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K's Room Odds & Ends

ストーリーズStories

南遊記 〜僕と奥様の珍道中

活動報告写真1999年、ミレニアム目前のハワイマウイ島旅行記

第一部 到着編


 1999年12月12日(日)、すっかりと日の暮れた夕方の成田空港に僕と奥様は到着した。チマタでは、ミレニアムが目前だとか、2000年問題が何だとかで盛り上がっていた、そんな時期だった。それにしても、こんな季節のこんな時間、これから向かおうとしている日本人にとってもっともメジャーな“常夏”の観光地に、僕はなんとも現実感を感じられないままでいた。ハワイ諸島の一つマウイ島に、五泊七日の滞在、それが今回の僕らのツアーの内容だった。
 
 今年の暖冬の影響で、ダウンジャケットを着こむような服装だけは何とか逃れられた。比較的軽装のまま京成電鉄で成田空港までやってきた僕らは、エスカレーターで出発ロビーへと上がり、スーツケースを押し、指定されたチェックインカウンター「Fの10―」を探した。今回のツアーを依頼した会社名は、「ワールドウィングツアーズ」。本当に実在する旅行会社なのだろうか?(ワールドウィングツアーズさん、すいません!)まるで他人事のようだが、雑誌を見て、電話でツアーの申し込みを行ない、郵送で日程とチケットの引換券が送られてきたという、旅行会社を信じるにはこれ以上不安な状態はない形で僕らは空港までやって来ていた。

 指定されたFの10番のカウンターはたやすく見つかった。しかし、次々と旅行会社名を流しているそのカウンターの上の電光掲示板の中に、いくら目を凝らしていても「ワールドウィングツアーズ」の「ワ」の字も見当たらなかった。奥様も僕の隣で不安を隠しきれない表情だ。やっぱり事前に旅行会社の事務所くらいはリサーチしておくべきだったのか。「たかがハワイ」とタカをくくり、労を惜しんだ自分の行動を後悔した。   
 
 チェックイン開始に指定された時間が過ぎて行く。いくつも並んでいる旅行会社のカウンタ―を少々焦る気持ちで眺る。11番12番13番…、なんと「ワールドウィングツアーズ」その文字が16番のカウンターの電光掲示板に燦然と輝いていた。10番じゃなかったのか?もう一度手元の指示が書かれた用紙を見てみる。「Fの10―」。最後の10の後の「−」、この棒は何だ?もうちょっと丁寧に指示して欲しい。なんせ僕は海外旅行は2回目、その間ブランク10年のウルトラ初心者なのだ。

 カウンターで荷物を預け、銀行の出張所で現金をドルに両替する。ほっと一息ついて、改めて広いロビーを見渡してみると、この空港の天井がなんとも高いことに気づく。屋内競技を普段やっている者の常で、これだけの高さならバドミントンにも十分だななどと僕は考えていた。
 搭乗開始時間までの少しの間、小腹が減ったので遅そ目の夕食を食べた。それにしても空港の食べ物がめちゃめちゃ高いのはどうしてだろう。
 
 搭乗券に記されているノースウエスト021便、これがハワイ到着までの僕らの命を預けるジャンボジェット機だった。搭乗ゲートを確認して、入国手続きを済ませ機内に乗り込んむ。もうすでに大多数の客が座席に着いていて、ざっと見渡した感じではほぼ満席の状態だった。どうせガラガラだろうなどと思っていたが、意外な展開に慌てながら自分たちの座席を探した。
 くたびれた747の機内はお世辞にも綺麗とは言えず、三人掛けの窓側と、真中の席が僕らに割り当てられていた。僕は本当は窓側に座りたかったが、子供のような事も言えないと思い奥様に窓側の席を譲り、おとなしく真中の席に座った。機内禁煙にもかかわらず、座席の肘掛にある備え付けの灰皿が気になった。
 
