Rail Story 14 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 14 

 追憶のボートトレイン

横浜港ボートトレイン。その言葉には何ともノスタルジックな響きがある。そもそもボートトレインとは「船車連絡列車」のことを指すもので、以前紹介した北陸線敦賀港駅へと運転されていた「欧亜連絡列車」もこの範疇に含まれる。

当時ボートトレインが運転されていた日本の代表的港から外国への定期運行航路は、稚内-大泊(現在のコルサコフ)間の稚泊航路、敦賀-ウラジオストック間のウラジオ航路、長崎-上海間の上海航路、神戸-ヨーロッパ各地間の欧州航路、横浜-アメリカ間の北米航路などである。
これらの中でウラジオ航路はシベリア鉄道に接続、日本側も定期列車の運転で応え日本とヨーロッパを最短で結んだのは特筆され、またその他の航路接続については、運航の都度不定期(臨時)列車が運転されて、特に京都-神戸港間、東京-横浜港間の列車はちゃんと時刻表にも記載されていたという。今回はこの東京から横浜港へと走ったボートトレインにスポットを当ててみよう。

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日本からの外国航路の歴史は比較的古く、明治8年には早くも横浜-上海間に定期航路が開設されている。日清戦争後は欧州、北米、豪州へと航路は延びていくが、これは当時の明治政府が航海奨励法と造船奨励法という補助を行ったことにより、船主や運航会社に事実上の便宜が図られたことによる。明治44年には13,000トンクラスの本格的客船「天洋丸」「地洋丸」「春洋丸」が竣工、外国の客船に全く引けをとらない設備と性能を誇った。
いっぽう大正15年8月15日、この日行われたダイヤ改正では京都-神戸港間、東京-横浜港間に待望のボートトレインがお目見え、横浜からはサンフランシスコへ向かう客船との接続が図られた。後に横浜-サンフランシスコ航路には昭和4年に「浅間丸」、翌昭和5年には姉妹船の「秩父丸」と「龍田丸」もデビューする。また当時ボートトレインには接続していなかったが、横浜-シアトル航路には昭和5年4月25日竣工の「氷川丸」と、その姉妹船の「日枝丸」「平安丸」も仲間に加わる。その他にも続々と「優秀船」と言われた日本の客船はデビューを果たし、航路へと旅立っていった。

現在の氷川丸
横浜港に係留されている氷川丸

こうして太平洋戦争以前の日本の客船は黄金時代を迎える。昭和12年に政府が定めた「優秀船舶建造助成施設」は、補助金交付により日本の客船を増やして外国航路を充実させるものではあったが、皮肉にもそれは有事の際の軍への転用を義務付けたものでもあった。
以降デビューする客船は、速力21ノットを要求された。しかしこの頃の客船の実用速力は最大でも20ノット程度、それをたった1ノット上げるためには2,500馬力もの出力増が必要で、エンジンも当然重くなる。また船の形は細くなり当然収容力が低下する。つまり運航しても不経済なことは目に見えていたが、この過酷な軍の要求を受け入れざるを得なかったという。

昭和15年3月、北米航路に「新田丸」が就航した。しかしこの船が北米航路に投入されるのは予定外であった。というのも前年11月21日、ロンドンに入港直前の「照国丸」が、テムズ河口で機雷に触れ沈没してしまう。これを受け日本からの欧州航路が縮小されていたためで、昭和15年9月に欧州航路は休止となっている。昭和14年9月には既に第二次世界大戦がヨーロッパで開戦していたのだ。のち外国航路は運航休止が相次ぎ、東京-横浜港間のボートトレインは昭和16年以降、正式な運転記録さえ残っていない。

当時世界第三位の保有数をみた日本の客船だったが、「優秀船舶建造助成施設」で建造された全12隻のうち、客船として就航出来たのはたった5隻、しかし全てが約束どおり軍に徴用され南米航路の「報国丸」など5隻は砲門を載せ特設巡洋艦に、4隻はなんと空母になってしまう。
「新田丸」も空母になった1隻で、昭和16年9月には一旦海軍の輸送船となったものの、翌昭和17年11月には空母「沖鷹」に大改造されてしまう。昭和18年12月4日、姉妹船で同じく空母「雲鷹」となった「八幡丸」と共に短い一生を終えた。たった3年半の命だった。また昭和14年7月、南米経由世界一周航路に就航した「あるぜんちな丸」は、わずか2年後の昭和16年9月には海軍輸送船に徴用され、昭和18年11月には空母「海鷹」に大改造…この時さらに1ノットの増速のため、ディーゼルエンジンをタービンに換装したという。結局この制度により建造された客船は、全て戦争であえない最期を遂げた。

改造を免れた客船は「優秀船舶建造助成施設」以前のものも含めて海軍の輸送船や病院船となったが、多くが戦禍に消えていった。戦前の日本の客船は性能にも優れ、また豪華な設備を誇ったが、これは戦後再び客船として世界の海で活躍するということが約束されていたのであろうか…。

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終戦時、日本に残った客船と呼べるものはたった5隻、うち長距離航路に就航出来るのは「氷川丸」の1隻だった。戦時中は海軍の病院船となり、三度も機雷に触れたもののかろうじて生き残っていた。戦後の「氷川丸」は、しばらく復員輸送や国内航路、また石炭輸送などに従事したが、昭和26年の日米平和条約調印で北米やヨーロッパ各地へ就航、昭和28年7月には懐かしいシアトル航路に復帰した。この航路再開に呼応して、東京-横浜港間のボートトレインも復活する。しかし日米を結ぶ航路には戦後すぐにアメリカの新造船が就航しており、当時船齢23年の「氷川丸」は決して順風満帆な船出ではなかったようだ。

