おまたせいたしました。
レイル・ストーリー6、発車いたします。


 ●敦賀への道

JR北陸本線は『サンダーバード』など多くの特急列車が走る幹線である。その華やかさや、冬の厳しい気象条件など、話題にも事欠かない路線でもある。その中でも米原-敦賀間は最も歴史のある区間である。

北陸本線は明治2年に時の駐日イギリス公使のパークスが計画した計画案に始まった。この時の案では東京と京都・大阪を結ぶ路線の他に米原付近から分岐して敦賀付近に向かう支線が提示されたという。早速明治4年には測量が開始された。

敦賀への正式なルートの選定までには色々な案があったというが、明治13年には琵琶湖の東岸を通る長浜-敦賀間と決まり、工事が始まった。明治15年3月10日の部分開通を経て、明治17月4月16日には柳ヶ瀬トンネルの完成により全通をみた。終点は敦賀より先で敦賀港のある金ヶ崎となった。長浜から先の線路は関ヶ原を越えて中京方面へと延びていき、明治20年4月25日に名古屋の先の武豊まで開通、関西との接続は大津-長浜間だけは琵琶湖の水運を利用していたが、明治22年7月10日にレールが繋がった。

鉄道のネットワーク構築を急ぐ明治政府や北陸地方からの請願もあり、北陸本線は敦賀から先へと延びていく。明治32年3月20日には富山までの開通で北陸本線はここで一旦全通をみる。その後直江津経由で東京との路線建設も必要となり、大正2年4月1日には今の北陸本線全線が出来あがった。敦賀と金ヶ崎の短い区間は北陸本線の支線となったが、通称「敦賀港線」と呼ばれるようになる。

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敦賀は古くから地形に恵まれた港町として栄えていた。明治32年7月には港湾整備が完成し、大型船舶に対応する近代的な港に生まれ変わった。

現在の敦賀港

赤レンガ倉庫

敦賀港

今も残る赤レンガの倉庫

敦賀とロシアとの間には明治43年に国際航路が開設されることになり、ウラジオストックとの間に定期航路の運航が開始された。これはウラジオストックから先のシベリア鉄道を介して、ヨーロッパ各国への鉄道ルートが開けたことにもなり、続く明治45年6月15日から東京-金ヶ崎間に1・2等専用の欧亜連絡列車、通称「ボートトレイン」がウラジオストック航路の運航に合わせて週3回の運転を開始、北陸本線は一躍国際線ルートの一部としての栄光に輝くことになった。
この航路とそれを結ぶ列車は、第一次世界大戦やロシア革命の一時的な中断や、便数に変化はあったが第二次世界大戦直前まで続いたという。玄関口の金ヶ崎駅は大正8年に敦賀港駅と改称している。

当時の敦賀港駅には桟橋に面してホームが設けられ、税関や待合室、食堂等の施設やロシア領事館が並び、また多くの渡航客で賑わいをみせたという。またこのルートは当時日本とヨーロッパを16日間で結ぶ最短ルートでもあり、今なら国際線ヨーロッパ直行便のジャンボ機並み存在だったのだろう。

敦賀港駅全景

船の出航風景

敦賀港に停泊する船と駅

ウラジオストックへ出航する船

戦時中の敦賀港はもっぱら中国大陸や朝鮮半島との物資輸送で盛況になるが、やがて終戦を迎えた頃には日本の商船はことごとく壊滅、敦賀港駅も戦災を受け一部の施設を除いて焼失する有様であった。戦後はソ連ナホトカからの木材輸送が盛んになったが、既に海外渡航の手段は航空機に移行しつつあり、入港する船舶は貨物船ばかりになっていった。

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戦後の北陸本線はまだ蒸気機関車の天下で、また敦賀を挟んだ前後の区間は今も語り継がれるほど、勾配の続く難所であった。

北陸本線米原-敦賀間は続いて交流電化の実用化で有名になる。
昭和30年代には北陸本線の改良が進んでいき、戦争で中断していた難所の柳ヶ瀬ルートの改善が再開、複線化・電化計画もスタートした。当初は東海道本線と同じ直流電化の予定だったが、当時仙山線で試用された交流電化の実用化が当初予定の山陽本線広島-下関間に代わり北陸本線田村-敦賀間で行われることになり、昭和32年10月1日には赤い交流電気機関車ED70型がデビュー、峠は近江塩津経由の深坂ルートに変わった。

北陸線で活躍したEF70型交流電気機関車

この時は交流と直流の接点、米原-田村間は電化されず蒸気機関車がショートリリーフにあたっていたが、問題はその間のために二度の機関車付け替えが必要ということだった。のちリリーフ役はディーゼル機関車に替わったが、続いてデビュー予定の交直両用車両のため、この区間では架線に絶縁区間(デッドセクションという)を設け、その間を列車が走行中に回路を切り替える「車上切替方式」が採用された。

