今でもパリにはフォーレゆかりの場所がけっこうある。1997年12月にパリを訪れたので、印象を書いてみる。 なお、これらの場所を探すのに、音楽之友社の「ガイドブック 音楽と美術の旅 フランス」は非常に参考になった。
フォーレがオルガニストを勤めた寺。雨宿りついでに中に入ってみた。でかい。少し埃っぽいにおいがした。
ちょうど中ではオルガンの即興演奏を行なっていた。昔はフォーレもこんなふうに即興演奏を行なっていたのだ、 と思うと感慨深いものがあった。当時の即興演奏を記録したものは残っていないようだが、 フォーレ的なものをオルガン独奏曲でどのように表現したのか、非常に知りたくなった。
話を戻す。このときの即興演奏もうまかったのだけれど、中にフランス語の説教が混じってそれがよくわからなかった。
この墓地に行こうとして地下鉄のパッシー駅で降りようとしたら、 実は最寄りの駅ではないことに気づいた。 6号線トロカデロ駅からが近い。
入り口に案内があったのでそれを頼りに探した。あまり広くはないところを何度もうろうろしたあげくようやく見つけた。 日本に見られる高く伸びた墓ではなく、地面に伸びた墓である。墓石にフォーレ一族の名が10ばかりある。 石の上には何も置かれていなかった、という印象があったが、 今回写真を見直してみてそれが思い込みであることがわかった。 きちんと花が備えられていた。
この墓の前で私は彼の弦楽四重奏曲を思い出した。彼の最後の作品である。
フォーレの墓は、金原礼子「フォーレゆかりの地を訪れて」に写真がのっている。 墓に刻まれた文字が見えないのが残念である。また、河本喜介「フォーレとその歌曲」には、 フォーレ家の人々と著者という題で、花とフォーレ家、河本さんに囲まれた墓が少しだけうつっている。 右は私が撮影したフォーレの墓である。
ついでに、近くにあるドビュッシーの墓も見にいった。こちらには花が置かれていた。 私はここで「フルートとヴィオラ、ハープのためのソナタ」を思い出した。 同時に、フォーレの墓に何もお供えをしなかったのを後悔した。
パッシー墓地から近いヴィーニュ通り32番地にある。 ここでフォーレが没したということがフランス語のプレートにかかっている。 外から見ただけであるが、なぜかほっとした。どうでもいいことだが、路上駐車が多く、少し興をそがれた。
プレートのある写真は、河本喜介「フォーレとその歌曲」にある。 金原礼子「フォーレゆかりの地を訪れて」には家の全体の写真が収められている。 右は私の撮影した写真である。
パリにいる間ラヴェルの墓やクープランの墓があれば行ってみたいと思ったがかなわなかった。 そのかわりプーランクの家に行った。
フォーレゆかりの地としては他に旧コンセルヴァトワールをちらりと訪れた。 今は若者用の音楽学校になっているようだった。 私は近くの楽譜屋でスカルラッティの全集版(ギルバート版)を密かに買う計画をしていたが、1冊1000フランもしたので断念した。 他にオペラ「ペネロペ」のスコアも探したがないようだった。仕方がないのでフォーレのごく小さな合唱曲を買った。
付記:ごく小さな合唱曲とは、
である。どちらも作品番号はない。(1999 10/2)