屋外の音

作成日 : 1998-07-26
最終更新日 :

音楽でない音楽、巷の音楽を拾ったときの感想である。 I.からIVまでは、ある合唱団の団誌に寄稿した埋め草記事である。

I. 心電図の音

最初は心電図の音である。

最近受けた定期検診で不整脈を発見された。精密検査をしたところ、服薬が必要と診断された。 私の不整脈はたちが悪いらしく、種類をいくつも変えられた。効き目を判定するために心電図をとる。
上半身裸になり、ベッドに横たわってプローブをつけられる。検査はおよそ5分間ある。心電図の記録計の針の動きの音がする。
私の場合、最初の1分間に不整脈が顕著に出る。息を吐きおわって吸った瞬間に心臓がどきどきするのが自分ではっきりわかる。 それと同時に記録計の針から出る音が乱れるのもはっきりわかる。なんとも制御のしようがなく、ふがいない。 それでも1分間たてば、動悸もなくなり心電図の音も規則的になる。

不整脈が出る理由は教えてもらった。そして不整脈を直さないといけない理由、薬を飲むと直る理由も。 しかし、それだけではまだ不安である。体の中に周期があること、その周期が乱されること、音というはっきりとした形で現れてしまうところがわずかに恐ろしい。 心電図の記録が終わり、診察室で面談を待っている。看護婦の騒がしいおしゃべりが聞こえた。 驚いたことに、それは日本語であるのだが意味がまったく分からない。 音の固まりのまま私の頭まで飛び込んできたのだ。その状態は10秒ほど続いた。 騒がしいおしゃべりがついに甲高い笑い声にまでなったときに、やっと意味までわかるようになった。

ある日の診察を以上のように思い浮かべていた晩、 何とはなしに聞いていた音楽がプロコフィエフ作曲のピアノソナタ第7番であった。 第3楽章は7/8拍子のすこぶる躍動感の溢れる曲である。この拍子は古典音楽には出てこないし、 自然な律動にも合わない。しかし、それゆえに曲の推進力をいやが上にも高めているともいえる。 この曲は最初から最後まで7/8拍子なのである。
途中で鋭い音形が割り込んできたりする。またなんだかうるさい笑い声のようながさつなリズムも現れる。 それでもよく聞いてみるとこの7/8拍子は守られている。 なんでまたこんな日にこんな曲を聞いたのだろう。(1997 10月)

幸い、今は薬を服用せずとも不整脈は出てこない(2016-03-20) 。

II. 偶然性の音楽

私は普段の人よりは現代音楽を聞く。
現代音楽というのはいろいろ分野がある。その中で偶然性の音楽といって、 たまたまできてしまった音楽に焦点をあてる、そんな分野がある。
偶然性の音楽はコンサートホールでは縛られてしまう。そこへいくと屋外には音楽が溢れている。 通りの往来の激しい車の騒音はその一例である。

私の好きな音楽は、シャッター開閉の音楽である。複数の声部がかつ消えかつ結びて久しく留まりたるためしがない。 たまたまそんな現場に出会うと音楽の終わるまでシャッターの目の前に立ち尽くす。 はたから見ると何をやっているのかわからない、危ない行為である。 したがって皆様にはお勧めできない種類の音楽である。もしどうしてもという奇特な人がいたら一言忠告申し上げる。 あの金属のこすれるキンキンいう音を声として聞けるようになるには5年はかかる。

屋内の偶然性の音楽で有名なものにジョン・ケージ作曲の「4分33秒」がある。 この曲は4分33秒演奏者は何も音を出さないのである。 作曲者の意図は、演奏者が音を出さない間に満ちている音を聞いてくださいというもので、 さすが最初に考えたケージは偉い。私はこの曲を聞いたことはないが、演奏したことはある。 すなわちこの曲を演奏すると称して舞台にたったのである。学生時代に酔狂な方がいて、 私の友人と私とを引き込んで3人で恥ずかしいことをしたものだった。 酔狂な方はホルンをもって、友人はギターをもって、私は舞台にあるピアノを前にして4分33秒を過ごした。 開始はどうしたのか忘れたが、終了の合図として私がピアノの蓋を閉じたことははっきり覚えている。舞台でこれだけ時間が長く感じられたことはない。

演奏したのだから自分で聞いていたのではないか、とおっしゃる方へ、 緊張してそれどころではなかった。ちなみに客のなかでおそらく唯ひとり、 ケージの意図を承知している方がいて、わざと手荷物をがさごそやってみたり、 ピン止めを落としてみたりしたそうである。演奏者である私(たち)はそれすら聞こえなかった。
シャッターも4分33秒も嫌いという人にお勧めなのは、 オーケストラの音あわせ(チューニング)である。まずオーボエがAの音を伸ばす。 コンサートマスターがおもむろに受け継ぐ。その輪が徐々にオーケストラに広がっていく。 これは音楽として聞くと面白い。 私の友人にこのチューニングの音楽をピアノで弾くのを得意にしているものがいる。 前にあったときにあれやってよというと、いやああれは音域が広いから本当は連弾がいいんだよ、 ひとつやってみるか、と返された。ではということで二人で即興でやってみるとなかなかだった。 (1997年 11月)