 勿体付けたような長いアイドリングの後、やがてゆっくりと機体が動き出した。それからしばらくの間は、まるで路頭に迷っているのかと思うくらいのスピードで、うらぶれた747は空港の中を走っていった。それは、本当にこのパイロットは、滑走路の位置を知っているんだろうかと疑いたくなるようなスピードだった。
 それでもなんとか滑走路に辿り着いたらしい747は、発車寸前のジェットコースターのように一度勿体付けて停止した後、一気に加速、凄い勢いで僕らの体をシートに押し付けてから、瞬間、車輪を滑走路の摩擦から開放した。
 
 やがてシートベルトのサインが解かれ、安定した飛行の体制に入ったようだが、機内の騒音(エンジン音?)と、空気の乾燥はいかんともし難く、ヒリヒリする喉を擦りながら空港でミネラルウォーターを買い忘れてしまったのを僕は悔やんだ。
 離陸してすぐの最初の機内食は"うなぎ"だった。スチュワーデスの白人の女性が達者な日本語で、“ニク”オア“ウナアギ”とチョイスを求めてきたので、僕は興味津々“ウナアギ”を選んだところ、本当に“うなぎの蒲焼”だったので驚いた。
 
 食後はすぐにおやすみの時間で、機内映画に「ワイルドワイルドウェスト」が上映された。ボリューム調整のやたら難しいヘッドフォンと、斜めの位置からはメチャ見づらい画面の位置に苦しみながらも、退屈な時間を忘れる程度には内容を楽しんだ。ただ、時々乱気流で機体が揺れるたび機長のアナウンスがヘッドフォンに割り込み、シートベルトを締めるようにいちいち指示された時には、今自分が飛行機に乗っているんだということを思い出させられた。
 前の席を占拠している、我が物顔の宮崎勉一家(そんな雰囲気の)が、ベッドカバーを後ろに捲り上げたり、食事が終わるやさっさと座席を倒して来たりで、いらいらとさせられたが、そんなこんなで、物珍しさに機内の様子をあれこれと窺ったりしていると、あっという間に現地の気象情報などが告げられ、ハワイはもう間近に迫ってきた。
 10時間くらいのフライトだろうなどと適当に考えていたが、どうやら行きの便はもう少し早く着くようだった。右へ一度大きく旋回し高度を下げた機体から、遥か下に太平洋の細かいうねりが見て取れた。白く小さな波が不規則に現われては消える様を見て、まるで地面にもぐりこもうとしているミミズの集団のようだと僕は思った。やがて機体はオアフ島の上空へと差し掛かった。米軍基地が真っ先に目に入り、「ここがパールハーバーか」などと分かったよう気になった。

 

 

 早朝のオアフ島、ノースウエスト空港のロビーに僕らは到着した。ここハワイでも、今気候は冬にあたり、独特の匂いの中に生暖かい空気を感じるくらいで、ジワッと来るような常夏といった暑さは全然感じられなかった。おまけに空はどんよりとした曇りで、ときおりパラパラと小雨まで舞っている始末だった。
 
 到着のロビーから入国カウンターのある建物まで、一団となってバスで移動する。しかし、その肝心のバスが一向に来る気配がなく、バス乗り場の歩道に現地のおっさんがしかめっ面で突っ立っているだけで、丸々ジャンボジェット一機分の人だかりは、路頭に迷う大集団と化していた。僕と奥様も取り敢えずその集団の中に立っていたが、待てど暮らせどバスはやって来ない。いったいどうなってるんだと、みんながざわめき始めた頃、たらたらと数珠つなぎになった三両編成のバスが、やる気無さそうに到着した。
 バスが到着すると、しかめっ面のおっさんは適当な人数を3両のバスに振り分け始めた。横柄な態度で指示されるまま、全員がバスに乗り込む。まるで一まとめに護送される囚人のようだなと僕は思った。

