俺とジャックの来訪により一時中断されたヴァルタナッシュ博士とファラの会話は、「ところで」の接続詞から新しい糸を紡いでゆく。
話題の転移を示す言葉から考えて、これから聞こえてくる内容とこれまでふたりだけで進められたものとは、おそらく共通の題意を持たないのだろう。
いくらゴールドカードを持っていても、俺はまだ専門家じゃない。
それに比べてヴァルタナッシュ博士は環境庁派遣研究員、ファラは天下のELG。
外部者の俺の前で仕事絡みの話を控えるのは、常識中の常識──となれば、話題の転換は当然となる。
でも、だからといって、あからさまにそうされると俺だっていい気がしない。
「きみが採集したガイダルシンガーじゃが、今までの中では一番長持ちしとる。
二週間、よくもまあ枯れずにいることよ。なあ、アスファラール、わかるかのォ。
わしのこの古びた心臓の底の底で関心と期待がぐるぐる渦を巻いてなあ、まるで子供のそれのようにドキドキが止まらないのじゃよ」
興奮に上気した頬を赤く染めてヴァルタナッシュ博士はすたすたすたっと忙しく歩くと、俺たちが通ってきた扉よりひと回り小さい扉におよそ三分ほど身を消した。
そして再び隣りの付属室から出てきた時には、鉢をひとつ、大切そうに腕に抱えていた。
間違うはずがない、「歌姫」だ。
俺たちの家にあるのと同じヤツ。よく見ると植木鉢まで同型だ。
「朱里は初めてであろう? おまえさんには特別に見せてやろうと思ってな」
ヴァルタナッシュ博士の癖となってる「よいしょ」の小さな掛け声のあと、博士はいかにも大事そうにそれを俺の目の前のテーブルにゆっくりと置いた。
「いいかね、他言無用じゃよ」
声を潜めて、イタズラ小僧のように笑うヴァルタナッシュ博士はどこか得意気である。
そんなヴァルタナッシュ博士に、「それ、毎日見てる花なんです……」とは、とても言えない。
博士だって俺が目を見開いてるのを、「うんうん」と今のところは満足そうに頷いてるけど、「実物の珍種の植物を見せられて」じゃなく、まさか「二鉢目だから驚いてる」なんて、さすがのヴァルタナッシュ博士も想像できっこないよなあ。
絶対、ファラが持ち運んだ我が家の鉢をここに持ち込むのはよそう。
生物学者の夢であるガイダルシンガーがもう一株あるなんて……。
それも一般家庭でド素人の俺が育てているなんて知ったら……。
やばい。滅茶苦茶やばい。
いい加減、ヴァルタナッシュ博士も高齢だもんな。
余りのショックで脳の血管がブチッ、なんてことになったら大事じゃないか。
そんな俺の心情も知らず、ヴァルタナッシュ博士は子供のように目が輝かせて、俺にこう語るのだった。
「これはな、ELGによって採集された六株目のガイダルシンガーじゃ。
ここに来たときにはすでに蕾をつけとった。
だがの、あれから十三日経ったが、蕾の大きさは変わらんし、咲く気配もまったくない。
先の五株の例を見ると、どれも蕾のまま開花しないうちに枯れてしまった記されとる。
三週間から四週間ほどの期間、ガイダルシンガーは我々に生命を委ねるが……、これといった研究成果がないうちにこれまで我々はこの珍種を知る機会を失ってきたわけじゃな」
六株目のガイダルシンガーか。
我が家にあるのを数に入れたら七株になる。
でも、ヴァルタナッシュ博士は蕾の大きさが変わらないって言うけれど、我が家のは少し成長している。
比べてみなければはっきりとは言えないけれど、ヴァルタナッシュ博士が持ってきたこの鉢の蕾よりは大きく思えた。
「なあ、朱里。おまえは土いじりが好きだから大いに興味があるだろ?
ガイダルシンガーを間近に見られるなんて滅多にない機会だぞ。博士と俺に感謝しろよ。
ほら、綺麗だろう? 花が咲くともっと綺麗なんだ。まったく、おまえは幸せ者だな」
こいつわっ!
