それは優しく風のように










その夜は珍しく風がなかった。
庭を横切ってテラスの方へ回り、そこから海岸へ抜ける道に出るところで立ち止まる。テラスの向うに灯るリビングの明かりを背中に受けてフランソワーズが小走りにやってくる。
明かりといえばそれだけ。
この辺りは民家もなく、人通りも少ない。険しく切り立った岩が多く、おかげで岩場の奥に広がる浜辺が目立たず、夏の盛りでも人の出入りが少ない。
彼女がそばに来ると、ジーンズの前ポケットに親指を引っ掛けてジョーは歩き出した。




「来週、佐智子さんの誕生日なの。」
ジョーの後を追いながらフランソワーズは話し始める。
「教室のみんなでお祝いしようって今計画を立てていて、社会人クラスの一人が見つけてきたイタリアンレストランがあるんだけど―――・・・。」
濃紺の闇に明るい小鳥のような澄んだフランソワーズの声が響いた。ジョーは返事をする様子もなく黙々と先を歩いてゆく。
「――――でね、すごくそのお店は人気があってなかなか予約が取れないらしんだけど偶然にも空きがあって――――・・。」
フランソワーズは小走りにジョーの後に続きながら話しつづける。
「すっごくオシャレで、雑誌にたくさん取上げられてるの。だからその話を聞いたときみんな嬉しくって興奮状態だったわ。当日まで、」



そこでフランソワーズの声が消えた。
ジョーは立ち止まって後ろに振り返る。


「ふうっ。」
フランソワーズは大きく息をついてから小走りにジョーの後を追った。ジョーは彼女がそばに来るのを待つ。
「当日まで佐智子さんには黙っているの。サプライズはたくさんあったほうがいいでしょ。」
彼の横に並ぶと再びフランソワーズは喋り始める。ジョーは歩調を緩めゆっくりと歩き出した。









ギルモア邸から浜辺のこの道は私道になり誰一人すれ違う人はいない。
ましてやこんな夜。

細い上弦の月が浮かび、その周りを星が小さく瞬く。春が近いといえども外気は冷たく、先週まで雪が散らついていたくらいだ。
「プレゼントを今悩んでいるの。みんなで一緒に買えばそれなりに大きなものも買えるけど意見がまとまらなくて・・・。」
浜辺に下りるコンクリートの階段の前で、ジョーは立ち止まるとフランソワーズに振り返った。
「佐智子さんは何が欲しいのかしら。」
ジョーが手を出すと、フランソワーズはためらうことなくそれを取る。
大人一人通るのがやっとというぐらい、階段の幅は狭くその上欄干がない。階段を下りるときだけ、フランソワーズは口をつぐむ。
浜辺まで2,3メートルほどの高さだが足を踏み外すと間違いなく怪我をするし、痛い思いをするのは嫌だ。



プライベートビーチに続くこの階段に手すりをつけて欲しい、とフランソワーズが言ったことがあるが、この階段を使うのはギルモア邸の住民だけで、彼女以外はみんな階段を使わずそのまま崖から飛び降りてくるので真剣に取り合ってくれなかった。
唯一の頼み、ギルモア博士は別にこの階段を使わなくても、多少離れているがスロープのある場所から浜辺に下りればいいと考えていたし、そもそも彼は滅多に浜辺には下りて来ない。



ジョーの手をしっかり握ってフランソワーズは彼の後に続く。ジョーは半分体を傾けフランソワーズの方へ向きながら後ろ歩きの姿勢で階段を下りてゆく。足が砂浜につくと、フランソワーズは一息つく。


