痛み止めの注射を打たれた後、特に指示もなかったので、膝を抱え、背中を丸めてしばらくそのままの格好でいた。すると背中越しにマチャアキが看護婦相手に喋るやたら陽気な声が聞こえてきた。マチャアキはどうやら昨日はゴルフに行ってきた様子で、伊豆の芝はどうだったとか、予想以上に好調だったとか、そんなことを夢中で喋っている。富山先生とひげの医者は、足元で何やら手術の準備をあたふたと始めているようだった。
「右足ですよね」冨山先生が、手術着にマスクという出で立ちで突然聞いてきた。そのマスク越しに見える表情も微笑みで満たされていた。
「はい、はい、右です」僕は慌てて答えた。何でもない足を切られた日には、たまったもんじゃない。
「それでは、麻酔を打ちます」マチャアが突然言った。そして、「体が大きいから、少し強めだな」と、独り言のように呟いた。
“おいおい、そんな適当でいいのかよ!”
僕は言い返す術もなく、肩越しにそっと振り返ってみた。そして、そこで、マチャアキの構えるその注射器を見て、思わず「ひえ〜」と、声を上げてしまった。マチャアキが今まさに僕の体に打ち込もうとしているそれは、注射器というよりはまるで小型の“銃”そのもので、スターウォーズで“レイア姫”が、“ダーズベイダー”に向かってぶっぱなしたレーザー銃とそっくりだったのである。
マチャアキはそんな僕の様子ににやりと笑うと、「見ちゃいましたね」と言った。
腰の中央の部分を中心に、注射針を数箇所マチャアキは刺したようだった。うまく痛み止めの注射が効いたらしく、その“麻酔銃”を撃たれた痛みは、まったくといっていいほど感じなかった。
注射の後再び僕は大の字となり、なぜか手首は手術台のベルトに括り付けられた。まさか、手術中に叫びまくって暴れ回るとでも思っているのだろうか。拘束されているという事実が、否が負うにも緊張を高めさせていき、僕は何とも落ち着かない気分になってきた。そんな様子に気づいたのか、頭の横に立つ看護婦が「すぐに、終わりますよ」と、耳元で言った。また天使の声だ。
その時、突然、激しい痺れが下半身を襲った。それは、長時間の正座の直後のような感覚で、あまりの驚きに僕は声を上げそうになった。
「そうそう、麻酔が効く前に、足が少し痺れますよ」何か片づけをしていたマチャアキが思い出したように遠くで言った。
“後で絶対にぶっ飛ばす”と僕は心に誓った。
強烈な電気ショックのような衝撃がひとしきり下半身に続いた。それでも、その感覚はやがて治まり、次の瞬間、寝ている僕の目の前に、富山先生が誰かの素足を抱え上げた。
“な、なんだあ?”しかし、どう見てもそれは上がっている角度からも間違いなく自分の足だった。まったく感覚のない自分の足が目の前に上がっている。富山先生は懸命な形相で足の付根に止血を施しているようだ。これだけ人に触られ、力任せに扱われているにも関らず、まったく何も感じない。何とも不思議な麻酔の体験である。
そのあたりからどうも意識が朦朧としていて、断片的にしか記憶がない。麻酔のせいなのか、それ以前の注射のせいなのかは分からないが、うとうとと眠ってしまっていたようだった。
ふと気が付くと首をもたげて見える位置にテレビが置かれていた。画面にはどこかの水中の映像が流れている。水の中をライトが照らし、真っ白な石の上に、白い昆布のようなものが揺れ、その合間を手長エビの触手のような細長い棒が二本動いていた。
「これだ、これだ!」ひげの医者の声が足元で聞こえた。「よしよし間違いない。やはり、半月板ですね」どうやらその声は、僕に話し掛けているようだった。
「見えますよねえ、これが、半月板の切れたところです」