まったく、「シアワセモノ」、ねえ。ファラの奴、よく言うよ。
毎日、俺があの花の世話をしてるの知ってるくせに。
厚顔無恥とはファラのような奴のことを指すに決まってる。
ジロリとて睨んでやったら、ファラにふふんって鼻で笑わられた。ふんっ。
<懲りない奴だな、おまえ。ま、いいけどよ。それよりマジにこの花、咲くと綺麗なんだぜェ。
一重の花弁の中に白い雄蕊(ゆうずい)が五本あってさ。
その花糸の先端の葯(やく)の形が俺みたいな形してんだ>
白い雄蕊? 葯も花糸も真っ白?
雄蕊っていうのはおしべのこと。
おしべは葯と花糸で成り立っていて、葯はおしべの先端にある袋型の花粉を生じる器官、花糸はそれを支えてる細い棒状のことを言う。
ジャックみたいな形をしてる葯かあ。
きっとサミュエ種みたいな真っ白な鳥が翔んでるように見えるんだろう。
うわあ、それだけで綺麗だろうなあって想像できる。なるほど珍しいわけだよなってね。
<それに柱頭は淡い青色の球型でさ。だから、青い星のまわりを俺たちが翔び回ってる感じなわけ。
すっげえ、いいだろっ>
雄蕊に対して雌蕊(しずい)がある。めしべのことだ。
柱頭はめしべの頂きで、花粉のつくところ。
──淡い青の星の上に白い雪が舞い落ちる。白い鳥は雪を降らす神獣……。
ああ、まるで御伽噺の一場面のようだ。生物学者の夢だけはある。
<へへっ、綺麗だろ。本物はおまえの想像よりもっと綺麗なんだぜ>
ジャックったら、ファラと同じこと言っている。
咲くと綺麗……、か。うっ、絶対見てみたい!
「ファラやジャックは咲いたの見たことあるんだろ? 一体、どこで見たのさ」
除け者にされたような感じがすごく悔しくて、俺はファラに向かって唇を少し尖らせてしまった。
するとファラは俺の肩に留まってるジャックと一瞬顔を見合わせ、「何を今更」と呆れたように溜息をついたのち、
「シュワルナウツに決まってるだろ。あの星にはこんなの腐るほど咲いてる。
咲いてない時がないくらい年中だ」
さも当然と言い放って下さった。
<そうそう、あの星じゃそこらへんに咲いてる普通の野花さ。特別珍しいもんじゃないぜ>
ふうん、いいですこと。どーせ、俺は使徒星に一度も行ったことないもんね。
「博士は見たことあるの? この花の咲いたとこ」
「咲いたところかね……。あることはあるがの」
あるぅ……? じゃ、見たことないのは俺だけ? 博士ったらズルイ!
だから、つい、
「いつっ? どこでっ?」
玩具をほしがる子供のように身を乗り出して尋ねてしまった。
「まあまあ、落ち着くことじゃ」
好々爺の白髪のヴァルタナッシュ博士はそう俺を宥めながらも、すでに心はここになかった。
視線を漂わせて、ほう……とひとつ息を吐くと両頬を赤く染めては目をきらきらと輝かせ、顔全体に生き生きとした表情を作り出したのだ。
「あれは……そう、アスファラールが持ってたんじゃ。わしが見た時はもう咲いとった。
あの時は、葉一枚としてなく、ただの一輪の花だけでな。
長めに切った茎がすっと伸びてたのう……。いや、優雅な風姿だったわい」
知性に富んだいつもの視線が、今は空想の物語を語る少年のようにどこか掴み所がないものになっている。
「ファラが持ってたんなら俺にも見せてくれたってよさそうなもんじゃないか。ケチだな」
「ケチって……おまえ、言ってくれるねえ。第一、朱里に会う前の話だぞ?
俺がシュワルナウツを出てきた時分のことだからな。
それに花はこっちじゃ十分も咲けないんだから、咲いてるところを見た博士のほうがすごく幸運だったのさ」
肩を竦めて両手を上げたファラの仕草が、「無理言ってくれるなよ」と語っていた。
でも、俺だけ見ていないなんて、そんなの悔しいじゃないか。
できれば、ヴァルタナッシュ博士の幸運ってのに俺も便乗したい。
「えっと、じゃあさ。十分しか咲かないってどういうこと?」
「シュワルナウツの花だからな。あの星の外だと持たないんだろう。
本来、この種は朝に開いては陽が沈むころに萎むけど、一日草じゃないから翌日も咲くんだ。
向こうじゃほんとにこっちの野草みたいなもんだから気にかける奴も少ないな。
なのに、こっちじゃ一日どころか、長くて十分しか咲かないんだ」
場所変われば花も変わるってわけか。
十分間の幸運──。
なんてすごい出会いなんだろう。
「じゃ、博士はすっごい偶然だったんだ……。いいよなあ」
羨ましげにヴァルタナッシュ博士を見たら、「偶然なんかじゃないぞ」とファラが口を挟んだ。
「俺が咲かせたんだよ。こいつが必要だったから」
え? ファラが咲かせた? ガイダルシンガーが必要?
