マリエに翼を突き付けられて一瞬怯んでしまった俺は、ジャックの怒りを静めるのに少々手間取ってしまった。
彼女の白翼が目に入るごとにより正確に描かれる、造られたセリーア人のイメージ。
マリエのその白い姿を目にするたびに痛々しく、マリエの言葉のひとつひとつにうしろめたさが募っていく。
「いくら机上でうまくいったとしても、実際とはわけが違うと思うの。だから、ファラの力が必要なのよ」
ドームでの軟禁生活、各種の精密検査などが彼女を焦らせているのは明白で、それがまた彼女自身の存在に悲しみを覚えてしまう。
「私、普通の生活をするには体力が足りないのですって。
自分では虚弱体質だと思ったことないのだけど、ヴァルタナッシュ博士はそう言うの。
以前いたところでもそうよ。たくさんの薬を毎日打たれて、もうどっぷり薬漬け」
博士はマリエの近い将来を知ってるのだろうか。
それとも、マリエの秘密を探るために──?
「あの……さ、疲れやすいとか、身体がだるいとか、調子がヘンな時ってない?」
「ほんと言うとね、こんなふうに翼を拡げるのは意外と疲れるの。だから滅多に拡げないわ。
翔ぶ機会もないしね」
多分、マリエは何も知らない。
自分は翔べると思ってるし、セリーア人だと確信してる。
白い翼が彼女の誇りであり、だからこそ、セリーア人特有のその白翼を使わなくては咲かないガイダルシンガーが、きっと彼女を荵きつけてやまないんだろう。
我が家に帰った俺は、ジャックの機嫌直しにおやつ程度のキャットフードを出したあと、狭い一角に設けた俺の植物園に訪れ、「歌姫」の鉢を両手で包んで床に置いた。
自分も床に腰を下ろして、指先でギザギザの葉っぱをちょこんと突く。
緑の葉はその細く分かれた部分を交互に揺らして、風の掠れる音を俺の耳にわずかに届けた。
「歌姫」は育ってる。この蕾は少しずつだけど確かに大きくなっていた。
葉も以前より色艶が出てきたように見える。
「おまえの仲間はどうして育たないのかなあ。
同じガイダルシンガーで、ファラが持ってきた条件も同じなのに」
研究室のほうがここより設備はしっかりしてる。
向こうのほうがずっと、花にとってよりよい環境を整えてあげられるはずなんだ。
なのに、どうして? 博士の観察の手違い?
<朱里っ、早くメシっ! こんなオヤツちっとじゃ俺の腹は納得しっこないっ>
居間から聞こえるジャックの叫びが、俺と「歌姫」との会話を中断させる。
ゆっくり腰を据えて話していたくても、我がままな飼い鳥が多分許してくれそうもなかった。
「仕方ない、食事の支度をするとしますか」
踵を返して俺が居間に向かうと、せっつかれて重い腰を上げてきたところだというのにジャックが待ちきれずにやって来て、
<メシったら、メシっ!>
クェッケ、クェッと叫びながら、ばさばさ翔び回って床に羽根を撒き散らすものだから、またひとつ余計な仕事が増えてしまう。
こいつはっ! 少しは掃除する身にもなってほしいよ。
ジャックはいいよな。散らかす専門なんだからさ。
<朱里、俺を餓死させる気かよっ>
「わかった、わかった。作りますって」
こうして作り始めた夕飯も、あとはファラが帰るのを待って食べる直前に手を加えるだけのところまで済ませたんだけど、一向にファラの奴が帰ってくる兆しはなく。
一時間、そして二時間と時間だけが過ぎてゆき、ジャックなんかはお腹の空きすぎで話すのもやめてしまう始末。
その姿はソファーの上でぐったりと、まさに羽根を伸ばしてるといった表現がぴったりな状態で横になっていた。
「あーあ、もうこんな時間だよ。ったく、ファラってば何やってんだよ。夕飯までには帰るって言ってたのに」
<ファラ、遅いなー>
「遅すぎるよ」
それでも、「先に食べちゃおうか」ってどっちも言い出さないのは我が家のいいところだ。
