きみが片翼 -You're my better half- vol.12 |
「彼女がアンジー・トレンシー。
第一官庁メディカルセンターの産科医で、異種間夫婦の出産については第一人者だよ。
私の教え子だが、今では逆にこちらが教えられることも多くてね。
私が知る限り、きみたち夫婦にとって彼女以上に頼りになる医者はいないだろうね」
そう言って、リリアの腹部の膨らみが目立つようになった頃、アンリ教授はひとりの女医を仁に紹介した。
「アンジー、彼が相良仁だ。忙しいだろうけど、ぜひ彼に協力をしてやてほしい……。
ん? どうした、ふたりとも……」
女医アンジーと仁の間に立ったアンリ教授が、かつての教え子と臨時の押しかけ教え子の間に流れる不穏な空気に気づき、ふたりの落ち着かない様子を見比べる。
「まさか、あの時のELG? 本当にこんなこと……。
本気で実行に移すなんて、まったく信じられないわ……」
アンリ教授の当惑を視界の隅に映しながら、瞬時にして、アンジーの目に不審な光が宿った。
このご時世において、医療機関に頼らない出産など無謀の極みだと言わんばかりの、女医のの視線はそれほど鋭い。
一方、仁はその視線を真っ向から受け止めて苦笑いている。
「まあまあ、そう言うな、アンジー。何しろ事が事なのでね、詳細は直接会ってからと思ってたんだよ」
アンリ教授は教え子たちにソファーに座るよう勧め、「話せば長くなるが」と前置きしながら、表情を改めて引き締めた。
自慢の教え子に、仁とリリアを取り巻く切羽詰った一連の事情を語るにつれ、女医の表情にも幾ばくかの変化が見られていく。
もちろん仁も、アンリ教授の説明に要所要所補足しながら彼女の理解を得ようと努力した。
仁の話はセリーア人の生態系、産卵の様子、胎生への異端視まで膨らみ、特に、慣れない銀河連邦側で出産するなどセリーア人の女性にとってどれほどのストレスかを仁は強く説いた。
そうして、医療機関を頼りたくてもセリーア人の妻は精神的に耐えられないくだりになり、更に仁は自分の残された時間の短さを正直に告白した。
セリーア人の妻の決意と自分が今できること。そして、最優先すべきこと。
何を捨て何を選び取ればいいのか、一番リスクが少ない方法は何か。
考えなければならないことは多岐にわたった。選択を間違えれば、未来への道は閉ざされる。
それでなくても仁の未来は先が短いのだ。
それはまさにアンジーの予想を上回る話だった。
聞けば聞くほどまさに恩師に呼び出された時には想像もつかなかった内容で、さすがの女医も当惑の色が隠せない。
アンジーが所属する医療機関は、確かにセリーア人の子供を宿した地球人種の女性の出産を受け入れたことがある。
ファーストを取り上げるという稀なこの出産ケースは当時厳しい情報管理下におかれ、医師や看護師、事務員に至るまですべての関係者の行動と発言が制限された。
出産は無事、地球人種の妊婦の通常出産と何ら変わりない結果に終り、産前産後通しても地球人種間の一般の出産経過と比べてもそれほど注視することはなかったので、当時の特殊医療チームは安堵の中で解散したのだったが。
今回のケースはあの時よりも分が悪い、とアンリの胸はざわついた。
これまでの妊婦の様子を聞いただけでもうなじにざわざわと言いようのない感覚が走る。
自分の得た知識と経験を過信してはいけない、と頭の中に誰かが囁く。そんな違和感を感じるのだった。
最重要点はやはり妊婦自身がセリーア人であるということだ。
何しろセリーア人の自然分娩など聞いたことがない。
それはアンジーが所属する医療機関に限らず、銀河全域で言えることだろう。
仮にそんな稀有な機会に恵まれようなら、医学を追求する者ならば率先して学会で発表しているはずだ。
これまで何組もの異種間夫婦の出産を扱ったが、今回の依頼はこれまでの緊張とは比較にならなかった。
これは銀河連邦の最重要極秘情報に組み込まれる出産になるだろうと安易に察せられるところからして、受け止めるほうも覚悟を必要とした。
「どうだね。きみも忙しいだろうが、彼に協力してもらえんか?」
話が一区切りしたのを待ってアンリ教授が発したその言葉に重ねるように、仁が「頼みます」と頭を下げた。