謎が謎を呼んでくる。
興味津々、胸はワクワク。鼓動だってドッキンドッキン。
「ファ〜ラっ。俺、知りたいなっ。教えてよ」
俺にふさふさの尻尾が生えていたら、パタパタ振っていたの違いない。
それほどに興味があったし、知りたかった。
そう、ガイダルシンガーが入り用だったってことは、あの伝説の星の地図が必要だったに違いないんだ。
それは誰かを使徒星へ送るため。
もしかして、誰かがこちら側から向こうへ行った……?
と、ここまで興奮醒めやまずの状態にしておきながら、
「さて、と……。そろそろ俺は失礼するかな」
ファラが突如、席を立つ。
「えっ、そんな……。じゃ、俺も帰る。ジャックも帰るよな?」
<もちっ>
帰るんだったらそれでもいいや。帰ってっからゆっくり話を聞けばいいんだし。
もしかしたら、花を咲かす手掛りになるかもしれないもんな。やったね。
けど、このセリーア人は俺の期待を裏切るが昔から上手かった。
「朱里、おまえはジャックと先に帰ってろよ。俺は本部長のところへ寄って行かなきゃならないから」
「ええーっ!」って言いたいところだけど、お楽しみはあとにとっておけばいいんだし、ファラの帰りくらい待ちましょ。
そう思って、「うん、わかったよ」と素直に頷くと……。
「聞き分けがいいのはいいことだ。
その聞き分けついでに、これ以上の詮索はELGの任務内容に関係してくるから、おいそれとは話せないってこともよろしくな」
「きったねーっっっ! あれだけ期待させといて最後で裏切るんだからっ」
絶対ファラって俺を玩具にしてると思う。
──俺はおまえの遊び道具じゃねーんだよっ。
そう目茶苦茶思いっきり、イーッダって皺を寄せた顔を作ると、ほらっ、ファラの反撃がすかさずやってくる。
「悔しかったら早くELGになるんだな。そしたら何だって話してやるよ」
ホントにもう、こいつはっ! 一番俺が気にしてるとこをぐさぐさと突いてくれちゃってっ。
どーせ、俺は片端ですよ。受信専門で悪うございましたねえ。
すでにELGになっているファラに一言もいい返せないのが本当に悔しい。
俺だって本気でなりたいんだぞ。けど、しょうがないじゃないか。
俺を選んでくれる物好きなELGがいなきゃなれないんだから。
ELGはふたり一組が原則だ。
俺がELGになるためには、俺を組んでくれる奇特なパートナーが必要となる。
「ファラにはわからないよ。何でもうまくこなせるヤツには。
精神感応力だけじゃなく、おまえ、念動力だって使えるじゃんか」
こうなると、もう俺はだだっ子だ。
でも、ほんとに悔しくって悔しくって……。
それでいて哀しかったんだ。
──おいてきぼりにされなくないのに……。
<誰もおまえをおいていかないさ。おまえを忘れっこないだろう?
