6. As 10 Years Go By

 

         7. 西武是政線

             2002.1.30.

     
 

 世田谷線で下高井戸まで行き、京王線に乗って多磨霊園まで行く。歩くとすぐ甲州街道に出て、西武線らしき電線が見えたのでそちらに行き、しばらく沿線を歩く。

 大学の3・4年は高幡不動に住んでいたが、1・2年は府中市の中河原に住んでいた。その頃よくカメラを持って出歩いていて、一度是政線沿いを歩いた時があった。いい印象があったので、中央線まで出るにはここを歩こうと決めた。

 しかし歩いてみると、変化のなさにいまいち盛り上がらずにいた。これまで連日山や丘を越えてきたので、考えてみれば平地の、しかも住宅地を歩くのは、変化が少なく見えるのかもしれない。

 多摩駅に出て反対側(東口)に出ると、いきなり開けた。何か新しい建物が見えるので行ってみると、東京外語大だった。こんな所にあるとは知らなかった。出来て間もないらしく、すごく綺麗な建物だった。突っ切って反対側の門へ出る。すると、近くに東京スタジアムが見えた。なるほど、この辺りを大規模に盛り上げてる訳だ、と思った。

 そうだ、この辺りは昔飛行場だった所だ、と思い出した。ユーミンの「中央フリーウェイ」にも出てくる。大学生になってこの街に住み始めた頃は、それが嬉しかった。必ずしも希望して郊外に来た訳ではなかったから、少しのことでも何か誇れるものが欲しかった。その頃はもう一度大学を受け直そうと思っていた。でも、慣れてみると悪い大学でもなかったし、だいいち街は住みやすく、なんだかいろいろ癒してくれもした。多摩川があったのは大きかった。真っ暗な気持ちで大学時代がスタートした時、毎日河川敷に行って川を見ていた。

 スタジアムと反対側の方に行き、そのまま歩くと、アメリカンスクールがあった。少年たちがテニスコートでボールを打っていて、当然英語を喋っていた。その隣には野川公園があった。林になっていて芝生も広く、いい雰囲気だった。下が土だと足の感触もいい。アスファルトの道に出ると、こんなにも感触は違うのかとちょっと驚いた。

 公園を抜けて少し行くと、新小金井駅があった。黄金(こがね)の井戸が地名、と看板に書いてある。つまり、それくらい水源が貴重だったということだ。そうか、この辺も水路があまりなかったのか、と思う。地名と歴史の関わりは面白いものだ。是政線は名称が変わり、今では多摩川線になっていた。

 そのうち暗くなってきたところで、向こうに亜細亜大学の蛍光が見え始めた。ううむ、12年ぶりだ。かつて他の大学の入試で亜細亜大学に来たことがあった。そこも含めすべて落ちて、浪人が決定したのだ。そして次の年、またさんざん落ちて、多摩地区へとやって来た。

 大学の前を通って武蔵境へ出た。なんと駅前が商店街になっていて、一応ここも街だったんだな、と意地悪く思う。武蔵境には厳しい。大学の同じコースの奴がこの辺にいて、まあそいつのせいだ。

 中央線に乗って吉祥寺へ出る。JRなんて久し振りに乗った。吉祥寺には帰宅時間で大勢の人がいた。普段は昼間歩くのであまり見かけないサラリーマンをたくさん見た。井の頭線に乗り換え下北沢で降りて、そこから歩いて帰る。

 社会人になってしまえば、大学名なんて誰も聞かない。

 

08. パルコ・ブックセンター大泉学園