War History

※これはゴールド・ワックス連載分の記事を改編して再掲載したものです。

(文中の引用部で、特にことわりのないものはすべてAvenue Recordからリリースされた再発CD『Eric Burdon Declares "War"』『Black Man's Burdon』『Love Is All Around』『WAR』(AVENUE R2 71041)のライナー・ノーツを訳したもの)

エリック・バードンとリー・オスカー

 1969年の初め頃、エリック・バードンはニューヨークのコロンビア演劇学校に通っていたが、わずか一週間ほどでそこを辞めてしまう。古い記録では「教師たちが教えるようなことは、もうとっくにわかってしまった」というようなエリックの発言があったとされているが、去年の半ば頃のインタビューでは、「中途半端な気持ちでは成功しない」と諭されたために辞めた、というような発言もしている。この年の3月には、カリフォルニアに戻り、ただジャム・セッションを繰り返すだけの日々を過ごしていた。この頃に知り合ったのが、リー・オスカー、ジェリー・ゴールドシュタイン、スティーヴ・ゴールドの3人。このうち、デンマーク出身のハーモニカ奏者、リー・オスカーがアメリカへ渡ってきたのは1966年。最初の本格的な仕事は、ジェリー・ゴールドシュタインが手がけていたバブルガム系ミュ−ジシャンのセッションで、ハーモニカを必要としたときのものだった。正確な日時の記載は手元にないが、これがだいたい1968年から69年にかけてのことだろう。このときに、リー・オスカーはエリッ・バードンと知り合うことになる。69年の夏ごろにはジミ・ヘンドリクス、ジム・モリスン、キャンド・ヒート、リー・オスカーらとジャム・セッションを行っている。ゴールドシュタインはエリックに、映画で成功するにしても、ロック・スターである方が有利だと説得。音楽活動を続ける決意をしたエリックは、リー・オスカーと共にブルースをベースに持つバンドを探していた。そんなときに出会ったのが、ナイトシフトの面々だった。

クリエイターズ〜ナイトシフト〜ウォー

 ウォーのキャリアは1962年にまで遡る。1962年、ハワード・スコット(ギター、ヴォーカル、パーカッション)とハロルド・ブラウン(ドラム、ヴォーカル、パーカッション)の2人が結成したバンド、クリエイターズがその原型となっている。1965年には、チャールズ・ミラー(サックス、クラリネット、フルート、パーカッション、ヴォーカル)、ロニー・ジョーダン(ピアノ、オルガン、シンセサイザー、ヴォーカル、ギター、パーカッション)、B.B.ディッカーソン(ベース、パーカッション、ヴォーカル)の3人が参加。このとき既に、クリエイターズのメンバー達は独特の雰囲気をもつ演奏を行っていたようだ。ロニー・ジョーダンは、次のように語っている。


「私たちの周りや、育った環境が私たちの音楽を一風変わったものにした。ハワードと私は、コンプトン(ロスの南)で育った。そして私たちはそこに住むラテン系の人々の、マーリアーチやサルサ音楽を沢山聴いて育った。そして私は、スカ、ジャズ、オルガン奏者と、いろいろなものを聴いて育った。時として、クラブのオーナーは私たちの音楽を理解しなかった ―― 彼らは、私たちにブッカー・T&THE MG'sや、そのほかのそれまでにあったバンドのような音を出して欲しかったんだ。」


