それは優しく風のように















ムッとした熱気で目を覚ました。
額に汗が滲んでいる。暖房の効き過ぎたその部屋では数人の男が床に転がりイビキをかいている。ジョーは頭をふり、目にかかった髪を掻き揚げると、半身を起こして小さなフットランプの灯りで部屋の様子をうかがう。
転がる一升瓶に、積み上げられた缶ビールの山。部屋が匂うのか自分が臭いのか、酒の匂いで眉間に皺を寄せると、携帯電話を取り出して時刻を確認する。
5時を回ったところでまだ夜明け前。
そしてほのかに光る携帯電話の液晶画面に映し出された文字はメールの着信を示していた。




翌週から始まる合同テストに向けての走り込みを2日に渡って行ない、過去最高のベストタイムだった。もちろんこれは非公式であり、ギアボックス同様タイアのコンディションはこれからまだ調整していく必要があるが、いずれにせよ満足の行く結果である。
もうすぐ開幕する国内F3に向けてチームスタッフは上々な出だしに浮かれ模様である。勝負はまだ始まっていないし、これからである。だがこうやってふざけられるのも今だけといったところか。
おかげで、胃がひっくり返ったように気持が悪い。


悪臭漂う中、ムッとする部屋の暑さに半そでのシャツ一枚になっていた。何処で自分のスェットシャツを脱ぎ捨てたのか思い出そうと微かな明かりの中で視線を漂わせる。
目の前には3番目辺りに彼と勝負したエンジニアの田崎が大の字になって寝っ転がっていた。スウェットシャツを抜いたのは確か8人目と勝負しているときだったと思う。ザルかどうか試してやろう、とジョーに挑んできたスタッフたちが次々を敗北していき、8人目の工藤はかなりの大男でまさに体育会系仕込みの酒飲みだった。さすがに8人目となると、ジョーの意識も朦朧とし、自分が何を飲んでいるのかがわからなくなっていた。
途中何度かトイレに駆け込んで、胃の中のものを全部吐き出して空っぽになったところでまた飲み始める。その繰り返しで気分が悪くなるが何故か勝負を挑まれるとついつい受けてしまう。
単に負けず嫌いなだけなのかもしれない。
だが結局9人目でダウンした。最後の相手も彼と同様にほとんど体を前後に揺らして今にも倒れそうだった。3杯目でジョーは意識が遠のいていくのがわかり、ゆらっとする浮遊感とともに、床にふしたのだ。


で、目を覚まして見えればこの有様だ。いたるところに転がる空き缶や瓶の多さに自分がどれだけ飲んだのかを考えるとゾッとしないでもない。
横たわる数人の男たちをまたぎながら、起こさないように部屋の入り口に向かった。
そして出る前にトイレを覗くと案の定、そこにはくしゃくしゃに脱ぎすてたスウェットシャツがバスタブに放り投げられている。それを拾い上げようと頭を下げると一気に吐き気を催した。慌てて頭を上げて壁に手をついて呼吸を整える。こみ上げる嘔吐がしばらくおさまるのを待ってから、スウェットシャツをあきらめてジョーは部屋を出た。



廊下は静まり返り、非常灯の明かりだけがついている。酔いがまだまわっているのかおぼつかない足取りで歩きながら、壁に手をはわしながら自分の部屋にむかった。
もともと酒を好んで飲むほうではない。
教会にいた頃にはよく大人に隠れて飲んだ記憶はあるがあれは酒の味よりも皆でこっそり飲むという楽しみがあった。
それは煙草も同様で、あの頃は煙草が美味いと思ったことなど一度も無かった。
なのにいつからだろう。
ふと気がつけばやたら自分の周りに飲んべえが揃っていたのだ。
アルベルトを初めとするメンバーの面々。
彼らは厭くことなく毎晩かなりの量の酒を飲むのだ。