「ふうっ。」


それが合図であるかのように、ジョーはフランソワーズの手を放すと、ジーンズの前ポケットに親指をかけて歩き出した。
その後ろにフランソワーズが続く。そして彼女のおしゃべりが始まる。
「そうだ、ピュンマが来月来るって言ったからしら?」
ジョーは微妙に首を傾けながら、さくさくと砂浜を踏みしめる。
「ピュンマって今、野生保護地区の公園管理管助手を務めてるんですってね。その関係で来るのかしら?」
風のない穏やかな夜。打ち寄せる波のリズムは一定で、時折岩肌にあたって砕ける波しぶきの音が遠くに聞こえてくるだけ。
「ピュンマが日本語話をせるから、通訳に選ばれたらしく、えーっと、自然環境保護グリーン・・・・グリーングラス?だったかしら?」


グリーン・ゲリラだよ。
ジョーは波打ち際まで近寄ると、アノラックの前ポケットから煙草の箱を取りだした。


ピュンマとはよくメールのやり取りをしていたので実は彼が来ることをずい分前から知っていた。
彼が野生保護管理管助手として働いていることも、今回自然保護環境団体グリーンゲリラの一員として神戸のシンポジウムに参加することも。
年齢の近い彼が目的をもって大学に在籍し、長期休暇中は管理管助手として働きさらに、環境保護団体の担い手の一人となって活躍する姿は尊敬に値する。今のレースをはじめて間もない頃、色んな相談に乗ってもらったのは他でもないピュンマだった。冷静に、物事を多方面から見つめる彼の意見や、楽観的見解に何度救われたことか。





「すごいわね、ピュンマって!」
フランソワーズの賛辞に何も答えずジョーは口にくわえた煙草に火をつけた。
白い煙が弧線を描くように空に昇ってゆく。打ち寄せる波の飛まつを避けながら、ジョーは波打ち際を歩いた。
フランソワーズは少しはなれて彼と平行線に歩く。
「そうそう、昨日バレエの帰りにね――――・・・。」
彼女のおしゃべりは続いてゆく。
小さな粒が夜空で瞬き、彼女のおしゃべりが静寂の闇を明るく染めてゆく。
頬に触れる外気は昨日より暖かいかもしれない。日に日に気温は上がり、そしてまた下がる。三寒四温というのか、確実に春は近づいている。






きっかけはなんだったんだろう。
頭の後ろで両手を組み、空を仰ぐ振りをして後ろに佇むフランソワーズに目を向けると、彼女は巻きスカート風のウールのロングスカートについた砂を払っていた。


いつから彼女はこうやって自分と一緒に歩くようになったんだろう。
最初はずっと一人で浜辺に降りて何もない時間を過ごしていた。赤ん坊や彼女のことを思うと室内では煙草が吸えず、テラスに出て吸っていた。そのうち波の音に誘われて、一人浜辺を歩くようになった。
打ち寄せる波の音がまるで地球の心音のように思え、光りを遮断された闇の中で一人佇んでいると、自分がまるで地球という母体の中の羊水に浮かぶ胎児のような錯覚を覚えた。
その感覚がジョーは好きだった。




宙に投げたライターを手のひらで受け止めたとき、フランソワーズがジョーの服の端を引っ張った。
闇の中でも彼女の碧い瞳は輝いている。ジョーは3本目にくわえた煙草を口から外すと横に立ったフランソワーズを見下ろした。



「そろそろ寒くなっちゃった。」



少し身をすくめる。
厚めのスウェットシャツにアノラックを着たジョーには少々の寒さでも、彼女には冷たすぎるのだろう。フランソワーズは分厚いキルティングのピーコートの中にウールのハイネックを着ている。それでもまだ寒いらしく首にはグルグルと臙脂色のマフラーを巻いていた。
少し風が出てきたのかもしれない。
海から流れる微かな風がジョーの頬を撫でる。3本目の煙草を箱に戻すとジョーは来た道を戻り始めた。フランソワーズも彼の後に続く。
「とってもセクシーな下着にしようってみんな言い出しているの。でも私は嫌だなぁ。」
どうやらまた、友人の誕生日プレゼントの話に戻ったようだ。
「ジョークとしては面白いけど、せっかっくのプレゼントだもの、喜んでくれるものをあげたいな。」