モニターテレビの中、手長エビの触手が白い昆布をクイクイと突ついていた。しかし、それはどうやら自分の膝の中の映像だということに気づいた。真っ白な石は自分の膝の骨、エビの触手は手術用の諌止、白い昆布が問題の半月板だった。“板”と呼ぶほどなので、かまぼこを勝手に想像していたが、ふにゃふにゃとした柔らかい物なのだということを知った。
「どうやら靭帯には損傷がないですねえ」ひげの医者が言った。「それでは、この千切れてしまっている半月板を切除します、よろしいですね?」
「はい」と、朦朧とする中で僕は答えた。いまさら“よろしいですね?”と、聞かれるのも何とも不思議だった。
モニターを覗いていると、新たに鋏のようなものが挿入されてきた。自分の足元を覗くと、ひげの先生と、冨山先生が、二人掛かりで、椅子に座って僕の膝の中を覗いている。何とも奇妙な光景だ。
「そこじゃない!」突然、ひげの先生の大きな声が聞こえた。その声と同時に、モニターの中の鋏がエビの緊急避難のように、さっと視界から消えた。どうやら、冨山先生が切除を担当しているようだ。当初から実に不安な部分であったのだが、どうやらこの若い医者には、あまりこういった手術の経験がないようだった。下手をすると初めてなのかもしれない。そして、どうやらひげの医者は教官役らしい。
「あの、大丈夫でしょうか?」思わず僕は声を掛けた。
二人の医者は、僕の声に同時に顔を上げると、「大丈夫ですよ」とマスクの下で言って、にこりと笑った。
一眠りして気が付くと、病室の自分のベッドに横たわり、左腕には点滴の液が繋がっていた。取り敢えずすべての作業が終了したようだと気付き、何とも言えない安堵感がこみ上げてきた。
「麻酔はとれましたかぁ?」突然星野さんの声が聞こえた。
僕はなんだかよく分からないながらも、よろよろと体を起こしてみた。すると、上半身だけはひょっこりと起きるのだが、下半身はまったく動かない。何とか動かしてみようと力を入れてみるのだが、がっちりとベッドに繋がってでもいるように、まったく動かす事が出来なかった。そして、自分の体というのがこんなにも重いものだと知って驚いた。
「ぜんぜん動かないです」僕は答えた。
「あれえ、そうですかあ、よく効いてますねえ」星野さんは首をかしげた。
時計を見ると夕方の4時にもなろうとしている。ずいぶんと眠ってしまっていたようだ。
「分かりましたぁ、じゃあ、し瓶を持ってきますね」
「し瓶ですかあ?」
「そうですよお、トイレとか無理して動かないでくださいねえ、言ってもらえればこちらでとりますから」
「はあ」と、僕は曖昧に答えたが、死んでも言わないぞと思った。
「お〜い、これ違うんじゃねえかあ?」
突然、隣のベッドの初山さんの声がカーテン越しに聞こえた。星野さんはハッと表情を変え、声のする方に走っていった。
「ああ、ごめんなさい、これ山下さんのだぁ!」星野さんの声が聞こえた。
「おおい!大丈夫かよう、少し入っちゃったよう」初山さんが言った。どうやら星野さんは、向かいのベッドの山下君の点滴と、初山さんのを取り違えてセットしてしまったようだった。
「本当にごめんなさい。でも、大丈夫ですよ、少しだから」
「ほんとかよう〜」ニコニコと言ってのける星野さんに、初山さんもそれ以上言葉が続かないようだった。僕はおかしくなって笑ってしまったが、ハッと気付き、慌てて起き上がって自分の点滴を確認した。ラベルには難しいカタカナの名前の下に“抗生剤”となっていたので、多分大丈夫だろうと思った。
