昔、ほんの少しだけ作曲を趣味にしていたことがある。 そのときの師匠はふる氏という先輩だった。 ふる氏からは作曲だけでなくいろいろな遊びを教えてもらった。 その後ふる氏はホームページを開いて ことばに関する遊びを楽しんでいらっしゃることを知った。そこには私も実は登場しているのを 知って驚いた。それと同時に自分が楽しんだ、 あるいは誰かから、ラジオから、テレビから聞いたことば遊びを少しずつ思い出したので、 いくつかここで時代順に紹介してみる。 以下の記述のなかにはうそが10%ほどまざっている。10%割り引いて聞いてくれればちょうどいい。
どういうわけか、はげのかつら、というのが無性におかしかった。 今は時代劇かあるいはコントかでかぶるかつらを想像するだけだが、 当時は「かつらというのは、はげを隠すためにかぶるものなのにわざわざかぶってはげにする」 という発想をしていたに違いない。いわゆる撞着語法(オクシモロン)の匂いを嗅ぎ取っていたのだろう。 給食の時間、友達からこの言葉を言われて牛乳を吹き出した奴が何人もいた。むろん、私もその一人だった。
「はげのかつら」と並んで当時おかしかったセリフが「月桂冠アルミカップ」だった。 このあたりから異性の体のしくみを知ることとあいまって、おかしかったのに違いない。
小学校4年の担任の先生は、詩が好きだった。生徒には週に一度は詩を書く ように指導 していた。 その先生は次のように言った。
みんなが自分のおかあさんについて詩を書いたとするね。 みんなおかあさんは大好きだろうから、詩に 「世界一大好きなおかあさん」と書く子が多いんだ。でも、こう書いちゃいけないよ。なぜって、 君は世界中のおかあさんをみんな知ってるのかな、当然知らないよね。知りもしないおかあさ んのことをさも知ったふうにして「世界一」というのはうそをついていることになる。詩にうそを 書いてはいけないんだ。詩には、自分が感じた、本当のことを書くんだよ。
当時の私は(そして生徒みんなも)先生のいうことをまじめに信じていた。 今思い出すと、本当のことというより、陳腐な表現を戒める意味ではないかとも思うのだが, なににせよ、きつい一言だった。私は4年生のときに多く詩を書きすぎたせいか、 以降はほとんど詩を書いていない。思春期にはたいてい、みな詩を書く のだが、わたしにはそういう機会は全く訪れなかった。
それから詩を書いたのは3回だけだ。中学のとき1回、大学のとき2回である。 大学のときの1回は数学の課題としてだった。「自分の世界を表現できる作品を一つ 提出しなさい」という名の元、知人がほとんど随筆を提出する中で、わたしは 昔を懐かしみ詩を久しぶりに書いたのだった。なお、知人二人は「詰将棋」を提出した と聞いている。
大学のときのもう1回は、野菜の詩である。アルバイトで経験した八百屋の世界に 驚いたのだった。こちらはまだ手元に詩が残っている。稚拙なこと限りない。
すぐ上で書いている、小学校4年のときの先生は、詩を教えるだけでなく、歌も教えていた。 ふつうの小学校唱歌ではなかった。 「チューリップのアップリケ」、「イムジン河」、「竹田の子守唄」、「受験生ブルース」、 「くそくらえ節」などだった。これらの題名を聞いておや、と思った方は鋭い。 これらはみな「放送禁止歌」とされている曲なのだった。実は、2000-02-11 の「週刊金曜日」の 記事を読んで、これらが放送禁止歌であることを初めて知った(2000-02-20)。
誰しも小さい時は妙な勘違いをしている。わたしの場合は「石焼き芋」というのは、 焼いたら芋になるような特殊な石を材料にしているものとばかり思っていた。 「焼くための材料に石を使っている」のだといつ気付いたのだか、覚えていない。
ごく最近「泥縄とはどういうことか知っているか」とつれあいに尋ねた。 わからない、という顔をしたので 「泥でなった縄のことだよ」というとつれあいは信じかけた。 あわてて「『泥棒を捕まえてから縄をなう』のを縮めた言い方だ」と説明した。つれあいは、 「だって泥舟っていうのがあるじゃない」というのだった。ごもっとも(2002-01-20)。