III. 静寂を感じる音楽

東京都江戸川区から埼玉県越谷市に引っ越した。

ここは鉄道の近くで夜遅くになると列車の通過する音が聞こえる。 不思議に思うのは、夜でも結構な頻度で列車は通過しているはずなのに、 よく聞こえるときと聞こえないときがあることだ。耳を澄ますと聞こえてくることがあるが、いつもとは限らない。
はるかに聞こえる音よりは近くの音が聞こえるのは当たり前である。 上の部屋でドタドタ音がするのはもう慣れている。以前の部屋ではギターの弾き語りまで聞こえてきたのだから。 隣の部屋の流行歌も晴れた日に流れてくる。私は流行に疎い人間であり、 なぜそれが流行歌だとわかるかというと他の場所でも流れていたから、というだけのことである。 隣の音は苦にならない。こわいのは部屋の中のテレビである。これをつけてしまうともうやっていけない。 テレビをつけなければ夜は静かな者だという当たり前のことがわかる。 しかしもう当たり前のことが当たり前でなくなってしまった。 今これを書いているのはつれあいにテレビを消してもいいですよという許しを得た時間の静寂のなかである。

静寂を感じる音楽というのはさほどない。私が出会った音楽の中で数少ない、 この領域の音楽は、甲斐説宗の「フルート・ソロのための音楽」であった。 フルートは最初音符をためらいがちにおいていく。 そのためらいが長いなと感じられたときから徐々に曲は切迫しはじめ、 最後には曲は激しい呼吸と一体化する。12年前、実演を聞いたときの緊張は今でも忘れられない。 聞いている私が、最初では息が詰まりそうになったし最後ではあえいだぐらいなのだ。 私は実演も、レコードの演奏も以降聞いていない。聞きたいのはやまやまだが、 あのときの感動に今めぐりあえるかどうか、はなはだ心もとない。 静寂が必要な音楽はほかにもある。ブルックナーの交響曲にはすべての楽器が休止する部分が出てくる。 なんでもこの休止部分は、今までの音の残響を落ち着かせるためのものだという。 そのような響きのいいところでブルックナーを聞いてみたいものだ。 (1997年 12月)

IV. 電車が出るときの合図

旧国鉄のホームでは、電車が出るときの合図にいろいろな音楽を使っている。 駅によって、時期によって違うのが面白い。 共通していえるのはよく知られた曲ではないことだ。 ただなかにはムーンリバーを使っている駅もある。 あれはいただけない。特定の曲を聞く気もないのに聞かされるのは迷惑だ。

わざわざ音楽を使う前は発車ベルやブザーが使われていた。 面白かったのが目白駅である。内回りと外回りで使われていたブザーがほぼ四分の一音ずれていたのだ。 同時に発車するときの感覚がなんともこそばゆく、体の内部の繊毛が踊るような快感と不快感とが同時にわき起こってきた。 こういうのはほかの人も感じていたのだろうか。 あの駅は学習院大学の学生が大勢使うわけだし、そのなかにはオーケストラの人もいただろうからきっと同じ思いをしていた人がいるはずだ。

屋外の音ではないけれど、私が昔使っていたコンピュータもいろいろな音がした。そのコンピュータは多少改造をしていて、 動作が速くなるモードができるようにしていたのだ。 通常モードから高速モードに切り替えると内部で出している音が高くなった。 おまけに自分で作ったプログラムを実行させてみると音色が変わった。 今はそのコンピュータを捨ててしまった(正確には近所の人にあげてしまった)。惜しいことをした。

近代音楽には平気で四分の一音のずれが出てくる。 ピアノではできないのが惜しいがそういう細かさを捨てたことでこれだけの地位を獲得したのだから、 今更いっても遅い。 歌はどうかといえば四分の一音ぐらい平気でずらせる。しかし私のようなアマチュアは、ずらせるのではなくずれてしまう。これが悲しい。

四分の一音で有名な作品は思い出せない。半音でさえ使い方によっては気持ち悪いものだ。 その気持ち悪い音楽を代表したのが、バルトークの「蝿の日記から」。 ピアノ曲集「ミクロコスモス」に収められている。私の友達がよくこれを弾いていた。 彼いわく、「ほかの何を弾いていても家族は文句を言わなかったが、この曲だけは止めてくれと言われた。」 (1998 5月)

その後、山手線を通勤経路とするようになった。目白駅の 1/4 音ずれは今はない。著名な曲を使っているのは、高田馬場駅(鉄腕アトム)、 駒込駅(さくらさくら)など。これはいやだ (2016-03-20) 。

V. 甲斐説宗の音楽

IIIで、甲斐説宗氏の音楽のことについて書いた。零の会の方からで、 甲斐氏の音楽の個展が開かれることを知った。1998年10月21日に、 その第一部が開かれたので行ってみた。 雨が降るなか、旧東京音楽学校奏楽堂で催されたその会場は満員に近かった。
最初は、甲斐氏の習作である弦楽四重奏曲が奏された。シューベルトさえ思い起こさせる、 現代音楽とは程遠い作品を聞いていた。楽章の合間に耳を澄ますと、 この奏楽堂の外で降っている雨が地面に跳ね返ってくる音や、水溜まりを車が通過する音が聞こえた。 ふーん、この甲斐氏の個展にふさわしいのではないだろうかと思いつつ、 次のヴァイオリンとチェロのための音楽、 ヴァイオリンとピアノのための音楽を聞いた。
休憩となり、零の会の仲間と久しぶりに会った。現在活躍中のKさん曰く、 「あの弦楽四重奏曲で、雨の音が聞こえてきて、いやにマッチしていましたね。」 全く、同じことを思う人がいるものだ。

VI. 甲斐説宗の音楽2

合唱団のゲネプロをしているときに、いきなりドタンという大きな音が聞こえてきた。団員はみなびっくりした。 ほどなく、指揮者がここからだよと説明してくれた。もとは指揮台である。 指揮者が指揮台の上の端にのってしまったため指揮台の反対の端が持ち上がってしまい、 それが落ちてドタンという音をたてたのだということだった。
1998年10月31日は、私が演奏会の合唱団員としてステージにのった日でもあり、 その後でコンサートホールへいった日でもあった。コンサートでは、甲斐説宗の音楽第二夜が開かれていた。 ここでは新作初演ということで、4各種の音楽が奏された。 別の文章でも書いたとおり、甲斐説宗の作品の出会いは「ピアノのための音楽(I)」である。 あの楽譜では意図的に奏者のいすをガタガタいわせる指示があったことを思い出した。 この日は新作初演だから当然ピアノのための音楽は奏されなかったが、 やはりこの人にはあの音楽を思い出してしまうのだ。

