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レイル・ストーリー6、発車いたします。


 ●神戸港に鐘は鳴る

日本を代表する港の一つ、神戸港。
大型の貨物船や国内・国際ルートのフェリーが常に出入りし、また有名なクルーズ客船も時には寄港するなど、活況を呈している。

現在でも国際貿易には船舶便は欠かせない存在だが、今ではすっかりトラック輸送が当たり前になった港から国内への輸送ルートは、かつて鉄道が主役だった。
明治維新後、神戸港は国際貿易港としての道を歩み始める。もっとも神戸港は江戸時代からの沿岸航路の寄港地だったが、洋式の大型帆船、汽船には対応出来ておらず、明治11年から港湾整備工事が行われた。その前年には東海道本線神戸駅からも神戸港へ延びる線路が出来ていたが、後に開通した今のJR山陽本線の前身、山陽鉄道も明治23年、兵庫駅から港へ延びる和田岬線を建設した。

神戸港中突堤

神戸港は明治39年から港をやや東寄りに展開し、現在もポートタワーがそびえる中突堤や、新港突堤、兵庫突堤等の大型船舶対応埠頭が建設されていく。これらに呼応するように接続する線路も順を追って建設され、まずは明治40年、東海道本線六甲道-灘間の東灘信号場から線路を分岐し、第四突堤(新港)の初代神戸港駅までを開業した。その後次々と神戸港には各突堤へと続く線路が張り巡らされ、昭和8年6月には戦前における神戸港の鉄道網が完成した。これらの路線は神戸港に限らず「臨港線」と言われるようになり、船舶輸送から国内各地へのルートの最前線となった。

のち新港突堤の入口近くには小野浜駅が設けられたが、昭和11年には二つの駅は統合され小野浜駅が神戸港駅を名乗ることになった。

明治40年には港湾調査会の答申により「重要港湾」の指定が行われている。この時は横浜、神戸と並んで敦賀も第一種重要港湾の5港に含まれていた。今なら成田、羽田等の第一種空港と同じ重要性が認められていたのだろう。

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神戸港第四突堤は国際旅客航路の大型船舶が接岸する華やかな舞台となった。ここへ延びていた線路には、欧州航路の航行に合わせた旅客列車、通称「ボートトレイン」が大正15年8月から京都-神戸港間に運転された。時を前後した大正9年7月には、横浜港からのサンフランシスコ航路に合わせたボートトレインが、東京-横浜港駅に運転を開始している。横浜も神戸同様に臨港線が出来ていた。
横浜からの北米航路は戦争により中断されたが、昭和26年には数少ない戦前からの生き残り客船「氷川丸」がシアトル航路に復活、昭和32年8月からは東京からのボートトレインも運転を再開した。しかし国際航路は航空機にシェアを奪われ、昭和35年8月27日に幕を閉じ、列車もそれを最後に運転を終了した。
引退した氷川丸は横浜港にそのまま係留され保存展示されているのはご存知のとおり。また昭和61年11月に廃止された横浜港の臨港線だが、一部は現在の遊歩道「汽車道」として蘇っている。

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戦後の神戸港は再び活況を呈した。高度経済成長も重なり、臨港線にはひっきりなしに貨物列車が行き来するようになっていく。この頃の貨物列車の主役は、もちろん蒸気機関車であった。大正生まれの8620型機関車(通称ハチロク)が、シュッポシュッポと神戸港で活躍していた。

神戸港の周りは貿易会社を始めとしたオフィス街。埠頭での貨車の連結、切り離しでひっきりなしに鳴らされる汽笛が仕事の邪魔になるのでは…という話が当時機関車を保守していた鷹取機関区東灘支区で持ちあがった。そこで汽笛に代わり鐘を鳴らせばどうかということになり、昭和30年頃から鐘の取り付けが行われた。
以後神戸港を行き来する機関車は「カラ〜ンカラ〜ン」と鐘を鳴らしながら走るようになり、神戸港の風物詩のようになったという。

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やがて港はさらに東部へと拡大され、摩耶埠頭が建設される。神戸港の臨港線も延長されることになり、昭和47年には灘浜埠頭駅までの路線が出来あがった。
しかし時代は徐々に鉄道輸送から機動性に富むトラック輸送へと変化していく。トラックの性能は大幅に向上し、これに名神高速道路に始まる道路網の整備も拍車をかけた。船舶輸送のスタイルもRoRo船(Roll on Roll offの略)を用いた国際規格の大型コンテナが主流となっていく。現在のJR貨物では車輪を小型化したコンテナ車でこれに対応しているが、当時の国鉄のコンテナ車は車輪の開発が間に合わず、対応出来なかった。国際コンテナはそのままトレーラートラックに付け替えられ、道路を走って国内各地へ向かう結果となった。