「頼む」と言われて、「はい、わかりました」と容易に返事ができない水準の話なのに、恩師のアンリ教授も当事者の仁も必要以上に気構えた様子はまったくない。
それがとても不思議で、アンジーはテーブルの上の冷めてしまった珈琲を見つめながら、肺に溜め込んでいた空気を細く長く吐き出した。
セリーア人が今、この惑星にいるというだけでも重大事項なのに、地球人種の男と結婚してファーストを出産するなど、アンジーにとっては夢物語に近い出来事だ。
想像の域を軽く超えていたと言っても過言ではない。
「お話を伺ったところ、ファーストを取り上げた私の経験はまったく役に立ちそうもないでしょう」
時間をかけて絞り出されたアンジーの声は低かった。
だが、その声の固い音色こそ、仁の真剣さが充分にアンジーに伝わったことを示していた。
何かを吹き払うかのように、アンジーが大きく息を吐く。
「それでも、私はあなた方の力になれるでしょうか」
しっかりと自分の決意を込めた声はとても力強かった。
見ればアンジーの憂げな表情は一変し、瞳には強い意思の光を宿していた。
アンジーの仁を見つめる目は柔らかく細められつつも、赤い唇は前よりきつく結ばれるといった複雑な表情に移り変わっている。
アンジーの率直な問いに、男ふたりの返事は決まっていた。
即座に仁は笑顔で右手を差し出していた。
「どうかよろしくお願いします」
リリアの出産に挑むための協力者がまたひとり増えた瞬間だった。
その後の話し合いの中で、無用な敬語はいらないとアンジーは仁に言った。
仁はありがたいとすんなりと礼を言った。
それからアンジーは、まず新生児専門の小児科医師の協力要請を訴え、緊急事態の場合を考慮しての小児医療専門スタッフの用意を強く提案した。
その提案に仁たちも当然とばかりに頷いた。
その考えに至るに充分な経験をアンジーはこれまで積んでおり、彼女の貴重な経験と実績から優秀な医療スタッフの厳選や更なる厳しい情報規制の必要性をひしひしと感じていた。
「カルテを見た限りでは妊娠経過のほうは順調のようですが、問題はブライトン教授がご心配したとおり出産時期の確定だと思います。
ご存知のとおり、我々地球人種の妊婦の場合、四十週で出産を迎えますが、奥さまのお話では、セリーア人の妊娠期間は標準時間でいうところの十二ヶ月とのこと。この二か月の違いは重大です。
判断を誤った場合、大事に至ります。
本当は四十週でいいところを更に二か月放置してしまうと胎盤の老化が起こりお腹の子供の命が危ぶまれますし、仮に十二ヶ月お腹の中にいなければならないところを十ヶ月で出してしまうと早産となります。
地球人種間夫婦の一般的な場合で申せば、二十週の胎児を保育器で育てることも可能でしょうが、卵生、胎生を選択できるセリーア人の胎児の育ち方がどのような経過をたどっているのかすらまったくわからない手さぐり状態の私たちの拙い医学知識では、到底無謀な冒険はできません。
下手をすれば胎児が十分に育っていないと未発達による障害を引き起こしやすくなります。
よって安易に二ヶ月妊娠期間を縮める案も危険だと判断します」
「多胎の場合や母体の健康状態などにより、妊婦早産を勧める場合もあるが……。
確かにそれは地球人種、もしくは事例のある他人種の場合であって、セリーア人の妊娠・出産の研究資料がない以上、早計な考えで危険をおかすことはできないのは彼女の言うとおりだ」
「それに私には、胎児の成育速度が地球人種と同じとは思えないのです。
以前、ファーストを取り上げた際、必要性からセリーア人に関する極秘文献資料に目を通すことを許されたのですが、彼らの幼年期は地球人種より短く十三歳まで。その後、壮年期がおよそ三百年以上続く、とありました。
セリーア人は地球人種に比べて幼年期の身体的成長は早く、壮年期は実年齢のわりに外見が若い。
老年期の長い私たちとは違い、一気に老化が進む生態の彼らと私たち地球人種では発育速度がまったく異なるようです。
失礼ですが、あなたの奥さまは私にはどう見ても五十歳には見えません。
ですが、彼女はセリーア人の中では標準的な五十歳なのでしょう?