クリエイターズはフレッド・ヒューイと仕事をしたほか、ジェームズ・ブラウンまたはオーティス・レディングのバック・バンドにという誘いもあったが、これはロニー・ジョーダンが「若すぎる」という理由で、ロニーの母親が許さなかったという。1965年には、ジョニー・ハミルトンをリードシンガー、バックシンガーにモーゼス・フィーロックとミルトン・ジェームスを迎えて(ジミー・スコットというシンガーだったという説もある。もし現物などお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただければ幸いです)「Burn, Baby, Burn」、「Lonely Feelin'」(後にウォー単体でのファースト『WAR』に収録)などのシングルをリリース。しかし、ここでハワード・スコットは軍役のために2年ほどクリエイターズを離れてしまう。その間、残りのメンバーはロメオズ、パッカーズなどの名義で他のシンガーのバックを務めたりしていた。スコットが兵役から戻ってきた1968年、クリエイターズはパパ・ディー・アレン、そして結婚してハワイに移住したB.B.ディッカーソンの代わりにバンド・メンバーになったピーター・ローゼンを加えたラインナップで、バンド名をナイトシフトに変更。1969年になると、NFLのスターだったディコン・ジョーンズのバックを務めるようになる。その頃、ディコン・ジョーンズはソウル・シンガーを目指して、ハリウッドのクラブ・サーキット回りをやっていた。やがて、彼らはエリック・バードンと出会うことになる。

ジェリー・ゴールドシュタイン

 エリック・バードン&ウォー誕生の立役者、ジェリー・ゴ−ルドシュタインは、ウエスト・コーストでは早い時期から名前の知れた存在だった。60年代半ばには、ストレンジラヴズのメンバーとして「I Want Candy」などのヒットを放っている。ご存知の方も多いと思うが、このストレンジラヴズというバンドは一種のでっちあげバンドで、その実態はゴールドシュタイン他2名が組んでいたニューヨークのソングライター/プロデューサーチームだった。エンジェルスの「マイ・ボーイフレンズ・バック」、マッコイズの「ハング・オン・スルーピー」のプロデュースは彼らの仕事だ。その後、ゴールドシュタインはロサンゼルスへと移り、1968年には、ロック・スターのポスターを作る会社を設立、成功を収めていた。エリック・バードンがゴールドシュタインと関わりを持つようになったのも、ゴールドシュタインがエリックのポスターを、まだエリック・バードン&ジ・アニマルズが活動していた頃に手がけたことがきかっけだったという。そして1969年、ゴールドシュタインはステイーヴ・ゴールドと共にロサンゼルスで絵画学校を設立。そこでセールスマンとして働いていたのが、ピーター・ローゼンだった。ある日ピーター・ローゼンは、ゴールドシュタインにグループのリハーサルを見にくるように頼んだという。ゴールドシュタインは、ナイトシフトのあらゆるジャンルを包括した黒いサウンドに感動。そのときのことを、ゴールドシュタインは「私は、彼らの音楽はファンクとラテンの興味深い融合だと思った。ナイトシフトは面白い方向性を持っていたけれども、彼らはまだ何かを模索していた……」と語っている。

 ゴールドシュタインはその場で、ナイトシフトの面々とともに「YOU CAN DO IT,IF YOU WANT TO」という曲をその場で書き上げてしまったほどに意気投合したようだ。その興奮冷め遣らぬ状態でオフィスに戻ったゴールドシュタインは、そこで一人の女性と出会う。それは、エリック・バードンのガールフレンドだった。そこで、ゴールドシュタインはひとつのアイデアを思いついた。

 1969年、演劇学校を辞めてしまったエリックは、「ニューキャッスルに戻って、炭鉱夫にでもなるか」という発言が(どこまで本気かは知らないが)出るほどにまで、経済的苦境に立たされていた。そのエリックを援助していたのが、ゴールドシュタインだった。折も折、新しいバンドを探していたエリック・バードンとリー・オスカーは、ゴールドシュタインの仲介でナイトシフトの面々が演奏するクラブ『ラグ・ドール』へ。ナイトシフトのステージを見た二人はすっかり気に入ってしまい、リー・オスカーは飛び入りでジャムってしまったという。ウォーのメンバーはこのとき、リー・オスカーのことをエリック・バードンだと思ったらしい。なんともがっかりな話だが、ハロルド・ブラウンは

