ハルプライヒ論文-フォーレの人間像と生涯

作成日:2011-05-03
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ベルリオーズと同様にフォーレも山岳地方出身の, より正確にいえば, 山裾の地方出身のフランス人である。彼の生れたアリエージュ地方は, 粗々しさと優しさの入り混じった地方であり, 硬い響きと同時に明るさももっている, その名前までが, この二つの性質を混在させている。フォーレは, まさにこの大地と, この簡潔で強い線をもった風景の子である。その風景の酷しさは, 南国の空の頬笑みによってやわらげられており, その広火でくっきりとした地平線は, きわめて人間的な田園生活の背景を形作っている。日のささないそこここの一隅, ささやくように流れるすき通った水, 微妙に変化する光, 時の移りと散歩する人の足のおもむくままに姿を変える風景, 南面の斜面に曲線を描いて散在する村落の明けっぴろげの無頓着さ, そしてつねに視線をさえぎる山の中腹に, 突然かかる雷雲, これらすべてのものがピレネの音楽家であるフォーレの作品のなかに見出されるのだ。

周知のように,彼は勤勉な職人,農夫,肉屋,鍛冶屋な どの血筋をひいた貧しい家系の出である。彼の血筋から は,ときどき優れた人物が出現するが,彼らはこの系統の 長所の結晶であり,かくれていた高貴さの昇華であるよう に思われる。フォーレの子息,フイリップ・フォーレ=フ レミエがアリエージュの人びとについて語っている言葉を聞いてみよう,

「この地方の人びとは, がっちりした愛すべく, しかも粘り強い人たちだった。波無い顔色, きわだった鼻, 生々とした目, ひき締った小さめの顎, 控え目な心とさすらいの精神をもつこれらの人びとは, ジプシーとサラセンの血筋をいくぶんかは受けついでいるようにみえる。彼らは, 冬には自然が人間の不意を襲うものだということを知っている山地の人びとの粗々しさをもち, 一方夏には太陽や大地が一緒になって人びとを楽しませるということを知っているトゥルーズ地方の人びとの優しさももっている。 彼らはまさに〔マニャグ〕の名に値する- マニャグは一種のの地方貴族のことである。というのも, この言葉は, 愛すべく, 誇らかな優しさをもった, という意味をもつからである。」

 「愛すべく, しかも粘り強い」, これはフォーレの特質を非常によく規定する言葉だ。彼はもっとも優しい心のひろい人であるが, その人好きのする性質の背後には, 見事な心の確かさと強さが秘められているのである。彼の深いひろい心を弱さと誤認し, 世慣れない純粋な感怖を無関心と思い誤ることはごくありがちのことである。ところで, この魅惑的なやさしい人は, 老年期にきわめて頑固な病を驚くべき克己心をもって甘受し, 耐えたのである-貧しさと無理解のことはここではいうまい。その内気さが, スキャンダルや華やかな成功から彼を遠ざけており, 彼の音楽もそれらのものとなんら関りがない。しかしその内気さは, 自分の価値と自分の進んだ道を確信しており, しかもそんなことを大声でみんなに報せようなどとは考えない人のもつ内気さにほかならない。 先生であり友人であったサン=サーンスは,フォーレについて次のように語っている, 「彼には,芸術家にとっては長所ともなるひとつの欠点が欠けていた-野心である」。 しかしながら<ピアノ五重奏曲第1番>がブリュッセルで初演されたあとで, 彼は次のような手紙を妻に書いたのだった。

「私のやり方は, 世間の人びとに分ってもらえないのだ。こんな恐怖を私自身抱いている」。

フォーレの精神生活はまことに捉えがたい。 あの心を慰める<レクイエム>の作曲家が, 心のひろい愛すべき懐疑論者, 不可知論者だといわれているのだ。 しかし, 彼ほど超越的なものをあこがれた音楽家・芸術家は少ない。 その超越者がキリスト教的なものかどうかは明確ではない。 しかしながら, あれほどの崇高なあこがれを表現した音楽家は, 光り輝きながら高みへと向う旋律や人間的な重みの不断の超越へと向かう和声進行を作り出した人は, そして「想像すること, それはもっとも望ましいもののすべてに, 現実を越え出るもののすべてに形を与えることである。 音楽は現実を超えて可能なかぎり私たちを高めることを目的とする。 私は非現実的なものに対する確かな欲求を抱いている」というような信条の告白をした人は, 自らは意識しない信仰者にちがいない。

 年老い耳が聞えなくなっても, この深い清明な境地は変わらない。 というより, それらの体験はあの明るいストイシズムを強め, 心のひろさと人間に対する憐れみの心を強めてさえいるのだ。 フォーレが妻にあてた手紙は, フィリップ・フォーレ=フレミエによって刊行されているが, これはフォーレの人間を知りその作品を知るうえで, またとない資料であるが, そのなかから, 同じ時期に書かれた曲を文字に移したものともいうべき二通をえらんでみたい。 最初の手紙は1921年3月24日ニースで書かれたものであり, <五重奏曲第2番>完成直後のものである。 「……おまえはものごとのすべてに確信をもっている。 私はちがう。 ……お前は私が悪人だといわれている人びとを弁護するといってよく非難する。 私はその人びとについていわれていることが信じられないから弁護するのだ。 私は生れつき邪気のない性質なので(そう, 無邪気なのだ), 悪よりも善の方を信ずるようになるのだ。 ……いろんな欠点があるけれど、少なくともひとつだけは大目にみて欲しい, なにも不満に思わないという欠点だけは.……」

