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K's Room Odds & Ends

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22才の夏は、終わりなき疾走の日々だった

第二章 終わりなき疾走


 埼玉県の新座市で、イラン人の“アラート”さんから車を受けとり、順調に車を走らせ都内の環状八号線へと入った。

 車内では、渋滞の情報を告げる女性の声が、ラジオから流れていた。

“練馬区谷原の交差点で1キロの渋滞”

 谷原の交差点といえば、環八の中いくつかある難所の中の一つである。まあ、1キロ程度の渋滞なら全然マシな方だろう、僕はそう思った。

 

 エンジンルームからはバスバスという音が相も変わらず響いていたが、それでも快晴の空の下、窓を全開にして三車線の環状八号線を“くすんだ”カローラ号は順調に走って行った。初夏の日、風を受けて走るこんな時が、このアルバイトの醍醐味だなあなどと、僕はのん気に考えていた。

 しかし、やがて快適だった道路には、ラジオの女性が言っていた通りに、忽然と渋滞の車の列が発生していた。やがてやってくるとは分かっていながらも、いざ現実になってみるとやっぱり本当だったと思い知らされる、それはまるで、予防注射の順番が回ってきてしまった瞬間のようだった。

 最後尾に止まっていたトラックの後ろに車を着け、車を停止させた。そっとバックミラーを除いてみる。あっという間にそのミラーいっぱい、三車線にびっしりと車が連なり、僕は否応なくその渋滞の真っ只中へと吸収されていた。

 こうして渋滞にはまった以上仕方がない、焦らず騒がず、歌でも唄いながらこの場を切り抜けようと僕は思った。

 

 さっきまでは快適だった車内も、高く昇った陽の下で、異様なほど車内の温度が上がっていた。全身から汗が容赦なく吹き出し、全開に開けた車の窓からは、他の車の廃棄ガスが流れ込み、一度に最悪の環境へと激変してしまった。こうなると、すいすいと横を抜けていくバイクや、犬を散歩させながらも歩いて進んでいる人の方が全然ましだと思った。

 のろのろと歩腹前進を続ける渋滞の列にもまれながらも、それでもやがて車は谷原の交差点の数10メートル手前まで接近していった。

 “後一息だ”

 やがて信号機が目に入った。僕は谷原の交差点で、環八をバイパスする近道に入ろうと考えていたので、中央の車線からあらかじめ右折車線へと移動した。

 対抗側の直進車をやり過ごし、赤に変わった直後に点灯する右矢印のわずかな時間に、前に並んでいる車が次々と右折して行く。しかし、その間に一度に進める車はせいぜい5、6台程度。もうすぐそこまで信号機が迫っているのに、右折車線の列はなかなか進んでいかなかった。

 それでも徐々に目の前の列は解消され、「次で行けるだろう」、僕はそう見当をつけた。

 直進の信号が赤に変わる。同時に右折を促す緑の矢印。

 一台目、二台目、三台目・・・、やがて僕の車の番となった。サイドブレーキを解き、ギアをローへ。ハンクラから車を発進させようとしたその瞬間だった。突然「バーン」という、まるで巨大な風船でも爆発したような乾いた音が辺りに響いた。そして、それと同時に、目の前が真っ暗になり、急に車のエンジン音が止んだ。

 「一体、何が起きたんだ??」

 僕はひたすら状況を把握しようと頭を巡らせては見たが、ただただ唖然とするばかりだった。

 余りにも突然の出来事に心臓がバクバクと高鳴るのが分かった。

 瞬間、僕に分かった事と言えば、車のエンジンが止まったこと。そして、ボンネットが突然めくれ上がり、フロントガラスを一杯に塞いだという事だけだった。

 「ま、まずい」

 取り敢えず、反射的にサイドブレーキだけは引いた。エンジンをもう一度掛けようかとも思ったが、ボンネットがめくれ上がったまま、車が走って行く姿というのはどうかと考え、それはなんとか思い止まった。