「たとえミック・ジャガーが飛び入りしても、エリック・バードンだと思っただろう」

と後には語っている。バンド結成の話はとんとん拍子に進み、ナイト・シフトは、ドッグ・ウィズ・スカーズをへてウォーへと名前を変更。その名付け親はスティーヴ・ゴールドとも、エリック・バードンとも言われている。それまでウォーの面々と一緒にいた3人のホーン・セクションと4人のガール・シンガーをクビにして、当初のメンバーは、ハロルド・ブラウン、ディー・アレン(元Dizzy Gillespie)、ハワード・スコット、チャールズ・ミラー、ロニー・ジョーダン、ピーター・ローゼンの6人。 ホーン・セクションをサックスとハーモニカだけで構成する、というのは、エリック・バードンのアイデアだった。ところが、まもなくピーター・ローゼンはドラッグのオーバードースで死亡。やむなく、結婚してメンバーを脱退した後、ハワイへと移住していたB.B.ディッカーソンが呼び戻されている。

宣戦布告

 1969年8月には、最初のセッションが行われている。そのときのデモ・テープは、後の1976年にリリースされたアルバム、『Love Is All Around』(ABC ABCD 988)に収録されている。1969年の9月から12月にかけては、アラスカからハワイまでのツアーを敢行。翌70年の1月2日には、スタジオに入ってアルバム作りを開始している。このウォーリー・ハイダー・スタジオでの録音は一週間ほどのものだったらしい。このとき録音されたものには、後に『LOVE IS ALL AROUND』に収録された「A DAY IN THE LIFE」と一部のコンピレーションに含まれている「MOTHER EARTH」の別テイクがある。このときのレコーディングから、エリック・バードン&ウォーのデビュー・アルバム、『ERIC BURDON DECLARES "WAR"(宣戦布告)』(MGM SE 4663)が制作、リリースされている。

「宣戦布告」へ

黒い世界

 エリック・バードン&ウォーのセカンド・アルバム、『THE BLACK-MAN'S BURDON(エリック・バードンの黒い世界)』(MGM SE 4710)は1970年12月にリリースされている。かなり早いペースだが、このアルバム収録曲のうちの何曲かは、既にファースト・アルバムでのセッションでレコーディングされていたという説もある。

「エリック・バードンの黒い世界」へ

「エリックは、スプートニク号のようなもので、彼は私たちをミサイルのように、発射台から打ち上げた。私たちが軌道に乗ったあとは、エリックは私たちを解き放ち、私たちは自分たちの道を進んだ。」ハロルド・ブラウン − エリック・バードンがウォーに残したもの

 1971年2月、ヨーロッパ・ツアーの最中に、エリック・バードンはウォーのメンバーと別れてしまう。これにはいろいろな説が流れていて、「突然失踪した」というものもあれば、「病気で倒れた」という説もある。エリック自身は、「単に声が出なくなったので、ツアーから降りた」だけだといっている。

 しかし、いずれの理由にしても、それでは何故その後もウォーと一緒には活動せず、別々の道を歩むことになったのかはわからない。僕個人の意見では、一緒にいてやれることはやり尽くしたこと、そしてエリックはもともと我の強い人なので、ウォーのメンバーが自分ほどブルースにこだわっていないことに、そろそろフラストレーションを感じ初めていたのではないか、ということが原因なのではないかと思っている。もともとラテン・ジャズ的嗜好の強かったウォーのメンバーに、ロック・バンドとしてエリックのバック・バンドをやらせることは、そろそろ限界に来ていたと考えてもいいだろう。

 ウォー単体でのデビュー・アルバム『WAR』は、リリースされたのはエリックがウォーと別れた後だけれども、実際のレコーディングはまだお互いが別々に行動するとは考えていなかった時期に行われたものだった。ウォー単独でならば、MGMとは異なるUnited Artistsと契約できる、というゴールドシュタインの読みもあったようだが、なによりもウォーというバンドの可能性が、そのままエリックのバック・バンドをやらせるだけでは十分に伸びてこない、という判断もあったのだろう。ゴールドシュタインによれば、エリック・バードンはウォーが自分抜きでレコーディングを行うことに、何の問題も感じていなかったという。むしろ、そのことについての不安を述べていたのは、ウォーのメンバーたちの方だった。ハワード・スコットは次のように述べている。


