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零の会
作成日 : 1998-07-31
最終更新日 :
1.零の会
零の会(ぜろのかい)は、
故原田力男(はらだいさお)氏の主宰になる音楽集団であった。
小生もその一員だった。
音楽集団というにはあまりにも広い分野の人たちがいる。今では、原田さんと交友があった人たち、
というのがむしろいいのかもしれない。
名前の由来についてはよく知らない。最初は特に名称がなく「例の会」の意味で「レイノカイ」と読んでいたが、
これを「零の会」という名前にして読み方もきちんと決めようということで「ゼロ」の読み方を当てたようだ。
これは原田さん自身が決めたと聞いている。
2.原田氏のこと
原田力男氏は1939年(昭和14年)防府に生まれた。
調律師として活躍する傍ら、現代音楽のプロデュースを手がけた。
芸大の教授が地位を利用して収賄容疑で逮捕された事件をきっかけとして、
音楽業界への批判もたびたび行なってきた。1995年、死去。
実際にはこれだけのことで済まされない方であるのはもちろんである。たくさんのことをやってきた方である。
原田氏を語る本が「青春の音楽」として出版された。関係者のみの配付のため、残念ながら入手は難しい。
3.原田氏のプロデュース
3.1 甲斐説宗
原田さんのプロデュースした作曲家、作品は数多い。
まず一人の作曲家、甲斐説宗氏のことを取り上げる。
甲斐氏は1938年生まれ。独自の音様式による作品を発表する。1978年死去。
その音楽は他の誰の音楽にも似ていない。聞けば甲斐氏の音楽とわかる様式がある。
そしてその様式がもたらす張り詰めた時空間に畏怖すら覚える。
そんな作品を書き続けた甲斐氏に、原田さんは甲斐氏の生前から積極的な応援をしていた。
甲斐氏の没後も、追悼演奏会のプロデュースを何度も行った。
私自身の甲斐氏の作品との出会いは「ピアノのための音楽」(I)であった。
作品が一般に手に入る(全音ピアノピース)珍しい例である。
まず高橋アキさんの演奏をレコードで聞いてみた。
最初のGisの音から始まり、奏者がうなったりする音楽は正直言って何か受けつけないものを覚えた。
その少し後、この「ピアノのための音楽」を弾いてみたのが友人の S くんである。
このころには原田さんと知り合っていて、私は既に亡き甲斐氏のことを何度も聞かされていた。
また、原田さんからは甲斐氏に関するいろいろな資料をもらっていた。
そこでその S くんにこういった資料を渡したりしていた。S くんはなかなか自信家で
「甲斐説宗は音の感覚が鈍かったんじゃないか?
俺だったらGisじゃなくてCisで始めているよ」などと私に向かってまくしたてた。
その後で彼の実演を聞いた。いすをがたがた鳴らしたり、
うなったりする現場を今でも覚えている。
少しして、零の会が原田さんの助けにより結成された。いくつか興味深いプログラムが組まれた。
その中で圧倒的だったのは、甲斐道雄さん(説宗氏の実弟)の演奏による
「フルートソロのための音楽」であった。
私は演奏を聞いていて、文字どおり息を飲んだ。めったにない体験だった。
そのあとも追悼演奏会などで甲斐氏の音楽に触れることがあった。
いわゆる現代音楽の最良の部分がここにあると何度思ったことか。
原田さんの尽力に感謝することしきりであった。
その原田さんが亡くなって今はもう3年、甲斐氏の音楽も忘れかけていた日々だった。
ある日、原田さんの友人のIさんと会う機会があった。
Iさんの話では、その甲斐氏の作品展が近々あるという。私は期待した。
しばらくして、私のもとに送られてきたチラシを見た。
甲斐氏の生誕六十年、没後二十年に寄せた、
東京で全3回のコンサートとレクチャー、そして大阪で別内容のコンサートであった。
東京では1998 年の 10/21,31, 11/12に、大阪では11/18にコンサートが開かれた。
別に東京で11/15にレクチャーとシンポジウムが催された。
10/21のコンサートに行ってきたのでその感想を書いた。
そして、10/31,11/12のコンサートにも行った。貴重な体験だった。
この零の会からは、有名な方々が生まれている。私には才能も努力もなく、
これらの方々の活躍ぶりをただ後ろから見ていただけだが、それだけでも幸福だ。
3.2 篠原眞
篠原眞は、代表的な日本の作曲家。寡作で知られる。原田は、篠原眞の個展を開いたことでも知られる。
この個展はのちに週刊新潮でも取り上げられた。その記事では
「バイオリンがうろうろ歩き回る曲があった」などと興味本位な立場で書かれていたが、
原田は「何にせよ、注目されてうれしい」と言っていた(2014-03-21)。
MARUYAMA Satosi
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