ライブに拍手喝采があるという
一昔前なら当たり前の事柄で感激するのは、最近のライブがスタジオ録音の代用のように扱われて、感動の拍手までがノイズとしてカットされる風潮に慣らされてしまったせいである。考えてみれば可笑しな風潮である。
演奏内容にも編集で継ぎはぎした形跡は少ないようだ。ドイツ語の専門家によると、どこやら発音のおかしな箇所もあるらしいが、ライブとして恣意的な改竄はなく、もちろん不満も起きない。これも良いリサイタルに対する正しいマナーのようで気持いい。
古い話だが、この曲には、ある日本の若手歌手のリサイタルの思い出がある。何曲目かに来た時、気になるミスがあったらしくて、伴奏を制した彼は
深々とお辞儀をして歌い直すことにした。驚いたのは、その曲の初めではなく、なんと第1曲目の冒頭から延々と歌い直したのである。
部分的な歌い直しでは音楽の流れが途切れること、ここまで築いてきた物語の感動が崩れることを嫌ったのだろう。それまで逡巡していた若者の旅が、目的を見つけて再出発したような熱唱だった。歌い終えた瞬間の観客たちの拍手喝采は、おそらく正常に終えた時よりも数倍の盛り上がりだった。ライブがこんな感動の妙を生み出すことがあるのを知った。
いま、ゲルネのライブ盤を聴いて、ふと
あの日のリサイタルの熱い拍手喝采を思い出した。
例え、製作費削減のためのライブ盤であっても、そこでしか得られない興奮が必ずある。本番やリハーサルの音源を素材扱いして、編集の限りを尽くした製品を作るのも現代流なのだろうが、その時、観客の興奮や臨場感までも邪魔者扱いにして消し去る努力に何の意味があるだろう。
良い演奏家ほど、ライブならではの高揚した名演が聴けるという。スタジオで聴けない
この感動が創られた場の実証音を消し去るとは、まるで証拠隠滅ではないか。(笑)
これが残された、いまや希少ともいえるライブ盤に巡り会えたのは本当に楽しかった。
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