鉄道による船舶輸送とのリレーは全国的に急速に衰退し、神戸港では昭和59年2月から臨港線の廃止が始まった。最後に残ったのは神戸港-摩耶埠頭間だったが、昭和61年11月をもって廃止となった。

神戸港駅

その後神戸市内には東灘信号場-神戸港間の貨物線と、兵庫-和田岬間の通称和田岬線(本来は山陽本線)だけが残ったが、もはや船舶輸送との直接の関連はなくなっていた。

神戸港駅は国鉄がJRに変わってからもJRコンテナを取り扱う貨物駅として残されていたが、平成15年11月30日をもって廃止となり元の鷹取工場の跡地に完成した新ターミナルに移転した。JR貨物のコンテナ列車はこれで大幅なスピードアップが実現したが、神戸港から鉄道が消えた日でもあった。

和田岬線は三菱重工への通勤線となってしまったが、専用の特殊な列車が運転されていたことで話題を呼んだ。また沿線にある川崎重工が製造する鉄道車両の納入にも活用されている。

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神戸港第四突堤には、かつてのボートトレインの遺構が残っている。
もっとも第四突堤は現在でも国際旅客航路やクルーズ船のターミナルとして機能しているが、今のポートターミナルの横には元の施設がそのまま残されている。ポートライナーのポートターミナル駅の高架下は、線路こそ撤去されているもののボートトレインが発着していたホームがそのままとなっていて、戦前の華やかりし頃を伺わせてくれる。ここから多くの紳士淑女が外国を目指したのだろう。

神戸港第四突堤

旧ポートターミナル

かつての栄華を残すホーム跡

神戸港第四突堤

元のポートターミナル

ホーム跡とその上屋

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神戸港の臨港線で長く働き続けた蒸気機関車「ハチロク」は、昭和39年度にディーゼル機関車に置き換えられて引退した。この時鐘の音も聞かれなくなってしまったが、鐘は当時の国鉄福知山機関区(京都府)の機関庫の屋根上に移設されて「安全の鐘」という名で生まれ変わり、毎日10時と15時の2回鳴らされ作業の安全を促していたという。

その鐘は、職員の無事を祈りながら、ずっと屋根の上からやさしく見守っていたに違いない。


−参考文献−

鉄道ピクトリアル 2002年3月号 【特集】鉄道と港−臨港線回顧 鉄道図書刊行会
鉄道ファン 1972年5月号 ”はちろく”の鐘は鳴りわたる 交友社

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前作「レイル・ストーリー5」をリリースしたのは今年の春でした。もっともその時は「レイル・ストーリー4」から約1年近くのブランクがあり、こんなことではイカン!と反省し、引き続き話題を拾ってきた次第です。ただし今回は、前回惜しくも書けなかった東京地区の話題を重点的に取り上げました。

実は去年、名鉄のJR高山線乗り入れ特急『北アルプス』が廃止になってから、かつてその列車が富山地鉄に乗り入れていたことを思い出していました。今回のストーリーはそこからスタートしたのですが、それは割とよく知られている話でもあり、当初は話題に取り上げようかどうか迷ったのです。ところがボクが持っていた資料をひっくり返してみたところ、たとえ知られている話ばかりでも、ここで一度話をまとめておかねば…という気持ちになりました。
いざ書いてみると、話があるわあるわで前後編の2話になってしまいました。実は今回の京王線・京急線の話も軽い気持ちで書き始めたつもりが、これまた長くなってしまって2話に。初めて話題に取り上げた新幹線の話も同様です。そんなことで全12両編成という過去最長編成での発車となりました。お許し下さい。

鉄道での旅って、どこか不思議な魅力を感じます。いつも見慣れているはずの特急電車が駅を静かに離れて行く瞬間、ふと「あの電車に乗って遠くへ行ってみたい」という気持ちがするものです。
そしてそれが叶った時…今度は車内から駅や車窓を眺めている時、座っている座席…空気がもういつもと違う世界の始まりのような気にさせてくれます。そんな気持ち、大切にしたいものです。

今回ただ一つ残念だったのは、話題に取り上げた地区が北陸、東京、関西に留まってしまった点です。もっともっと視野を広げていかなければと反省する次第です。
ただし、この一連のストーリーは、路線ユーザーの目から見た「雑学」というもので進めているのには変わりありません。読者の皆さんの周りにも、もっといろんな話があることでしょう。そんな話題をまた拾って、次のストーリーに繋げていきたいと思っています。

長くなりました。この辺でペンを置くことにします。

ご乗車ありがとうございました。

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