 恐る恐るバックミラーを覗いて見た。後ろの軽自動車のおばさんが、目をまん丸に見開いているのが分かった。目を助手席のほうへ転じると、左に並んでいる乗用車のおじさんも、唖然とした顔で、ボンネットの向こう、運転席からは見えないご開帳となったエンジンルームに視線を送っている。

 「うぐぐ」

 全身から汗が一斉に吹き出る中、しかし、もうこれは開き直るしかない。すかさず僕はそう思った。そして、取り敢えず運転席から外に出て、エンジンルームを覗いてみようそう考えた。

 環八のど真ん中に立つ経験というのも、そうあるものではない。実際外に立ってみると、何だか少し誇らしい気分になった。開き直るというのは、実にすがすがしい物なんだなあと僕は呑気に考えたりした。

 ずらりと車線一杯に並んだ車の先頭に人間が一人立っているのである、僕は自分のことでありながらも、何だかおかしさがこみ上げてきていた。 

 まあ、しかしいつまでもそんなことに感心してもいられないので、取り敢えず車の前に回り込んでみた。すると、なんとエンジンルームからは白い煙がもうもうと立ち上っていたのだ。 

 何度も言うように、僕はメカの事など何一つ分からない。一体何が起こったのか?そんな事を考えてみてもぜんぜん埒があかない。どうしようかとも思ったが、取り敢えずそのままボンネットを閉め、運転席へと戻ることにした。

 

 再びエンジンを掛けるのは、さすがに恐ろしかったので、取り敢えずハザードランプを付け、さあどうしたものかと、腕組みをして考えた。

 三車線だった道が、故障車のために突然二車線になり、信号機の手前、車線の先頭で車が潰れてしまったのだから、これ以上悲惨な状態はないはずである。知らずに三車線目に並んだ車が、車線を変えるために割り込まねばならず、どう考えても更に渋滞は悪化している様子だった。 

 しかし、この最悪の状態の中興味深かったのは、通り過ぎる車が皆一様に不思議そうな表情で運転席を覗きこんで行くのだが、嫌悪感を丸出しにしてクラクションを鳴らしたり、文句を言うような輩が一人もいなかった事だった。大交差点の手前でハザードランプを出している車と、情けない顔で運転席に座っている学生風の若造を見ては、皆さすがに同情せざるをえなかったようだ。

 いずれにしても、このままこうしてただ道の真中にじっとしているわけにもいかないので、取り敢えず車を降り、辺りに公衆電話を探すことにした。

 

 大場さんに電話を掛け、この一通りの出来事を告げた。

 大場さんは、「なに!?」と一言だけ発すると、その後絶句した。

 余りにもそのときの空白の時間が長かったので、僕は一瞬この人は心臓発作でも起こして死んでしまったのではないかと思った。

 「もしもし」と、僕は恐る恐る声をかけた。

 すると大場さんは、「な、何とか、脇に寄せられないか」と、我に返った様子で言った。

 “脇に寄せる?”

 どうやってそんな事をするんですか?と聞く僕に、窓の外からハンドルを握って車を押し、後は車が動き出しさせすれば、そのまま押して寄せられるはずだ、と大場さんは言うのである。

 本当にそんなことで、車が動くのですか?と驚いて聞く僕に、大丈夫、自分も前にやった事があるから、と今度は妙に落ち着いた声で言った。

 

 

 電話を掛け終え、環八沿いの歩道から、さっきまで自分の運転していた白煙の吹き上がる車を眺めたとき、その車に再び戻ろうと思うのには相当な決心が必要だった。

 それでも再び環八のど真ん中へと戻り、大場さんに言われた通り車を動かしてみることにした。

 自分でもやった事があるというのは、かなり疑わしかったが、大場さん指示の通り、サイドギアを外して、運転席の窓からハンドルを握り、赤信号のタイミングを見計らって、思い切って車を押してみた。