単に食べ終わった途端にファラが帰って来てからがただ怖いだけなのかもしれないけど。
「本部長のところでつっかえてるのかな」
<今度の相棒、誰にするかで揉めてんのかもしれねえなァ。
うー、この際誰でもいいから、早く帰ってこねーかなー>
「エスターさんのとこに行ってるのかも」
<夕飯時なんだし、そしたらうちに誘うってっ。
うちのメシ、そんじょそこらのレストランよりうまいのわかってんだからよ>
「ん……」
エスターさんも以前はよくうちに夕飯を食べに来てくれていた。
そのままファラと仕事に行く時は特に。
「どっかで事故ったのかな」
<死なない限りは知らせてくる>
まさか……、ね。
<馬鹿。ファラが死んだら世の中こんなに静かなわけねーだろっ>
……だよな。そしたら一番にうちに連絡来るだろうし。
──ピピッ、ピピピッピピッ……。
ちょうどそこに、玄関の呼び鈴がなった。
<やっとメシにありつける>
途端に喜ぶジャックと一緒に、俺は玄関まで迎えに出た。
「遅かったじゃんか、俺たち、心配して……たん…………」
でも、そこに立っていたのはファラではなく、まさに噂のエスターさんだった。
「あの……、すみません。ファラだったらまだ帰ってないんです」
「いえ、今日はきみに会いにきたんですよ。ちょっといいですか?」
「俺……に、ですか? あ……はい」
エスターさんは、「こんな夜遅くに申し訳ないのだけど」と言いながら、いつものように居間に向かった。
我が家は半掘り床式の居間の奥に調理場兼食堂があり、居間のソファーは真ん中のテーブルを囲むように四方に組み込まれている。
「食事……、これからですか?」
ダイニングルームのほうのテーブルには夕食の用意がされたままだった。
エスターさんはそれに気付いて気が引けたみたいだ。
「ファラを待ってるんですけど、まだ帰ってこなくて。そんなに気にしないでください。いつものことですから。
あ……と、エスターさんこそ、もう食べちゃいました?」
俺はお茶の用意をしながら、首を伸ばしてエスターさんを見た。
「ええ、もう済ませました」
「まだ食べられるようでしたら一緒にどうです?
……って言ってもファラが来るまで待たなくちゃならないんですけど」
「じゃ、その時になりましたら、お腹と相談させていただきます。それより……」
「はい、話ですね。──さ、どうぞ」
俺はテーブルの上にティーカップをふたつ並べた。
ジャックは期待を裏切られて、仕方なく隣りで不貞寝している。
エスターさんは紅茶を一口啜って、ゆっくりとカップを置いた。
「今日、アースは本部長のところへ行っているはずです。……朱里くん、きみは今、十七歳ですよね。
この星の法律的には我々は十六歳で成人とみなされ、きみはその水準で考えればすでに保護者は不要となります。
コスモ・アカデミーに在学しているのですからそれなりの将来は約束されてますし、きみの場合はゴールドカードも持ってますから、もしELGになれなくても少なかれ政府の研究員には採用されるでしょう」
突然、エスターさんが切り出した現実帯びた話に、俺はいつまでもこのままではいられない事実をあからさまに突きつけられた気がした。
「俺は受信しかできないのと同じだからELGになれないって……、つまりそういうことですか?」
「違います。きみは絶対食いはぐれることがない……と、そういうことです」
コスモ・アカデミーに入学すれば、エリートコースは約束される──。
俺はELGを目指すために入学試験を受けた。
英才教育とまではいかなかったけれど、ファラは小さい頃から俺にいろんな知識をつけさせたから、簡単にとはいかなくても俺は試験に合格できた。
十七歳でゴールドカード、つまり、博士コースの能力者専用学生証を所持するのは偉いほうだ。