フランソワーズの話には一貫性がない。いつも話は変わるし、さっきまで腹を立てていたかと思うと、次には笑っていたりする。
話題は新聞記事からバレエ教室の話に至るまで尽きることはないらしい。どちらかといえば最近はバレエ教室での話題が多い。
「ねえ、ジョー。」
彼女がまたジョーの袖を引っ張った。彼は立ち止まって振り返る。
「今度の日曜日、買い物に付き合ってもらえる? やっぱり個人的に佐智子さんに何か贈りたいの。」



今度の日曜日。
ジョーは予定の記憶をたどる。手繰り寄せた記憶を思い起こしたあと、首を横に振る。今期のF3に参戦するチームの単独テスト走行があるのだ。


「ごめん。」
うつむいた彼の表情にフランソワーズは慌てて手を振った。
「ううん、いいの。急なお願いだったから・・・。」
ぴゅうっと風が吹く。
深々と寒さが増してくる。
「ジョーも忙しいもの。」
フランソワーズは両手を重ねこすり合わせてジョーより先に一歩前に歩き出した。




彼女は理由を聞かない。
それは別に不思議なことでも何でもないと、ジョーは思っている。
何も言わない自分も悪いかもしれないがいつもためらってしまう。彼女も聞くほどのことも無いと考えているのかもしれない。
もし彼女がもっと強引に頼んできたら、もちろん週末は無理だとしてもその日以外に都合をつけることも出来るだろう。
かといって彼のほうから切り出すのもなんだか気が引ける。
それほど自分と行きたいと思っていないかもしれない。
ジョーにそれがよくわからないのだ。


何故なら今まで誰も彼の存在価値を求めたり、たずねてくるものはいなかったから。
ジョーの育った環境では、人はすれ違い通り過ぎてゆくものが常だった。
自分が駄目なら他の人と行くだろう。



波の音が少し大きくなる。自分の前を歩く彼女の小さな背中を見つめた。
想像してみる。
彼女の隣に別の誰かがいることを。





フランソワーズは手を後ろで組んで少しうつむき加減に歩いていた。
亜麻色の髪は肩の上で揺れている。



ジョーはアノラックの胸元のジッパーを下ろすと、それを頭から脱いだ。
前を行く彼女に追いつくのは何でもない。
行く手を遮るようにフランソワーズの前にまわると自分のアノラックを彼女の頭からかぶせた。
「きゃっ。」
驚いてフランソワーズは小さく悲鳴をあげるがすぐにまたクスクスと笑う。
「おかしいわ、これ。」
ピーコートの上にアノラックを着た姿は確かにちぐはぐである。
ジョーは髪に手を突っ込んで彼女を見下ろした。
白い滑らかで柔らかそうな彼女の頬が目に入る。アノラックに袖を通そうとうつむいて伏せた彼女の長い睫毛に少しどきりとする。
無意識のうちに手が伸びて彼女の頬に自分の手のひらを当てていた。
ひやっとするその頬の冷たさにびっくりしてすぐ手を引っ込めるとフランソワーズも大きく目を開いて彼を見上げた。
「ジョー?」
ジョーは顔をそむけた。
そしてまた何も言わずざくざくと砂浜を蹴るように前を歩き出した。
闇の中に消えていきそうになる彼の姿に慌ててフランソワーズは駆け足で追いかける。その足音にジョーはまた立ち止まり、彼女がそばにくることを確かめると、また何でもないようにゆっくりと歩き出した。





「そういえば、ジェットってまた新しい彼女が出来たって知ってる?」
フランソワーズのおしゃべりが始まる。


何番目の彼女のことを言っているのだろう。
ジョーは何も答えなかったが、フランソワーズも同じこと考えていたのか、指を折って数え始めた。
ジェットはガールフレンドが出来るたびに写真を送りつけてくる。奴の好みも一貫性がない。ブロンドの美女かとおもえば、アジア系のこじんまりとした女性を選んでいたりする。華奢が好きかと思えば豊満な女性を選んでいたり、イマイチ彼の趣向がつかめない。
単に無類の女好きといったところか 。