 思った以上に簡単に車は動いた。

 自分で実際に車を動かしながら、こうやって車を動かす事が出来る事を知りびっくりした。 

 止まりたいところで止められるように、余り力を入れ過ぎてスピードを出しさえしなければ、特に問題はなかった。ただ、信号待ちしている最前列の人達は、目の前の横断歩道を横切って、“人に押されて”運ばれていく車を見て、唖然とした顔をしていた。

 車線の真中から、交差点の角まで車は動いた。この位置では左折車が通りすぎる際スピードを落とさなければならなかった。それでも、まあ、道のど真ん中に止まっているよりはマシだろうと僕は思った。

 後は、事務所の方で処理をしてくれるとのことだったので、僕は一目散にその場を後にした。

 

 だいぶ後で知った事だが、あの時車を僕に引き渡したイラン人は、ラジエターの水が漏れているので、途中で給水しながら行ってくれと僕に訴えていたらしかった。

 ラジエターの壊れているような車を運ばせるなんてと、僕は少し憤慨したが、それにしても、そんなボロ車をわざわざ運ぶ理由っていったい何だろうかと不思議に思った。

 

 その日の仕事は、そんなこんなでおじゃんになってしまった。日々の生活をバイトで食いつないでいる貧乏学生である。あてにしていた金が入らないとなっては、こんな事でめげている訳にもいかなかった。気を取り直して、別の車を運ぶ仕事を急遽割り当ててもらった。

 その日、世田谷から千葉へと中古車を運ぶ二度目の仕事の最中、車内のラジオでは、甲高く早口で喋る女性が都内の交通情報を告げていた。

 “環状八号線、練馬区谷原の交差点、故障車の影響が重なり、内回りで10キロの渋滞です”

 思わず運転席で赤面してしまった僕であったが、あの車は一体どうなるんだろうかと考え、必至に伝わらない言葉で車の異常を僕に訴え続けていたあのイラン人が、何やら気の毒にもなった。

 

 

 日々乗りこなして行く「陸送」のバイトの中で、とにかく頭を悩ませたのが、燃料のことだった。

 渡された車に、充分なガソリンが入っていることなど滅多にない。大抵の場合が、“E”のラインの周辺でメモリがウロウロしていて、目的地に着くまで持つのかどうかの見極めがすごく難しかった。

 補給しなければならない場合、ガソリン代は実費というのが、この仕事のルールである。自分にとって一回こっきり運んでしまえば、もう二度と乗る事はない車に、出来る事なら実費でガソリンなど入れたくなかった。

 新車の「クラウン」を渡された時に、どう考えてもこのままでは目的地に着かないという事があった。

 目的地まで、もう後わずか数十キロと行った所ではあったが、このまま走って行けば絶対にガス欠になる。泣く泣く近くのガソリンスタンドに車を入れた訳だが、こうしてガソリンを入れる時に、ちょっとした恥ずかしい思いをしなければならなかった。

 新車の新型の「クラウン」が、ガソリンスタンドに入ってくるわけである。当時「クラウン」といえば、トヨタが出している大衆車の中では最高のグレード、スタンドの人にしてみれば、「それなりの人」が乗っていて、それなりのお金を落として行ってくれると思っても不思議はない。

 逆に僕にしてみれば、後わずか、目的地へ辿り着くだけのガソリンが入ればいいわけだから、「3リットル」などと、何気なく言って(本当は、2リットルでも良かったのだが、3リットルのほうが少しは聞こえがいいかなと思って言っている)、ガソリンを入れてもらう。

 すると、相手にしてみれば、新型の「クラウン」に3リットルなどとは聞き間違いではないかと考え、「はあ?」などと聞き返してくる。その度に僕は、鼻息荒く逆切れして、「3リットルお願いします!!」などと僕は言い放っていたのであった。

 