マックスだって十九歳、俺より二歳年上だし、知ってる顔で俺と同い年の奴はいない。
大学に入ってからも俺は飛び級を繰り返して、十六になる前には修士課程を修めていた。
だから、ゴールドカードを持つようになって俺はそろそろ二年になる。
ファラがELGの仕事で長期出張することになったのは、俺がカードを取得してしばらくしてから──。
俺が十六歳になるのと同時期だった。
「現在、アースと朱里くんの関係は保護者と庇護者で登録されてます。
本来、一年前に訂正すべきことなのですが、出張の任務内容が緊急を要するものでしたので、後日、任務完了を待って手続きすることなっていたんです。
血縁関係もない、ましてや片方はセリーア人となると、単に保護者から後見者への訂正だけでは済みません。
これまで地球人種の未成年者がセリーア人を保護者に持つ例はなく、これからも稀有なことと言えるでしょうから」
「手続きが……難航してるんですか?」
「ええ。このまま上層部に任せてたら、別居の方向に話は進んでしまうでしょう。
ですからアースは本部長に直談判しに、あなたとの同居生活を続けられるよう頼みに行っているのですよ。
──つまり、朱里くん。きみとのペアを承諾してもらいにね」
唖然として俺は声も出なかった。
だってそんなこと……、一度もファラは言ってなかったし、そんな……、だって、ファラは──。
「一番手っ取り早い方法なんです。ペアを組んだ者同士が一緒に住むのは珍しいことではありません。
これで許可されなかった場合、アースはほかのELGと不平等な扱いを受けたことになりますからね。
ですから当然、本部長としては、協力者同士の同居生活を承認しなければならなくなるわけです。
ですが、それも朱里くんがアースの相手として認可されればの話。
何しろアースは環境庁の保護下にあるべき人物であって、容易に『はい、そうですか』と話が進むはずがないんです。
きみにもそれなりの覚悟と堅い意志がないと……」
「エスターさんはそれでいいんですか? 本当にファラとペアを解消してしまって……。
あんなにうまくいってたのに、本当にそれでいいんですか?」
エスターからペア解消を持ち出したんだ、とファラは言っていたけれど、俺たちのことを自分のことのように心配してこうして来てくれるほどの人だ。
マジにファラに呆れての解消、じゃないと思う。
エスターさんはファラの親友というべき人なんだから、そんな人がファラの信頼を裏切るわけがない。
「エスターさんはどうしてペアを解消しようなんて言ったんですか? まさか、俺のために……?」
俺とファラを組ますために?
「朱里くん、いくら何でも感傷でペアを解消したりしませんよ。
僕はね、もしこのまま僕がアースと組んでいたら、いざというとき大惨事に発展すると判断したんです。
アースはセリーア人。ですが、その前に僕の大切な友人です。僕のミスで失いたくはありません」
「でも、先のことは誰にもわからないんだし。
大惨事も何も、起こるべくして起こるものは誰がファラのパートナーになったところで起こるんだから……」
「それでも回避できるものならば、僕は事前に手を打っておきたいんですよ」
エスターさんほどの優秀なELGでさえファラの相棒は荷が重いと言っているのに、それで俺に勤まるわけないじゃないか。
第一、その理由でボットナム本部長がペア解消を認めたんなら、俺へのスカウトに了解だすわけないよ。
役者不足でチョン、だ。
<偉く謙遜してんなー>
「ジャックは少し黙っててくれよ。それでなくても頭ん中ぐるぐる回ってるんだから」
「では、頭の中を整理しながら聞いてください。
きみは、アースが本来得意とするのはβ類テレパシー・コミュニケーションだと知っていますね?