階段のところまで来ると、ジョーはフランソワーズに手を出す。
フランソワーズは口をつぐんで彼の手を取ると、引っ張られるようにして階段に足をかける。
降りるときと同じようにジョーは半分彼女のほうを向いて後ろ歩きで上がってゆく。階段を上がりきったところでフランソワーズは大きく息をついた。


「ふうっ。」


遠く道の先に見えるリビングの明かり。
また二人の手が離れる。遠ざかる波の音。かわりに葉ずれの音が大きくなる。
ジョーはゆっくりと歩き始めるが、数メートルを進んだところで立ち止まった。
彼女のおしゃべりが再び始まるだろうと思っていたのが一向に声が聞こえてこないし、傍らに気配がないのだ。振り返ると、微かな月の光に照らされてフランソワーズはまださっきの場所に留まっていた。



彼女はうつむいてアノラックの端を握り締めて広げている。
下を向いているので彼女の表情が見えない。フランソワーズはうつむいたまま首を動かして、袖の先を引っ張って裏に返したり表に返したり。
次に前身ごろを引っ張っている。
何をやっているのか。
ジョーはいぶかしみながらフランソワーズの方へ引き返す。
彼の近づいてくる足音でフランソワーズは顔を上げると、アノラックの裾を左右の手で持ち広げてにっこり微笑んだ。


「やっぱり暖かいわね。」


彼女のそばへいくほんの数歩のところでジョーは立ち止まる。
上弦の月は高く彼女の頭上で浮かんでいた。
雫をばら撒いたような星は小さく揺れていた。
亜麻色の髪が月の光に照らされて白く眩しく波打っていた。



手を伸ばせば彼女の肩に手が届くだろう。
手を伸ばせば彼女をこの腕に抱けるだろう。

ジョーはその場で立ち尽くしたまま顔をそむけた。







いつからだろう。一人で歩いていた夜の浜辺。
振向いても誰もそこにはいなくて呼んでもだれも答えない。
波打ち際を歩くと、必ず足跡が残る。
けれどその後をなぞるものは誰もいない。だから自分はいつも波打ち際を歩く。
波が何もなかったように足跡を消してくれるから。



きっかけはなんだったんだろう。
いつから彼女はこうやって自分と一緒に歩くようになったのか。



ジョーの隣に駆け寄ってきたフランソワーズの頭のてっぺんをちらりと見た後、彼はフランソワーズの歩調にあわせてまたゆっくりと歩き出した。

















その夜は雨の匂いがした。湿った空気が海から流れ込み、少し気温が上がっている。厚い雲が空を覆い暗闇の中に荒い白波が見え隠れする。
月は出ていない。
月の場所には厚い雲が固まっている。
ジョーはリブ編みのジップカーディガンを着ているだけで十分気持がよかった。フランソワーズはマフラーを外しているものの相変わらず分厚いダウンジャケットを着込んでいる。




「それでもまだ寒いわ。」
ジョーの軽装に比べて厚着している自分の姿が滑稽におもえたのか、弁解するように言った。
「ほら、男性の体温って高いっていうじゃない。だからジョーはそれだけで事足りるけど、女性って体温の低い人が多いし・・・。」
いつもと同じように浜辺を二人で歩き、3本目の煙草をジョーは吸う
波打ち際まで来るのはジョーで、少しはなれてそれを見つめるのがフラソワーズ。
その間もフランソワーズのおしゃべりが続く。昼間に食べた食事の話から、バレエ教室の帰りに寄ったカフェの様子まで。一緒に行動しなくても彼女の日常生活が手に取るようにわかる。