ねとねとしたものが口の中でたまり、吐き気を催しながら何とか自分の部屋にたどり着くと、カードキーを差し込んで中に入る。暖房の切れた室内はひんやりとして今の彼の気分を和らげるのには十分だった。
バスルームに入ると、即座に蛇口の水で口の中をゆすぎ、吐けるものは唾液だけだったがまた吐いた。いくぶん気分が増しになると、濡れた口を手の甲で拭いながら、ゆらゆらと部屋を横切り備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して一気に半分を飲み干した。
冷たい水が喉越しを通り過ぎる。外気の冷たさも手伝って少しずつ頭がハッキリしてくる。ボトルを持ったままベッドに腰をおろしヘッドボードに体を預けると、はじめてそこで一息いた。
当分アルコールは勘弁してもらいたいものだ。


開かれたカーテンの向うに広がる青白い世界。
白々と明けてゆく窓の景色にジョーは目を細めて、尻の辺りの異物感に気がついて後ろポケットに入れっぱなしになっていた携帯電話を取り出した。
そこでメールの着信があったことを思い出す。夜明けといっても日が差すにはまだ早い、薄暗い部屋の中で煌々と光る携帯電話の液晶画面をのぞいた。


フランソワーズ?


深夜12時近い時刻に彼女からのメールが一通届いていた。どうやら、昨夜電話を切ったあとすぐ彼女はジョーにメールを送ったらしい。
用件についてはサッパリ見当もつかない。
彼女は昨夜の電話で何か言い残したことがあったんだろうか。
画面をスクロールしながら彼女のメールの内容を確かめる。




『言いそびれたことがあります。明日は佐智子さんの誕生パーティで私の帰りが遅くなります。
イワンはグレートたちが世話をしてくれるので問題ないと思います。それから、もしジョーが早く帰ってくるならパーティに参加しませんか?無理ならいいです。』



事務的に並べられた文字を目で追う。
――パーティに参加しませんか? 
無理ならいいです。―――― って、何だ?



ジョーはベッドの上で仰向けになると薄暗い天井を見上げた。ベッドシーツがひんやりとして心地いい。右手に持った携帯電話をベッドの端に転がして再び目を閉じる。
朦朧とする意識の中でぼんやりと浮かぶフランソワーズの後ろ姿。
亜麻色の髪が月光にひかり白く輪が出来ている。
手をちょうど腰の後ろで結んで前を歩いていく。
うすく白いドレス。そこから伸びるひょろりとした長い足。
遠目で見ると、まるで少年だ。そして振り返った彼女のあまりにも澄んだ碧い瞳にどきっとして、ぱっと目を開いた。



冷え切った部屋に一瞬身震いする。身を起こすとカバンからグレーのトレーナーを引っ張り出してそれを頭から被った。そのまま光に吸い寄せられるように窓際へ近づく。
目下には猫の額ほどの小さな公園があり、その周り緑が囲っている。青白い光が朝独特の空気を漂わせている。出窓になったその窓枠は、大の男一人が十分腰をおろす幅がああリ、彼はその場に片膝を立てて座り込んだ。厚い防音ガラスに遮られて何も音が聞こえないが、そこにはきっと鳥のさえずり、長距離トラックの騒音があるのだろう。
手にした携帯電話に視線を落とす。ボタンを押すと明かりがつき、フランソワーズからのメールの文字を浮き上がらせると、もう一度メールを読み返した。
そしてまた最後の一行に目が止まる。


――パーティに参加しませんか? 無理ならいいです。――――


誘っておいて、無理ならいいってどういうことだろう。
だらん、と落とした手の中の携帯電話に小さくため息をついた。
時どき彼女の言っていることがわからなくなる。
彼女の性格はどちらかと言えばさっぱりしているほうだと思う。イエス・ノーがハッキリしていて、自分の考えを率直に述べていると思う。
なのに、時どき彼女は言葉を濁らしてしまうのだ。どこか遠慮して自分の気持を引っ込めるのだ。メンバーの中でも特に自分に対して遠慮がちのような気がする。
歯に衣着せたような言い方で言葉尻を濁すのだ。
今回にしてもそうだ。パーティにきて欲しいのか、来てほしくないのか。それとも単に、社交辞令で誘っているだけなのか。