「まもなく電源切替のため、車内の照明が一旦消えます」という車内放送は、この区間を通過するという証になった。

この方式は東北本線黒磯駅の停車中に架線に送る電気を切り替える「地上切替方式」と比較検討されたが、走行中に切替が可能な「車上切替方式」に軍配が上がった。
車上切替方式は後に九州の関門トンネルを出たところにも採用されたが、そこでデビューした交直両用でステンレス車体の機関車EF30型やピンク色の421系電車は北陸本線で一旦試運転され、実際に営業運転したという話も残っている。

北陸本線には昭和37年3月21日から交直両用の急行電車471系がお目見え、続く昭和39年12月25日には同じく交直両用の特急電車481系が『雷鳥』『しらさぎ』にデビューした。ただし機関車が牽く客車列車や貨物列車の田村駅の機関車交代劇は、交流専用機関車の引退までこの区間の風物詩のように続くことになる。

昭和49年7月20日、琵琶湖の西岸を走る湖西線が開業した。
これは米原経由で遠回りだった北陸本線のショートカットルートとしても計画されたもので、翌昭和50年3月10日の新幹線博多開業に伴うダイヤ改正の時に大阪と北陸を結ぶ列車は大部分が湖西線経由となり、『雷鳥』などの特急は約20分のスピードアップが実現した。少々寂しくなった感のある米原-敦賀間だったが、名古屋への特急『しらさぎ』が残った他、新幹線連絡の特急『加越』が新設された。

国鉄時代の特急「雷鳥」

国鉄時代の特急「しらさぎ」

湖西線経由になった『雷鳥』

米原経由の『しらさぎ』

「交流電化」がすっかり代名詞のようになった北陸本線だったが、平成3年9月1日、転機が訪れた。米原-長浜間(正確には田村-長浜間)がそれまでの常識を覆して直流に置き換えられ、長浜まで新快速を始めとした関西からの電車の直通運転が始まった。これは北陸本線の一部が、東海道本線と一体化したということになる。同時にすっかり関西圏の一部になっていた長浜は、JR西日本の「アーバンネットワーク」に組み入れられた。

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敦賀港線はかつての賑わいを見せることはないが、廃止されることなくJR貨物の路線として存続されている。敦賀港駅もJRコンテナを扱う貨物駅としての営業が続いている。

JR貨物 敦賀港駅

ディーゼル機関車が入換中

線路は敦賀駅へ

現在の敦賀港駅

構内で入換中のディーゼル機関車

線路は敦賀駅へと続いている

北陸本線敦賀駅から下り列車に乗り、金沢方面へと走り始めるとすぐに左手に線路が別れていく。これが敦賀港線である。線路は今も敦賀港の岸壁まで延びている。

多くの客で賑わった岸壁

復元された敦賀港駅舎

モニュメント

かつての国際旅客航路岸壁

復元された敦賀港駅舎

敦賀港のモニュメント

平成11年7月、敦賀港は開港100周年を迎えた。この時数々のイベントが行われたが、敦賀港線にはかつての欧亜連絡列車を模した蒸気機関車の牽く列車が復活した。
また場所こそ少し違うが、港にはヨーロッパへの玄関口だった敦賀港駅舎が復元され、港や欧亜航路、敦賀港線に関する展示が行われている。戦災で建物の資料が少なくなってしまい復元は困難だったと聞くが、その姿は小ぶりながらも華やかだった頃を彷彿とさせる。

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平成14年、JR西日本は長浜までの直流区間を、さらに先の敦賀までとする計画を発表した。これは特急『サンダーバード』『雷鳥』の混雑緩和のため、関西からの新快速電車を敦賀まで直通させようというものでもある。
しかしもっと古い歴史を紐解いてみると、関西と敦賀は明治以前から人や物資の流れがあり、福井県でも敦賀を中心とした嶺南地方は関西弁に近い言葉だというのも事実。ともかく、北陸本線でも一番古い歴史を持つこの区間は、国際線時代、初の交流電化実用化などを経て、敦賀までの直流化により、ようやく自然な形に納まっていくのかもしれない。


島国の日本にはどこにも外国へと繋がるレールはありませんが、かつてこんな「国際線」という時代があったのです。それも北陸本線にあったなんて…なんだかロマンを感じさせてくれます。

次は東京地区からの話題です。

【予告】幻の路面電車(前編)

−参考文献−

鉄道ジャーナル 1975年5月号 北陸本線の生い立ち 鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル1999年2月号 日本海縦貫線の成立 鉄道ジャーナル社
鉄道ピクトリアル 2002年3月号 【特集】鉄道と港−臨港線回顧 鉄道図書刊行会

−協力−

敦賀商工会議所

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