β類は使徒星の言葉──本来、セリーア人やサミュエ種たちのような使徒星住人が使う特殊語ですから、我々ELGでさえ、かの精神感応での会話は察知できません。
アースは器用にα類と使い分けているようですが、平常の時はそれでいいとしても非常時態では何が起こるか、それこそ予測不可能です。
アースが大きな負傷しないとも限らない。
息絶え絶えに緊急信号を送るとき、不意にβ類を使ってしまうかもしれない。
彼は優秀なELGですが、生身の身では完全とは言いきれませんからね」
「でも、ファラはきっとそんなドジは踏まないです」
「きっと?」
「──多分……」
「でも、絶対ではないでしょう? 先に言ったはずです。僕はできる限りの手は打っておきたいと。
──朱里くん、きみは使徒星側の者でもないのにβ類を使える。
その上、受信力は人の倍以上も優れている。
きみは自分自身の力を寡少に考えているようですが、僕はその能力を過大に評価したい。
少なくとも僕よりもアースの役に立ちますよ」
「期待しすぎですって! エスターさん、忘れてもらっちゃ困りますよ。
俺、受信はよくても送信がメッタメタなんだってことっ」
「ああ、そのことですか。大丈夫です。心配いりませんよ。
朱里くんの送信を受信する相手はアースですからね。彼だったらきみの弱波でもキャッチします。
何と言っても朱里くんのSOSとなれば、アースは仕事を途中で投げ出したって翔んで行くでしょう。
それこそ本当に翼を使ってまでしてもね」
そんなことするはずないよ。
セリーア人は簡単に羽根を拡げたりしないもの。──人目につくしさ。
それに、セリーア人にとって翔ぶことは重要な意味を持っている。
彼らは認めた奴しか連れて翔ばない。
幼児とか求婚相手とか、「己より強者でありながら守るべき者」しか抱いて翔んでくれない。
だから、俺だってガキん時は抱いて翔んでもらえたけれど、今じゃ全然ダメ。
宙(そら)の散歩に行く時は、俺はしっかり留守番役を言いつけられる。
本当にたまにだけれど、ファラは翼の調子を保つために翔びにいく。
その時のお共はジャックだけ。
俺は誰もいなくなった部屋の掃除でもするしかないんだ──。
「朱里くん、交信が入ってますよ。C―六チャンネルみたいです」
考えに耽っていた俺は、「まさか……」の現実に引き戻された。
慌ててパネルを受信に切り替えると、画面が白いものを映し出す。
白いもの──ヴァルタナッシュ博士の白髪と、これまた白く長く伸びた顎髭だ。
「何だ、博士か。こんな時間にいったい何の用です?」
「『何だ』とは何だ。わしで悪かったの。ま、よいわ。
それより、おまえさんとこにマリエが邪魔しておらんか?」
「マリエ? 彼女がどうかしたんですか?」
「いなくなったんじゃ。
今、うちの職員総勢で探しとるとこなんじゃが、あの娘がおまえさんに懐いとったのを思い出してな。
こうして当たってみた次第なんじゃが……、やっぱりおらんか……」
「博士、ストマーです」
「おお、エスターか。そこにおるのならちょうどいい、一緒に探してくれんかの?」
「了解しました。今からそちらへ向かいます」
「博士、俺も探します」
「いや、おまえさんはそこにいておくれ。万が一、あの娘がそっちへ向かうかもしれん」
「でも、マリエはここの住所さえ知らないんですよ。俺、教えてないし。
それに土地感だってないんだから……」
「いや、知っとるよ。推測じゃが、マリエはいなくなる前に研究室に入ってわし個人手帳を見とるのだよ。
ちょうどおまえさんのアドレスのページが破いてあった。そっちへ向かう可能性大じゃ」
「じゃ、みんなしてこっちに向かえば?」
「いや、切り取られていたのはおまえさんのとこだけじゃないんじゃ。わしの行きつけのとこ全部なんでな」