窓枠に背中をあずけて上を向くと、さっきより薄く明るくなった空に目を細めて行き場の無い憤りを深いため息に変えた。










コロンとした丸い形をしたメッシュのトートバッグはすぐにフランソワーズの心を惹きつけた。柔らかなコーラルピンクで中身が見えないように内袋がついている。
「決まり。」
その言葉どおり、フランソワーズはそのバッグを佐智子のプレゼントに決めたようだ。
フランス直輸入の雑貨を取り揃えたその店にジョーが訪れたのはこれで3度目だ。もちろん、フランソワーズと一緒に。
一人でこんなフリルだらけの店に入れといわれたら土下座されたってお断りだろう。
ポケットに手を突っ込んだまま、ところ狭しと雑貨が並び飾られたショーケースの間をぶらぶら歩く。何気に覗いたショーケースの中に小さなチャームがたくさんついたグラスコートに目がいくと、ジョーはそれを佐智子へのプレゼントにすることにした。
「そんな、気を使わなくてもいいのよ。」
店員に指差したグラスコートを包装してもらっているのを見て、フランソワーズはジョーの腕に手をかける。
「ジョーまで佐智子さんにプレゼントを用意しなくても――・・。」
「いいよ、僕が贈りたいだけなんだから。」
ジョーが言うと、フランソワーズは口を閉じた。
ジョーが再び何か言う前に彼女は少し目を伏せてこっくりと頷く。


ああ、またか。


近頃の彼女はいつもこうだ。何かをいいかけて口をつぐむ。
いいかけた言葉をごくん、と飲み込んでいるのがわかる。言えばいいのに、何も言わない。
何を遠慮しているのだろう。

彼女の荷物も一緒に手に提げると、二人は店を出た。
そして、最初に声をあげたのは彼女の方だった。


「あ。」


店を出るなり、頬に突き刺さるような外気の冷たさに一瞬息を飲むが、空から舞い降りてくる雪の花びらに目を見開く。
すうっと通り抜けてゆく風。
見上げた空は白く晴れているのに、さらさらと白い花が空から舞い降りてくるのだ。
フランソワーズは両手を高く空にあげて澄んだ空を見上げる。ジョーも一緒に空を仰ぐと、遠くに白い一筋の飛行機雲が見えた。
風に煽られて宙をゆらゆらと舞う雪は地面につくまでにすうっと溶けてゆく。
「もう、雪は降らないと思ってたのにね。」
白い息が彼女の口から漏れる。寒さに頬と鼻の頭が赤くなってゆく彼女の顔を見つめながら、晴れた空と舞い落ちる雪のそのアンバランスな光景にジョーはしばし見惚れてしまった。
呆然と立ち尽くす彼にフランソワーズは彼の袖を引っ張る。
「ジョー?」
「あ、うん。」
慌てて我に返る。フランソワーズはジョーの袖を掴んだまま風に煽られながら舞い降りてくる雪を眺めた。
「綺麗ね。」
その言葉に彼はもう一度彼女を見た。
亜麻色の髪が風に煽られてちらりと肩の上で揺れている。透き通った白い肌にやけに碧過ぎる瞳。そのコントラストの美しさ。


綺麗なのは君だろう。


グレートならすかさず誉めるだろうし、ピュンマなら素直にそれを認めるだろう。
ジェットですら彼女の美しさに言葉をかけるかもしれない。
だが、ジョーはかける言葉が見つからなかった。思いついた言葉は陳腐で、どうしようもなかった。
「風花ってこういう雪のことを言うんだろうな。」
出てきた言葉は他愛のない何でもない言葉。
彼女を誉めそやす言葉の一つも思い浮かばず、ただ溶けるために降り落ちてくる雪にジョーはポツリと呟いた。
「カザハナ?」
初めて聞いたその言葉をフランソワーズは口を大きく開けて叫んだ。
ジョーは人差し指で空を切るように風花と書くと、その言葉の意味を説明する。
白いその花びらは地面に届くことなく溶けてゆく。
「素敵ね。」
カザハナ、カザハナ、カザハナ、と3度ほど口の中でフランソワーズは繰り返すと、にっこり笑う。
ほころんだ口元に雪が解けてゆく。
少し傾けた頬に亜麻色の髪がさらりとかぶさり、彼女の白い指がそれを後ろに払う。
「そうだね。」
ジョーは彼女の言葉に頷いた。







