別に外へ出てはいけないと言われていた訳でもなかったので、病院の周りを散策してみる事にした。
八月の昼下がり、外の気温は35度にも迫ろうとしていた。病院で一泊した後に外へ出てみると、何だか自分が旅行にでも来ているような不思議な気分になった。
巨大なホテルに挟まれた緩やかな坂を下りて、品川駅の方向へと歩く。駅の周りには当然ながら普通に人が行き交っていて、普通の日常があり、特別な事情の中にいる自分と何だか少しギャップを感じた。
駅前のショッピングセンターを見て回った。本屋で立ち読みをしたり、視聴のCDをいくつか聞いたりして、ひとしきり時間を潰した。品川駅の周辺はなんとも僕の好きな街である。適当になんでもあり、お洒落で、新宿や渋谷のように異様な人ごみがない。
駅前を離れ、辺りの住宅街を散策して、再び病院へと戻る頃には全身から汗が噴き出し、着ていたTシャツはぐっしょりと濡れてしまった。病院の入り口の軒下に喫煙所があった。そこは唯一この敷地の中で煙草の吸える場所となっているようで、パジャマを着た入院患者達や、面会に来たらしい人などが何人も煙草を吸っていた。そして、その中に隣のベッドの初山さんの姿があった。今にも倒れそうなひょろひょろの体で、寝癖の髪の毛を立てている初山さんは、傍を通りかかった僕の汗まみれの姿を見て、「へえ〜、がんばるなあ」と、表情なく言った。
別にがんばってるつもりもなかったが、僕は取り敢えず笑顔だけ返しておき、喫煙所の横の自動販売機でコーラを買った。喫煙所とはいっても、そこはただ灰皿が置いてあるだけの“外”である。こんな暑い中でも、煙草を吸わなければいられない人達は、たいへんだなあなどと僕は思った。
「どのくらい入院するんですか?」
背後から初山さんが妙に丁寧な言い方で尋ねてきた。
「あっ、2週間くらいの予定なんですよ」自動販売機に腰をかがめてお釣を取りながら僕は答えた。
「私はもう2ヶ月、でも来週には出られるんだけどね」初山さんは煙草をかざして遠くを見るような目で言った。
僕は額から流れ落ちる汗を拭きながら、早く冷房の中へ逃れたかったが、「ずいぶん長かったですねえ」と、一応言ってみた。
「腰をちょっと痛めちゃいましてねえ」
「ええっ、じゃあ、ヘルニアですか」
「いやあ、そういうんじゃなくて」初山さんは少し笑った。「でも、来週また入院ですよ、今度は目を看てもらうんで」
「目ですか」何だか良く分からなかったけど、ずいぶんいろいろ病気を持っている人だなあと不思議に思った。
整形外科の病棟には、若い看護婦さんがことのほか多かった。これは、他の病棟に比べて傷病の難度が比較的軽いことから、新しい看護婦さんが研修の要素も含めて配属されているのではないかと僕は勝手に思っていた。
この病室の担当と思われる看護婦さんは、星野さんといった。まだ二十歳にも満たないとおぼしき女性で、目をくりくりとさせ、見方によってはまだ高校生にさえ見えた。
夕食前、ベッドの縁に腰掛け、トムクランシーの最新刊「合衆国崩壊」を読み耽っていた僕のところに星野さんが現われた。そして、「明日の手術の説明をしま〜す」おもむろに言った。
プリントの用紙を僕に差し出すと、そこに印刷されているとおり、明日の手術の手順の説明を始めた。それによると、今日の夜から食事が取れず、水かお茶程度で過ごし、10時以降は水もお茶も一切口にしない。手術の時間はおよそ午前10時頃からとなるが、前の手術次第では遅れる可能性がある。手術の前には、あらかじめ浴衣だけを着用して待っている。麻酔はやはり下半身麻酔で、昼頃までは下半身が動かないため、オムツを履かされると、そんなような内容だった。
星野さんは一通りの説明が終わると、毎日定時に行われている血圧や体温の測定をして、食事はちゃんと取ったかなどと、いつも手順で質問してきた。そして、安静にしていてくださ〜いと、言い残し、そのまま去って行こうとした。
“あれ?浣腸はしなくてもいいのか!”