確か金太の大冒険がはやったころではないかと思う。 つボイのリオの他の「極めつけお万の方」や「吉田松陰物語」は後で聞くことになる。 とくに後者は学生のころ麻雀で某氏が高らかに歌うのをよく耳にする事になる。 「金太の大冒険」は1993年、スーパーに入って買い物をしていたら急に聞こえてきた。 わたしは思わず聞き耳を立ててしまったが主婦は普通に買い物をしていた。時代は変わった。 話を戻す。友達の間で「金太、まあ、どうしたの?」「うん、血が出たの」というのを、 この通りのイントネーションと息継ぎでやりながら隠微なやりとりを味わっていた。 ところががさつな野郎がいて、そのまま「金玉どうしたの」「うんちが出たの」と勢い良くやるんだな。 やはりおかしかった。 深夜放送がはやっていたころではあるが、わたしは品行方正な少年だったので全く聞かなかった。 惜しいことをしたものだ。
テレビではこんなネタを覚えている。「欽どこ」か「欽どん」だったかの、
ちまたで流行している歌の一節をくっつけて「誰と誰との対話」を作るというものである。
「患者の息子と医者の会話」という題でこう始まる。「先生、とうちゃんの病気は、どうなんでしょうか。」
ここでおもむろに、あの有名な、巨人の星の主題歌が序奏から堂々と始まる。
まるまる序奏を流したあとで、歌が始まる。「お、も、い。」
そういえば、恐怖の味噌汁や悪の十字架もこのときだった。
急に、友達が気に入っていたことばを2つ思い出した。
「高校のころ」でも書いたが、私は妙に昔の授業の光景を覚えている。その中の一つ。国語の時間、 ルナールの文章を真似して、自分でも文章を作ってみましょう、という課題。ある生徒の作品、 「天井の穴。穴はいくつあるのだろう。」
もう一つ。国語の時間、 尾崎放哉だったかの自由律俳句がのっていた。「咳をしてもひとり」。このような俳句を作ってみましょう、 という課題。ある生徒の作品、 「痰を吐いてもひとり」といいながらペッペッとことばの通り実行していた(以上、2000-07-03)。
まずは現代国語のテスト。田宮虎彦の「足摺岬」からで「そうろう」を漢字に直せというのがあった。 「候」が正解だが、なかには別のそうろうを書いたやつがけっこういた。 教師曰く、ここで誤った字を書いた奴がいるが、 そういうものが書けるのは偉い、男子クラスだからここで書こう。 教師は丁寧に早漏と書いた。 なお、この話を男女混合クラスでもして、その文字を書いたという噂があった。
次は倫理社会のテスト。論述式のテストで、ソクラテスの産婆術とは何か、という設問があった。 そのなかのある答えを見て教師は怒った。「たった一行しか書かなかったバカがいる、何かわかるか. スプリングサンバだ。」当時は大場久美子が人気だった。
余計な事だが、私は当時囲碁同好会に入っていた。 碁の序盤では必ず「大場久美子」といいながら隅や辺を打っていた。
ふる氏はビックリハウザーの一人として活躍されていた。 そのころ、わたしもいろいろなことばに敏感なほうだった。
あるときテレビのコマーシャルで何かの教育用器材の宣伝だったろうか、子供が 「家庭教師が居るみたい」 と叫ぶのを聞いて、私はどうも 「家庭教師が要るみたい」 と聞こえる、これでは逆効果ではないかと何かの機会にもらしたところ、 ふる氏はこの感性を絶賛してくれた(今となっては昔のことである)。
さて、ビックリハウスはなくなったが、 その中の企画にあった御教訓カレンダーは毎年出ていて今も続いている。 御教訓カレンダーが出た当時からのそのときまで発表された教訓が復刻された本が数年前に出た。 これを見たところ、 198?年の入選作にこの「家庭教師が要るみたい」があった。 ビックリハウザーならば考え付くのかとがっかりすると同時に、 そのときから購読すれば入選したかもしれないと悔やんだ。 今やこういう感性を披露しあう場所はなくなってしまったのか。いや、 ふる氏のホームページなど、場がたくさんあるから一つが目立つことはないのだろう。