「私は、少し神経質になっていた。エリックをフロント・マンにしていると、とても居心地が良かったんだ。いつも、ショックを緩衝してくれる誰かがいたわけだからね。エリック抜きでは、私は準備ができているかどうか不安だった。これまで、アルバム用の曲を作り出し、考えることはなかったからね。」


 エリック・バードンは、ウォーのメンバ−達にとって、決してお荷物ではないどころか、頼りになるリーダー(いや、大将と言った方が「らしい」だろうか)だったと言ってもいいだろう。エリックは、ウォーのメンバーを安心させ、自信を与えることができた。


「ハワード・スコットはステージでのリーダーだった。ロニー・ジョーダンは音楽面での指導者。ロニーは、私たち残りのメンバーにコード進行について指示した。そしてエリックは、私たちにスピリットを与えてくれた。1時間半も演奏した後、私はどうやって演奏を続ける元気を得ようかと考えるときがあったが、するとエリックが私たちにその元気を与えてくれるんだ。エリックは、可能ならすべての力を私たちから引き出してくれたものだ。」ハロルド・ブラウン


「エリックは、私に多くのことを教えてくれた。エリックは私から不安を取り除く手助けをしてくれ、そして人前で演奏するガッツを与えてくれた。そしてエリックは私たちがロードに出たとき、哲学的な話をしたものだった ―― そのとき、私はあまり彼の話を理解していなかったが、後になってわかった。エリックは、私は私たちを観に来てくれたすべての人々を助ける「音楽の医者」だと言っていたんだ。皆同じ世界の一部分、すべての人が一人の人である私たちと一緒にやらなければならなかった。」ロニー・ジョーダン


 それでは、音楽的な面ではどうだったのだろうか。エリック・バードンと一緒に演奏することによって、ウォーのメンバーは自分たちの演奏をさらに力強い、柔軟性のあるものに進化させることができた。それは別に、エリックがそう教えたというわけではなく、異なる音楽性を持っていたエリックとウォーが、一緒に演奏することによって得られた予期せぬ成果だったと考えるのが正解だろう。

活動を始めてから何ヶ月かのアメリカ、ヨーロッパ・ツアーでのショウを振り返って、ゴールドシュタインはこう語っている。


「彼らは、全くアニマルズの曲はやらなかった。エリックは、何か全く違うことをやっていたんだ。それはまるでジャズ・バンドのようなもので、エリックは即興でヴォーカルを乗せることができた。毎晩、同じ曲が違う長さになった。時として、それは3〜4時間ものセットになった。まさしく、マジックだったよ。」 「グループの連中はしばらくの間に経験を積んできたから、自分達が演奏しているものを録音するのに、いくらか余裕をもって、やりやすくなってきた。即興で歌うエリックとともに、彼らはジャズ・バンドへと変化していた。」


 ウォーのメンバー達もまた、次のように語っている。


「私たちは、以前にはできると思わなかったようなやり方でエリックと即興演奏することができた。時として、私たちはステージ上で、45分もの間休みなしで演奏した。グルーヴのある演奏を始め、そしてそれから、一度のブレイクもなしに音楽的にも詞的にも違う方向へと進んだ。そして、誰かが意表をついたら、私たちは譲って、そいつに続けさせた。そいつらが自分のやりたいように即興演奏をしている間は、ソロでも何でも、私たちは新しい局面に入るようにかまえていたものだった。」「時として、私たちは休みなしに45分もの間、ステージで演奏し続けた。そしてその間、ずっと即興でやっていた。エリックには、本当に驚かされたよ。」ロニー・ジョーダン