 なぜかいつも最後に出てくる自分達のスーツケースを、入国ロビーのベルトコンベアから拾い上げた。その後無事に審査も通過し建物の外に出たとき、僕はやっと飛行機の呪縛から逃れられた気分になった。
 しばしの開放感に浸り、次の飛行機の乗り継ぎの場所はどこだろうと、きょろきょろと辺りの様子を窺っていたとき、「ワールドウィングツアーズ」のお兄さんが目ざとく僕らを見つけてきた。こうして名前を呼ばれて確認されたことで、少なくとも旅行会社は僕らの行動を理解しているんだと知り、僕は少しだけ安心した。
 僕らを出迎えてくれた旅行会社のお兄さんは、マウイ島へと向かうために乗り継ぐ飛行機の空港カウンターの場所を教えてくれた。彼が言うにはここからは少々離れているという。飛行機でなまってしまった僕らは、少し遠くまで歩くくらいがちょうど良いと思い、旅行会社のお兄さんに指示された方向へ向けて歩き出した。
 トランクを押して、到着でざわめく日本人ばかりの旅客たちをかわし、頭の上をハイウェイが横切り、ときおりバスや作業車が通る空港の敷地内の歩道を僕らは歩いた。
 程なく「アロハエアー」の搭乗カウンターへと僕らはたどり着いた。何だか旅行会社のお兄さんが言っていたほどは遠くない。歩く距離が少々物足りないななどと思いながらも、建物の中に入り、カウンターに並んでいる列の後ろに並び、搭乗手続きの順番を待った。
 やがて僕らの番となり、受付のおばちゃんにチケットを差し出すと、いきなり「ノー」と言われた。僕はもう一度カウンターの上の文字を見上げた。“ALOHA AIR”何が「ノー」なんだ?チケットを確認してみても、同じ名前の航空会社名が明記されている。不信げな表情の僕の前で、おばちゃんは慣れた手つきで一枚の地図を取り出した。そして、その地図の上に「おまえの行く場所はここなんだよ」と、なぞり書きをしてくれた。
“ALOHA ISLAND AIR”その地図の行き先にはそう記されていた。なんだかわけが分からないけれど、どうやら典型的な大間違いのトラブルに僕らははまったらしい。ごちゃごちゃと英語で書かれた搭乗券を睨み付けながら読み返してみるが、どこにも“ISLAND”なる文字は見つからない。
 
 なんとも腑に落ちないながらも、僕らはいったん建物の外に出て、渡された地図のとおりに歩いた。地図にはとても近そうに記されていたけど、一向にそれらしい建物は見えず、スーツケースを押す僕らは汗だくになりながら歩いた。こんな事になるならば、やはり有名な旅行会社にしておくんだった(ワールドウィングツアーズさん、ごめんなさい!)、またしても後悔の念が目の前をよぎった。
 やがて周りの風景が変わり、なんだか空港の敷地からも外れ、よく観光ブックなどに斜線で示されている“旅行者の行ってはいけない危険な場所!”みたいな雰囲気になってきた。奥様も横で「きっと、こっちじゃないよ」と言い張る。しかし、カウンターのおばさんにもらった地図は、確かにこの方向を示している。とにかく今はおばさんを信じて行くしかない。半分意地になりながらも、僕は奥様に着いて来なさいと男らしく指示をした。
 空港関連の建物もいよいよこれで終わりかと思ったその時、渡り廊下のような歩道の先に、なにやら“平屋の建物”が見えた。いったいあれは何の建物だろうと考えていたその時、その建物の向こうから、農薬散布に向かうような“プロペラ機”が一機、大空へ向けて飛び立っていった。僕はいや〜な予感がした。