「そうだ、前にジョーがFMで流れていて気になるって言っていた曲ね、それね新垣さんが貸してくれたCDに入っていたの。」
カチンと開いた簡易ケースの中でジョーは3本目の煙草をもみ消した。
何故か最近よく耳にするその名前に微妙に反応してしまう。
まだバレエ教室に通って間もない頃、佐智子がフランソワーズに紹介した男性だ。彼は某有名出版社に勤めているカメラマンらしい。
ジョーが首をめぐらしてフランソワーズの方に振向いたとき、ちょうど顔を上げた彼女の目とかち合う。
「もう、もどる?」
勘違いをしたのか、煙草をもみ消した彼の仕草をギルモア邸にもどる合図だと思い彼女はジョーのそばまで近づいてきた。
「あ――・・うん。」
一度開きかけた口を思い直して閉じる。
近寄りすぎて足元に飛沫がかからないように、フランソワーズの肩を向う側に押して移動させると、こうべを垂れて歩き出した。







謝ってきたのは佐智子の方だった。


最初何のことだかわからず、ジョーは首を横に振ると彼女の口から新垣の名前が出てきたのだ。
「フランソワーズに彼氏がいると思わなかったから。」
乗り気のない彼女に強引に新垣を紹介したのだという。
その頃、ジョーはレースを始めたばかりで家を空けることが多く、フランソワーズがバレエを習い始めたことも知らなかった。そしてまだその頃はこうやって二人で夜の浜辺を歩いていなかった。だから佐智子と会ったのはフランソワーズがバレエを始めてからずい分後になる。
「うわーっ、ちゃんと彼氏がいたのね、 フランソワーズったらハッキリしないからてっきり冗談だとばっかり思っていたわ!」
佐智子に会った初めの一言がそれで、いきなりジョーの顔を見るなり叫んだのだ。慌てて彼女の言葉を遮るようにフランソワーズはジョーを紹介すると、すぐ佐智子は両手を合わせて頭を下げた。
「ごめんね!そうとは知らず―――・・・。」
何のことか分からずジョーはフランソワーズの方へ向くが、代わりに佐智子が答えた。
「いやー、無理やりフランソワーズに私の男友達を紹介しちゃったのよ。」


紹介?


「ごめんね、困らせちゃったわね。本当にフランソワーズの彼氏がいると思わなかったから。」
「あの、信じてくれなかったから。」
ジョーの肘を掴んでおずおずとフランソワーズはうつむいたまま蚊の鳴くような声で言った。
「信じる?」
話の流れが掴めずジョーは聞き返すと、佐智子が声を立てて笑った。
「だって、彼氏がいる気配なんて全然なかったから、信じられなくて。だからちゃんとこの目で確かめるまで信じないって言ったの。」
佐智子が自分の目を人差し指で指した。



そこでやっとジョーは自分が突然ここに呼ばれたことに納得した。
珍しくその日に限ってフランソワーズが迎えに来て欲しいといったのだ。たまに、迎えに行こうか? と声を掛けると首を振って悪いから、と断る彼女が自分からジョーに頼んできたのだ。
そして待ち合わせの場所に行くと佐智子が彼女と一緒に彼を待っていたのだった。






「ごめんね、迷惑かけちゃって・・・。」
帰りの車の中でフランソワーズはジョーに詫びた。
「いいよ、別に。」
ジョーはなんでもないように答える。
「こうでもしないと佐智子さんってば色んな男の人と会わせようとするの。新垣さんだって悪い人じゃないんだけど・・・・。きっと彼にも迷惑をかけたわ。」
膝の上で綺麗にそろえた自分の手を見下ろして彼女は言うと、前方を見つめたままのジョー向き直って微笑んだ。
「ありがとう、ジョー。」
だがジョーはフランソワーズにちらりと一瞥するだけで何も言わなかった。




謝られることもなければ感謝される必要もない。
自分は何もしていないのだから。
彼女はただ、佐智子から紹介される男と会うのが億劫なだけだったのかもしれないし、紹介された相手を断る口実が欲しかっただけなのかもしれない。
その役にただ甘んじている自分が滑稽に思えた。