コンサートでは悪い観客であった。打ち上げで結構な酒を飲んでいたこともあり、 最初の2曲は途中から寝てしまったのだ。でも、3曲め以降からはきちんと聞いていた。 眠ってしまう、というのはすごいことだ。だいたい、最初の2曲は後の曲に比べて「うるさい」ほうなのだから。
それぞれの曲はそれなりに面白かった。「コントラバスとピアノ」はあそこまでやってよいものやら戸惑った。 あそこまで、というのはこういうことだ。 この「甲斐説宗の音楽」というのは、若い日本の作曲家である川島素晴さんの企画であり、 この未完の曲を川島さんが補作完成させた個所について、私は戸惑ったのだ。 川島さんの特権なのだから、許してよいはずだ。
トロンボーンと打楽器のほうはすごい。トロンボーンは人間の声に近い楽器ではないだろうか。ときどき、 すべての楽器は同じ音をもつのではないかと思うことがある。オーボエしかり、フルートしかし、チェロ、 ヴィオラからも同じ音が聞こえてきた。その音の正体はおそらく「声」だろうが、声とはなんなのだろうか。 ついでにいえば、この曲では声を出しながらその声の息で楽器を吹く個所がある。
それから、演奏家が声を発する個所があるものとして「5人の奏者のための音楽」もあった。 この人達の声が非常に良かった。こういう声に聞き惚れるとは、合唱をやってきたせいだろうか。

VII. コンパクト

1998年11月1日、あるオーケストラの催しを聞きに行った。その途中の電車で、 ガキとその父親とおぼしき二人が妙なおもちゃを電車内で操っていた。 おもちゃは「ひみつのアッコちゃん」に出てくるコンパクトのようなものである。 あのアニメでは話し掛けるのはアッコちゃんのほうであったが、このコンパクトは一種のゲーム機械であるらしく、 コンパクトのほうからしゃべるのである。それがうるさい。 おまけにガキがそのコンパクトに向かってゲームをしながらしゃべっているのでますますうるさい。 極めつけが父親で、自分もゲームに夢中になって、ガキに向かって「ちがうよ、そうじゃないよ。ほら、 こうすれば8個全部そろうだろ。」と自慢しているので輪をかけてうるさい。 わたしはヤナーチェクではないので、こういった騒ぎが音楽には聞こえなかった。

コンサート会場についてみると結構人が居る。仕方なく最前列の次の席に陣取った。 音があまりよくないのは仕方ないとして、困ったのは最前列に居た人だった。 挙動が不審で、演奏中にはパンフレットを落としてそれを拾う作業を何度も繰り返したり、 オーケストラのある部分をのぞこうとしているのか 舞台に近づいて下からのぞき込んだり席を立ったり席を移動したりしていた。 楽章の合間には鼻にかかった声をブーというように出してみたり、隣に聞こえるような声で 「もったいない、もったいない」と繰り返したりしていた。どうやら心の病を持つ人のようであり、 なんとか我慢することにした。しかし、何がもったいなかったのだろう?

VIII. 騒音音楽

昔の職場では朝の就業前にラジオ体操の曲を流していた。 一時期はラジオ体操の前にわざわざクラシックを流したりしていた。 だいたい聞きたくもないときに気になる音楽をかけること自体がおかしいのに、 そのクラシックときたら曲の一部だけを続けていいとこどりをした妙な編曲なのだ。 不快感はうなぎ登りに高まり、わたしは3ヶ月で切れて、 曲を流していると思しき総務の放送室に無断で侵入し、 ボリュームのつまみを最小にして聞こえなくしてしまうという暴挙に出た。 さすがに総務の長は血相を変えけんかになった。 結局従業員に対してアンケートをとってその結果を尊重することでお互い合意した。 アンケートの結果は大多数が今のままで問題ないということだった。 ただし総務のほうも少数者である私などの声も考えて、 これからは音量を絞ることにするという対処をすることで、 朝のクラシック音楽は続けられていった。ほとんど聞こえない程度音量であったので、 私はよしとした。その後、別の理由で私はその職場を去った。 後に同僚に聞いてみると、 もう何も流れなくなりましたよ、と言っていた。

その妙な編曲のうちの一つがドボルザークの「新世界」の第一楽章だった。 1998年11月6日に虎の門交響楽団による実演を聞く機会があったので、 そんな昔のいやなことを思い出したのだった。 実演を聞いていて不思議だったのは、昔あれだけ耳についていたいやな編曲の節は全く思い出せず、 昔から聞いてきた、ドボルザークの書いた通りの節を素直に思い出すことができたことである。 忘却力がこれほどありがたかったことは今までなかった。

IV. ガキ

つれあいと一緒に住む生活を始めて一年以上経った。何が違ったかというと、 公共の場所でのガキの声がますます五月蝿く、タバコのにおいがますます臭く感じられるようになったということだ。 タバコのほうはつれあいも嫌いであり、これはお互いの意見が合う。 ところが、ガキの声の五月蝿さは二人の感じ方が違う。私は非常に嫌いなのだが、つれあいのほうはそれでもない。 どうして五月蝿いと感じるのか、どうしていやなのか分析しないといけないが、わたしはまだ冷静になれない。 だいたい五月蝿いと感じるようになったのは、私は今までガキのいる場へ行かなかったからでもある。 独り者の時、飯を食う時は賄い付きの寮の食堂の他は牛丼屋とか中華料理屋とか蕎麦屋とか飲み屋とかだったから、 そもそもガキは出没しなかった。その他の外へ出かける用事もなかった。たまに散歩で広い場所に行くと ガキが遊んでいて喚いていたが、その時は五月蝿いとは感じなかった。広い戸外だったからだ。

