5. 伝説の緑区は

 

         6. As 10 Years Go By

              (2002.1.29.

     
 

 急行で京王永山まで行く。ここから今日は多摩センターまで行って、そこから京王本線まで歩くのだ。

 この辺はよく知っているところだ。駅前から少し歩くだけでもうひたすら懐かしい。当然のように、この辺をよく動き回っていた大学時代を想いだす。久し振りとは思っていたが、こんなに懐かしく想いだすとは思わなかった。

 川沿いに行って、昔友人の伊欲君が住んでいたコーポ有賀を見つける。そうそう、ここだ。よく遊びに来たんだ。隣は書道教室で、建物は変わらずに、でもまたさらに古くなってそこにあった。

 伊欲君は実家に戻ってホームセンターに就職した。何年かは連絡を取り合っていたけれど、仕事が忙しくて連絡を取らなくなってしまった。今になってみると、連絡が取れないくらい忙しいことなんてあるはずない。お互い、社会の中で少し追いつめられていたのかもしれない。

 少し行ってピューロランドの前を過ぎ、パルテノン多摩を通過して中央公園へ行った。池の前で少し休んだ。かつて見た屋外シアターを探したが、もうなくなっていた。ここに来るのは7年ぶりだった。

 大学に入って初めて出来た友だちは、大分から来た女の子だった。やけに色白で、目のくっきりとした、自分の意見をしっかり言う人だった。好きな本や音楽が驚くほど似ていた。感覚が少し変わっていたが、感情豊かで、推し量れない分そう思ったのかもしれない。入学そうそう目の前に現れ、そして一年後、突然姿を消してどこにもいなくなった。

 趣味の似た人間に簡単に友だちになれたから、大学はそういう所だと思っていた。けれど学生時代、二度と彼女のような人は現れなかった。宇宙人だったのかもしれない、と彼女と仲の良かった共通の友人が言った。冗談を言っているふうには聞こえなかった。僕も彼女の言っている意味が分る気がした。

 その二人とぼくと伊欲君とでここへ来た。大学生になって初めての夏、ここで花火をした。線香花火の炎のしずくが池に落ちるのを見ていた。みんな一人暮らしだったが、今東京に残っているのはぼくだけだ。

 唐木田方面に少し行き、それから坂を登って松が谷方面へ歩いた。モノレールが上を走っていく。学生の頃は支柱だけだったが、もう開通して何年かが過ぎた。モノレールの向こうに通っていた大学が見えた。こうして見るとだいぶ大きかった。

 大学周辺の野猿街道は激変していた。すっかりメイン道路の感じになっていた。工事中だった以前は原付バイクでも走りやすかったが、今は車のスピードが速くて危ないな、と思う。

 そのままモノレールの下を通って山道を上がった。新しい道で、かつてなかった道なのでどこを歩いているのか分らない。けっこう整備されていて、新しい家がたくさん建っていた。あれから開発されたんだろうか。

 だいぶ上がってきたところで駅に着き、中大と明星大の中間で、明星方面へ行くことにした。大学への道はStar Roadと名付けられている。辺りが真っ暗だったので、確かにその通りに思えた。

 久しぶりに明星大学構内へ入る。友だちがここの学生だった。一緒に屋上に登った校舎は新しい建物に変わっていた。高校が同じで大学まで近かったその友だちは、卒業して地元に帰り、高校の教師になってこの間結婚した。屋上に登ったのは、もう何年も前のことだ。

 門を出てあのすごい坂を下った。相変わらず駅と大学を結ぶ坂はきつい。多摩動物園駅を過ぎ、高幡まで歩いた。道の両側にあった桜はモノレール建設でなくなってしまったが、道は綺麗に整備されて悪くはなかった。桜がなくなった時は随分憤ったものだが、ふと、きっとどこかに植え替えられ、元気にしているに違いない、と思った。

 川崎街道に出ると、高幡の中心はすぐ近くだった。少しそれ、一人暮らしをしていた建物まで行った。ハイツ吉原という名のその建物は、少しも変わらずにそこにあった。不思議と何も古びていない気がした。コンクリートだからだろうか。それとも、意識の中で建物が変わっていないからだろうか。自分のいた部屋の前に立ってみた。ちょっと照れるような、切ないような気もした。今は違う誰かが住んでいるのだ。

 駅前は激変して、すっかり洒落た通りになっていた。あの、地方の駅前旅館みたいな雰囲気が好きだったのだが、それは不動方面に行かないと残っていないようだ。まあ、好き嫌いだけで街があるわけでもない。それは差し引いておかなければならない。

 ホームで待っていると準特急がやって来て、それに乗って帰った。これも以前にはなかった。

 10年という月日が、あれから流れた。

 

07. 西武是政線