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壮絶なる半月板除去手術の記録
~全然こわくないですよ

第一部 大いなる負傷編


 「手術をしないと、駄目ですね」

 その医者は、まるで同僚に“今日の朝飯は納豆だったよ”とでも言うように、屈託なくそう言い放った。そして、おもむろに机に向き直ると、デスクトップの画面に向かってキーボードで何やらパタパタと打ち込み始めた。

 まだ若く、見方によっては二十代にも見えるその整形外科医の横顔は、元々の人好きのする表情からか、にっこりと笑っているように見えた。

 “手術”という事態がどうやら自分に訪れたらしい突然のショックと、一度に山のように沸き上がってくるめくるめく疑問とで、自分の首の位置がうまく座らないような感覚を僕は覚えた。あなたの怪我は手術をしなければ治らないと聞かされた時、「ああ、そうですか、よろしくお願いします」と、何の動揺もなく受け入れられる人はあまりいないと思う。そして、自分の中に膨れ上がってくる途方もない疑問の数々は、いったいこちらから問い掛けて答えを得る類いの物なのか、それとも、医者の方から、彼らにとっては日常的ごくありふれた手順で説明を受けられるものなのか分からず、僕はただモニターを見詰める血色の良い若い医者の横顔を食い入るように見ていた。

 もう今となっては遠い昔と呼べるような高校生時代、僕の所属していたバドミントン部は、何の因果かその地方では結構強いことで有名な学校であった。

 インターハイへ出場するなどもはや当たり前で、鬼のような顔でいつも怒っているのコーチの口癖は「長い時間シャトルを打っていた奴が強いのだ!」であり、365日、正月さえも体育館に集まって練習するような、今から思えば少し“いかれている”としか思えない集団であったのだ。

 高校時代というのは1980年代前半の話で、その頃の練習といえばまだまだ旧然とした練習方法がいたる所健在であり、根性論を振り回した考え方から脱皮し切れないような時代だった。それは例えば「水は飲むな」であったり、「うさぎ跳び」であり、「足を伸ばしたままの腹筋」であり、「休養は毒」といった認識だった。

 そして、その結果として、当然ながら生徒達には落伍者が続発、膝の故障や腰の痛みを訴え練習続行が不可能となる者、退部していく者などが後を絶たなかった。しかし、部の中では、そんな怪我を乗り越えられてこそ一人前であるなどと更に追い討ちを掛けるような考え方さえはびこり、オーバーワークによる“つけ”だと冷静に考えられるような人間は皆無であったのだ。

 そんな劣悪と呼べる環境の中、不思議なことに、当時僕自身は怪我とは全く縁が無かった。

 月に一度くらいのペースで行われていた合宿などは、その激しいトレーニングと不十分な休養のせいで、紛れもなく怪我人養成所と化していたにも関わらず、そんな中でさえも、なぜが僕の場合、不具合といえば声の出し過ぎで枯れてしまった喉くらいなもので、体はいたって丈夫そのものだったのである。

 腰や膝が痛くて接骨院へ行ったなどと仲間から聞くと、“一体接骨院とはどんな所なのだろうか”と思いを馳せ、“一度行ってみたいなあ”などと思い描いてみる程だったのだ。

 怪我人による落伍者が続発している環境の中でも、「今日は怪我人が多いから、練習は軽く」などという事など”いかれた集団”の中では当然有り得なかった。欠落者が出て少数となった集団にも、相変わらず同じだけの練習メニューが割り当てられ、一人当たりに配分される練習は必然的に濃密になっていった。そして、そんな中、いつ終わるとも知れないフットワークをやらされたり、“羽根など付いていない”シャトルで、延々とノックを受けさせられたりしながら、コートの脇で腹筋かなんかやってる怪我人を横目で見ては、“あっちは、なんて楽なんだろう”と思わずにはいられず、そんな思いはいつしか“なんで、俺だけがこんな苦しい思いを”との被害妄想へと取って代っていった。そして、いつしか痛くもない足や腰を擦りながら「もう、膝が駄目っす」などと迫真の演技をし、サポーターなどの小道具を用意してまで、コート脇の腹筋組となる事がいつの日か僕の練習の常となっていったのだった。

 つまるところ、「高校時代に激しい部活動の中、わざわざ怪我人の演技をする程そんな状態を切望していたにも係らず、僕は一向に怪我らしい怪我をしたことがなかった」のである。