「私たちがショウが始まる前にバックステージにつくと、エリックはまさに歌詞のアイデアを歌い始めていた。私たちがステージに立つと、エリックはそのまま続けて歌い、聴衆たちにちょっと変わった物語を語ったものだった。それはまるで、私たち全員旅に出ているかのようだった ― 私たちはまさにグルーヴを演奏し始め、そしてエリックが歌いだすと、それは歌の形を取り始めるんだ。」ハロルド・ブラウン


「エリックは、歌のアイデアと、絵を描いたノートやスケッチをスタジオに持ち込んできたものだった。私たちがレコーディングを始めると、彼はスケッチブックを広げ、何か面白いものを見つけ、そして私たちは曲作りを始めたんだ。」ジェリー・ゴールドシュタイン


「私たちが『タバコ・ロード』のような曲をやったとき、エリックは私たちがジャムるのを聴いて、それを曲のアレンジに組み込んだものだった。」ハワード・スコット


これらの発言からわかることは、エリック・バードン&ウォーの演奏スタイルは、決まった曲をきっちり演奏するというよりも、なにかひとつのテーマをもとに、ステージ上でジャム・セッションを行うものだった、ということだ。

エリック・バードンもまた、次のように語っている。

「ナイトクラブのバンドからロックバンドへ変更させたっていうか……。ブルースもやらせようとしたんだが、やつら全然やる気なくて。ラテンジャズをベースにしたバンドのイメージが残っててさ。だから、たまにステージへ上がる前に何を演奏するのか全く教えずに、キーだけ決めてパーカッションのやつに勝手にやらせてね。ジャムセッションをステージでやったんだ。」(月刊プレイボーイ1999年9月号、p.32)


後のウォーにおいても、ジャム・セッションからアルバム、シングルを作り出すという手法は受け継がれている。この事実ひとつとってみても、ウォーのメンバー達にとって、エリックとの共演が大きな財産となっていることは疑う余地もない。しかし、ウォーのメンバー達がその経験によって独り立ちできるまでの力をつけたときには、エリックの存在は(エリックにとっては、ウォーの存在が)むしろお互いのやりたいことを制限するようになってしまったのではないか。だから、もうそれ以上は続けられなかった……というのが、真実だと思う。

 1971年のツアー途中で別れたあと、エリック・バードン&ウォーが目立つ形では関係を持たなかったことから、まるでお互いの間には深い溝ができてしまったかのように思われがちだが、実際にはどうだろうか。僕の知る限りでは世界一のエリック・バードン研究家、ディオン氏の著作『Good Times』によると、エリック・バードンとウォーのメンバーは、最後のヨーロッパ・ツアーの後、一緒にカリフォルニアへ戻ってから、お互い別々にやっていくことにした、と記されている。いきなりいなくなって、ハイさようなら、というのではなかったのは本当だろう。何故エリックが脱退したのかということについて、ハロルド・ブラウンは次のように語っている。


「私は、ウォーの分裂のカタリストだったんだ。私たちは、イギリスのブリングトンで演奏していたと思う。エリックはこの美しい婦人と結婚して、恋に落ちていた。エリックは四六時中私たちと一緒にツアーをしていることで不幸だったし、私たちはといえば、始まったばかりだった。エリックは、一種の家庭的な人として、腰を落ち着けたがっていた。私は、エリックはあまり幸せそうに見えないから、辞めるべきだと言った。ウォーはあなたがいなくても続く、大丈夫だろう、とね。」(EBCN Newsletter Vol. より)


この時期にそんな事実があったのかどうか、どうにも信じがたい話ではあるが、ウォーのメンバーがエリックに対して、負の感情を持っていないことはわかるだろう。

エリック・バードン&ウォーについては、情報不足と偏見のために、アニマルズ以上にまともに語られていない。まだまだ研究の余地が残されていると言っていいだろう。

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