それでも、
それでも、


なんだろうこの気持。




紺碧の空は海との境目を隠している。
闇は遠く広がり無限の広さを思わせた。
階段口でジョーはいつものように、フランソワーズへ手を差し出すと、彼女も自然にその手を取った。
いつもならそのまま階段に足をかけ、後ろについてくる彼女の手を引っ張りあげるのに、彼は動かないで握り締めたフランソワーズの手を見つめた。


「新垣さんとよく会うんだ。」


それは疑問なのか肯定なのか自分でも良くわからなかったが、思わず口に出た言葉だった。
「え。」
彼が突然口を開いたので、フランソワーズの瞳は驚いて濃くなる。
「えーっと、学院主催の舞台があるときは、新垣さんに写真撮影をおねがいしているの。幼児クラスの発表会が先週あって私もお手伝いしたって言ったの覚えてる? そのとき、新垣さんと会ったの。」
ジョーに手を引かれて階段を上がり始めると口をつぐむ。
彼女の白い手がジョーの手の中にすっぽりと収まっている。視線をその手から彼女に移すと、空と同じ潤んだ紺碧の瞳が彼を捉えた。
二人の視線が絡みあう。
ジョーはそらさないまま彼女の手を掴み引き上げた。
上がり口に立つと息を詰めていたフランソワーズの口から息が漏れた。


「ふうっ。」


それを合図にジョーは彼女の手を離すと顔を背けた。
「夕方の天気予報では明日からまた寒くなるんですって。」
すぐにまたフランソワーズのおしゃべりが始まる。彼女の話を聞き流しながら、ジョーは自分を押さえ込もうと深く息をつく。
頭をかきむしりたいほど、心臓が激しく打ち緩い風がもっと冷たければいいのにと舌打ちをする。髪の中に手を突っ込んだときフランソワーズが言った。
「今度の金曜日にね、初めて幼児クラスの子供たちにバレエを教えるの。佐智子さんが一緒にどう?って声を掛けてくれたの。」
両手の指を絡めて嬉しそうにジョーの方へ振向いた。
「でもその後、新垣さんが佐智子さんと私をランチに誘ってくれているんだけど、レストランがどうやら佐智子さんの誕生パーティのために予約していたお店で、困っちゃった。」



ジョーは立ち止まり、横にいる彼女の頬を凝視する。
「せっかく当日驚かせようと思っていても、数日前に行ってしまうとつまらないものね。」
「金曜日、付き合えるよ。」
「え?」
思いもよらない彼の言葉にフランソワーズはびくっとして顔を上げた。
ジョー自身も自分の言葉に驚いていた。
勝手に言葉が口をついて出てきたのだ。
金曜日はちゃんと予定が会って、茂木のサーキット場に顔を出したあと、同じレーサー仲間の吉井と一緒に飲みに行く約束をしていた。


「佐智子さんのプレゼントを買いに行くとしたら、金曜日は僕があいてる。」
「ほんと!?一緒に出かけられるの?」
フランソワーズはジョーの肘を引っ張ってもう一度ジョーの言葉を待つ。
一オクターブほど高くなった彼女の声は弾んでいる。下から見上げて覗き込んでいる彼女の表情は無垢で長い睫毛に縁取られた碧い瞳がきらきらと輝いている。肩からこぼれ落ちる亜麻色の髪。薄暗い闇の中でもその輝きは衰えない。
「いいよ。」
一呼吸置いて答えた後、ジョーは顎に手をやり頭の中で約束を断る言い訳を考えあぐねる。
他のチームが金曜日に茂木に集まるらしく見に来ないかと誘われていたが、別段目新しいものはないだろう。昼間は簡単に断ることが出来そうだが――――・・・。飲みに行くのはもちろん夜のことだがフランソワーズの買い物なんて予定があってないようなもの。
どれ位時間がかかるか見当もつかない。
街中で彼女を放りだすわけにも行かないし、それは絶対したくない。かといって、吉井に合わせる気にもならない。奴は手が早いので有名だし、かなり饒舌だ。何を言い出すか分からない。