同様にいくら父親が地球人種だからといって胎児の成育が我々と同じである保障などまったくありません。
妊娠十ヶ月から十二ヶ月にかけてどのような発育をしていくか……、私たちに判断するすべはないのです」
妊娠十ヶ月で誕生したファーストが無事育つとは断言できない。
多くの異種間混血児を扱った経験を持つ女医はそう言って嘆息した。
「セリーア人の出産は見方を変えればこっちよりかは原始的だ。
つまり、わからないことをどうこうここで絵空事を並べるより、実際、お腹の様子をエコーで観察しながら判断すればいいと思う。
産むが安しっていうだろう? 案外、するっと出てくるかもだぜ」
仮にも実の父親がそんな考えなしなことを言ってていいのか。楽天的過ぎるとアンジーは仁を睨んだ。
だが、アンジーが睨んだところで、天使と呼ばれるセリーア人の妻を持つ男はひょいと肩を竦めるだけだった。
「異種間の妊娠はもともと虚弱体質な子供が生まれやすいとも聞くしな。心配しだしたらキリがねえよ」
「それは確かにそうですが……」
そうでない掛け合わせの例もありますよ、と補足しつつも、アンジーは仁の言葉に同意を示すしかなかった。ほかに良案がなかったからである。
仁は両手を組むと、恩師の教授と新顔の女医の目を正面から見つめ、はっきりと言った。
「俺が望むのはひとつだけだ。無事子供が生きて生まれてくれればそれだけでいい。
リリアが言っていたんだ。ファーストは生まれながらにして精神感応、共鳴能力に優れる性質が災いして、元来感受性が高いから精神的に敏感で、怯弱なのが多いんだってな。
でも、生まれてくるのはあの女と俺の子供だから。きっとそんなにヤワじゃねえと俺は信じてる。
仮にもしも育たない子だったとしても、それは子供本人のせいでも母体であるリリアせいでも、もちろん、こうして出産に協力してくれるあなたたちの責任でもねえよ。
あえて責められるべき人間を挙げるとしたなら、きっとそれは俺なんだろう。
俺は二年前、c−FDの発病で余命6ヶ月と診断されて遺伝子治療を受けてるからな……。
あの時だって医者は三年の寿命を保障してくれたけどさ。
保障っつっても今もまだ経過観察結果を集めてる途中のあやふやな情報で、これまでだって長いヤツは五年生きるとは言われてるし、発病するのだって人それぞれ。もちろん発病する時期も定かじゃねえ。
副作用の進行状況だってひとりひとり違うようだしな。
三年の寿命って言ったって三年丸々元気かどうかもわかんねえ。
もしかしたらもう、この身体だってどっかが壊れはじめてるかもしれねえんだ。
そんな俺が子供の父親なんだ。
生まれても満足に育たない子供だとしたら、そん時は俺に責任があるんだよ」
ふとリリアの笑顔が仁の脳裏に浮かんだ。
子供の顔を見せてあげると何度も繰り返して、口を尖らせながら「本気よ」と目を潤ませていたのを思い出す。
「生まれてくる子はどんな子供でも俺の子だ。
寿命が長いことには越したことねえけど、オギャーって産声も出せなくて、もしも元気に生まれなかったとしても、それでも俺の子には違いねえんだ。
だから、胎盤の老化がどうのこうのって心配するのも必要かもしれねえけど、どっちにしても科学的根拠がねえっつんだったら……。それだったら、俺は子供が自分で出てくるまで待とうと思う。
リリアに陣痛が来て、それがもし遅すぎたとしても、それは自然の成り行きなんだろう。
俺は誰も恨まない。後悔もしない。
もしも駄目だった時、そん時はやっぱり残念には思うだろうけど、俺たち人間が自然に逆らうには限度があるってこと、俺、重々知ってるからさ。
だから……、だったら俺はその自然に賭けたい」
そこに存在する者は、天使とも呼ばれるセリーア人の妻を娶り、まさにこれから父親になろうとしている男だった。
誰しもが親となる時、不安に思う。