その説明がなく、思わず僕は顔がほころびながらも、一応念のためにその事を聞いてみた。
「ああ、ごめんなさい、言い忘れました。浣腸は、朝起きたらすぐにして下さいねえ〜」星野さんはあっけらかんと言い放った。
「ああ、やっぱりね」僕はがっくりと肩を落とした。
「あれ、浣腸はいやですか?」星野さんは、きわめてまじめな顔でそう聞いてきた。“大好きだよ”と、答える人がいるのだろうかと思いつつも、「死ぬほどいやだよ」と半ば投げやりに答えた。すると星野さんは、問診票を胸元に抱えて笑いながら「こちらでやりましょうかあ」と、言った。 星野さんに浣腸される姿を思い描き、もう力も出ずに僕はうな垂れていた。星野さんはじっとこちらの答えを待っているようだった。
「自分でやります」僕はきっぱりと答えた。
星野さんは、ニコニコと笑いながら「面白い人ですね」と言った。「初めてだと、やっぱりいやですよねえ〜、でも、目をつぶってね、パッと入れて、パーッと出しちゃえばいいんですよ」
「パーッとねえ」
「後はスッキリですよう」
どうも語尾を伸ばすのが、星野さんの癖らしかった。そして、「後で剃毛しますから、また来ますね」と言い残し、足早に立ち去って行った。
ツルツルに剃られた膝を見つめて、なんともその間抜けな姿に僕は一人で笑っていた。膝を挟んで上下5センチくらいに脛毛がなく、そのコントラストの不自然さが何とも言えず面白かった。
消灯間際、また別の看護婦さんが錠剤を一つテーブルの上に置いていき、「もしあまり寝付けないようでしたら、飲んでください」と言った。
「それは、誘眠剤だね」向かいのベッドから見ていた磯貝さんが言った。「手術の前だと、あまり寝付けない人がいるからね」
いろいろな手順があるものだなあなどと感心して、僕はそのオレンジの錠剤をじっと見詰めた。
その日はちょうど晴海埠頭で開催される東京湾花火大会の日だった。窓の外、花火が力強く開く音が、低く遠くに響いていた。
この数ヶ月夢にもうなされた手術の日がいよいよ明日なんだと思いついた。そして、この時になって初めて本当に手術をするんだなという実感が湧き、にわかに緊張感がみなぎるのを感じた。
翌朝目を覚ました時、体調はもう最悪であった。
風邪の症状が更にひどくなり、咳が出て体はだるく、おまけに昨日の夜からなにも食べていないので、体に力が入らず、めちゃくちゃ喉が渇く。あまりの辛さに一口くらいならいいだろうと思い、冷蔵庫の中のミネラルウォーターを飲んだ。そんな、ボーッとしている僕のところへ、看護婦の星野さんがやって来た。
「ああっ、少し熱がありますねえ、風邪引いちゃいましたかぁ」
僕が差し出した体温計を見て、星野さんが言った。
「まずいかなあ」この期に及んで手術の延期などとなったら、たまったものじゃないなあと思いながら僕は言った。
「まあ、7度くらいだから大丈夫でしょう」星野さんはあっさりと言った。
“本当に大丈夫かよう!”といいたかったが、もう面倒臭いので、「そうですか」と僕は答えた。
「さあ、いよいよ手術ですねえ、頑張りましょうねえ〜」
彼女はなんとも明るくそう言うと、目の前のテーブルの上に、おもむろに何やら奇妙な物体を置いた。それは、大人のこぶし程に膨らんだ透明なビニールの球体で、その中にはやはり透明な液体が半分くらい封入されていた。そして、その球体の先には20センチくらいの細い管がついている。僕はうまく回らない頭で、その宇宙生物のような物体をボーッと見つめていた。
「これが、浣腸で〜す」星野さんは言った。
「えええ〜っ!?」
僕は恐ろしさに本当に家に帰ろうかと思った。せめて“いちじく浣腸”のよう可愛いやつならまだ諦めもつく、しかし、目の前の“浣腸”と呼ばれたそれは、まるで象にでも使うようなでかさだった。
「まずこの管をですねえ、このメモリのところまでお尻に入れてください」
星野さんが指差すその目盛りというのは、管の先端から軽く10センチはあった。
「ひえ〜、そんなに入れるのお!!」驚く僕に、「そうですよお」と、事も無げに星野さんは言い、「しっかりと、入れて下さいねえ、それで、管が入ったら、ここをカチッと音がするまで回して下さい」