おまえは俺たちの飯の源なんだからっ>
「……」
まあ、いい。今は玩具だろうがハウスキーパーだろうが。
俺だってELGになる夢は捨てたわけじゃないんだから。
「相変わらずじゃな、アスファラールも朱里も。少しは変わったかと思っとったら、ぜんぜん昔から変わりやせん。
しかし、さすがに長年の付き合いと言ったところかの。
ほかのモンだったら引いとるところを朱里は立派に相対(あいたい)しとる」
「博士、ファラの肩を持つ気なの?」
「いやいや、わしはここにいないもんと思っておくれ。
ふたりの間に割って入ろうなどとはこれっぽっちも考えとらん。存分にやりなされ」
「存分にって……、何をやれって言うの。俺は別に……」
年の功だよな。話を逸らすのがこれまたうまいんだ。
ファラといい、ヴァルタナッシュ博士といい、環境庁の人間って一癖も二癖もあって蔓のように性格がくねくね曲がりくねってるよ。
博士だって数年前までは現役のELGだったと言うし。
ELGって個性の塊がブラウン運動をしてるような集団かもしれない。
「アスファラール、約束の時間に遅れてしまうよ。
ボットナムとの交渉は最初が肝心じゃから、もうそろそろお行き。
朱里も家に帰って食事を作るのじゃろ?」
ヴァルタナッシュ博士は白衣の裾をひらりと舞わせて、再び大事そうに鉢を両手で包み込んだ。
愛娘を頬に寄せて、蕩ける笑顔で付属室に消えてしまう。
そうして一時、その場は俺たちだけになった。
途端、待ってましたとばかりに、俺の顔には家族だけに通用する我がまま文字「拗ねています」がでかでかと浮かび上がる。
昔からこんなとこはいくつになっても成長しない。
自分でもガキだと思うけど、この顔触れで仲間外れだけは我慢したくないんだ。
それが家族ってモンだろう?
だから、きっと、そんな俺の睨みつける視線を包み込むようにファラの瞳が急に優しくなったのもきっとそういう理由からなんだ。
「まったく、おまえはいつになってもガキのまんまだな、朱里」
ほら、やっぱり。
ファラは仕方ないなって感じの微笑みで肩を竦ませ、俺の近くまでやって来る。
「あとでうちに帰ったら……、そしたら、障りないとこまでなら話してやるよ。
でもな、俺が本当に言いたくないことはいくらおまえの頼みでも聞かないぞ。わかってるな?」
「うん」
「じゃ、夕飯までには帰るから」
そう言うと、くしゃくしゃっと俺の髪を撫ぜて、ファラは俺とジャックに片目を瞑ってみせた。
いつだってこんな時、ファラの背を追いかける自分に気付く。
ファラは平気で前にどんどん行くくせに、ときたま顔を下向き加減にしてうしろの様子を伺うように速度を落とす。
そして最後にくるっとうしろを向いて、優しく手を差し伸べてくれるんだ。
ジャックも俺も、そんなあいつを知ってるから、日頃、指導権を乱用されても一緒に暮らしていられる。
「朱里、あんまり無理を言ってくれるなよ」
何でも知りたがる俺に困ったファラが昔からよく口にしたっけ。
昔……、もっと俺がガキだった頃、希少なセリーア人ということでファラの周囲に困るくらいの人囲みができたことがあった。
それも、一度や二度なんてもんじゃない。
ファラやジャックにしてみれば、動物園の檻の中に入ったようであまりいい顔していなかったけれど、俺は何だかとっても嬉しかったのを覚えてる。
セリーア人とサリュエ種。この二大貴重種と暮らす俺は今までもいろんな人から羨ましがられた。
彼らと一緒に囲まれた時、俺もファラやジャックの仲間なんだって気分がして気持ちよかった。
けど、俺はセリーア人でもサリュエ種でもないただの地球人種で、ほかのみんなと変わりない。
ジャックたちの言葉はわかっても、俺は黒髪黒瞳でファラたちみたいに白くないし、羽根だって持ってないから宙(そら)だって翔べない。
ガキの頃の俺は、ファラの手を握って、
『どうして僕は白くないの? ジャックだって真っ白なのに僕だけ黒いよ。
僕だって白ければ、ぱたぱたお空を翔べるんでしょ?』
『いい子になるから、ファラの魔法で白くしてっ』
『僕もファラやジャックみたいなのがほしい。ひとつでいいから貸してよ』
そう、無理難題や理由のわからないことを頼んだりしたそうだ。