ギルモア邸につく頃には日がすっかり落ちていた。
一番星はもちろん輝いていたし、走り慣れた海岸沿いの国道に出る頃には海は白波だけ残して闇に消えていた。
休憩は2.3回だけでほとんど運転し通しだったので車から降りたときにはさすがに腰や背中が固まり腕を大きく回すとゴキゴキと音が鳴った。

早く帰ってシャワーを浴びたて横になりたい。

その一心で車を飛ばしてきた。朝方ベッドにはいってもなかなか寝付けず、結局最後は眠ることをあきらめてしまい、チームスタッフには書置きだけ残して一足先に現地を出発することにしたのだ。
二日酔いの気だるさはまだ残っていて、気分が優れることはなかった。
長時間運転する緊張も手伝ってか食欲もなく、ほとんど食事らしい食事をとっていない。途中のドライブインで眠気覚ましのコーヒーを何杯かすすったぐらいである。




玄関に立つと、廊下の向うのリビングでなにやら音がする。
家中の灯りが煌々とついているし、鼻を突く美味そうなにおいが漂ってくる。
ジョーは玄関にカバンを置いたままリビングに駆け込んだ。
なんとなく、そこにはフランソワーズがいて彼の帰りを待っているような気がしたからだ。
灯りのついた家に帰ること以上に幸せなことはない、と彼は思っている。
彼を出迎えてくれる灯りは彼がずっと幼少の頃から憧れていたものだった。


だがそこにいたのはフランソワーズではなく、クーファンを提げたグレートと、背広姿のギルモア博士だった。
「よお、ご無沙汰だな。」
「ワシたちも5分ほど前に帰ってきたばかりじゃよ。」
リビングを覗き込んだ彼の落胆した表情に気付かず、二人はにやりと笑って声を掛ける。博士は窮屈そうに上着を脱ぎながらダイニングのテーブルの上に置かれた幾つかの包みを指差した。
「張大人がこしらえてくれた夕飯じゃよ。ジョーも一緒に戴こう、それに――。」
もう一方の包みの方へ歩み寄り、さっそく紐をほどきながら嬉しそうにタルトの入ったケースを持ち上げる。
「コズミくんが土産にくれたんじゃよ、『ロビュション』のリンゴとクランブルのタルトを。」
そのタルトは博士とフランソワーズの大好物だ。甘いのがさほど得意じゃないジョーでも、塩味の効いたそのタルトはスイスイと食することが出来たとおもう。
「シャワーを先に浴びるよ。」
ジョーはそっけなく答えて手を上げるとくるりと向きを変えると2階の自室へ上がった。彼の背中にグレートの陽気な声が向けられる。
「夕飯の支度を手伝ってくれよ。」









熱いシャワーで体内の毒気を流し終えるとさすがに腹が減ってくる。
朝からまともなものを食べていないから当然と言えば当然だが。ジョーは素早く着替えるとグレートの手伝いにキッチンに降りた。
グレートとキッチンに並ぶと狭くはないがやはり窮屈間がある。フランソワーズと違っては彼は男だし、角張ったイメージがあるのか綺麗に整頓されたキッチンが殺風景に感じた。レンジで温めたエビチリをカウンターに載せ、温めているスープにボウルを用意する。牛肉とセロリの味噌炒めのもわっとした香りが食指をそそった。
グレートが冷蔵庫から缶ビールを取り出してジョーに放り投げるが、彼はすぐに首を横に振る。
「昨日浴びるほど飲んだよ。」
「じゃあ、迎え酒だ。」
にやりとグレートは笑ってその言葉を聞き流すと、自分の手の中にある缶ビールのプルトップを引っ張った。
部屋着に着替えた博士が現れると、グレートとジョーはテーブルにつく。すでに飲み始めたビールをいまさらだがグラスに注いで乾杯の仕草をする。ジョーは博士と並んでミネラルウォーターをグラスに注いだ。
中華に水なんて勿体無い、と言い出すグレートの言葉に博士も動かされたのか、途中からビールに切り替えるがジョーは最後までアルコールを断った。
男三人が話す話題とはそれぞれである。グレートは最近彼が参加している劇団の若者衆の話や、面白い発見があったと言うコズミ博士の研究所の話をする博士。ジョーは彼らの話題に相槌をうってたまに訊ねられるとポツリ、と一言答えるぐらいだった。