 ある日、「足立区の○×オートで、車を受け取って、群馬県渋川市の△□オート迄届けてくれ」と、大場さんに言われた。

 群馬県の渋川市といえば有に100キロ以上はある。ずいぶん遠いですねえという僕に、それなりにお金は良いんだよ、と大場さんは言った。

 大場さんの言う金額は、悪くなかった。取り敢えず、日々の目標としていた金額の二日分はあったので、ちょっと考えた後、僕はその仕事を二つ返事で引き受けた。

 

 足立区の○×オートは、どこにでもあるような町中の自動車修理工場だった。大渋滞の環状七号線に面していて、トタンを打ち付けた作りの工場は、壁がすすでびっしりと汚れていた。

 太陽がぎらぎらと照りつける初夏の日、白いツナギを汗と油で汚したおじさんが、ぶっきらぼうに“これだよ”と指差したのは、“青く塗装を塗り直したばかり”の、軽のトラックだった。

 ぶっきらぼうなおじさんは、どことなく「谷啓」に似ていた。

 車を見た瞬間に、“げげっ、これに乗って渋川まで行くのかあ”と思った。でも、まあ仕方がない。塗装の塗り立てというのが、またメチャカッコ悪かったけれど、取り敢えずこれを運べば、明日はバイトが休めるなどと僕は密かに考えていた。

 

 「これは、ちゃんと走りますか?」と僕は、“谷啓おじさん”に聞いた。

 様々な出来事を経験して来た僕は、この頃には、こういったことを聞く些細な知恵も備わってきていたのだ。

 おじさんは、一体何が言いたいんだという顔で僕を睨み付けた。その拗ねたように人を見上げる表情が、ますます谷啓に似ていたので、僕は無償におかしくなってしまった。

 すると、谷啓は、何ニヤニヤしてんだとでも言いたげに、「修理したてだよ!」と、ことさらぶっきらぼうに言い放った。

 顔と口は悪かったが、こんなおじさんはきっと腕は良いはずだと、何の根拠もなくその時の僕は思った。そして、おじさんに伝票にサインをもらい、青い軽トラに乗り込み、一路群馬県へと向かうべく、渋滞の環七の流れの中へ車を滑り込ませた。

 

 笹目橋を渡り、新大宮バイパスをひたすら北上していく。ガンガン照りつける太陽の下、エアコンがない車内はまたしても強烈な状態だった。それでも、ラジオが鳴ったので、まあよしとしようと思った。何せ、これさえ運べば明日は休みが待っているのだ。

 埼玉県を抜けて国道17号線をひたすら走って行く。関越高速を使えば、渋川などあっという間なのだが、当然高速代など支給されるわけもなく、ひたすらケチケチの運転を僕は繰り返した。

 しかし、群馬県に入る頃には、例によってガソリンが徐々に心細くなってきた。“E”のラインが、もう寸前である。それでも、まあ、車は何せ軽トラ、一般車に比べたら燃費はめちゃ良いはずだ。“何とかもつだろう”何につけ楽観的な僕はそう勝手に高を括った。

 この時、何の根拠もなしに燃料の心配事が消し飛んだ僕の中で、いつもの悪い癖の遊び心がムラムラと沸き起こってきた。

 “渋川といえば「伊香保温泉」だなあ”絶えず一石二鳥をと欲張る自分の正確が、なぜかそんな発想を頭の中に導き出していた。

 「伊香保温泉」は、子供の頃に家族旅行で行った思い出の場所であった。街の中央には長い石段の坂があり、その坂の周りには、びっしりと土産物屋が並ぶ温泉街の風情。そして、たしかその中には点々といくつもの共同浴場があったはず。そんな事を考えていたら“渡りに船”「左5キロ伊香保温泉街」なる看板を見つけてしまった。

 このくそ暑い軽トラの中で、大汗を掻いてしまった体は不快だし、この車も陽のあるうちに届ければ良い。ひとっ風呂浴びてからでも充分間に合うだろうなどと、僕は看板に促されるままにハンドルを切っていたのであった。

 

第三章へ続く)

K's Room

東京大田区バドミントンサークル



 

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