 まるで有楽町駅から東京駅に乗り換えるくらいの距離を僕らはを延々と歩き、命からがら辿りついた“ALOHA ISLAND AIR”のロビーは早朝と言う事もあって妙に閑散としていた。カウンターで無事搭乗手続きをすませてから、だだっ広いロビーの椅子に腰掛けて、僕らは搭乗の時間を待った。乗り継ぎの便が出るまでに、まだ一時間以上も時間があった。僕と奥様は時差でボーッとする頭のまま、ロビーの椅子から時々思いついたように着陸してくるプロペラ機や、今にも降り出しそうな曇り空を、ガラス越しに眺めていた。
 後で分かったことだが、“ALOHA ISLAND AIR”は“ALOHA AIR”の前身で、早い話が、近代化に取り残され遠く忘れ去られたご先祖様が、細々と営業を続けているようなもので、結果として残ったこの航空会社は、初めての乗客にとっては、ただただ、紛らわしいだけの存在となっていた。
 
 やがて搭乗券に書かれていたゲートの前に、職員の女性がやってきた。その女性はあたりを見渡すと、おもむろに飛行機が発着する旨のコールを「肉声」で伝えた。その声は驚くほどよく辺りに響き、ロビーにちらほらと点在していた乗客達が、ぞろぞろと、ゲートの前に集まってきた。彼女は集まった乗客に向かって、何か搭乗の合言葉ようなことを言った。すると、何人かの人達がぞろぞろと搭乗口へと進み出した。歩き出さない人達がずいぶんいることが少し不思議だったが、乗り遅れてはたいへんと、あさましい東京人の根性丸出しで、僕らは果敢に搭乗口へ向かった。その時、僕らは職員の女性に呼び止められた。“老人、子供が先だと言ってるだろう!”というようなことだった。

 滑走路では双発のプロペラ機が当たり前のように僕らを待っていた。このプロペラ機に奥様は大ウケだった。農薬散布機に乗ることが、いよいよ現実となった僕は、まるでシャツの袖を捲り上げて注射を打たれる寸前のような気分になっていた。
 昇降口の扉が恐竜の舌のように上から降りてくると、それがそのまま数段足らずのタラップへと早変わりし、列を作った乗客が何食わぬ顔でぞろぞろとタラップを上り出した。そのすぐ横では、プロペラ機の整備をする人達が、まるで観光バスに給油でもするように作業をしていた。
 全員が席に着いたギュウギュウ詰の機内は、30人乗れるか乗れないかといったところで、多分タイガー・ウッズの専用機の方がずっと豪華で大きいだろうと僕は思った。
 機内で待っていたスチュワートは笑みを絶やさず、自分の職務を忠実にまっとうする男で、名前を仮称“スマイリー・ジョージ”といった。年齢にして20代、小太りな体型の“スマイリー・ジョージ”は、最前列のガイドの所定の位置から、最後尾の通路の突き当たりに座った奥様と向かい合う形で立った。
 機が離陸してすぐに“スマイリー・ジョージ”は、“練乳アイス”の入っているようなプラスチックの容器に入ったジュースをおもむろに配り始めた。お盆の上に乗客の人数分のジュースを載せ、前の席から順番に乗客に好きな種類を選ばせながら、彼は機内をゆっくりと歩いた。
 “スマイリー・ジョージ”は数十分足らずの短いフライトの間にも、窓から見える景色を熱心に案内し、皆が退屈しないよう最高のサービスを心掛けていた。観光バス用のマイクで口を覆い、奥様の正面に立ち、空いた手を腰の後ろに回す姿には彼のプライドが感じ取れた。

 カウアイ島、ラナイ島と窓の外に見やりながら、やがて機はウエスト・マウイ・エアポートへ向けて降下し出した。いつ落ちるのかという僕の心配をよそに、僕らを乗せたプロペラ機はあっけないほど順調に空港へと到着した。乗客がどやどやと飛行機を降りる際“スマイリー・ジョージ”は、ハーブキャンディーの籠を手ににっこりと微笑んでいた。
 