それが今では外へいくのはガキばかり。例えば飯なのだけれど、 つれあいは牛丼屋とか中華料理屋とか蕎麦屋とか飲み屋とかは嫌いだから 私とはめったに行かない。そこで行く場所はファーストフードとかイタリア料理屋とか ファミリーレストランに限られる。これらはガキの跋扈する絶好の場所ではないか。 これだけ屋外の音を気に入っている私でも、ガキの悲鳴だけは未だになじめない。あれは音楽ではない。 どうすればいいのだろう。
ガキは屋外で遊ばせろ。食事は家か屋外ですませろ。
松本人志の本で新幹線だかの公共の乗り物に「禁ガキ車」を作れという意見があったという。 全く同感である。しかし、長距離列車には「禁煙車」がすでにあるのだから、ガキの有無と喫煙の可否で 4通りの車両を作らねばならない。ガキには煙は不必要だから3通りでいいのかもしれないが、 実現には大変だろう。それにしてもガキの声はどうにもならない。(1999 8/6)

X. 花火

ひさしぶりに花火を見た。14年ぶりのことである。14年前は足利の花火を見に行って、 そのときしこたま飲み過ぎてしまい、気がついたらセメント会社の倉庫でウイスキーの入った紙コップを握りしめたまま 寝ていた。そんなことを思い出しながら見ていた。 花火は想像していたよりも音が大きいものだ。ものによったら地響きさえする。 私が見たのは神宮球場のだから、花火そのものはあまり大きくない。 かわりに音があちこちのビルで反響するからその感覚が新鮮だった。

花火の音楽といえばヘンデルの「王宮の花火の音楽」。こちらも豪勢でいいのだが、 色彩感はドビュッシーの「花火」にはかなわない。 だいたいドビュッシーは前奏曲全24曲の標題を本当はこっそりとしておきたかったのだ。 しかし、今となってはみんな標題を面白がっている。だからあんなに知れ渡ってしまっている (まったくフォーレの前奏曲は知られていないのに)。 ともあれ、ドビュッシーの曲からは絵画的なイメージは呼び起こされるのに、 花火の音そのものがもつ派手で力強い側面は全く感じられないのだから面白い。(1999 8/11)

XI. 滝

今の場所に引っ越して二ヶ月が立った。
最初来た時に、一番気になったのが用水路の音だった。窓に面してすぐのところにどぶ川がある。 その川に暗渠が接している。暗渠からは絶えず水が流れ込み、滝のように落下する。 その滝の音がけっこうするのだった。
今住んでいるのは四階だし、音源が自然の音だから気にはならない。 それどころか、こんな音を聞かなくなって 久しくなったと自らを慰めるのだった。だいたい、引っ越しをするのがめんどうではないか。

古来、水の音楽は数あれど、滝の音楽はあったろうか?誰ですか、滝廉太郎といっているのは。

XII. 携帯電話

私は携帯電話が嫌いだ。いろいろ理由はあるが、維持費がばか高いのが主なところだ。

さて、電車の中で携帯電話の呼び出し音がなることが多くなった。 いつぞや複数の携帯電話が同時に鳴ったときなど、虫酸が走るのを通りこえて、むしろ快感にまで聞こえたほどだ。

個人的には携帯電話が嫌いだが、勤務先では内線が PHS になっている。これは使わざるを得ない。 呼び出し音に自分専用の着メロを入れているのが半数といったところだ。
私はこの半数に入る。旋律が一本しか入らないから、何を入れるべきか悩んでしまった。 当初は、バッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータのホ長調のプレリュードを入れるつもりでいた。 しかし、音の高さが合わない。2オクターブのCからCの間という制限がある。移調してまで押し込める 気にはならない。無伴奏フルートも考えてみたが、しっくりこない。結局バッハの無伴奏チェロの ト長調の前奏曲を入れてみた。しかし、チェロの持つ雄渾な音が電子音になるのは、やっぱり合わないなあ。

付記:今日の電車では初めて3声の着メロを聞いた。それが「展覧会の絵」のプロムナードであったので びっくりした。和声をちょっと聞いた限りではそれらしいが、よく聞くと足りない音がある。そこがもの足りない。 ひょっとして、3声というのは、同時に鳴らないといけないのだろうか。そうすると意味がないですね。 バッハの(3声の)シンフォニアなんて、できないじゃありませんか。

今まで会社の PHS に入れていたのを「アルマンド」と書いていたが、正しくは「前奏曲」だった。恥ずかしい。(2016-03-20)

XIII. 太鼓

2000年の1/2に広島のある神社に初詣に行った。そのとき太鼓がドンドンと鳴らされていた。 これを聴いて、春の祭典のある個所を思い出した。

XIV. 心電図2

相変わらず心電図をとっている。機械が電子式になったのと、まわりに音楽を流すようになったのとで、 心臓のリズムそのものが聞こえにくくなってしまったのは残念だ。流れている音楽はクラシックなのだが、 これをきいて不整脈になる患者がいるのではないか。

XV. 偶然の一致

今朝、ある CD を聴いていた。ニ短調、 4拍子のフォーレの五重奏曲第 1 番である。 弦のあるパートが4小節ほど A の音を伸ばしている個所を聴いてみると、 本来楽譜にないはずの刻みが一拍ずつ入っている。
この合奏団の新解釈にしては突飛すぎる。おかしい、と思ったところ、 その刻みだけが音楽の流れを無視して ずっと進行していた。何のことはない、外のトラックがバックするときに発する警告の音がたまたま 重なっていただけだった。それにしても、トラックのバックの音がたまたま A であったこと、 その音が聴いている音楽の個所やテンポとぴったり一致したこと、これらは何という偶然だろう。
おまえの耳が悪いだけだ、といわれるとグウの音も出ないけれど。