この頃になると航空機の台頭が客船から乗客を奪い始めた。戦後すぐはレシプロエンジン機で航続距離もそう長くなく、しかも収容力も小さくて決して客船には勝てなかったが、徐々に頭角を現すようになる。
昭和29年2月2日、日本航空初の国際線の東京-サンフランシスコ線にデビューしたDC-6Bは、ホノルルの他にウエーキに寄航しなければならなかったが、日本風の豪華な内装と、ゆとりを持たせたシート配列などで先行した航空会社に対抗した。続いてターボコンパウンドエンジンとなったDC-7Cは性能や航続距離の向上でウエーキ寄航の必要がなくなった。
しかし昭和34年夏には日本-アメリカ路線にパンアメリカン航空のジェット機B707が就航、これには日本航空のレシプロ旅客機も太刀打ち出来なかったが、それ以上に客船とは比べものにならない所要時間の短縮は、もはや客船が航空機に勝てる要素を失ってしまっていた。

昭和35年8月20日、日本航空の東京-サンフランシスコ線に日本初のジェット旅客機DC-8-32が就航。その7日後の8月27日、横浜からの第46次航をもって「氷川丸」のシアトル航路は終わりを告げた。日本のフラッグシップはこの時「氷川丸」から日本航空のDC-8に始まる国際線ジェット旅客機に交代したのだ。同時にボートトレインもこの日が最終運転となった。

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戦後のボートトレインは、東京-横浜港間をC58型蒸気機関車が牽いていた。晩年は東京-鶴見間がEF58型電気機関車が牽くようになったが、鶴見-横浜港間(高島貨物線・横浜臨港線)は最後までC58型か8620型蒸気機関車が活躍した。
ボートトレインの発着した横浜港駅は、新港埠頭4号上屋の場所で、客船の停泊が大桟橋に移った現在は海上保安庁がおかれている。かつてはこの4号上屋が華やかな国際航路のステージで、税関検査室や待合室、レストランなど現在の国際空港のような賑わいがあったという。

かつての埠頭は現在海上保安庁 汽車道 臨港線の鉄橋跡 赤レンガ倉庫に続くレール
かつての埠頭は海上保安庁に 汽車道になった臨港線 鉄橋も残っている 赤レンガ倉庫に残るレール

ボートトレインは桜木町駅の近くから万国橋の脇を通り左に曲がると新港埠頭4号上屋に到着した。現在このルートの多くは臨港線の廃止後、「汽車道」として遊歩道に生まれ変わったのを知る人も多いだろう。汽車道に残されたレールは当時のままボートトレイン用のホーム跡や、他の上屋へと続いている。

万国橋から続くレール 4号上屋に続くレール 横浜港駅のホーム跡
万国橋から延びてくる線路 4号上屋へと向かっていた かつてのボートトレイン用のホーム

横浜港駅のホームは客車7両がようやく停まれる程度のものだったが、時にそれを上回る8両での運転も行われたという。現在も残されているホームは短くはされているが、かつての賑わいを偲ばせてくれる存在だ。

ただ横浜港駅にはホームはあったものの改札口はなかったという。4号上屋には見送り客がボートトレインで東京へ戻るために臨時のキップ売場が設けられ、国鉄ではなく日本交通公社(現在のJTB)が業務を行っていたが、大半の乗客はキップを持たずホームにやって来てしまい、結局車掌が車内で発券に追われたという。この車掌は列車が着いた時にも駅員に成り代わって集札を行っていたので、てんてこ舞いの大活躍だったという話も残されている。

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戦後、北米航路に君臨した日本唯一の客船「氷川丸」。最後の航海を終えた後は、その功績を讃えられ翌昭和36年には横浜港開港100周年を記念してメモリアルシップとなり横浜港に係留された。船内は見学施設として、またユースホステルとして長く使われていたが、平成18年12月25日に一旦閉館されてしまった。しかしその後「氷川丸」はかつての船主である日本郵船に籍を戻し、同社の手により平成20年4月25日から再び一般公開されている。

「氷川丸」は日本の客船黄金時代の証人として、横浜港にその雄姿を留め続ける。ただその隣には、航海に合わせて運転されたボートトレインの遺構も残されていくことだろう。

今も横浜港にある氷川丸
今も横浜港にある「氷川丸」


かつて世界を結んだ客船は、今では移動の手段ではなく旅そのものを楽しむクルーズ船が主流となっています。使命はすっかり変わってしまいましたが、その陰で様々な運命を背負った客船と、脇役の鉄道の存在があったのです。

次は、あっけない運命に終わった路線と、意外な結末の話です。

【予告】 大師線の謎

―参考文献―

鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション6 国鉄ダイヤ改正1960 BOAT TRAIN(臨港列車) 鉄道図書刊行会
クルーズ 1989年9月号 Legend 「あるぜんちな丸」 海事プレス社
クルーズ 1990年5月号 Legend 「照国丸」 海事プレス社
クルーズ 1990年9月号 Legend 「氷川丸」 海事プレス社
クルーズ 1991年5・6月号 Legend 「新田丸」 海事プレス社
クルーズ 1991年9・10月号 Legend 「報国丸」 海事プレス社
豪華客船新時代 幻の豪華客船列伝 毎日新聞社
航空ジャーナル 1978年9月号臨時増刊 ダグラスエアライナー 航空ジャーナル社

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