さすが張大人である。
温めなおした料理でも十分美味く、彼らは綺麗さっぱりに平らげた。
博士はアルコールが入ってほんのり顔が赤く、気分上々である。グレートはいつの間にかビールを水割りに変えグラスをもってリビングでくつろいでいる。ジョーは食べ散らかしたテーブルの上を適当に片づけて食器をシンクにつけた。

熱いシャワーに美味い食事。それで十分体調は戻ってきている。で、次に来るのは―――・・・。
ジョーはその場で一旦伸びをすると玄関に向かった。






日中の晴れに続いて今夜も晴れている。月は型でくり抜いたように丸く白い。散りばめられた星の数々を仰ぎながらジョーは海岸通りへ歩いた。
通り過ぎる車はほとんどなく、外灯のない静かなその道をジョーはぶらぶらと歩く。
フィールドジャケットをひっかけただけだが、3月の夜には十分である。風はなく、目の前に広がる海は静かに揺れていた。
浜辺に降りる階段まで来て、手すりのない幅の細いステップに足をついたとき、ジョーは、ああ、と呟いて立ち止まった。何も階段で降りることないんだ。
3メートルほどの高さ。
彼にとって飛び降りるには容易い高さ。ジョーは砂浜へ音もなく飛び降りた。


ギルモア博士とフランソワーズをのぞくメンバーみんなが同じようにして浜辺には飛び降りる。
階段を使うなんてまどろっこしい!と、ジェットは叫んで。
「だって――・・。」
その言葉にフランソワーズは困った表情を見せる。そして自分のはいているスカートを見下ろすのだ。
確かに彼女とてゼロゼロナンバーの一人で、この程度の高さなら飛び降りることも可能だろう。
だが、普段の彼女がスカートをはいていることも多いし、靴も小さい華奢なものをはいている。
壁伝いに手をついてそろり、と彼女は階段を降りる。




砂を蹴って先を進む。風は凪ぎ、打ち寄せる波は穏やかでぽっかり浮かぶ月をゆらゆらと歪ませている。
ジョーはジャケットに突っ込んでいた煙草を取り出すと、慣れた手つきで火をつける。打ち上げられた古木の前まで来ると立ち止まってもう一度空を見上げた。
自分の目の前には闇が広がり、振り返る後ろにも闇が続く。
空には白い月が浮かび、その明かり出さえ自分の存在を幻想的に思わせる。
唯一現実とのつながりは口にくわえた煙草の火。すうっと高く空に上ってゆく白い煙。




彼女の見かけは美しいと思う。
肩に流れる亜麻色の髪、フランス人形のような碧い瞳、陶器のような透き通った白い肌。
華奢な体つきですらりと伸びた手足はまるで映画雑誌から抜け出してきたフランス女優さながらである。
家族に愛情を注がれて育てられてきたんだろう、彼女の見せる笑顔には優しさがあり温かみがあった。
だからこそ余計に彼女の存在はジョーにとって一線引いた世界の向うにあった。
手を伸ばせは届くし、会話も出来る。それでも彼女の存在はブラウン管を通して見るように自分の世界とはまた別の世界の中にあった。