「おこし」「煮付け」「たき火」「団子」のなぞなぞを聞いたのもこのときだった。
(註:「家庭教師が要るみたい」は、「御教訓カレンダー」にも収録されていた。 また、「おこし」「煮付け」「たき火」「団子」も同じく収録されていた。2004-04-30)
私が学生だったころ、廃坑を利用していろいろな実験をしようという計画が持ち上がっていた。 そのうちの一つ、神岡鉱山でニュートリノを発見しようという計画が出ていた。 (1998年 6月に実験結果が出ていました。 そして、2001 年 11 月に、光電子増倍管が連鎖的に多数破壊してしまった事件もありました)。 さて、その実験計画を説明するためにシンポジウムが開かれる事になった。 私の通っていた大学の理学部の前に次の看板が張り出された。
神岡陽子崩壊実験 |
(立て看板に似せるため縦書きにしてみた)。
これを見たある先輩が腹を抱えんばかりにして笑い転げていた。
後記小柴昌俊氏が、2002年のノーベル物理学賞を受けた。 カミオカンデで得られた実験結果に対してである。 これで「神岡陽子崩壊実験」もますます有名になるに違いない。 もともと、スーパーカミオカンデの前身、カミオカンデとは、 神岡陽子崩壊実験(KAMIOKA Nucleon Decay Experiment)の略なのだそうだ。 今では、神岡ニュートリノ検出実験(Kamioka Neutrino Detection Experiment)の略の ほうが使われるようになったという。
この「神岡陽子崩壊実験」で笑ったりびっくりしたりした人は、立て看板を発見した私の先輩 N さん、 私のかつての同僚の S くん、それからインターネット上で日記を公開していた某さん、 そして私と、少なくとも4人はいる。私の思い込みだけれど、 小柴氏の業績はノーベル文学賞かノーベル平和賞がむしろ相応しいのではないだろうか。
さらなる後記:2015 年、梶田隆彰氏がノーベル物理学賞を受賞し、スーパーカミオカンデにさらに脚光があたることになった。 その後しばらくして、腹を抱えんばかりに笑った先輩と話をする機会があったので、この「神岡陽子崩壊実験」の話をしてくれてありがとうございました、 と礼を述べたら、その先輩は「俺もそんなこと書いたっけ?(サークルのノートに書いてあったのである)すっかり忘れていた」 と述懐した(2015-11-08)。
これは高校時代だが、「スネークマンショー」を聞かせてくれた奴がいる。
いろいろなネタがあり、人によって好みが違うのでおかしい。
ちなみに紹介したやつは「こなさん、みんばんは。(中略)わたしは、今、かんたまが、きゆいのです。」
が気に入っていてそればっかりやっていた。
わたしは「ホテルニュー越谷」のネタがいやに気に入って、
ある先輩と私とでこの言葉を絶叫しつつ2台ピアノを叩きまくって「ホテルニュー越谷」の即興というのを
テープに残したことがある。このときの二人には何か憑き物が憑いていたに違いない。
1997年から、私はその越谷に住んでいる。ホテルニュー越谷こそないものの、
ニュー越谷マタニティクリニックというのがあって思わず笑ってしまった。
なお、このクリニックは、私が住み始めたときから営業はしておらず、看板だけが残っていた。 2005 年ごろには看板も撤去されてしまった。現在は学習塾が入っている。(2013-01-19)
なお、家電量販店のコジマは、越谷市には2個所店がある。NEW 越谷店と NEW 南越谷店である。 新越谷店としてしまうと、新越谷という東武鉄道の駅の近くにあると誤解されるのだろう。 また、ニュー越谷店と書けば、スネークマンショーを知る人から物笑いの種にされてしまうのだろう。
ついでにいえば、南浦和駅には「ホテルニュー埼玉」が、戸田駅には「ホテルニュー戸田」がある。
ちなみに、つれあいは広島の出身である。スネークマンショーを覚えているかとたずねたら、 「小林克也が出てるんでしょ。きんさいきんさいハワイへきんさい、わしらはみんな広島じゃけん...これでしょ」 とのことだった。