挙げ句の果てには逃げ惑うジャックを追いかけて、片翼を掴んで引っ張ったり、ね。
ファラのをやらなかったっていうのがミソだよ。
この時分から俺は、ジャックよりファラのほうが偉いんだって幼心にもちゃんと理解してたんだな。
だから、ジャックはその分のツケを今になって払わせようと躍起になって俺をこき使ってるのかもしれないケド。
俺は昔から、ファラたちみたいになりたかった。
幼心にも、彼らを追いかけたくて、思いつくままに言葉にしていた。
そして、そのたびにファラは言うのだ。
『朱里、あんまり無理を言ってくれるなよ』
少し困った表情で、悲しげな瞳で、俺を見つめて。
それから俺も少しずつ物事を理解するようになって。
だんだんと現実が見えてくると、同じにはなれないんだって気が付いた……。
ガキだった俺にはファラたちが身近な分、それを知るのが辛かった。
「何てこった、アスファラールの奴。ボットナムに渡すメモリーを忘れて行きよったわい」
「まだ間に合うよ。俺、走って届けてくる」
ボットナム本部長に提出する報告書だとするとすぐに入り用なデータに違いない。
ヴァルタナッシュ博士からメモリーチップを受け取ると、俺は鉄砲玉ように部屋から出て行った。
俺の斜め先で、ジャックの翼が風を起こす。
<こっちだ、朱里。意外とファラは近くにいるぜ>
道案内がいるとほんとに便利。
「ジャック、ファラは俺たちに気が付いた?」
<ああ、動かないで待っててくれって言っといたから>
ジャックからファラへ送信してもらう。
思念を送ることに関しちゃ、ジャックは俺なんかよりよっぽど優秀なのだ。
<朱里、ジャック。俺は第八飼育室前にいる。
そっちから来るんだったら、中央ドームの脇を通ってきたほうが早いぞ>
でも、一番優秀なのはやっぱりファラだ。ファラには俺たちの位置までわかっている。
「第八飼育室ね、わかった。さ、行こう、ジャック」
俺たちが通った廊下はバタバタと騒々しい。
あまり騒がしいものだから、数人の研究員が部屋のガラス窓から覗いてる。
擦れ違う人はジャックに気付いて振り返る。
俺たちが通ったあとにはいつも立ち止まる人たちがいた。
「いたっ、あそこだ」
さらにファラも加わるとなると、一気に注目度が急上昇する。
みんなが彼らに荵きつけられる──。
「悪かったな、わざわざ」
「早かったろ?」
そして、ファラに忘れ物を渡すついでに、俺は「ボットナム本部長によろしく」の言葉も託した。
「本部長は人事担当じゃないぞ?」
「別にそういう意味じゃないよ。ここ一年、御無沙汰してるから……、だから言っただけ。
ヘンな気を回すなよな。俺、ELGになるんだったら正々堂々となってみせるよ」
「なるほどね、その勢いだけは立派だな」
勢いだけってのは一言多いっ。
「じゃあな、早く帰って飯を作っとけよ。ちゃんと手を抜かずにな」
ったく、これだもんな。作るだけ偉いと思ってよ。
ファラと別れた俺たちは、一度ヴァルタナッシュ博士のところへ戻ろうと来た道を返した。
一応、博士に挨拶してから帰らなきゃ……。
「ファラって、今、特別休暇中のはずだったよなあ。
エスターさんとペア解消しちゃうと仕事にならないんだし」
<まあな。そのわりには忙しそうだけどな>
そうなんだ。ほんと忙しそうなんだよな。
夜中に帰ってくるってほどじゃないけれど、日中はいつも出掛けてる。
「エスターさんと別れて、あいつ、このあとどうするつもりなのかなあ。
また上層部からの指名でペアを組むのかな」
<どうだろうな……。ま、以前は指名されたのが友達だったからよかったけどよ>
「うん。ファラ、意外と喜んでたもんね。まだエスターだったらマシだって」
<……だな>
ジャックは自力で翔ぶのをやめて、いつもの指定席に舞い降りてきた。
その分、俺の右肩は重くなる。
復路の廊下には俺の足音だけが響いていた。
廊下の左側の透明な特殊ガラスの向こう側には各飼育室ごとに環境がそれぞれ異なる緑の世界が広がっていた。
俺たちは亜熱帯雨林の第八、高山植物の第六飼育室を通りすぎてから、広葉樹選集の中央ドームにさしかかった。
現在は新緑。春の息吹がドームいっぱいに溢れる季節。
<朱里、あそこ……、マリエだ>
マリエ……?