XVI. 音感

学生時代、夏になると湖の近くで合宿と称して仲間とバカをしていた。
あるとき、仲間と私と二人で、旅館の下駄を履いて近所を散歩していた。 私はふと、「そういえばこの下駄、引きずって歩いていると、ソー、ミー、ソー、ミーと聞こえるな」と 問いかけてみた。仲間は「そんなことあるかあ、まるちゃんは耳がいいなあ」と驚いていた。

それから15年以上たった今でも、この仲間は先の話を覚えていて私に話してくれる。 私もめずらしく覚えている事件なので、少しは鼻が高かった。 最相葉月の「絶対音感」は、かつて評判になった書である。わたしも興味を覚えたが、未だに買っていない。 半音程度の絶対音感ならばわたしだってもっていたからである。

XVII. 指笛

今住んでいるところは、風が強い。それだけでなく、その風が通り、共鳴する個所があちこちにあるのだろう、 風切音というにはあまりにもきつい高音が聞こえる。ちょうど、うまい人の指笛のようだ。 つれあいは気になるとみえ、もしうちに音源があるのならなんとか静かにならないか、と私に頼む。 しかし、わたしは生来のめんどくさがり屋であるから、全く腰をあげる気配を見せない。 実はわたしは応用物理専攻なので、これを調べてわからなかったら恥ずかしいからである。 ちなみに、けっこうな高音なので音程がわかるはずなのだが、指笛の音程は未だに分らない。 風の強さや方向で、倍音成分の含み方を込めた音程が変わるから、というのが表向きの理由で、 実は単に聞き分ける力が衰えた、ということなのだ。

XVIII. ししおどし

電車の中で、眠っている人は多い。最近こんな風景を見かけた。 座席の中央部に座って眠っている人の頭が、ちょうど窓枠にもたれかかっている。 窓枠は狭いものだから、頭が窓枠から徐々にずれていき、首が傾いてしまう。 最後に頭が窓ガラスに衝突し、鈍い音を立てる。この音と衝撃で眠っている人が目覚める。 目覚めた人はすぐに体勢を立て直し、頭を柱にもたせかけて眠りに入る。 そうして、最初の光景から同じことを繰り返す。

こういった光景を、この半年の間に2回見た。ちょうど、ししおどしのようであった。

XIX. 蛙

今の家の近所で、最近田に水が張られた。そんなわけで、蛙の鳴き声が夜になると響く。 音は大きいが、うるさいとは思わない。美しくはないが、気にならない。 蛙も気分がよかろうな、とうらやましく思うぐらいだ。

蛙の歌ときけば、あの輪唱とか、ダークダックスの歌だかを思い出すのだろうが、 それはここでは省く。

あと、自然界の音として、からすの鳴き声は気になる。ただ、こちらも「よく響いているなあ。 俺もこのくらい発声ができるようになりたいものだ。」と、見当違いの感想を抱くのみだ。

こうした自然界の音はいい。問題は人間界の音だ。休日はどこかの物売りが拡声器から音楽を鳴らす。 今は、ヨハン・シュトラウスの「春の声」である。最初はいい。 変ロ長調のメロディーは知っている人も多いだろう。 ところが、少し経つと、私は地獄を見る。 ヘ長調に転調したあとのメロディーが無気味なのだ。原因は、 ヘ長調のメロディーのミ(E)の音にすべてフラットがついたままになっていることだった。 あまりにも気持ち悪いので、私だけでなく皆を道連れにすべく MIDI を作って このページを見ている方々に聞いてもらうことまで考えた。 しかし、さすがにそれは行き過ぎというものであろう。 否、これを書いていてまた怒りが込み上げたので、作ってしまった。題して、 古代旋法に基づく春の声である(2000-05-20)。

現在は MIDI がない。いずれ作る予定だ(2023-02-26)

XX. 爪の音

珍しくいきなりコンサートの話題から始める。 あるコンサートへ行ってきたときのことである。ピアノソロで、細かいパッセージのとき、 爪を打つ音が気になった。これは人によりけりで、全く爪を打つ音がしない人もいる。 なぜなのだろう。

ふつう、爪音は意図せざる音として憎まれるはずである。事実、私も普通なら好ましくは感じていない。 しかし、そのときの爪音は不思議に音符の奏でている音楽と融和していた。

プリペアード・ピアノというものがある。ピアノの弦にいろいろな材料を挟んで、ピアノ本来の音ではない、 多種の音を出すために細工されたピアノのことをいう。 私が通っていた某サークルで、そのサークルの主のような人がいた。 その人が、プリペアードピアノについてこう語っていたことを思い出す。 曰く、プリペアードというからピアノ固有の音をさらに強力に増強して迫力ある音にするものだとばかり思っていたら、 そうではなくてしょぼしょぼした音しか出せないようにするとは、全くもって失望した。

その方はフランツ・リストの音楽を得意としていたから、こんな感想を漏らしたのだろう。 わたしは弱くてふにゃふにゃしているから、プリペアードピアノの出す音は好きである。

一度、そのプリペアードピアノのための有名な曲、ジョン・ケージの「ピアノのためのソナタとインターリュード」 の全曲を生で聴いた。かたかたした、 おもちゃのピアノの鳴らす曲にも聞こえかねないこの曲を聴いたということだけで、 それでいいという気がしている。

