ふくろう博士のカナダ便り

 ふくろうう博士のカナダ便り 7 −
ガルブレイスとオスプレー & 口笛コンサート の話


☆ オスプレー(OSPREY)
 この鳥の凄い写真、とうとう世界の写真家の目標である、Fogg美術館(ハーバート大学に1885年ころにつくられ、優秀な写真の世界一の美術館)に展示されることになりました。その写真家のGaryNylnderさんからのご好意によりこのHPに掲載する許可を得ました。ただし、この写真は、「不許複製」ですので、ご注意ください。
カメラはデジタルのNikonD1H 80-200mm&1.4teleconverter:35mmフォーマットで420mm相当、です。
この写真は、私がガルブレイス氏に送ったところ、ガルブレイス氏がこの写真を大変気に入られ、教授がハーバード大学のFogg美術館に送り、写真の価値が認められ展示となったものです。

☆ 口笛コンサート と スピリチュアル・インタープリテーション
 さて、今回の本題である、私がカナダの一都市(田舎?)で開いた口笛コンサートについて話ましょう。そう、実は私は口笛でクラシックを演奏します。
演奏した曲目と口笛の演奏は、このページの最後に載せておきましょう(スピーカーマークをクリック)!。


 口笛のヒーリングコンサートは、最初、主催者が、こちらでよく流行る教会のリヴァイヴァル運動みたいで困るというので、普通の解釈と精神的解釈の二つの解釈を用意して、聴衆がどちらでも聴けるようにし、僕はスピリチュアル・インタープリテーションですると話してからするようにしました。結果は、今までにない良いコンサートになりました。聴衆も凄く喜んでくれて。自分でもすごく歌いやすかった。

それでは僕のスピリチュアル・インタープリテーションの元になった話を紹介しましょう。


 2001年9月11日のすぐあと、中近東の色々な国に行って、国民性の調査をしてきました。ユングの気質論で研究するととても面白い分析が出来ます。
ここではイランのテヘランに行ったときのインタヴューから、一部をご紹介しましょう。
日本人のビジネスマンたちが多数集まって話し合って下さった内容です。
イラン人がとても詩情に溢れた人たちで、同時に信心深い人たちであることが分かります。
とくにイスラムの素朴な人たちが、いつも歌を神への思いを交えて歌っていることに驚きました。実際、旧約聖書には「雅歌」という愛の歌の章があり、神と人間の間の心の交流を表したものとしてキリスト教の人たちには解釈されていますが、それをイスラムの人たちは日常普通のことのように自然にやっているわけです。
それにびっくりした私は、先日こちらでやったコンサートにそのインタープリテーションを取り入れて、演奏してみました。 聴衆はキリスト教の人たちですから、理解できるだろうと思ったからです。 実際、そのような気持をこめて演奏すると、全然違った深い味わいが出てくるのには驚きました。聴衆もとても感動していたようです。

 実は、二月にも頼まれて小学校で三曲ほど演奏をしましたが、その時には"If I loved you"(回転木馬)のそれを、「アフリカの子供たちと親たちがエイズや栄養失調で沢山死んでいる。その別れの悲しさをこの歌で感じて欲しい」と言って歌い、次にアヴェマリアでその人たちのために祈り、彼らが幸せな天国で安らぐようにと、エーデルヴァイスを歌うということを話して歌いましたが、これも子供たちに凄く受けたようで、小学生の可愛い手紙ももらいました。


それでは、以下の楽しいビジネスマンたちの話しから、イランの人たちのこの暖かい心の中を感じてください。

博士: 
 「さっきイラン人は、内面を重視するということを言われましたが、たとえば、過去の詩人でナンバーワンといわれている”フェルドウ―シー”という人の詩は、詩の”表面的”な内容は、女の子が出てきたり、お酒が出てきたりして、何だろうな、というところがあるんですけど、イラン人の文学をやった人間に聞くと、
「そう読むのは基本的に間違いだ。お酒とか女性や花が出てくるのは、ちゃんと裏があって、それを内面的に読めないというのは、あんたが浅はかだからだ」
といわれてしまったんです。」 そこで、
 「どういう風に読むんでしょうか」、と質問したところ、
「それは例えば、精神の高揚であるとか、神との融合であるとか、そういうところを読まなきゃいかん」 と言われて、僕は、まったくわかりませんから、
「文字どうりしか読めないんですけどね。」 と言ったんです。

 「今日お帰りになるときに、ドライバーになんでもいいから詩をひとつ歌ってみてくれ」と言ってみてください。 ドライバーは、そう言われたら、何かそのあたりの詩人の詩を一句、二句よむでしょうね。 彼らは必ずそういうのを暗記してるんです。」