行きたい店の名前を連ねるフランソワーズの表情はくるくる猫のように変化する。ジョーは何となく彼女の白い透き通った頬を見つめながら吉井への言い訳を考えた。
フランソワーズが彼の視線に気づき顔を上げてにっこり笑う。
「角のベーカリーがリニューアルオープンしたの。あそこのバケット美味しかったでしょ、だから是非とも買わなくっちゃ!」
買い物に付き合うってどうして言ってしまったんだろう。
ジョーはあきらめるように、ジーンズのポケットに親指を引っ掛けて前を向いた。
仕方ないが吉井には悪いが飲みに行くのは次の機会にしてもらおう。

















日曜の朝一番の電話でギルモア博士はコズミ博士の研究所に向かうことになった。
どうやらその研究所で面白い発見があったのか、受話器を下ろした途端、ギルモア博士はいてもたってもいられず朝食もそこそこに呼び出したタクシーに乗ってコズミ博士の研究所に向かったらしい。
ジョーは前日から関西のサーキット場へ出ていたのでギルモア博士の不在を知ったのは日曜の深夜遅くだった。
酒飲みが集まる騒がしい部屋から抜け出せたのは11時を回った頃で、ホテルの非常階段の横でそのことを知った。3度目の彼女の着信である。




『イワンがいるから一人じゃないわ。』
電話の向うでフランソワーズが言った。どうやらギルモア博士は今夜のうちにコズミ博士宅から戻ってくるつもりはないらしい。
「イワンは寝てるじゃないか。」
何でもないようにケロリと言う彼女にジョーは少し非難混じりに言う。
ジョーは非常階段の扉にもたれると手にした缶ビールの底を額にあてる。飲んでも顔色一つ変えない彼に周りは必死になって酔わそうと彼の目の前に何種類ものアルコールを積み上げていく。それに挑戦するつもりはないが、飲まないでいると周りのバカ騒ぎについていけそうもないので雰囲気だけでも馴染んでおこうと思い口をつけていたが、やはり回りも見抜いていた。
「飲まないと今夜は寝かさん!」
そう叫んでいた男は一番最初にジョーの前に破れグーグーと大きなイビキをかいていた。




冷たい缶がジョーの火照った額をじんわり冷やしてくれる。
「グレートに帰ってきてもらったら?」
あの広いギルモア邸に彼女が一人でいるとも思うと、少し心配になる。もちろんイワンもいる。けれど彼は眠っているし、眠っているときは普通の赤ん坊と変わらない無防備そのものだ。
『大丈夫よ、戸締りもちゃんとしたし。』
彼女が力こぶを作るように腕を振り上げている姿が目に浮かびそうだ。後ろに頭を倒して扉にゴツンとぶつけると、ジョーは小さく溜息をついた。その溜息をすぐに受話器の向うで聞きつけたのかフラソワーズが言った。
『もう、大丈夫だったら! 私は子供じゃないのよ。』



「・・・・・・・・」


だから困るんじゃないか。子供だったら一人が怖いといってすぐグレートか張大人を呼んでくれるだろうし、無謀にもただっ広いギルモア邸に残ろうなんて思わないだろう。
自分たちがサイボーグで通常の人より腕力があっても、それ故襲われたりするのだ。自分たちのサイボーグ能力を欲する人間は想像以上にいる。そういう奴等がいつ乗り込んでくるかも分からない。
もちろんそれだけじゃない。
ギルモア邸の周りには民家がほとんどない上、通りかかる人もいない。もし何かあっても誰も気がつかないだろうし、助けを求めることは出来ないだろう。
それに、別荘地であるあの一帯は暖かくなる時期から別荘荒しが頻繁に起こりやすいのだ。たとえ彼女がゼロゼロナンバーであっても、数人の男がかかればただでは済まない。