XXI. 共鳴

家の外が妙にうるさい。強風が吹く音が大きい。 なにごとかと思い本の少しだけ開けている窓をさらに開けたら、音は止んだ。 ちょうどわずかだけ開けている狭い隙間で共鳴して鳴っていたのだと気付いた。 私もかつて、物理学徒だったことを思い出した。

XXII. 犬

今住んでいるところはコンクリート長家(いわゆる集合住宅)である。 大多数の長家がそうであるように、ここも愛玩動物の飼育は禁止されている。 ところが、どうも飼育をしている世帯が複数いるらしい。 家にいると何度となく犬の鳴き声が聞こえるからだ。 犬の飼い主には犬の鳴き声はどうきこえるのだろうか。 つれあいは、飼い主がいない時に寂しくて犬が鳴くのでは?という。 もちろん、飼い主がいる時にも泣くだろう。飼い主はたぶんかわいいと思うのに違いない。 私にはその気持ちがわからない。 私の実家でも犬を飼っていたことはあったがはるか昔だ。 もう忘れている。 人の動物だからだろうか。騒々しいだけだ。五月蝿い、とかいてもいい。 ただこれがもとで極端な行為はするまいと自分を戒めている。

赤ん坊はどうか。犬と同様だ。ガキはどうか。少しだけなら許せる。 何を言っているかわかるからだ。

犬の鳴き声を模した音楽を私は知らない。鳥の声なら古くはジャヌカンの「鳥の歌」があるし、 ばかばかしいヨナーソンの「かっこうワルツ」もある。メシアンの「鳥類譜」もある。 音楽評論家の T 氏にいわせれば、「鳥類譜」は出来不出来の差が激しいのだそうだが、 わたしにはみな同じに聞こえる。 人の声はどうか。ヤナーチェクは人の声を記録して音楽づくりにいかしたのだそうだ。 私にはわからない。

XXIII. チャイム

勤務先が引っ越して数カ月が経つ。私がいる階は低層エレベーターと高層エレベーターの接続地点で、 どちらも止まる。二つのエレベータのチャイムの音が1/4音ずれているので、 同時になるとなかなかむずがゆくなる、いい気分である。

XXIV. 携帯電話の音2

携帯電話の音、といえば普通は着信メロディーだろう。こちらは確かに迷惑だ。 この間も電車の中の誰かのかばんの中で「笑点」の始まる音がずっと鳴りっぱなしだった。 また、あるときは複数の別々の着信メロディーが一緒に鳴るので、現代音楽を十分楽しめた。 ジョン・ケージの試みた偶然性と、 チャールズ・アイヴズが試みた複数音楽の同時性がこのような形で実現するとは、 先の大作曲家達も思ってみなかったろう。そして、このように携帯電話で音楽を表現することは、 すでに現代音楽の作曲家たちが既に発表しているのではないかと思う。

さて、携帯電話の着信メロディーには先のような場面では困るのだが、 実は私が気になって仕方がないのが、 折り畳み式の携帯電話で「パチン」と閉めるときに発する機械音である。 別に嫌な音ではないのだが、 この音を聞く度に「俺はこの携帯を使っているんだぞ」という優越感が伝わってくるようで なんともむずがゆい。

昔は、女性のコンパクトがその「閉じたときの快感」をもっていたのではないかと思うが、 今は携帯電話にとってかわられたのだろう。なぜ携帯電話にコンパクト(の鏡)がないのか、 不思議に思う。ついでにいえば、昼休みに隅田川の川べりに行くと、若い人は特に タバコと携帯電話をもって佇んでいる。そうなると両腕が空いていないから不自由ではないだろうか。 携帯電話のどこかに煙草をはさむ道具をつければ片腕が空くのでいいのでは、 とどうでもいいことを思っている。


私はコンピュータ関係以外の雑誌はめったに読まない。 文藝春秋も当然読まない。 しかし、ある対談が私の気を惹いたので、その対談だけ読んでみた。 呉智英と中島義道の対談「騒音撲滅、命がけ. 」がそれだ。 非常に共感を覚えた。

この二人は巷の騒音に対して抗議をしている。私にはこの二人の行動は取れない。 意気地のない小市民だからだ。しかし、その小市民が一度だけ、自信の勤務先で、 その長に向かって抗議したことがある (このページの上記参照)。 私の抗議は、この二人のものとは性質が異なる。 私の認識では、先の二人は、 公共に撒かれる無神経な音に耐えられないために行動を起こした。 一方私が起こした事件は、 撒かれる音が自分の内部での秩序にそぐわなかったためである。 もしそのドボルザークが原曲そのままであったら、 事件を起こさなかったかもしれない。その意味で動機が弱い。 だから私は、意気地がなく、そして無神経な小市民だ。

街の無神経な音楽もどきについては二人の対談で触れられているので見るといい。 その例を私から付け加えよう。 中学二年生のとき、家族で富士山に登った。夏のことである。 9合目あたりの山小屋に近付くと、ピアノの音が聞こえてきた。拡声器から、 メンデルスゾーンの無言歌「春の歌」が垂れ流されてきたのだった。これには参った。

XXVI. 衝撃

寄る年波には勝てないのだろうか、最近久しぶりにかぜをひいた。 こちらはすぐ直ったので安心して大酒を飲んだら、その翌日に腰が痛くなった。 会社に行くには差しつかえはない程度だったが、会社でもすっきりしない。 早めに帰って静養したがなかなか痛みはひかない。 週末の休みも痛みはずっと続く。けっきょく翌月曜日に休みをとって、医者に行った。

腰痛で行くのはどの医者だろうかと悩んだ。たぶん整形外科だろうと思い、 肩の痛みで医者に行っている親父に聞いてみたらやはり整形外科だという。 近くの整形外科を3軒ほど見つけだした。最初の1軒は閉まっていたので、2軒めに行った。

