シューベルト

作成日:2002-07-21
最終更新日:

裏切りの関係

私とシューベルトの関係は、裏切りということばが合う。シューベルトが私を裏切ることが多かったのだが、 その逆もたまにはあった。

私がシューベルトの作品に出会った最初は、「楽興の時第3番」の楽譜だった。 小学校三年あたりだったろうか。シューベルトに楽興の時という有名な作品があることは既に知っていた。 その曲が好きだったのでピアノピースを買いたいと親にせがみ、 わざわざ隣街まで出かけて買った。家で眺めた後、ピアノに向かって弾こうとした。難しくて弾けない。 それに、自分が思っていた楽興の時ではない。シューベルトに裏切られた、私はそう思った。 楽興の時だと当時思い込んでいた曲は、実はマリー作曲の「金婚式」だった。そんなことは当時知る由もなく、 ずっとシューベルトの楽興の時を持て余していた。

この楽興の時と同じ頃覚えたのが、歌曲「菩提樹」の冒頭だった。 昔、「ドレミファブック」という、 童謡レコードと絵本を毎月頒布する仕組みがあって、そのレコードで聞いたのだった。 なぜ「菩提樹」が童謡なのか、と訝る向きもあろう。 というのは、そのレコードの最後には音楽劇があって、 その劇の中でなぜか脇役のお兄さんが歌い出すのが「菩提樹」だった。 当時の私には冒頭の歌詞がこう聞こえた。
「アンボローネン、フォーレンター、ダシケート」
ここまでお兄さんが歌うと、隣のおねえさんがもう聞くのに耐えられないという口調で、 「ストップ、ストップ」と叫ぶのだった。しかし、当時の私にはこれが シューベルトの「菩提樹」とは全然知らなかった。 (註1:シューベルトの菩提樹については、後記を参照して下さい)  (註2:この「ドレミファブック」については、私のつれあいもレコードを持っていたことがわかった。 2009-01-28)

その後数年して親が何枚か LP を買ってくれるようになった。 中央公論社から「世界の名曲」という名前で、2枚組 2400 円の LP であった。 シューベルトの巻には、交響曲「未完成」、ピアノ五重奏曲「ます」全曲と歌曲集「冬の旅」の抜粋が入っていた。 「未完成」と「ます」は何度も聞いたが、「冬の旅」はあまり聞かなかった。 抜粋の中には「菩提樹」は入っていたが、 先のお兄さんの5秒間の鼻歌と有名バリトン歌手の5分間の高尚な芸術歌曲とはすぐに結びつかなかった。 この場合は「菩提樹」が私を裏切ったとは言えないのだが、その落差に驚いた。

そのうち、高校時代になると、本物のピアノ独奏の「楽興の時」や「即興曲集」などを聞くことが多くなってきた。 楽興の時と即興曲が収められた楽譜を買ってきて、 電車の中でOp.90-4 の右手の分散和音のパッセージの指の動きをハッタリで練習したことがあった。 向いの席に座っていた親子連れがその光景を見ていた。 しばらくして私が降りると、その間際に向いの親が子供に「凄いわねえ」と言っていた。 しかし、私はこの曲を練習したのは数カ月しかなかった。飽きっぽかったのだ。 今度は私がシューベルトを裏切ったのだ。

大学生になると、ピアノソナタにも心ひかれるようになった。 NHK-FM をつけると、シューベルトのソナタがよく聞こえてくるようになった。 いろいろ変遷はあったが、今では D.958 (c-moll) が一番好きだ。 特に第4楽章の緊迫感、 転調の段差(楽譜をもっている方なら手が交差するあたりといえばわかるだろう) がスカルラッティのようにすばらしい。この曲も練習するようになったが、 さすがに私のような素人には難しい。数年であきらめた。

卒業して十数年後、あるピアニストがこのハ短調ピアノソナタを奏するリサイタルがあるというので、 招待券をいただいたことがあった。 私はなんとしても行きたかった。しかし、 当時はデスマーチとなっているソフトウェア開発プロジェクトを担当していたので、 仕事も山のようにあったし、仮に片付けられたとしてもとても出かける雰囲気ではなかった。 涙を飲んであきらめた。私はまたシューベルトを裏切ってしまった。

そして中年となった今、久しぶりにシューベルトに向かっている。 練習しているのは、即興曲Op.90の第3番と第4番だ。 高校時代のハッタリ練習の成果は今となっては何の役にも立っていないが、 当時の親子の視線から受けた重圧と、 シューベルトに関する裏切り・裏切られをいったん白紙に戻すことができればいいと考えている。

以上を記したのは、おそらく2002年前半である。この年は、八重洲室内アンサンブルの演奏会で、 ピアノ独奏を披露することになっており、そこでシューベルトの即興曲を選んだのだった。 結果は、耳を覆いたくなるほど、不出来な演奏だった。今度もまた、シューベルトに裏切られたのだった。 (2005-11-06記す)

シューベルトの菩提樹について

シューベルトの菩提樹であるが、正式には、 シューベルト[1797-1828]が作曲した歌曲集「冬の旅」全24曲に収められているうちの、 第5曲の「菩提樹」という歌曲である。 フランツ・シューベルト(Franz Schubert)はオーストリアの作曲家。 あらゆる分野に渡って極めて多くの作品を残した。 特に、彼が遺した歌曲はその質量とも際立っており、 クラシック作曲家の中で「歌曲の王」と呼ばれることもある。

シューベルトの歌曲集「冬の旅」(Winterreise) (op.89, D.911)は、 彼の「美しき水車屋の娘」、「白鳥の歌」とともに、3大歌曲集として有名である。

「冬の旅」は名曲ぞろいであるが、その中でもっとも有名な曲が第5曲「菩提樹」(Der Lindenbaum) である。日本語の訳詞では「泉に沿いて茂る菩提樹」で始まり「ここに幸あり」で終わるこの曲は、 馴染みのある方も多いだろう。歌詞の大意は次の通りだ。 「菩提樹の陰で夢を見た、そこで僕は苦楽をともにした、今日そこで目を閉じると、 ここで休めと枝が呼んだ、振り向かずに歩いて来たが、枝はまだ呼んでいる」

ピアノ伴奏をしたときの経験からは、3度と5度の響かせ方、 6度の分散和音の粒の揃え方が難しい。けれども、聞く分には、本当にいい曲だ。

さて、この項を書いたのにはわけがある。 2004年5月15日、私のホームページにアクセスして来た履歴を調べて驚いた。 5月13日、5月14日と、この「シューベルトについて」に対するアクセスが急増していた。 キーワードは「シューベルト 菩提樹」である。なぜ急増したのか、私にはわからない。 おそらくテレビでシューベルトの菩提樹を特集したのではないか。 そして、google で「シューベルト 菩提樹」を入れると、このページが最初に表示される。 これにも驚いた。しかし、おそらくキーワードから連想されるに足る十分な情報は、 このページにはない。せっかく調べようと思って来て下さった方に申し訳ない。 そこで、シューベルトの菩提樹に関することを付け加えた次第である。

なお、前項で、おにいさんが歌う冒頭の個所は、原語では次のとおりである。
Am Brunnen vor dem Tore da steht ein Lindenbaum;
(2004-05-15)


まりんきょ学問所まりんきょと音楽作曲家論 > シューベルト