 

 それから十年あまりが経った。

 すっかり忘れていたバドミントンという競技であったが、何の因果か僕は再びラケットを握ることとなった。ふとした偶然みたいなもので再び始めたこの競技、若かりし頃に地獄としか考えられなかった事が、まったく別物のユートピアとして僕の前に現れたのである。人からあれこれ指図される事もなく、嫌なトレーニングなども強要されない。坊主頭になる必要もないし、好きな時に好きなだけ好きな飲み物が飲める。

 “どうしてこの競技は、こんなに楽しいのだろう”

 こうして、明けても暮れても仕事そっちのけでこの競技にのめり込み、今日はどこどこの練習場、明日はどこどこの体育館と、ただひたすらバドミントンに没頭しまくる日々が突如始まった。高校時代のあの頃、いかにして練習をサボるかにひたすら心血を注ぎ苦心惨澹していた悪知恵が、レベルアップのために自らトレーニングを課したり、暇さえあればコートの中での戦略を練ったりするという、180度転換された、まともな思考回路へと向かい出したのである。

 競技を再開し、「モンキー状態」に陥り、日々を過ごしていた僕は、ある時ある重要なことに気づくこととなった。

 それは、あの若かりし日、一日寝れば再びパワーアップするようなエネルギーに溢れた体は、もう既に自分の中を通り過ぎてしまっていた事だった。そして、10年あまりもの間、運動らしい運動もしないで、「食っちゃ寝」していた体には、確実にツケが回って来ていたのだ。

 そして、そんなある日に、突然にその怪我が訪れたのである。

 いつもの練習場所で何気ない基礎練習の最中、どんな動きをしたのかも自分でも分からないその瞬間、左足の内側に鈍い痛みが走った。その痛みを例えてみれば、まるで膝の内側に太い針金を差し込まれたような痛さだった。最初は、“まあ、なんかちょっと捻ったくらいだろう”と思った。“僕に限って怪我などする訳ないのだから”と・・・

 翌朝目覚めた時、膝にはもはや曲げることも出来ないほど傷みが走り、患部を触ってみるとそこにはぶよぶよとした大きな水脹れのような物が出来ていた。否応なく、自分の体に何らかの異変が起こった事に気づかされ、この怪我はいったいどういった種類で、どの程度のものなのかとたまらなく不安になり、何よりも、どうやらしばらくバドミントンが出来そうにないと知り、例えようもない絶望感に襲われた。

 近くの総合病院の整形外科まで出掛けて診察してもらったところ、内側側副靭帯断烈と診断された。この「靭帯」というのは、骨と骨、骨格と骨格とを結ぶ言わばワイヤーロープみたいな物であるらしい。骨と骨の間には必ず存在する物であるから、体中いたる所にこの「靭帯」は存在し、損傷した場合には、一般的には捻挫といった呼び方になるようだ。足首の靭帯損傷であれば、足首の捻挫、膝の場合には膝の捻挫ということである。

 物々しい病名を聞いた時には一瞬冷や汗が流れたが、結局の所は軽度の捻挫だと分かりほっとした。ただ、医者としては絶対大丈夫とは言いきれないので“念のため”MRIによるレントゲン撮影をやっておきましょうということになった。そして、その結果は後日という事で、その日は極太の注射器一本分膝に溜まった“水”を抜き、湿布を貰っただけで帰宅した。

 それから二、三日は、痛みが激しく歩くのさえままならなかった。それでも、日が経つに連れ痛みは薄れ、一週間も経つと普段通りに歩けるようにまでになった。しかし、日常での何気ない歩行中に、自分でもどう捻ったのか分からないふとした瞬間、膝の奥で何かが“捩れている”ような感覚になる事があった。それは痛みというよりも、膝の内部で何かが絡まっているような感覚で、「これはちょっとやばいなあ」という嫌な予感が胸の奥にはあった。

 「半月板が切れてるようですね」

 その若い整形外科医は、MRIで撮影したレントゲンの解析図を見ながら言った。

 “半月板?”

 “切れてる?!”