『こんな時間じゃ、グレートも眠ってしまったと思うわ。張大人だって明日も仕事があるんだし。』
ジョーが何も答えないので、フランソワーズは弁解するように言う。グレートが寝ているかどうかは疑わしいが、確かにこの時間から彼を呼ぶには遅すぎる時間だ。
『大丈夫よ、携帯電話をちゃんと枕もとにおいて寝るし、何かあったらちゃんと連絡する。』
無言のジョーに慌てて明るく付け加える。
『今晩だけよ。明日はジョーも帰って来るし博士だってきっと帰ってくるわ。』
携帯電話なんて何の気休めにもならない。
電話で呼ばれたとしても、彼女のもとへはすぐに駆けつけられないじゃないか。
例え加速装置を使ったとしても一瞬にしてそばに行くことは出来ない。
『心配しすぎよ、ジョー。 』


そう、


それはわかっている。
過剰に心配しているのも分かっている。ほんの一晩のことだし、最近の彼らの周辺はいたって平和だ。きっと今夜も何も起こらないだろう。
いつもと同じ平和な夜に違いない。



それでも、

ジョーは唇をかんで目を閉じる。
それでも、仕方ないじゃないか。


まぶたに浮かぶのは横断歩道を息を切らして渡って来る彼女の姿。
外気の冷たさに頬を染め、白い肌が一層際立ち、風で乱れた亜麻色の髪は方々に遊んでいるように飛び跳ねていた。
何も走ってこなくても、と呆れるジョーにフランソワーズは首を横に振ってにっこりと笑う。息はまだ荒く、小さく何度も深呼吸を繰り返している。
「だって早く会いたかったんだもの。」
小さな花がほころぶように、彼女はにっこり笑ってジョーの腕を掴んだ。
そのとき風が吹いた。


ジョーは手でひさしをつくるように風と砂埃を避け、うすく開けた目から目の前の彼女を見た。
フランソワーズは風に流れる髪を押さえて小さな口も両目も一緒に閉じて縮こまっていた。






『―――――なの?』
受話器の向うにいる彼女の問いかけにふと、我に返る。
ジョーは電話を左右に持ちかえて聞き返した。
「え?ごめん、聞き取れなかった。何?」
『えーっと、あのね、その、えーっと・・・・。 』
「なに?」
何を躊躇っているのか知らないが、ハッキリしないフランソワーズにもう一度聞き返す。
『あ、明日帰ってくるのよね? 』
「そうだよ、さっき君も僕が帰ってくること言っていたじゃないか。」
『え、ええ、そうね。』
フランソワーズの声が急によそよそしくなる。
『あの、明日はいつ頃帰ってくるの?』
トーンダウンしたフランソワーズの声にジョーが首をかしげたとき、廊下の向うで彼を呼ぶ声がした。
ジョーは顔を上げて呼ばれたほうへ視線を向けると、案の定スタッフの一人が、こっそり抜け出した彼を探しに来たようだった。手に提げた一升瓶をジョーに見えるように彼を呼んだ男は高く持ち上げる。

やれやれ。

ジョーは苦笑しながら観念した仕草を見せた後、深く溜息をついた。
『ジョー? 』
彼の溜息にフランソワーズが不安そうに声を掛ける。
「あ、ごめん。明日はきっと遅くなると思うよ。昼過ぎにここを出るつもりだけど、道が込んでいたら何時になるか分からない。でも、明日も博士が帰ってこないようなら何とか急いで帰れるように努力する。」
『―――・・・そう。』


早く来い、と廊下の向うで男はジョーに手を振る。
今にも叫びだしそうな男の雰囲気に、ジョーは気を取られてフランソワーズの小さな返事にも気がつかなかった。
「ごめん、呼ばれてるんだ、切るよ。」
『あ、うん。』
「フランソワーズ、何かあったらすぐ携帯電話に連絡すること、いいね?」
彼女の返事を待たずにジョーは慌しくフランソワーズに念を押す。
『ええ。』
最後の返事を合図にジョーは電話を切ると男が一升瓶を振り回して彼の名前を呼ぼうとするのを止めようと一目散に彼のそばへ走っていった。









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