる。

次に行こうかと思ったが、やはり太鼓橋を渡っていこうと道をもどり熊野古道に。


腹が減ってきたが、食べるところがない。堺まで行ってたべようかとなる。
もう大阪市と堺市との間の大和川はもうすぐとなる。

大和川の堤防に出たところで、
雲上地蔵尊というお地蔵さんと白龍大神があった。
白龍は川を治めるためなのか。
道はここで川で切れる。大和川は江戸時代につけかえをしているので、古代は道がそのまま南につづいていたはずだ。
大和川を渡る橋を探して、堺市に入る。

橋を渡ったところで、まだまださんのガイドで「よこやま食堂」。


よこやま食堂は、おかずを取って、ご飯と味噌汁をもらう。
私は、イワシの煮物、冷奴にご飯に味噌汁にした。美味しくいただきました。
広い道路道から、山のほうに入る。
大阪刑務所の角の近くに、境王子跡がある。

かわいい公園の一角に碑がある。地蔵さんがあって新しい花が供えられている。


ここから閑静な住宅街の道を少し行って、反正天皇陵。
堺東の方違神社の境内を横切る。

南海電車の線路の上を超えて見えるは、大仙陵の木々ではないかな。



仁徳天皇陵は、去年の10月にコロナが落ち着いたときに、クラブラン(集まって生存確認をした)をしたところ。

仁徳天皇陵では、ガイドの人がヒマそうだったので説明をこう。
堀は三重になっているのにはびっくり。改めてグーグルマップを見ると三重になっていた。

ところで、解説によると前から見ると木がこんもりと茂っているが、これは明治になって植えたものだ。
本来の古墳は、石積みでそれが見えているらしい。ところが長い年月の間に崩れてきて明治のころはガタガタだった。
それでは恐れ多いことなので、神格化するために植林したとのことであった。
確かに、前から見たら、木々があって神々しく見えるが、これは明治になって作ったものだ。

大仙陵を出て海の方向に歩いてから広い道路を石津神社
そろそろ足もくたびれてきた。

ここらへんで次回の歩きにしようかと思ったが、せっかく歩いたのだから浜寺公園駅まで。

阪堺電車の終点の浜寺公園駅、発車を待つ電車で家に帰ることにする。
時間はかかるが料金は割安、つまりは時間あたりの料金が特別にオトクだ。


のんびりと電車に乗ってかえりました。
次回は石津からになります。










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