後記、やっとこの元歌を手に入れてきた(1998 10月頃か)。
これはふる氏から聞かせてもらったような気がする。 タモリの歌で「来週でいと」とか「おチューシャの歌」とか「ハラを割いた」とかがある。 今でも一般に販売されていないのが残念である。
後記:さいわい、Youtube では聴けるものがある(2015-11-08)。
高田馬場と早稲田を結ぶ道を自転車で走っていたときに、 ある店の前で見かけた茶の宣伝文句である。
水よりまし |
ふる氏と数人の友人と私、合わせて5人でドライブに出かけた。車中暇つぶしにしりとりをすることにした。 そのとき普通のしりとりではつまらなかったのか、 しりとりのことばに制限をつけてみてはどうかとだれかが提案した。これが一翻しばりしりとりである。 覚えているのは「く」ではじまり「く」で終わることばだけのしりとりである。
車中の5人は1時間以上えんえんと悶え苦しんでいろいろなことばを開発した。気がつけば目的地に着いていた。
なお、別の形のしりとりは、すでにふる氏が開発されている。ホームページをごらんください。
会社員として計算機のプログラムを作るのを仕事とするようになって数年目のことである。当時購読していたコンピュータ・サイエンス誌の「 bit 」のコラムで紹介されていた、 標記の本、「俳句−四合目からの出発」(阿部筲人著。講談社学術文庫)を見つけた。 この本には「俳句でないものとは何か」が事細かに書いてあり面白かった。 例えば女性のすねの白さを詠むとそれは「出歯亀俳句」と決め付けるのである。 早速この本を元にして本業の傍ら俳句鑑賞・作成支援システム「芭蕉」を作った。 このなかに添削モードを設けておく。利用者が自分の俳句を入力する。 その中に「すね」があれば、利用者に「あなたの俳句は出歯亀」と警告する。 志は高かったのだが、結局「すね」以上の禁句データベースはできず、 おまけにプログラムの不備からすべての入力俳句が「出歯亀」になってしまうのだった。 何が悔やまれるかというとこんなものを会社見学の学生に見せてしまったことである。
友達から薦められて、当時始まったばかりのNHK教育テレビの「スタンダード日本語」を半年間見ていた。 1988年ころではないかと思う。 はっきりいって、難しかった。私が覚えているのは、会社の場面で部下が上司を呼ぶのに「課長!」といっていたこと (テキストの英語訳では名前を呼んでいた)、 最後になって「君はバラよりきれいだ」という歌をギターの伴奏で恥ずかしげもなく歌っていたことである。
社会人になってからも、ご教訓カレンダーは買い続けていた。
一時は必ず応募もしていたが、第一次入選したのがせいぜいだった。
ともあれ、このカレンダーは人気で、
以前の職場でわざわざクリスマス会(か忘年会)かの
プレゼントでこのご教訓カレンダーをもらったやつが、わざわざ職場で飾って
いたくらいである。ただし、学生見学とか、本部長視察とかのときははずして
おいた。
最近、勤務先のコンピュータのスクリーンセーバーに御教訓カレンダー風の文句を入れていたことがあった。一番受けたのがこれである。
頭隠してシリカゲル
だじゃれを楽しむのが好きなのでこのままにしておきたい気がする。あえて注釈を付ければ
せっかくシリカゲルを入れて蓋をしめても、底が抜けていては乾燥剤として役に立たない
とでもなるだろう。
1998年はせっかく買ったのにどこかに忘れてしまい、結局楽しめなかった。 1999年も買ったのはよかったが危うく途中で置き忘れるところだった。 2000年以降毎年買って、ずっとトイレに掛けてある。
ついに、2012年以降は買うのをやめた(2013-01-19)。
つれあいとたまに試している「ジャックアンドベティごっこ」を紹介する。この名前は清水義範の小説に基づいている。どんなものかというと「あなたは食べることを欲していますか」「はい、私は食べることを欲しています」という英語直訳文体でずっと話を続けて、ばかばかしくなって笑い出すか普段の言葉遣いに戻るかしたほうが負けというものである。このゲームは今のところ必ず私が勝っている。 ちなみに、この小説の最後のセリフは、さすがにまだつれあいに言ったことはない。