無事に生まれてくれるだろうか。元気に育ってくれるだろうか。
たくさんの喜びと同じくらいに、もしかするとそれ以上に不安が付きまとう。
それでも人は長い間、命を繋いできた。だからこそ、この時代に人が存在する。
「わかった。きみの意思を尊重しよう」
アンリ教授は頷いた。そして、アンジーに、「きみもそれでいいかね」と了承を取り付けた。
リリアの出産を控え、銀河連邦政府、主に環境庁と外務省が協力して完成させたものに、浮構造の防振・遮音に優れたシェルターがあった。
これはリリアの陣痛によって引き起こされる念動力の作用を少しでも軽減するために研究開発されたもので、シェルターの中にもうひとつのシェルターが浮かんでいる状態で組み込まれる半浮遊式の建築構造となっていた。
内部のシェルターの中で大きな振動がおきてもその部分だけが揺れ、振動エネルギーを外部に出さないよう相殺させるのである。
銀河連邦政府としては、一組の夫婦の出産も大事だが、周辺地域の安全確保も配慮しなければならない。
このシェルター導入は仁たちの希望を無視した決定事項だった。
加えて、このシェルターには光学エネルギー式武器の使用を不可能にする防犯システムも装備されていた。
貴重種であるセリーア人の安全を保障のためにも、セキュリティシステムの導入は必要不可欠だと銀河連邦政府が判断したためである。
このシステムが稼働した時点で、レーザー光線などの光学エネルギー武は使用不可能となり、襲撃者は刀や銃弾をこめて発射する銃、鞭などの旧型武器を使用するしかなくなる。
これは守備力として極めて有効だった。
なぜなら、物質的な武器攻撃は光学エネルギー式武器よりも武器の使用技術を取得するのに鍛錬を必要とするため、現在では好んで使用する者があまりいないからだ。
ちなみに敬遠する理由に、鍛錬が必要な武器は能率が悪いからというのが上位にあがっているようである。
「レーザーナイフを使えねえってのは少し不便かもしれねえが……。
まあ、この家で象くらいデカイのを料理するなんてこともねえだろうし、いいんじゃねえか」
「あんたがそう言うんなら別にいいけど……。見方によってはこれってわたしに信用がないってことでしょ?
何だかすっきりしないわね」
「物質攻撃ならおまえの念動力でなんとかなるって考えなんだろ。充分信用されてるじゃねえか」
「ホントかしら」
ふたりは三日ほどホテル住まいすることにし、その間に超特急でシェルターが設置されることになった。
シェルターはリリアの希望を組んで内外部とも仁たちが暮らす家そっくりに作られることになっていた。
注文が厳しいほど腕が鳴るというのは技術者たちの共通の意識だろうか。
「同じにしてくれっつってもそんなの無理だと思ったんだよ。
リリアだってまさかほんとに同じにしてくれるなんて思ったなかったしさ。
だからどんだけ変わったんだろってリリアと話してたんだよ。
そんで、工事が終わったってんで三日ぶりの我が家に帰ってきてみたら、そらあもうぶったまげたね。
リリアもあまりの変わらなさに拍子抜けしたくらいぜ。マジに完璧。
それほどみんな、いい仕事をしてくれたんだぜ」
機嫌よく、我が家自慢をオーウェンに披露する仁だった。
「よかったじゃないか」という相棒に、「まあな」と改めて安堵の顔を仁は見せた。
「これであいつも安心して出産に臨めるぜ」
こうして前代未聞の出産プロジェクトはひとつずつ順調に進んでいった。
一日一日、リリアの出産の日が近づいてゆく。
そして、季節は巡り、リリアは妊娠四十週を迎えた。
通常、三十七週から四十二週で生まれた子供は正期産児と呼ばれ、平均的な出産週数が経過したことになる。
つまり地球人種の妊婦で言えば、すでに臨月に入って数週をすぎ、いつ出産してもおかしくない出産時期を迎えたということだ。
その日、仁は自宅で撮影したエコーの映像をアンジーの職場に持ち込み、アンリ教授を交え、三人で胎児の成長経過を診ていた。