何てことはない。住所録の部分そっくりそのまま持っていかれたってことじゃないか。
今時、手書きのアドレス帳を使ってるほうが悪いんだよ。
アンティークなとこがいいとか何とか言っちゃってさ。
パーソナル光記録手帳だったら、指紋、網膜チェックでロックが掛かって乱用されずに済んだろうに。
「散髪屋に、レストラン……。そうだ、ボットナムのとこにも知らせんと。
あー、とにかく、朱里っ、おまえさんはそこにおるんじゃ。
マリエが行ったら、わしのコードにZ―九九チャンネルで知らせておくれ」
Z―九九チャンネル──最優先緊急チャンネルだ。
「了解、来たらすぐに知らせます」
「それとな、もうひとつ頼みがある。
マリエが持ち出したものをほかのもんに知られんよう大切に保管してほしいんじゃが……」
「ああ、住所録? 博士、そんなにヤバイとこ行ってたりしてたんだ。ひとりで何楽しんでたんです?」
「何を言っとるんじゃ、ったく。そんなもんありゃせん。実はな、……じゃよ」
「え? 聞こえませんよ。どうして急に声を潜めたりするんですか。ちゃんと言ってくれなきゃ……」
「阿呆、もちっと勘を働かせんかいっ! 大きな声で言えんから、こうして小さく言っとるんだろうが。
あれじゃよ、あれっ。今日見せてやったであろう。例の花じゃよ!」
げげっ、ガイダルシンガーっっっ!?
「察しても口にせんでくれよ。口外はもちろんのこと、誰の目にも触れんよう預かっててほしい。
いいかね、とにかくマリエが向かったら、マリエもじゃが、そっちも……どうか、く・れ・ぐ・れ、も頼む。
朱里、わしはおまえさんを信じとるよ」
「ちょっ、ちょっと、博士ったらっ!」
ブッツン……、だって。
勝手に頼んで、勝手に切るんだからっ。博士もほんとに調子が良すぎるよ。
「あ……れ、ジャック、エスターさんは? どこ行ったの?」
<とっくに出て行ったぜ。おまえが博士と話してる時によ。しっかし、あいつもやってくれるじゃん。
いやァ、見直した。なかなかどうして度胸がある>
「おまえ、ヘンなとこ褒めるなよ。それより、俺はマリエの身体のほうが気になる……。
だって急におかしいじゃないか。
さっきまでいつもと変わらない様子だったのに、今夜に限って研究所からいなくなるなんて。
きっと切羽詰まった事情が起きたんだ。ガイダルシンガーを持ち出すほど切羽詰まった何かが。
──俺、やっぱりそのへん見てくるよ。何か、ヘンに落ち着かない」
<おいっ、もう少し様子を見てからにしろよ。
どーせ、ここに来るとしたら、おまえが出向かなくても来るものは来るんだ。
あとはじっといい子にして待ってりゃいいさ>
「でも……」
トゥルルッ、トゥルルルル……。
交信音が俺たちの間に割り込んだ。
ピクッと身体を震わせた次の瞬間、タイミング合わせたように、俺はジャックと顔を見合わせた。
──来たっ!
それだけが頭に浮かんで、誰からなどとは考える暇もなかった。
そそくさと回線を開いて応答する。
相手の市民コードがパネルの右端に表示され、それが博士からのだと確認すると同時に俺の指は交信受諾のボタンを押していた。
でも……、俺の交信相手は博士じゃなかった。
「マリ……エ……?」
彼女の、髪を振り回した姿が俺の瞳に映った。
白い肌をますます白くした彼女の顔は、青白いと表現したほうが正しかった。
額には汗が滲み、乳白色の髪がぴったりと張り付いて、彼女の表情を隠すように覆っている。
その乱れ髪は彼女の疲労を訴え、俺はマリエが数時間で数年の歳月を経てしまったような感覚に襲われた。
そこには昼間見たマリエはいなかった。
充血して赤く潤んだ眼、オーラを思わせる揺らぐ長い乳白色の髪──。
くるくると元気良く動いて植物の緑を映した瞳も、艶やかで柔らかな思わず触りたくなってしまう髪も、月が満ち欠けていくようにその姿をとどめていなかった!