救急の受付もしているこの病院では、夜になるとひっきりなしに救急車のサイレンが聞こえていた。その日の夜も、窓の外からサイレンの音が小さく聞こえ、その音はやがて大きくなると、この病院の前でピタリと止まった。すると、隣のベッドの初山さんが「もうけやがんなあ〜」と、カーテン越しに独り言のように呟いた。まんざら呆けたおじさんでもないんだなあと僕は思った。
それにしても、下半身の麻酔はいっこうに解ける気配がなかった。やって来た看護婦さんは代わる代わる首を捻っては「おかしいですねえ」と言う。一定の形で足が“置いてある”ので、下になってる部分がうっ血して、やたらと足が痺れてしまい、その度に看護婦さんには向きを変えてもらったり、軽いマッサージをしてもらったりした。そんな様子を見て磯貝さんは楽しそうに「そのまま一生麻酔が解けないこともあるんだよ」と言った。
手術の時、麻酔医のマチャアキが、人の体を見て“デカイから、多めに入れておこう”と、適当に入れた麻酔薬が、必要以上にに効きすぎているに違いない。今度どこかであったら、絶対にぶっ飛ばしてやると僕は心に誓った。
夜中の12時も回った頃、我慢に我慢を重ねていた尿意がいよいよ限界に近づいてきた。ベッドの横には星野さんが括り付けていった尿瓶が置いてある。出来ればこれだけは使いたくないと思っていたが、やはり背に腹は代えられない。相変わらず下半身はまったく動かない。動かないということは感覚がないということで、自分の体でありながら“放出口”がどこにあるのか見当も付かない。いずれにしても仰向けのままでは事に及べないので、横向きになろうと試してみた。上半身は当然ながら簡単に横を向くが、下半身だけが付いてこない。まず左足を手で持ち上げ右足の上に交差させる。何でこんなに足というのは重いのだろうかと思う。普段自分の体が考えもせず動かしているパーツ。しかし、これを腕の力だけで動かそうとするとこんなにも重いのかと思い知らされながら、バレリーナのようなポーズのまま何とか無事に事を成し遂げることが出来た。
明くる日の朝も窓の外には相変わらず夏の青空が広がっていたが、病室の中はいつも通り空調に制御されひんやりとした空気で満たされている。いつの間にか実は外もそんなに暑くないんじゃないかとさえ思うようになってしまっていた。
「気分はどう」磯貝さんが聞いてきた。
「おかげさまで、足の痛みも全然ないんですよ」
目覚めてみると、下半身の麻酔も何事もなかったかのように無事に解けていた。膝には幾重にも包帯が巻かれているが、それ以外は別段普段の朝と変わらず、麻酔が解けるとやっぱ痛いのかなあと心配していた傷口にも、何ら傷みも感じなかった。
「傷口が小さくて、組織にほとんど傷つけてないんでしょうね」磯貝さんが言った。
「はあ、そういうもんですか」
「ところで、いろいろお世話になりましたけど、今日退院するんで」
「ああ、そうでしたよね」
実際のところ、この部屋に入院している四人の中で最後の手術をしたのは僕だった。他の人達は、全員術後の経過待ちで、二、三日中の間には三人とも退院する予定であるらしい。たかが数日でも同じ部屋で寝起きをした仲、このまま「さようなら」となるかと思うと、僕はなんとなく寂しい気分になった。
「“じいさん”も、明日退院のようだけど、またすぐ入院らしいよ」
磯貝さんの言う“じいさん”というのは初山さんのことで、ちょうど煙草を吸いにでも出ているようだった。
「何か、次は目を看てもらうって言ってましたねえ」
磯貝さんは小さく笑うと、「入れるだけ入ってるのさ」と、言った。僕が意味の分からない顔でいると、「じいさんタクシーの運ちゃんなんだよ、ああいう仕事をしてる人はね、一度入ったらもう出ないよ」
「はあ」と、答える僕に「三食昼寝付き、外を走り回ってるのに比べたら、天国だからねえ、ここは」と磯貝さんは言った。