「どうやら生まれそうもないね」
「大きさは推測して千五百グラムか」
「これではまだまだですね。今、陣痛が来てしまったら困ります」
地球人種の出世児の正常体重は二千五百グラムから四千グラムで、平均三千グラム。
四千グラムを超えた新生児を巨大児、さらに四千五百グラムを超えると超巨大児と呼ばれ、大きい分だけ出産も大変になると言われている。
中には頭部が大きく育ちすぎて自然分娩では出てこれない場合もあるので、大きく育てばいいというわけではない。
一方、二千五百グラム以下は低出生体重児、二千グラム以下になると極小未熟児、千五百グラム以下だと超未熟児と呼ばれ、早産によって少ない体重で生まれた新生児は、各器官などの発達が不十分な場合もあるので要注意だった。
新生児特定集中治療は研究開発が進み、千グラムの新生児の生存も可能であるとはいえ、子宮に勝る保育器はない。
母体が健康な状態である限り、医師はできるだけ胎児の体重がある程度になるまで出産を伸ばすのが通常だった。
エコーでは多くの胎児の様子を知ることができる。
心臓が動いている様子や、脳の様子、臓器、手足などの発育状態はもちろんのこと、時には笑った表情なども見ることができる。
加えて、胎児の性別も当然知ることができた。
「あら、この子、ついてますね」
「本当だ。しっかり見えてるね」
「あー、それってつまり……」
仁はそれ以上口に出せなかった。
リリアはどうやら女の子しか生まれないと思っているフシがある。
「知らせるべきか、生まれるまで黙ってるべきか。どうすっかなあ」
結局、仁はリリアに告げるのはやめておいた。
のちにリリアにこの事実を告げた際、「どうしてもっと早く言ってくれなかったのよ!」と叱られることになるのだが。
これもすべて、少しでも夢を見せてやろうという仁なりの優しさなのだった。
そういうしている間に妊娠十一ヶ月が過ぎた。
地球人種ならおよそ十ヶ月。セリーア人なら十二ヶ月。
その混血であるファーストなら、もしかしたら十一ヶ月で生まれてくる可能性もないわけではない、と期待して待っていた仁たちだったが、陣痛が来る様子はまったくなかった。
「身体が重い〜。疲れる〜」
それでも、リリアのお腹はますます膨れてきて、家の中のあちこちで「腰がだるい〜」の文句が増えていった。
「何だかんだとつらそうなこと言ってるわりには、おまえ、よく食うよなあ」
苦しいだの、だるいだのと言うわりにリリアの食欲は今まで以上の元気さを発揮し、見ている仁のほうが胸焼けを起こしそうな勢いで皿の上の料理が消えていく。
「食べすぎで腹を壊しても知らねえぞ」
「だって食べても食べても入るんですもの。いいじゃない、ふたり分なんだから!」
「あまり太ると出産がきつくなるって医者が言ってただろ? もちっと控えろよ」
「だってお腹が空くんだもの。何食べてもおいしいのよぉ。って、わかってるでしょうけど誤解しないでよね。
もともとあんたの料理はおいしいのよ。でも今はそれを上回るおいしさがプラスされてるの。
赤ちゃんも食べたいって思ってるからおいしさ倍増してるのかも」
「ふうん。そんなもんかね」
とはいえ、ここに来てあまりにも度が過ぎるリリアの食欲旺盛ぶりに仁は心配になって、アンジーに相談した。
すると、「大丈夫ですよ。普通の妊婦さんもそういう方って多いですもの」と無難な応えが返って来たので、リリアの所望するだけ仁は料理を作り続けることにしたのだが……。
──この食欲を前にして自分も同じだけ食おうって気にはなれねえなあ。
妊婦の身体の不思議さを、仁は今更ながらに感じ入るのだった。
アンジーは、
「胎児が骨盤のほうに下がってきているのかもしれないわ。
胎児が下がることで胃が膨れる余裕ができるから食欲が出るのよ。