「何で、どうしてこんな……。マリエ、いったい何があったのっ!?」
「しゅ……り……朱里ぃ……。お願い、助けて……。咲かないの……、花が咲いてくれないのよお……」
「とにかくっ、そこどこっ!? 俺っ、今から行くからっ!」
「わからない……。どこだかわからない……」
「じゃっ、どうやってそこに行ったのか教えてっ。ドームを出て、今の場所まで歩いて行ったのかい?」
「ううん。研究所の近くでタクシーに乗って……」
エアタクシー? でも、マリエは現金を持っていなかったはずだ。
でも、こうして交信だってしてる。博士の市民コードを使って……。
そうか! 市民証明カードっ。
マリエは博士のそれをキャッシュカードとして使用したんだ。
無人エアカーのタクシーはシティズンカードさえ差し込めば、どこだって行ってくれる。
それこそカードの期間限定金額を上回りさえしなければ、現金同様取り扱われるのだから。
「マリエ、タクシーに乗ったときに頼んだ行き先はどこ?」
「──環境庁ELG派遣本部……」
それって、ファラのとこに行こうとして?
「でも、途中で降りちゃったの。きっと博士が環境庁に連絡してると思って……。
そしたら怖くなっちゃって……。捕まりたくなかったのよ。私、花を持ち出してるし。
もうドームの中だけの自由はもうたくさんなのっ。私はファラみたく暮らしたかった……。
この惑星ショルナで無理なら、使徒星に行って自由を手に入れたかったの。
ガイダルシンガーさえあれば、使徒星に行くのだって簡単だと思っていたのよ……。でも……、でも……」
「わかった。とにかく今から行くからっ。それで、今いる場所はどんなとこ?
目印になるようなものはない?」
「ドームに似たところ……たくさん樹が生えてるわ。それに夜景がすごくよく見える……。
ここに来るまで山越えするような急な坂を通ってきたの。だから、ここは高いところよ……。
それと、この交信用個室の柵の向こうは崖になってるみたい……」
「そこ、メッシーナ記念公園だよっ。市街を見下ろせて樹の多いとこって言ったらそこだけだ。
マリエ、すぐそっちへ行くよ。俺が行くまでじっとしててっ。そこを動いちゃだめだ。いいねっ」
空元気のウインクで交信を断って、俺は頭の中に描いた地図を確認しながらジャックと一緒に家を出た。
無人タクシーに乗り込んで、「メッシーナ記念公園、展望台」と指定する。
するとカード挿入の指示が料金前払いのランプの下に出た。
これだけのことで済むんだからマリエにだって簡単に使える。
指示通りにカードを挿入すればいいだけなんだから──。
そして数十分の道程が、まわりの景色を市街地から近郊へと変えていき、広大に拡がる各政府機関の建物やら宇宙大学、その関係者の住居の灯がまるで宝石箱の中身のようにひしっと眼下に敷き詰められると、無人タクシーは地上に降りた。
「毎度ありがとうございます」と電子声音で礼を言い、
俺がカードを受け取って歩き出すと次のお客を求めてタクシーは走り去って行った。
「ジャックはファラを連れて来てくれよっ。マリエはファラに会いたがってるんだ。
俺に連絡したのだって、多分……」
<わかーった。おまえがそう言うんなら呼んで来てやる。
でもな、あのマリエの様子を見りゃ鈍なおまえでも気付いたろ?
俺がファラを呼んでくるまで、もしかしたら持たねーかもしれねえぞ>
「だからだよっ! 急いであいつを連れてきてよっ」
<ちっ、このお人好しがっっ!