さっきのジャックの話を聞いていなければ、気軽に立ち話もできただろう。
でも、今は──。
彼女の白い姿は俺の憧れだった。けど、その白さが、今では儚さの象徴に見えてしまう。
ぼんやりと霞むそのさまが生命の炎を燃やしているようで、俺にはとてももの哀しく見えた。
「あら、朱里。まだ帰らなかったのね」
「これから……、ヴァルタナッシュ博士に会ってから帰るんだ」
「そう、博士にね……」
それから、彼女はもじもじと落ち着きなく身体を揺すると、淡い朱色に頬を染めて尋ねてきた。
「あの……、ねえ。さっきここをファラが通らなかった? 朱里が駆けていく前よ?」
「もしかしたら通ったかもね」
「やっぱりっ! ああ、本当にこの星にいたのね。私と同じ髪の色、それにとっても背が高かったわ。
横顔しか見えなかったけど、とてもハンサムだったみたい」
「うん。ファラは綺麗だもんね」
「あの人は使徒星から来たのよね。……そうよ、使徒星から来たんだわ」
「うん……」
「ねえ、朱里。朱里だから言うのよ。ほかの人には内緒よ。私、どうしても行きたいの。
お願いよ、絶対行きたいの」
どこへ?──なんて訊かない。
決まってる。シュワルナウツに、だ。
「ファラに伝えてもらえないかしら。私のこと……。私を使徒星に連れて行ってほしいの」
「ファラにって……。でもあの星は……」
「大丈夫よ。場所だったらわかるわ。もちろん、ファラは知ってるでしょうけど」
──え?
「博士のところにガイダルシンガーがあるでしょ?
あの花が咲けば、はっきりとした座標がわかるはずよ。
そしたらその地図を頼りに、私行こうと思うの」
「行くって言っても……。だって花が咲くかどうかもわからないのに。無理だよ」
それにきみの体力だって、そこまで持つかどうか……。
「咲くわよ。だって私、あの花を咲かせられるもの。やり方も知ってるわ」
その言葉に、驚きの反応を示したのはジャックだった。
「キキーッ、キーッ」と激しく鳴いて、爪を俺の肩に食い込ませたのだ。
<そんなの嘘だっ! でたらめだっ!>
ビシッビシッと伝わるジャックの叫び。
ジャックは攻撃体制をとるように、翼を軽く開いてマリエに対して威嚇した。
こんなに露骨に怒るジャックは珍しい。
対してマリエは、なぜジャックが怒るのか理由がわからないまま一歩、また一歩と退いて行く。
「どうしたのっ? ジャックはどうしちゃったのっ、朱里っ?」
「嘘だって……言ってるんだ。きみは知らないって……」
「知ってるわよ。そんなに信じられないのならいいわ。見せてあげるから」
にっこり笑ったマリエの、薄生地のドレスの裾が少し上がる。
そして、ビリッと布の破れる音がして、俺たちの前に白い翼が現れた。
ああ……、乳白色の双翼。
セリーア人の真の印──。
「これよ、この羽根が花を咲かすのよ。セリーア人しか咲かせないガイダルシンガー……。
だって……そうよ。翼を持った地球人種なんているわけないもの」
羽根を翳(かざ)さなけれぱ咲かないのなら、俺は一生かかってもあの花を咲かせられない。
ファラは俺に「咲かせてみろ」と言った。でも、俺は羽根を持っていない。
花は咲かない。俺にはできない。
マリエのどこがセリーア人じゃないと言うんだろう。こんなに素敵な翼まであるのに。
マリエこそ、あの花を持つに相応しいよ……。
<朱里のアホタレ。おまえ、ファラを信じてないな。ファラはおまえにって花を持ち帰ったんだぞ。
おまえはその期待に応えて咲かさなきゃいけないんだよっ>
無理だよ。
<無理なもんか。確かにな、マリエは翼を持ってるよ。でもよく見ろよ。あの翼で翔べると思うか?
あれがマリエの身体を支えるとでも思うのか?>
マリエの翼はファラのそれと同じ色をしていた。セリーア人は羽根までも乳白色だ。
でも、よくよく考えながら見てみると、マリエの翼はとても小さい。
マリエが女の子だからかもしれないけど……。
けど、この大きさじゃマリエの身体を翔ばすことはできない。
せめてあと五十センチ、いやもっと両の翼が大きくないと絶対翔べない。
これでは無理だ。もっと骨格がしっかりしてないとダメだ。
それに全体的に筋肉が──翔ぶ練習をしていないから、発達どころか、ますます退化してしまってる。
マリエの翼、これは実践向きじゃない。まるで飾りだ。
これでは、翔べない……。
そして、その時、俺は思い出した。
<マリエは造られたのさ──>
そう、ジャックが言っていたのを。
illustration * えみこ
えみこのおまけ
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