 「日本人に「何か短歌歌って」といっても困惑するばかりでしょうが、彼らは恥ずかしがったりしますけれども、調子にのってくるといくらでも詠んでくれますよ。これは小学校に入って最初にシャーハメー(フェルドウ―シーの詩)という本を丸暗記させられて、その後さらにいろんな詩を読んで。国語の教育は詩を覚える事から始まって、詩をどうやって理解するかを叩き込まれているんじゃないかなあと思うんですけどね。」

  「イラン人は結構ナイーブですよね。物凄くナイーブですよね。それから、日本人しか分からないような内面的なウェットな部分を理解できる。日本人と同じようなものを持っている。今回は仕事で来ているが、前は学生として来ていた。そしてイラン人の学生の友人たちと話してそれを感じました。「日本人しか多分わかんないだろうな」というなウェットな部分を彼らは物凄く感じて話すことが出来るんですよ。そこは日本人と物凄く共通している。
こんなことをドイツ人と話してもわかんないだろうなと思って、話してみると、大体ドイツ人は分からないです。イラン人は分かるんです。それは語族が一緒なのか、それともアジア系のフン族が来てここを統治した時代があるから、そこで血が混じったからそうなったのか、分からないですけど。そういう部分がかなりありますね」

 「僕らの表現力は彼らの表現力には全くかないません。
イラン人のタクシーのおじさんとか、庭掃除しているおじさんたちが来るんですけど、詩的な感受性の強い表現を普通にするんですよ。 例えば春が来ると、「地面が温かくなる」とか「木が目覚める」とかいうふうに言いうんですよ、ペルシャ語で。 ベドウィンにしろ、ここの遊牧民にしろ、地面と接して生きているからだろうと思うんですよね。 だから「地面が温かくなって春が来る」ということを感覚的に持っているのだろうという気がしたんですけどね。 そういう表現は、日本人は出来ないじゃないですか。何か詩を書くときくらいしか。
この間もここの庭を奇麗に掃いているおじさんが、「春は愛の季節だ」というわけ。僕なんか「春、愛、男と女、Make Love」とこうなっちゃう(爆笑)。それで、私は彼に「どうして?」ときいたら、「ものが生まれるのが春だ」という。「いや、ものは生まれるから、やっぱり、そうなんだ」と僕はすぐそっちの方にいっちまうんですけど。
彼の答えは意外にも、「ものを生むのは人間じゃない。神しかいないんだ。人間も、花も、木にしても「生む」のは神なんだ。」という。 「生む」の主語は神なんだ。人間が何か木を昔つくったか昔? 草を存在させたか?人間が鳥の子供をポコット作り出せるか。何一つ出来ないだろう。だから新しい命を生むのは全部主語は神。だから春の季節というのは、要するに神の季節ということだ」、と言うんですよ。 小学校ぐらいしか行っていないおじちゃんがですよ。
「全然違うなあ、俺と。勝てないなあ」 と思っちゃう(爆笑)。
イラン人と話しているとそういう会話になるんですよ。それが別に大学教授とだか、宗教家だったらそういう話もするかもしれないですけどね。 そのへんのドライバーとか、一日一ドルか二ドルで庭を掃いているおじさんがそういう会話をするんです。だから、ベースが僕らとかなり違うという感じがするね、やっぱり。」

  「文盲の人でも、詩はよく知ってます。例えばうちの掃除をやっているおばちゃんが、私が何か下手なペルシャ語を書いて「これあってる?」と聞くと、「私、字だめだから」というおばちゃんが、「ちょっと、詩を一つか二つ、」というと、「やだなあ」と言いながら、ちゃんと好きな詩をいくつか詠んでくれるんですよね。 そういう意味では文学とか内面とかを彼らは求めているのかもしれない。」

 「例えば車のギヴアウェイというのがあるじゃないですか。車買ってくれそうな人にちょっとお土産をあげるが、日本ではキーホルダーからはじまって、ボールペンだとかTシャツだとか、スポーツバックだとか色々あるわけだけど、ここは詩集をあげたりするんです(皆驚く)革の表紙で。 いただいて何だろうなと思って開けたら、詩集なんです。「粋だな、と思いましたね」。 詩集をあげるというのはかなり粋だと思う。日本で詩集あげてもちょっと難しいよね。「何だよ、これ」となっちゃう。ックと交換しちゃったりして。即物的に!