マリエにとっちゃ、おまえはファラへのパイプ役でしかないってのによっ!>
「それでもだよ! いいから、ジャックっ! 早くっ!」
翔び立ったジャックは、ふんっ、と怒った顔をして、俺のまわりを一周したあと羽音激しく、この標高低い山を越えて夜空に消えて行った。
ELG派遣本部は運輸省の星間航行部、自治省の中央警察本部などと共に、公園の向こう側ブルネイ〇六一七地区にある。
そちら側の斜面だったらELG派遣本部の明りも見えただろうけれど、あいにく交信用個室のある展望台は反対側ラオス三〇九二地区に面した中腹にしかない。
とにかくジャックには頑張って山を越えてもらわなくちゃ困るんだ。
実は俺は、時々、夜景を見にここに来る。
ファラやジャックが星夜の散歩を楽しむ中、俺は地上に散らばった宝石が消えていくさまを何気なしにぼけっと見てる。
だから、ここらへんの様子は把握してるし、この先に交信用個室が三つあることも知っている。
ファラへ早く連絡したいのなら、ほんとは交信用個室を使うのが一番早い。
でも……。
「公衆交信回線なんか使えるもんか」
それを使ってしまったら、多分マリエを裏切ることになる。
使ったら、きっとここに集まるのはファラだけじゃない。
現在、マリエを探している人達全員がここを目指してやって来てしまう。
だから使えない。
マリエはそんなこと望んじゃいないだろうから──。
マリエは長くないって、死臭を感じ取れない俺でもわかった。
それほどマリエの衰弱は異常すぎた。
交信してる間は元気そうに振る舞っていたけれど、身体がとても苦しげだった。
彼女は苦痛を隠しながら体調不良を押してまで、ファラへの繋ぎを俺に頼んだんだ。
そのマリエをこれ以上、苦しめたくない……。
砂利道を闇に向かって進むと、きらきら光る宝石箱との境界線が現れ、その柵は交信用個室で一度とぎれて、再び闇に続いていた。
マリエの姿は白くぼおっと浮かび上がり、夜に浮かぶ宝石のひとつとなって、今にも消えてなくなりそうなくらい儚かった。
彼女は弱々しく柵に凭れて地面に座り込み、長い髪の先端から大地のエネルギーを吸収しているように見えた。
乳白色の瞳は閉じられ、だらんと腕を垂らして、力なく首を柵と柵との間に固定して時間を待っていた。
──ま……さか……?
嫌な予感が俺の足を早め、辿り着いた途端に俺は彼女の肩を両の手で揺すった。
「あ……、マリエっ」
そして、俺は開かれた瞳にマリエの生を見て、安堵と緊張の糸の緩みから情なくも涙を流してしまった。
赤く充血したマリエの目が俺を認めて唇を動かす。
俺は自分の名前が耳に届くと、何度も何度も頷いて応えた。
「来るよ……、すぐに来る。ジャックが今、連れて来るからね……」
マリエは薄く微笑んで、こくんと一度だけ顎を下げた。
人形のようなぎこちない動きだったけれど、俺はしっかり受け取った。
彼女は頑張る。ファラが来るまで、きっと頑張る。
なのに、俺の涙腺は完全に緩んでしまって、女のマリエが頑張ってるというのに男の俺はポロポロと涙を地面に垂らし続けた。
ぎゅっと抱いたマリエの肩にもいくつも落として、彼女の服を湿らせてしまう。
声を押し殺すほど苦しいのは彼女なのに、押し殺したはずの声を漏らしたのは俺だった。
──ジャック! 頼むよっ、早く戻ってきてくれよっ!
眼下に拡がる灯は無数のはずなのに、涙が溢れすぎて、俺にはひとつの大きな水晶の塊に見えた。
それなのに、夜景の光さえ惚けて見えてしまうのに、マリエのかたわらにぽつんと置かれた鉢だけは、なぜかはっきり見えていた。
──ガイダルシンガー……?
花は、いまだに蕾のまま。
咲く気配さえ微塵もなかった。
illustration * えみこ
えみこのおまけ
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