昔嘉門達夫がいろいろなセリフをもじった歌を歌っていた頃の話。「かつお風味のふんどし」というのを思い付いてレコード化の前にもとネタの会社にお伺いを立てたら「ダメ」ということだった。 この話を伝えてくれた人と私とが出した結論は「やっぱりお伺いをたてちゃだめだよ。」
会社に入ってからの一時期、毎日のようにある相棒と飲んでいた。あるときテレビから
「幸福な家庭はみな一様に幸福であるが、不幸な家庭はさまざまに不幸である」といういかにも名文句風の文句
が流れてきた。このことばにわれわれ二人はばか笑いした。
その後、われら二人は酒を飲んで人の悪口をいうと必ずこの文句を口ずさんでいた。
そしてその後必ず「いったい誰のことばなんだろうね」と不思議がっていた。
そのうち何年かして、トルストイのアンナ・カレーニナの冒頭の文句であることがわかった。
この「アンナ・カレーニナ」を読んでみたのだが、残念ながらその後の筋は全く思い出せない。
ちなみに、その相棒の別の口癖は「人の不幸は蜜の味」であった。
2001 年のあるとき、ジャレド・ダイアモンドの 「銃・病原菌・鉄(上)」の邦訳を読んでいた。 著者が名付けた現象に「アンナ・カレーニナの法則」が出ていて思わずにやりとしたのだった。
その後、 R ではじめるデータサイエンスという本を読んでいたら、 このアンナ・カレーニナのあまりにも有名な冒頭の文章とそのもじりが紹介されていた。
せっかくなので、ロシア語の原文を掲げる。Все счастливые семьи похожи друг на друга, каждая несчастливая семья несчастлива по-своему.
http://tomoki.tea-nifty.com/tomokilog/2006/04/anna_karenina_b.html には、各言語の訳がある。
Wikipedia のエスペラント版から、エスペラント訳を引きうつす。
Feliĉaj familioj ĉiuj similas; ĉiu malfeliĉa familio malfeliĉas propramaniere.
このコンピュータの項、(2021-05-10)
会社に入ってからの一時期、上記の相棒を含めた何人かで海へドライブに行った。 海沿いの国道はほぼ一直線なのだが、途中90度近くにまがるカーブにさしかかった。 目の前は大きな看板が1枚のみあり、こう書かれていた。
明日への活力 ○△トルコ |
活力という、抽象的に使われやすいことばがこれほどまでに存在感を伴って伝わってきたことはかつてなかった。 その後、問題の急カーブを何度か通ったが、もうそのときには看板すらなかった(1994-04-19)。
会社に入って一週間ほど出張先である倉敷市にいたときのことである。1993年ころだと思う。 宿の近所をぶらぶら散歩していたら、次の看板が目に止まった。
飲みましょう コカコーラ |
むかし、どこかの本で(天野祐吉さんの本かもしれない)読んだところによれば、 アメリカの代表的な飲料であるコカコーラの宣伝は 国を問わず Drink Coca-Cola に相当する宣伝文句だったそうだ。しかし、日本だけは直接的表現が嫌われるため 「すかっとさわやか コカコーラ」になったという。ところが、「飲みましょう」という、腰砕けだが 意図が見えている宣伝文句もあったのだ(2000-02-27)。
注:私が所属する八重洲室内アンサンブルでは、
練習が終わったあと毎回反省会と称して近所の飲み屋に行く。
その飲み屋の「営業中」の札にはスプライト(!)の宣伝があり、下に小さく "Drink Cocacola!" の文字がある。
(2011-04-18)
その後数年して、この近所の飲み屋は閉店した。写真に撮ってあったと思うのだが、出せるかどうか(2016-06-10)。