 その言葉を受け、取り敢えず靭帯の損傷以外に、何か別のものが切れているらしい事が分かった。

 半月板などと言われても、正確なところなんなのかよく分からなかったが、おそらく三日月型をした“かまぼこ”のような物が膝の中にあるのだろうと勝手に想像した。なぜ“かまぼこ”だと思ったのかは定かではない。

 「そ、それは、自然に繋がるのですか?」

 本来はそんな事を聞く以前に、膨大な数の疑問もあったのだが、動揺を押さえようと懸命になりながら、わずかな光明を探るべく僕はそう言ってみた。しかし、実際は嫌な予感がずばり当たったことに疑いの余地もないことには気づいていた。

 「自然には、繋がらないですよ」担当の医者は笑いながら言った。そして、「一度中を見てみないと駄目ですねえ」と、付け加えたのであった。

 「な、中を見るんですか?」

 「そうです、手術をしないと駄目ですね」

 “MRIは念のためにって言ったじゃないか!”八つ当たりの言葉を胸の内で吐きながら、ノー天気に笑顔を浮かべているようにさえ見えるその若い医者を、僕は上目遣いにただじっと見つめていた。

 

 「入院のしおり」にしたがって、歯ブラシや寝巻き、下着などをスポーツバッグに詰め込み、指定された日、その時間に品川にあるその総合病院へ向かった。

 JRの品川の駅を降り、巨大ホテルに挟まれた緩やかな坂を登ると、小高い丘の上にその病院はあった。全11階建てで“ガウディーの塔”のようにそそり立つ建物は、新築したばかりでまだ新しく、隣の敷地では別館にあたる棟がまだ工事の真っ最中だった。

 8月、燦々と照り付ける太陽の下、普段の休日なら間違いなく水着を抱えて海かプールへでも向かうような日、スポーツバッグにぎっしりと詰めた荷物を背負って僕は汗だくになって坂道を歩いていた。これから手術を受けるという膝には、普通に歩いていたので何ら違和感もなく、本当にこのまま引き返して、プールにでも行こうかと思わずにいられなかった。

 この入院の期間は順調にいけば2週間と言われていた。順調に行かない場合もあるらしい。しかし、特にその事は考えない事にした。

 病棟の入口から足を踏み入れると、右手に「入院受付」と明示された部屋を見つけた。「すいません」と、声を掛けながらその部屋に入ってみた。四畳半くらいの広さの部屋の中には、僕と同じように大きな荷物を持参している人達が何人かいた。そして、その人達に共通している事は、みな身内に付き添われていて、本人は自力で立つことも難しそうなほど疲弊し、椅子に座ってどこか虚ろな目をしている事だった。少なくとも、僕のように顔を汗で“てからせ”、元気いっぱい自力で坂道を登り、ああだこうだ関係ない事を考えながらこの場にきた人はいないように思えた。そして、正直なんとも場違いな雰囲気を感じずにはいられなかった。



 事務服を着た係の人に、あらかじめ書いてくるように言われていた書類を提出した。それは、今回の手術にあたっての承諾書であり、保証人によるサインまでも必要なかなり仰々しい内容のものだった。その中身を簡単に言えば、「医師の診断を了解した」とか、「切っても良い」とか、「失敗しても文句を言わない」とか、何重にもわたって「失敗するリスクがある事に同意する」ことを、くり返し確認された書類だった。

 今回僕が受ける手術の内容は、医者の言った説明をそのまま聞けば、実に簡単そうなものだった。

 膝小僧の少し下、左右それぞれに一センチ程度の切り込みを入れる。その穴から液体を膝の内部に注入して膨らませ、片方の穴からライトとモニターを入れ膝の中を「検査する」。検査するというのは、実際のところ覗いてみないと分からないということであり、診断の通り半月版が切れている“だけ”であれば、諌止とメスを入れて、モニターを見ながら切れてしまった半月板を取り除く。もし、それ以外の疾患が発見されたならば、要相談というものであった。

 こんなふうに一連の流れを説明したときの医者は、まるで耳掃除をするような物だと言わんばかりに簡単に言い放ったが、それでも本人にしてみれば、体の一部を切られて内部に何かを突っ込まれるわけで、決して気持ち良いものではなかった。まあ、それでも、あまりリスクらしいものもないと思える手術にしては、提出するように言われた書類はずいぶんと大袈裟で、形式的な内容だなあとは思った。

 

 

第二部へつづく)

K's Room

東京大田区バドミントンサークル



 

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