手続きをして診察室に行くと、電気コードがたくさんぶらさがっている機械が何台もあった。 医者は私を見ずに初診カードを見る。「どこが痛い?」と聞くので「腰です」というと、 「ああ、腰ね。じゃあ、レントゲンを撮ってください」とのみ答えた。 レントゲンの準備ができるまで問診もなし、触診もなしであった。 私も面倒だったので何も尋ねなかった。ふーん、体を触ろうともしないのか。

レントゲンは何ごともなかった。そのあと驚いたのは、 「では腰に電気を通します」という技師のことばだった。 処刑されるかと思ったが、いまさらここに来て帰るわけにもいかない。 機械からぶらさがっているコードを腰に当てられた。 覚悟を決めて電気の通される瞬間を待っていた。 来たのは、電気と機械的な振動が合わさった刺激だった。 短い周期と長い周期からなる刺激は、コードを通して患部に伝わるだけでなく、 音となって空間にも広がっていく。 患者は私を含めて5人ほどいた。一人ごとあてがわれた機械から発するパルスの脈動が、 あちこちで聞こえている。単調であり、うるさくはないが、面白くもない。 機械ごとに微妙なずれがあればちょうどスティーヴ・ライヒの音楽のリズム部だけのようになって、 楽しめたかもしれないのに。

肝心の腰痛はどうだったか。医者は「骨によるものではないから安心して下さい」 と言った。しかし続いて、「腰痛予防のための体操をしっかりやってください。 自分の筋肉は自分で直すしかありません」と、私を突き放すように締めくくった。

XXVII. Cis

勤務先のトイレでは、換気扇がいつも回っている。その換気扇から、 ときどきヒューという音が聞こえる。そしてたまに、その音が鋭く鳴ることがある。 きっと外の風が強い時に違いない。 口笛か指笛のようだ。そして決まって、その音程が Cis なのだ。 風の強さに応じて C に落ちたり D に上がったりするようだが、たいていは Cis だ。

Cis がずっとなり続ける曲は何だろう。ベートーヴェンなんか作っていそうだけれど忘れた。 ショパンのノクターンにもないなあ。フォーレでは夜想曲第11番なんかそうだけれど、 あれは柔らかい Cis だからなあ、 とトイレの個室でしゃがみながら古今の曲を思い出そうとしている。

そういえば昔、広瀬正の小説「ツィス」を読んだことがあった。 筒井康隆が広瀬正を絶賛していたし、「ツィス」という名前が音楽のようで気になった。 実際読んでみるまで、音楽の嬰ハ音の意味のツィスとは結びつかなかった。 読み進めてみたら、小説内の事件の進み方がまるで音楽のようだった。 今は手元にないが(引っ越しで捨ててしまった)、またいつか読んでみたい。

XXVIII. 坊さんの声

2004年9月19日、西新井大師に行き、厄払いをしてきた。 自分ではあまり考えていなかったが、知り合いの I さんからの強い勧めで行ってきた。 厄払いといえば佐野厄除け大師が有名であるが、遠い。 近くて有名な西新井大師には行ったことがないので、ここにした。

現地に到着し、申し込みをして、護摩の時間が来るまで境内をうろついていた。 ペットを連れた夫婦がいる。危ない。なぜわざわざ連れてくるのだろうか。 屋台がいろいろ出ている。酒やビールも売っている。それなのに、 「敷地内ではアルコールは禁止」という立て札がある。なぜだろう。 おまけに、鳩がたくさんいて、飛び立つときの素早さは恐ろしい。 今にも襲われるのではないかと心配した。厄除けに来て、厄を受けてしまったら、 西新井大師は賠償をしてくれるのだろうか。

さて、護摩の時間が来た。寺の中に入ると、けっこう人がいる。 全部で50人はいただろう。赤ん坊もいて、そのうち一人は泣いていた。 坊さんが入ると、ほとんどの人は正座になった。 坊さんが祈祷を始めた。声は、ほぼFis の音程である。 最近は絶対音感が落ちているのでFisとは断言できないが、 F から Fis の間でまちがいないだろう。 なかなか筋の通った声だった。 赤ん坊も泣き止まず、太鼓や釜の鳴る音と一緒になって、 不思議な音空間ができあがった。 坊さんの読む場所によっては、ときどき Gis に上がったり、 Dis まで下がったりしていた。あれは音程をとるように訓練されているのだろうか。

祈祷の時間は約20分、あまり長いとは感じなかった。ただ、足が痺れて、なかなか立てなかった。

XXIX. チャルメラ

昼、勤務先近くの町中を歩いていると、リヤカーを曳いた豆腐屋がいた。 その豆腐屋はチャルメラを吹いていた。Fis と Gis を交互に出すのだが、 Gis の音程がわずかに低い。音のずれを面白く、かつ悩ましく感じた。

ところで、チャルメラを使ってモーツァルトのオーボエ協奏曲を演奏した猛者がいた、 と聞いた覚えがあるのだが、きっとガセネタなのだろう。

XXX. チャルメラ2

昼、実家近くの町中を歩いていると、リヤカーを曳いた豆腐屋がいた。 その豆腐屋はチャルメラを吹いていた。こちらは、 Gis と Ais を交互に出すのだが、 Ais の音程が高く、H に近かった。面白い、 と思って聞いていたが、何回かあとではAis の音程は元にもどっていた。 なぜなのだろう。俺の耳がおかしくなったのか。 (2009-08-11)