汚してはいけない世界。
触れてはいけない世界。


だが、彼女が時々見せるふとした仕草に、現実に引き戻される。
ブラックゴーストと闘っていたときに見せた鋭い眼差し。決して弱音を吐こうとしない気丈さ。戦火の中でも怯もうとしない姿勢は、そう彼女は紛れもなく自分と同じ世界で生きていることを物語っていた。

そして、そうかと思うと、細いヒールのかかとに注意を向けて恐る恐る階段を下りる彼女の表情は何処にでもいる普通の少女なのだ。
博士と一緒になって大好きなタルトケーキを嬉しそうにほお張る彼女は街で見かける年頃の少女と全く変わらないのだ。



片手でゆっくりと肩をもんだ後、髪を手で梳いた。
何となく落ち着かなくなってジョーは煙草を持ってきた簡易灰皿のケースの中でもみ消すと来た道を戻り始めた。
一度肩越しに振り返る。
砂浜に残る自分の足跡が闇の中でかすんで見える。そして、苛立つ彼の気持を見透かすように見つめる丸い月の視線に唇を噛むと、彼は駆け出していた。







息を切らして横断歩道を渡ってくる彼女の姿。
彼の腕に手をかけて自分を見上げる碧い瞳。
彼のアノラックを着てにっこり微笑む彼女。
そして、カザハナと繰り返し呟いた彼女の横顔。
どれも彼にとって大切なもので、失いたくないものだった。
















レストランを貸しきったパーティ会場は大盛況だった。
美人で西洋人並のスタイルを持つ佐知子はバレエ学院を主宰する学院長の娘でもありながら、その立場を一切鼻にかけることなく気さくであっけらかんとした性格故、講師同士の間はもちろん、生徒からも好かれていた。それは彼女の24回目の誕生日を祝う為に集まった人数の多さやパーティの盛況ぶりが物語っていた。


「ねえ、知ってる?」
部屋の隅っこのテーブルに腰掛けていたフランソワーズの横にやってきた同じクラスの貴美佳が意味ありげに声を潜めた。
わざわざ声を潜めるまでもなく、辺りは騒々しいし普通なら大声を上げないと会話にならないぐらいだ。貴美佳はフランソワーズと自分のグラスを持って彼女の隣に座ると、とりあえず飲もう、とグラスを手渡して二人でチン、と乾杯をする。
フランソワーズはすでに数杯グラスを空けているし、昼間のレッスンの疲れも溜まって睡魔が襲ってきたところだった。


「ねえ、知ってる?佐知子さんの薬指の指輪の相手。」
「え?」
フランソワーズはごくり、とワインを飲み込んで貴美佳の言う佐知子の薬指の方へ視線を向けた。彼女は会場のちょうど中心にいてその周りを数人の生徒や講師が取り囲んでいる。ほとんどがバレエ関係の人間だが、カメラマンをかってでた新垣のように部外者も少なくない。
ドレープを効かせた光沢のあるキャミソールを着た佐知子はまさにモデルのようで、沢山の花束を両腕に抱えて本当に嬉しそうだ。目を凝らして貴美佳の言う指輪を花の間から見つける。
アールデコ調のスクエアシェイプのプラチナに散りばめられたピンクダイアがキラリと光っている。


「すごーい、綺麗な指輪だわ。」
フランソワーズも思わず見入ってしまい、感嘆の声をあげた。
「でしょ、でしょ。」
貴美佳はグラスの中身を全部飲み干すと、フランソワーズに覆いかぶさらんばかりに身を乗り出した。
「どうやら、長距離恋愛らしいの。」
「長距離恋愛?」
それは初耳である。
彼女こそ美人才媛なのにどうして特定の人がいないんだろうと思っていたところだったのだ。
「誕生日のプレゼントに送ってきたみたいよ。佐知子さんったら本当に大喜びでこれで正式に彼女になれたって。」
「正式に?」
「どうやら、友達の関係が長かったみたい。でもあんなリングは本命にしか贈らないわよね。」