 滑走路の“適当なところ”でプロペラ機から降ろされた僕らは、他の飛行機や作業車に轢かれないよう注意しながらとぼとぼと歩いた。待望のマウイ島の地に降り立ってはみたが、どんよりと曇った空、ふく風は強く、やけに肌寒い気候には南国の面影も感じられず、レイの歓迎どころか、あたりに咲いている草花さえ見つからなかった。
 やがて僕らは誰に先導されているのかも分からないまま、掘っ建て小屋のようなところに辿り着いた。小屋の中で、どこか甘ったるい匂いのする風が吹き抜ける中、他の乗客と一塊になって待っていると、やがてトラクターに引かれた藁のように乗客のスーツケースが運ばれてきた。トラクターを運転してきた逞しい体躯のお姉ちゃんは、運転席から飛び降りると、荷台のスーツケースを掘っ建て小屋に造られた縁台みたいな場所にどっかんどっかんと放り投げ出した。
 縁台のこちら側にいる僕は、呆然とそんな様子を見つめていたが、慣れた手つきで自分の荷物を選び出している他の乗客たちを見て、ふと我に返り、急いで自分の荷物を探し始めた。どうやらこの空港では、放り投げられたスーツケースの中から、自分のものをおのおのが勝手に探し出すシステムらしい。そんな様子に奥様は、またまた大ウケで、僕はスーツケースが異様に頑丈に作られている理由を、このとき初めて知った。
 掘っ建て小屋の中で、「ウエスティンマウイ」の送迎の係りの人はすぐに見つかった。スーツケースがどやどやと降ろされている小屋の中で、「ウエスティン!ウエスティン!」と、叫んでいるおばさんがいたからだ。さっきのトラクターを運転していたお姉さんもそうだが、この送迎バスのおばさん運転手もまさに女子プロレスだった。曙や、小錦が育った土地だというのが妙に頷けた。
 
 送迎用のバスの前で、トランクを差し出すと、女子プロのおばさんは僕の倍もあるような腕でトランクを荷台へ運び入れた。その時タグに僕の名前が書いてないのを見て、他の客のと分からなくなるから、いますぐ名前を書いてくれと言った。もっともだと思い、「ソーリー、ソーリー」と言いながら慌ててタグに名前を書きこむ僕に、女子プロのおばさんは豪快に笑いながら、いいんだ、いいんだと、グローブのような手で僕の背中をバカバカ叩いた。
 
 カーラジオを豪快に流しながら運転するおばさんのバスに揺られて、僕らは「ウエスティンマウイ」に到着した。ロビーの前は到着した他の宿泊客や、荷物を扱うポーターでごった返していた。それにしても、ごった返している人間のほとんどが、やはり日本人だった。もう、何回もこの地に足を運んでいる奥様が、この辺りも日本人だらけになってきたのねえと、しみじみと言った。
 女子プロのおばさんは、僕に荷物を渡すときも、何だか理由は分からないが、ガハガハと笑っていた。そんなことはともかくとしても、さて、これからチェックインだと考えていた時、なぜか僕らの名前を呼ぶ声がした。声のした方を振り返ると、怪しげな日本人のおじさんが名簿を片手に、ごったがえす人達の中できょろきょろと辺りを伺っていた。
 
 チェックインの手続きは大丈夫だから、とりあえず自分と一緒に来るようにというのがそのおじさん、仮称“チャーリー田中”の指示だった。ずんぐりむっくりで癖のある髪を7:3に撫で付け、眼鏡の下からのぞく目はどう見ても日本のおやじ族を代表するようなサラリーマンなのに、アロハシャツを着て、顔が日に焼けている様相はなんとも不思議な雰囲気だった。
 旅行会社から渡された行動マニュアルでは、各自が自分でチェックインの手続きを取ることになっているはずなのに、なんだかおかしな展開だ。怪しいところに連れて行かれてしまうんではないかと僕は気を引き締めようと思ったが、長旅の疲れもあり、どうのこうの言うのも面倒なので、この不気味なおじさんの後に素直について行くことにした。 

 

 

第二部へつづく)

K's Room

東京大田区バドミントンサークル



 

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