XXXI. When I'm Sixty-four

ワールドカップでサッカーの試合が放映されるのを見ていると、 通奏低音が響き渡るのが聞こえる。ブブゼラという楽器による音らしい。 私にはこの音が シのフラット( B♭、ドイツ音名ではベー)に聞こえる。 ある人のツイッターでもシのフラットとしてあるので、 俺の絶対音感もまんざらではないとうぬぼれている。 そうかと思えば別の掲示板で、音程が A と書いてあるのを見つけ、 やっぱり違うのかか落ち込んだりもする。 絶対音感が最近落ちている私だが、 ±半音の差以内には収まっている。

最近、つれあいの要請に応じて、ビートルズの曲“When I'm Sixty-four” の節をクラリネット用に採譜した。私にはこの曲が変ニ長調に聞こえたので、 一度その通り耳で聴いてフラットを5つ書いて採譜した。 これを Lilypond で原調通りアルファベットでタイプした。 そして、Lilypond に、これは移調楽器で B 管であることを指示したので、 楽譜には B 管用の楽譜になった。具体的には、 B 管クラリネット用になったため楽譜上はフラットが3つに減っている。

あとでこの曲が作られた経緯を知った。作曲者、ポール・マッカートニーは、 ジョン・レノンに対抗して明るい?声にするために、 録音を半音上げて再生したとある。なんなんだよー、対抗するなよー。 俺は採譜で疲れたよー。

XXXII. 足音

今回は屋内の音であるが、あまりにも怒ったのでお許し願いたい。 俺はコンクリート長屋に住んでいる。なまじコンクリートでできているため、上にも家族が住んでいる。 その家族の子供が無駄に元気だ。毎朝走り回っている。そのドタドタという足音が、俺の家まで聞こえてくる。 朝は私が起きるときから、 夜は私が寝るときまで続いている。 もう1年前からだから、2010 年 10 月からだろうか。気付いたそのころは元気なこどもと思うだけだったが、 今となっては怒り心頭に達している。なぜこんな走り回っているのか。ションベンを我慢しているのか。 ウンコが漏れそうなのか。ジョイナー目指してスタートダッシュを練習しているのか。

あまりの騒がしさに、踏んだら発電できるという機械が昔紹介されていたから、これを献呈したいぐらいだ。 いや、献呈したらますます図に乗って床をドタドタ走り回るだろう。 (2011-11-20)

XXXIII. セミ、カラス、拡声器

今日は寄り道をして、例の首相官邸前に行くことにした。午後6時半ごろ丸ノ内線の国会議事堂駅に着くと、 早速ものものしい警官が改札を出たところから待機している。 出口1から3は閉鎖しているので、4から出てくださいとのこと。デモに警官が誘導してくれるのはなぜかおかしい。 地上に出ると、すでに歩道に並んでいる人が大勢いるが、列が細い。歩道が細いからである。地上でも警官が誘導をしている。 列が途切れているところがあった。道があるからだ。この途切れているところからこちらにお回りくださいとやはり警官から指示された。 指示された方向に行っても人がいない。さては騙されたかと思ったがほかの人たちが向かっていくところを目指すと、 「もう列がいっぱいなので公園近くの歩道でお待ちください」と言われた。かくして同じところをぐるぐる回っているようでそうでないようで、 最後に止まれたのは国会議事堂前の三叉路の歩道の角だった。国会議事堂に向かって左側、国会前庭の南地区に隣接する歩道であった。

そこには官邸前に行けなかった人たちがたもろしていた。そのうち唱道者が拡声器で次の掛け声を何度も繰り返していた。 ほとんどが1か2で、たまに3や4や5があった。 肉声の残りの人はこれを真似て繰り返す。

  1. 原発いらない
  2. 再稼働反対
  3. 大飯を止めろ
  4. 再稼働撤回
  5. 大飯原発再稼働撤回

最後を除き二拍子である。たとえばが1拍目の表、が1拍目の裏、いらが2拍目の表、 ない2拍目の裏である。最後だけは4拍子である。 最初は最初は唱和する声が小さかったが、だんだん大きくなった。 しかし、拡声器の音頭が止まった。上記の5パターンを選ぶ苦労が大きかったに違いない。

唱道者は別の人に代わった。この人は掛け声の種類を「再稼働反対」だけに絞った。 あとを追う声がだんだん大きくなった。声は「再稼」が付点8分音符+16分音符のようなリズムになるだけで、 基本は同じである。 すると、今までエレキギターと小型のアンプ+スピーカーで勝手な音を立てていたあんちゃんが、 あとを追う声に合わせてA (ラ)の音だけで加勢をするようになった。 こちらは加勢の声のときに「たーたたたーたー」と刻むだけである。 唱道者の拡声器からの声は Cis (ドのシャープ)に近いように聞こえるが、 いかんせんみんなからの声はいろいろな音程が混ざってよくわからない。 唱道者が代わったことの効果はもう一つあった。テンポが速くなったのだ。 最初はもとの唱道者と同じ、四分音符60ぐらいであった。しかしだんだん速くなり、 その後は四分音符80ぐらいになっていたようだった。

ちなみに、私は加勢の声を全く出さなかった。卑怯と呼ばれるだろう。また、参加した意味がないともののしられるだろう。 しかし、君が代で発声を強制させられた子供や先生を思うと、なんにせよ大勢の人と声を一緒に出すことが怖く思える。

20 分ほど佇んだ後で、日ももうすぐ暮れようとした。私は帰ることにして、デモ用の人が入れる通路の側を歩いた。 せっかく警察が確保してくれた場所に人が来なくて申し訳ありません、となぜだか主催者でもないのに心の中で謝った。 国会前庭から離れて霞が関の駅に向かおうとすると、前庭からセミの声がやかましく響いてきた。 また、カラスの鳴き声もよく通るのだった。それに比べて、拡声器の声は唱道しているにもかかわず、もうここの場では聞こえなくなっていた (2012-07-27)。

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MARUYAMA Satosi