 「また、ここの音楽では、かなり日本の演歌に似てる音が多いじゃないですか。こちらに今回きて、ラジオを携帯して番組を聞いているけど、ほとんど演歌番組かと思うような曲があるんですよ。だから、こちらの人が日本の演歌に言葉は知らなくても、調べかなんかで、気持ちを合わす事は出来るんじゃないかと私は思いますよね。」

「ものすごく情緒的ですよ。歌詞が。演歌の世界ですよ。歌詞の内容はイランの方がもっと高尚ですけどね。言葉の裏にある意味がかならずあって、その両方が分かっていて、初めてその歌を理解できるっていう歌詞ばっかりですよ。」

博士:
 「内容が高尚ってどういうことですか。日本の演歌は、不倫でどうしようもないのを残念がっている歌が多いようですが」(爆笑)。

 「ここでは少なくとも今は(イスラム革命以後の厳しいイスラムの掟のため、ということ)そういうのは無理ですよね。シャーの時代にここにあった日本の演歌みたいのには、言葉があって、言葉の裏にまた違う意味がもうひとつある。その二つが分かって本当にその歌がわかるというところは変わらない。これは今もそうだと思いますよ。抒情的なものが物凄く多く、抒情的ものが好きです。」

博士: 「例えば、どんなのがあるんですか?」

 「昔買ったCDですけど、一人で旅に出る愛する人を送りながら思うのです。人としては確かに一人で出て行くということと、その人は一人だけど、必ず神がその人と一緒にいて、という部分と両方分かって、イラン人は聴くわけですよ。ところが、僕らが聞いても、「これは二人仲良しだったのが、一人旅たって行く、その話ね?」ということで終っちゃう。でもイラン人はそうじゃないです。ベースに持っているものがかなり、違う。 さっきの「春は愛の季節だ」ということがでたが、僕らが週刊誌で、「春は愛の季節だ」というのと、ここの庭師のおじさんが、「春は愛の季節だ」 というのとはかなり次元が違う。庭師に限らずそのくらいのことは皆言うような心を持っている。 彼らはそれをことさら意識してやっているのではなく、自然に出てくるんです。 自然を生きて生まれて育っている中で身につけちゃうんだろうと思うんですけどね。

 「実際、ベースに持っているものは実に凄い。ここの田舎の土の家に住んでいる素朴な人たちの信仰の深さと温かさには驚嘆しました。 かつて、研修生で旅行をしたことがありました。バスで16時間も乗るような田舎でした。たまたま途中で降ろされて、土の家に一夜の宿をお願いしたのですが、入るとその家には財産といえるものは鶏二羽しかいなかった。それなのに、そのうちの一羽を私のために殺してご馳走してくれたんです。 お礼にお金をあげようとしたがどうしても受け取らなかった。 まったく、損得勘定から行けば、私から得する部分が何もないのに、そこまでしてくれたのです。 日本人だったら田舎の人でもそこまではしないでしょうね。 財産の半分を何か訳の分からぬ外国の旅人の学生、しかも一晩しか泊まっていかない者に与えてしまうなんて」。


以上、まだまだありますが、こんなところにも、音楽の思わぬ深い味わい方があるとは知りませんでした。



☆プログラム:
2003.03.22 The Classical Music by Whistling Irene  music♪


Etude
 Spiritual Interpretation of Classical Music

(By Joseph S. Yamaguchi, March 22, 2003. 3:00pm)

PART 1
EDERWEISS (Sitting in a beautiful meadow in Heaven)
PLAISIR D'AMOUR (Martini) (A song of broken love. God's sorrow: "Oh, my children,
 I sacrificed everything for you, but why do you abandon me?)
AVE MARIA (Schubert) (A soul's response: Oh, help me to go back to God)
IMPROMPTU # 90-3 (Schubert) (A soul's desire for love and peace)
CLARINET CONCERTO K622 Adagio (Mozart) (Breath-holding at the Gate of
 Heaven, looking at its infinitely beautiful mountains and meadows)

Intermission for 10 minutes

PART II
FLOWERS FULL OF MY CHILDHOOD-MEMORIES (A Japanese melody:
Remembering the love and kindness of my friends)
BLUMENLIED (Gustav Lange) (Surrounded by beautiful flowers in Heaven)
PIANO SONATA # 15 K 545 (Mozart) (Desire for peace and love))
PIANO CONCERTO 21 (Mozart) (A soul's desire to love God)

 Intermission for 10 minutes

PART III
LULLUBY (Schubert) (God's motherly tender care and love)
IF I LOVED YOU (from Carousel) ) (God's sorrow: Oh, my children, why do you go
away, if I loved you so much)
AVE MARIA (Luzzi) ( Oh, help me to love God)
PIANO QUINTET OF TROUT (Schubert)





後書き:

これで終わりにすると限るつもりはないけれど、ただ、やはりコンサートは準備に時間をとられ、大変。とても今のスケジュールの遅れからは出来ないので、ニ三年はもう何も受けないつもり。自分での毎日の小一時間ほどの練習だけは続けるつもりだけど。




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