その言葉にフランソワーズは自分の手のひらを広げてみた。
白いほっそりとした指先を眺めながら、指に一つもリングがないことに小さく溜息をつくと、もう一度佐知子の薬指に目を向けた。
「恋人と友人の境目って何かしら?」
頬づえをついては貴美佳に尋ねてみると、彼女は即答する。
「互いを思う気持っていいたいところだけど、やっぱりモノよね。」
「モノ――・・・、気持じゃ駄目なの?」
「思うのは暇さえあれば誰だって出来ることよ、それはセックスだってそうよ。」
「セ、セックス・・・。」

言葉に詰まるフランソワーズをよそに、貴美佳は手を振って熱く語り始めた。
「そうでしょ、だってキスなんて犬でも猫でも出来るわよ。やっぱり好きだと思ったら物的証拠がないと物足りないわよね。でもそれは高価なものじゃなくてもいいのよ、もちろん。あ、私は高価な方が嬉しいけど。」
貴美佳はちらりとフランソワーズの薬指先を見て少し怪訝な顔をする。
「やだ、フランソワーズってば恋人がいないの?」
「え。」
答えが思いつかずフランソワーズは口を閉じた。
そのとき、彼女たちの背後から声が飛んできた。


「いるよ。彼女にはちゃんと恋人がいるよ。」











平日の夜でもネオンの灯りが煌く街の喧騒はハンドルを握るジョーの気持を苛ただせた。
街の中心部まで来ると渋滞がひどくなり、さっきから1メートルも前進していないように思える。信号も横断歩道も無視して若者達は堂々と道を横切って行くし、車中の暑さに窓を開けると何処からともなくバスを効かせた激しいラップ音楽が流れてくる。
フランソワーズのいるパーティ会場の名前はほとんど裏覚えだが、バレエ学院に近いと彼女が行っていたのを覚えていたので適当に目星をつけて車を走らせていた。
うんざりするような空気の中、彼は一番手身近なパーキングエリアを見つけると、ハンドルを切ってそこ駐車することにする。
ジャケットを手にして車を降りると、ジョーは携帯電話を取り出した。
彼が携帯電話をかけることは滅多にない。かかってくることはあっても、掛けることはない。電話という事に慣れないのもあるが、口数の少ない彼にとって電話の中の会話で起こる沈黙の間が一番苦手で、その間のことを考えるとどうしても、億劫になってしまうのだ。










フランソワーズと貴美佳が振向くと、そこには新垣がコルクを抜いたばかりのボトルを片手に立っていた。
「あら、新垣さん。」
言葉とともに、貴美佳は空になったグラスを彼に差し出すと、新垣は当然のようにグラスになみなみとワインを注いだ。その後に続いてフランソワーズのグラスにもなみなみとワインを注ぐ。
「彼氏がいるの?」
ぐいっとワインを煽ると貴美佳は興味深そうにフランソワーズの顔を覗いたので、思わずフランソワーズは視線を横にそらしてしまった。
「いるっていうか、その、わ、私が―――・・・。」
フランソワーズは口をつぐむ。


ふと、彼女の前を歩いて行くジョーの姿を思い出した。
夕食後の散歩はいつも彼の背中を追って歩く。
スタスタと歩いていく彼の後を追いかけると、時どき彼は振向いて彼女がそばに来るのを待っていてくれる。
道幅の狭いコンクリートの階段で必ず手を差し伸べてくれる彼の手は温かい。


「私が―、なに?」
貴美佳がその先を促す。


そう、私が。
私が恋人だって思っているだけかもしれない。
いつも一緒いておしゃべりして――――。
彼はいつだって優しく、手を差し伸べてくれる。
困っているときに、何も言わず助けてくれるのはいつも彼だった。
でも、それは彼が優しいから?



「すげ―、格好いいらしいよ、フランソワーズさんの恋人は。」
二人の真正面に座った新垣が肘を付いてうつむくフランソワーズを面白そうに眺めた。
「確かに、フランソワーズの彼氏が不細工だったら許せないわね。」
手を伸ばして隣のテーブルにあるチーズを摘んで貴美佳が振り返ったとき、フランソワーズの携帯電話が鳴った。








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