昼過ぎに星野さんが4,50代に見える二人組の男性を病室へ案内してきた。
「初山さん、お見舞いの方ですよ」そう星野さんは言った。
別に見舞いの人を看護婦さんがいちいち案内して来る訳ではないのだが、ついでにこちらに来る用でもあったのだろう。
病室の日中というのはことのほか見舞いの人達で賑わっていた。物見遊山の友人達や、家族などがそれぞれの人達の所へ入れ替わり立ち代わりやって来ていたのだ。しかし、僕が入院して以来、この病室の中で初山さんの所へ訪れる人だけが誰もいなかった。
「珍しいですねえ」星野さんが僕に体温計を渡しながら、小さな声で言った。
「おおっ、元気そうだね」隣のベッドの初山さんの顔を見て、二人の内一人の男性が言った。
「ああ!お久しぶりです」初山さんは嬉しそうな声を上げた。
「ちょうど今日で退院なんですよ」初山さんは、ずいぶんと速い動作で布団を剥いで起きあがると、二人の座る場所を作るべく立て掛けてある椅子に手を伸ばした。
先に入って来た男性が、果物の入ったカゴを初山さんに手渡した。そして、初山さんがそのカゴを受け取るやいなや「それじゃあ、元気で」と言い、何の話もせずその二人は初山さんに背を向け歩き出してしまった。
初山さんは、「あああっ」と、言葉にならずに追いすがったが、二人は一度も振り向きもせずそのまま病室を出て行ってしまった。
その様子を見ていた星野さんが、僕の横でブッと、吹き出した。僕はいったいどういう知り合いの人達なんだろうかと考え、何とも可哀相な人だなあと初山さんのことを思ったが、つい一緒になって笑ってしまった。
膝にはまったく痛みがないのだから歩くのにも何ら支障もなく、翌日から普段通りの生活が出来た。傷は膝小僧の下に一センチ程度の切り口が二つあり、傷口からは縫い合わせた糸の端が抜糸用にピョンピョンと飛び出していた。
リハビリという名前のトレーニングもすぐに始まった。階下にあるトレーニングルームでトレーナーに指示される通り、足に重りを付けたウエイトトレーニングが日課となった。一日も早くバドミントンに復帰したい僕には、なんとも至れり尽くせりだった。
手術後は何事もなく順調に日々が過ぎていった。朝早く起きる事などご免だと思っていた入院の日々であるが、実際何のストレスも受けない平穏な生活を続けていると、短い睡眠時間で早朝に起きる生活のリズムが何とも快適になってくる。無人島で生活をしていると、夜は早く眠くなり、早朝に自然と目が覚めるというのを聞いたことがあったが、まさにそんなパターンにはまったようだった。
そして、いよいよ僕にも退院の日がやってきた。たかが数日間とはいえ、日々を過ごした病院には、今となっては去りがたい愛着を感じたりしていた。
その日、磯貝さんのいたベッドに新しい患者がやって来た。その人は二十歳くらいの学生風の男性で、それがいったい何の意味があるのか頭には赤いバンダナを巻き、ぴったりとした黒のジーパンを履いていた。彼は部屋に入って来て自分のベッドを見つけると、おもむろにベッドに腰掛け、やがて僕の視線に気付いたのか、今初めて気付いたとばかりにぺこりと頭を下げた。そして、肩から担いでいたバッグを降ろすと、中の荷物を広げ出した。
ほどなく身の回りの整理が終わると、彼は手持ち無沙汰の様子で何やらテレビをいじり始めた。
「ああっ、それは、下の売店でカードを買ってこないと見れませんよ」僕は入院の先輩として、彼にアドバイスを送った。
「はあ」彼は少しだけ肩をすくめて答えた。
「どこが悪いんですか?」僕はやんわりと聞いてみた。
すると彼はどこか気恥ずかしそうに「膝の半月板を、ちょっと」と言い、初めてニコリと笑った。
(完)