管の根元には、回すだけのバルブのようなものが付いていて、どうやらそれを回す事によって、中の液体が管を通って外へ出るらしい。
「お薬が出始めたら、ぜんぶ一度に入れて下さいよお、それから、10分我慢してから、頑張ってパーッと出しちゃって下さいねえ」
僕は呆然とその巨大な浣腸を見つめていた。体調の悪さと空腹も手伝って、星野さんの声が隣の部屋から流れるテレビの音のように漂っていた。“どうしてこんな事になってしまったんだろう”僕は自分の運命を呪った。窓の外は、真夏の青空が広がっていた。軒を連ねるマンションのベランダには布団を干している女性の姿が見えた。
「大丈夫ですかぁ?」星野さんが心配そうに覗き込んできた。「私がやりましょうかぁ?」
星野さんのこの問いに、自分でやるよりは、やってもらった方がいいのだろうかという思いも浮かんだが、ぎりぎり男のプライドが生き残った。そして、自分でやります!と力強く僕は叫んでいた。
どうせやらなければならないのなら、さっさと終わらせてしまおう。僕は意を決して浣腸を持ち、部屋の片隅にあるトイレへ向かった。球体の部分を持たずに、管のところを持ってぶらぶらとさせていたので、良く考えてみると何ともおかしな風景だったようだ。磯貝さんが「頑張れよ」とにやにやしながら僕の背中から声をかけた。
トイレの扉をロックしてパジャマのズボンをずり下げ、意を決して中腰のポーズを取った。その段階でまだ何もしていないのに、何だか胃の辺りがむかむかしてきた。ふと横を見ると、洗面台の鏡に映る自分の姿が見え、本当に情けなくなった。
10cmの目盛り、そのマークされた部分を指で挟み、恐る恐る管を差し込んでみる。しかし、力が入ってしまうせいか、角度が悪いせいなのか、なかなかうまく入っていかない。
それでも、何とかかんとか先端が入った。“よしいいぞ”しかし、そう思ったのもつかの間、突然猛烈な吐き気が全身を襲ってきた。体全体が急激に寒くなり、息をするのもうまく出来ないような感覚となり、このままでは失神してしまうと思った。根性だと自分に言い聞かせその先まで一気に押し込んだ。
“よし、後はバルブを回して”しかし、訳の分からない場所に刺さっている浣腸のバルブをうまく回す事が出来ない。
“こ、これはまずい”もう一度やり直すなんてまっぴらだ。そうこうしているうちに、余りの気分の悪さに意識が遠のきかけてきた。それでもなんとか、バルブを力でこじ開け、ビニールの袋を押しつぶし、一気に液体を中に挿入した。生暖かいいやーな感覚が腸の中に広がり、何とか注入は成功したようだった。僕は親の敵とばかりに、自分の尻に刺さっている物体を引き抜いた。
わずかな安堵感を感じたのも束の間、猛烈な尿意が襲ってきた。浣腸というのがこんなに即効性のあるものだとはまさか思っていなかった。上からは吐き気、下からは尿意と、まさにそれはこの世の地獄だった。この時さえ過ぎれば、これからの人生どんな苦しみにも耐えられると僕は思った。
それでも、ひとしきり悶絶を繰り返しながら、それから何とか10分近くまでは我慢した。そして、一度に訪れた薔薇色の天国。その後しばらくは力が入らず、便所から出て行く事が出来なかった。
ふらふらになってベッドまでたどり着いた僕に、「10分我慢できた?」と、磯貝さんが楽しそうに聞いてきた。「ええ、何とか」と、息も絶え絶え答えると、「すごいねえ、俺なんか何度やっても我慢できなくて、すぐに出ちゃうよ」と言って笑った。
あんなつらい思いで我慢する事もなかったのだろうかと思いながら、僕はベッドに身を横たえた。
ベッドから手術室へ向かうためのストレッチャーに移された。別に自分で歩いても行ける気はするのだが、これも手順の一つらしい。
麻酔を効きやすくするためのものだという、めちゃめちゃ痛い注射を肩に打たれた。その時は、その注射が特に意味もないようなものにも思えたのだが、後から思い起こして見ると結構意識が朦朧としていたような気がする。部屋を出る時には、磯貝さん、初山さん、山下君に「がんばれよお」と、声を掛けられた。小さく手を挙げてそれに答えながら、なんだか自分の事を特攻機に乗り込む兵士のようだと思った。