 次の手紙は1922年4月6月ニースで書かれたもので, 素晴しい信条告白である。 「最近の手紙のなかでお前は神の創造に対する賛嘆の念と被造物に対する軽侮の念について書いていた。 だけどそれでいいのだろうか。 宇宙には秩序があり, 人間は無秩序だ。 しかしそれは人間の咎なのだろうか。 彼はすべてが調和しているように思われるこの大地の上に投げ出され, その誕生から死に至るまで, よろめきながら歩みつづける。 人は心と体の欠陥を負ったままこの大地に投げ出される(この現象を説明するために原罪を作り出さなければならなかったほどだ)。 人は一生, 子供のような心をもちつづける。 難しくても, いやでも, 必ずや報われるからというので, いい子になろうとしている子供のような心を-。 そしていったいどのような報いがこの子供のような魂に約束されているのだろう。 人類の未来のためにかくも苦しきことどもを耐え忍んだという満足だろうか。 一万人に一人もそれで満足する人間が見つかるだろうか。私たちの悲惨さを最もよく示すのは, まさにこの約束 -人になされた最上の約束であろう。 すべてを忘れ去ること、仏数でいう涅槃であり, キリスト教でいう永遠の安らぎ(requiem aeternam)である。 ちがう, 人間というこのあわれな諸悪のかたまり, 生きるために闘わればならないこの存在, そして彼の第一の, そしてもっとも怖ろしい義務は, 自分自身が害われるのを防ぐために他人を責めさいなむことなのだ。 彼に対してはもっとひろい心が必要なのだ。 何年も前から私はお前の考えの酷しさに対してこんな考えを反論として示そうとして来たのだ。 ここには二匹の犬がいる。 非常に年老いた, ほとんど目のみえない勇敢なムク犬。 よろよろと家具にぶつかってばかりいる。 そしてもう一匹は大きくして立派なシェパード。 大きな犬の目の前でムク犬を可愛がると, 大きな犬は部屋に如かれた白い熊の毛皮に飛びついて怒って, その耳をかむのだ。 この犬は, 人間にたとえればそんな人間なのだろう。 嫉妬で怒り狂いながら, 主人公には飛びかかろうとしないのだ。 さあ, これでお前も私が無力だとはもういわないだろう」。

 この心のひろい, 優しい人は, 不正, 低劣, 奸計などを心から嫌っていた。 そんなとき, 彼は人好きのする慎ましさを捨てておそるべき相手になるのだった。 1905年に彼がパリのコンセルヴァトワールの指導を委ねられたときに, 彼は一徹な厳しさをもって, スタッフや委員の刷新という不可避の仕事をやってのけ, 無用な憐みの心を捨てて, 依怙贔屓や, 無能なくせに栄誉を受けている人びとを排除したのだったが, そのためにやがて彼には「ロベスピエール」という仇名がたてまつられたのだった。 むしろアウギーアスの厩を掃除したヘーラクレース, あるいは求婚者たちをうったオデュッセウスなどの名が思い起される。 そしてそのころのフォーレはこのオデュッセウスを音楽化しよう用意していたのだった。 エミール・ヴィエルモーズのフォーレに側する著作は, 新たな解釈を断念させるほどの, 一篇の詩ともいうべきものだが, 彼はその本のなかで芸術家と人間の間に存在する深い統一を強調しながら, フォーレの浄化者としての役割を規定するために彼なりにホメーロスの英雄たちの例をあげている。 「その芸術の歴史のなかで, フォーレは, イタケーの王のように老人に仮装した英雄なのではなかったろうか。 彼は室内楽の宮殿から一群のあつかましい卑劣な求婚者たちを追い出すことができたのだ」。

 きわめて素朴で坦々たる長い生涯の物語を書こうとすれば数行で足りるだろうし, 音楽上のことでもそれ以外のことでも, センセーショナルな出来事はまったく見出しえないだろう。 1845年5月12日, パミエに生れたフォーレは幼いときから音楽に対する才能を示したため, 両親は1884年10月にパリのニデルメイエール宗教音楽学校に寄宿生として預けたのだった。 ここでの厳しい修行は, あきらかに彼の才能の開花のために最適のものだった。 その才能は, 当時ののフランスの音楽生活やコンセルヴァトワールでの教育を支配していた劇場音楽にではなく, 純枠音楽への, 内面的表現的への傾向をもっていたのだから。 ニデルメイエール学校では, コンセルヴァトワールとは逆に, フォーレはバッハを礼賛する雰囲気のなかで教育された。 バッハはフォーレの音楽に対する考えのなかに永続的な印象を残したのだが, それについてはのちにふれよう。 プラン・シャン(plain-chant,聖歌の一種)による教育のために, 早くから古典的な和声法を越え出ることができ, 古い旋法の無限の可能性を発見することができたのだった。 最後に, オルガンの訓練は, 美しい低音への趣味を育成し, 一方オルガンに特有の運指法の使用によって, 旋律的なレガートへの感覚と連続的な音程に対する好みが養われたのだった。 ニデルメイエール学校での教育の最後の期間―――1865年まで教育は行われた―――, 彼はカミーユ・サン=サーンスをピアノの師とした。 サン=サーンスはフォーレより10才年上なだけだったが, その早熟な創作力によってすでに重要な作品をいくつも書いていた。 お互いに相手を評価し合っていることから生じた二人の巨匠の友情は, その死まで続いたが, 若いフォーレは年長の友人の曲のなかに, 明晰さと形式的な均衡の貴重な手本を見い出したのだった。 そして彼はやがて明晰さと形式的均衡に詩情と夢を吹きこんだのだった。

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MARUYAMA Satosi