私はからっきしスポーツができない。ただ一つ、卓球だけは中学校でやっていたことがある。 全く強くならなかったが、そのいきさつを少し書く。
私が入った相模原市の中学校は新設校だった。 当時中学の新設校は、該当学区の小学卒業生だけを入れていた。 だから私は先輩のいない第一期生だった。 こんな時でもなければスポーツはできないと考え、一番楽そうな卓球部を選んだ。
男子の卓球部は最初は 10 人以上いた。しかしそのうち少しずつやめていき、 私達の代で残ったのは私を含めて7人になった。 当時の市の大会は、1中学校につき8人まで出場を認めていたので、 1年生だけだったこの部では私も大会に出られたわけだ。
練習はさほどきつくなく、運動場を3周したあと、二十分ぐらい素振りをして、 そのあと試合をするぐらいだった。 運動場を回るときは、特定の場所で「ヨハンソーン」とか「ベントソーン」とか、 「ソウソクレーン」と叫ぶのが習わしだった。当時の有名な卓球選手の名前である。
注:
シェル・ヨハンソンと思われる。スウェーデンの名選手。
正しくはステラン・ベンクソン。同じくスウェーデンの名選手。
荘則棟。中国の名選手。日本語読みではソウソクトウのはずだが、なぜかソウソクレンと言っていたような気がする。棟の字を練の字と間違えていたのだろうか。
こんなスーダラな練習しかしないから、当然試合には勝てなかった。 S 君などはスコンク負けを喫したほどだった。 私もついに公式戦では一回も勝てなかった。主将の H 君は一度県大会に出たことがあったが、 これは奇跡そのものといってよかった。
それでも、体を動かす楽しさというのをこの時代に味わえたことは収穫だった。
高校生になって卓球はやめた。大学生になって、もと主将の H 君に誘われてちょっとだけ地元のクラブに通っていたことがあった。 しかし、レベルが非常に高かったので私はすぐにクラブをやめてしまった。
クラブをやめたあとは、社会人となっても全く卓球とは縁のない生活を送っていた。それでも、 江戸川区に住んでいたころ、たまたま近くの公民館が卓球台を貸し出していることがわかった。 このときは同じ寮に住んでいた同僚を連れて何回か打ち合ったことがあった。
その後結婚を機に私は越谷に引っ越した。そして、もう誰とも打ち合うことはなくなった。2年前に映画「卓球温泉」を見て、 昔、卓球をやっていた頃を思い出した。
私の甥は、中学校では卓球部に入っていた。理由は「運動部の中で一番緩そうだったから」というものだった。血は争えない。(2014-08-10)。
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