星野さんが一生懸命にストレッチャーを押してくれて、僕は収容される死体のように運ばれていた。天井だけを見て進んで行く感覚はなんとも変な感じで、一向に距離感が掴めず、もうこのまま病室には帰っては来れないような気分になった。
手術室へ向かうベッドがすっぽりと納まるほどの広いエレベーターの中で、ストレッチャーを押してくれている星野さんに「重いでしょう、すいません」と僕は言った。
「全然大丈夫ですよ、私こう見えても結構力持ちなんですから」星野さんはそう言うと、両手でガッツポーズを作り笑った。
「星野さんて、どうしていつもそんなに明るいの?」僕は思っていた事を聞いてみた。
「あら、何だかお馬鹿みたいに言わないでくださいよう、でも楽しいんですよ、仕事が」
「そう。でも大変でしょう、看護婦さんて?」
星野さんは少しだけ考えるそぶりを見せてから、「大変なこともあるけど、患者さんが良い人ばかりだから、毎日本当に楽しいですよ」と、目をくりくりさせて言った。僕はこの先この女の子に、何か仕事で落ち込むような嫌な事が起こらなければ良いなあと本気で思った。
「浣腸はどうでしたぁ?」彼女がおもむろに訪ねてきた。
「ああ、あれねえ、吐き気がして、気を失いそうだったよ」
「ええっ、本当ですかぁ!?」彼女は目を真ん丸に見開いて、突如笑い出した。
「み、みんな、そうなんじゃないかなあ」と、僕は少しむっとして言った。
「そんな人いませんよお、気絶しそうだったんですかぁ」星野さんはさらにげらげらと笑いだした。
僕が、うーっと唸っていると、 「あら、怒りましたか?でも、本当に、面白い人ですね」」と、彼女は言った。
エレベーターは地下一階に着いた、またしばらく廊下を移動し、やがて手術室の前に着いた。扉の横のインターフォンで、星野さんが二言三言言葉を交わすと、マスクに手袋をした二人の護婦さんが、厳重で重そうな両開きの扉を開けて僕らを迎え入れた。星野さんはここでお役御免らしく、「それじゃあ、頑張って下さいね、ファイト、ファイト」と言い真ん丸な目で笑った。
まったく健康だと思っていた自分が、今こうしてストレッチャーに横たわり、手術も些細な内容だといいながらも、麻酔を掛けられて足を切られようとしている。精神的に弱くなっているこんな時、明るい笑顔で励まされる言葉がどれほど勇気づけられるかを知り、看護婦さんが天使に見えると言うのはこの事を言うんだなあなどと、僕は1人思いに耽っていた。
まったく影が出来ないように設計された空間。圧倒的な光の部屋で、手術用のパンツ一丁に、胸の辺りに申し訳程度のタオルを乗せられた姿で、僕は大の字に横たわっていた。室内には患者を落ち着かせる意味合いからか、小さなボリュームでジャズが流れていた。何だかそのアンバランスさは、逆になんとも僕を落ち着かない気分にさせていた。
手術室の中には、富山先生と、ひげの医者、そして、堺正章そっくり麻酔医に、看護婦の女性二人がいた。
まずは麻酔医のマチャアキの出番だった。
彼は流れているBGMにはお構いなしに、何やら演歌らしい鼻歌を歌っていた。凄い特技だと僕は思った。
「麻酔は初めてですか?」そういうマチャアキの言い方も、どこかリズムに乗っているようだった。
「はい、何から何まで、全部初めてです」そういう僕に、マチャアキは“なにから〜、なにまで〜、真っ暗闇よう〜”と突然歌い出し、にっこりと笑った。
僕は仮にこの男と一緒に酒を飲んでも、絶対に何一つ合う話はないだろうなと思った。
「それじゃあ、まず、麻酔の注射が痛くないように、痛み止めの注射を打ちます」マチャアキが言った。
痛み止めの注射を打つほど、麻酔の注射は痛いのかとびびりながらも、「はい」と僕は答えた。そして、マチャアキに言われるままに膝を抱え、丸めた背中を横に向けた。消毒の冷たい感覚が腰の辺りに広がり、マチャアキは何度も場所を確かめてから、少し痛いですよと、言うと同時に針を突き立てた。
ぜんぜん“少し”ではなかった。あまりの痛さに僕は膝を抱えてうめいた。そんな姿を見た、頭の横に立っていた看護婦の女性が、「頑張って下さいね」と、言った。
ここにも天使がいた。
(第四部-最終章-へつづく)