今すぐというわけじゃないけれど、でも徐々に出産の時期が近づいているんでしょうね。
食べすぎはよくないけれど、心配はいらないと思うわ」
などと言うが、どうみてもお腹の子供の必要栄養分以上にリリアが食べているのは明白だ。
案の定、その後リリアは体重計に乗って、「ギャー! ふ、太っちゃった〜」と喚く羽目になった。
「あんたの料理がおいしすぎるからいけないのよ!」
そんなふうに当たり前のように仁に八つ当たりするところも、「次からはカロリー控えめのメニューでお願いよ」としっかり次の料理を催促するところも、リリアはやっぱりリリアで、妊婦になっても変わらない。
「何だかなあ。喚くだけ喚いて、それでも食べるのはやめないところなんか、さすがにおまえらしいっつーか……」
冷蔵庫の中身をのぞきながら、仁ははあ、と溜息をつく。
背後から聞こえる「ご飯っ♪ ご飯っ♪」の妻の声はとても弾んでいた。
手伝おうって気がまったくないところがリリアである。
「とにかく痩せるメニューでお願いね〜。素早く、綺麗に、おいしく、でね〜」
「わかったから。おとなしく、もう少しいい子で待ってろ」
そうは言っても居間からこと細かな注文ばかりが飛んでくる。
──おとなしくって俺は言ったはずなんだけどなあ。
まったくなあ。この現状、わかってたとはいえ……。俺、このままプロの家政夫目指そっかな。
家事もこなしながら、研究所に通い、時間を作っては出産についての勉強をし、アンリ教授やアンジーに連絡を欠かさない。
仁の多忙な日々はいつまでも続くかと思われた。
が、ようやくその時が来た。
「チビ……、ち、血が出た……」
洗面所から出てきた途端、唖然と告げるリリアに「大丈夫だから安心しろ」と声をかけながら、内心、こうしちゃいられないと仁は素早く動いた。
待ちに待った出産の兆しが、とうとうリリアに訪れたのだった。
『神様はね、その時が必ずわかるように『おしるし』をくださるのよ。
見過ごしても大丈夫なように一度じゃないの。しばらく続くものなのよ──』
主治医の女医は仁が連絡するなり、そんな空想話をしはじめた。
「あんたの口から神様なんて言葉を聞くとは思わなかったぜ」
仁は彼女がなぜこんな時に限って悠長な話を持ち出してきたのかがわからなかったが、彼女の静かな物言いに少しだけ気持ちが落ち着くのがわかった。
『そう? 確かに私は医師で、医学的なものの見方をする立場にあるけれど、こういう夢のある話は嫌いじゃないわ。
とにかく、これから近いうちに陣痛がはじまるでしょうね。
もし陣痛が来なかったり、来てもすぐに止まってしまう場合は、元気なようなら身体を動かしたほうがいいわ」
「身体を動かす?」
『ええ、散歩とか。階段を上ったり下りたりするとか。そのほうが出産が早く進むのよ。
ただし転ばないよう注意してね』
「そうだな。わかった。じゃあ、そっちは予定通り、こっちに着いたら隣りの部屋で待っててくれ。
たぶん、出産が始まったら通信回線での連絡は取れなくなるだろうからな。
オーウェンも来ることになってるから。あとはあいつを通してくれ。
あの相棒なら俺の言葉を拾ってくれるからな、何かの時はあいつが繋ぎをしてくれる。
俺はリリアの調子次第でタイミング見て居間にこもるから。またあとでな」
自宅は外壁と内壁を分けた半浮遊式の二重構造のシェルターとなっていたが、さらに居間は独立した半浮遊のシェルターになっていたため、居間の一室だけは三重の半浮遊の構造となっていた。
仁は最初からこの居間を出産場所に決めていた。
できるだけリリアが慣れ親しんだ場所で安心して出産を迎えられるよう、仁なりに環境を整えてきたつもりだった。
リリアの出産を待ちわびていたのは仁だけではない。
仁に協力してずっと影から見守ってきたアンリ教授やアンジーも、この時を今か今かと楽しみにしてきた。
友人たちや医療チームのほかにも、シェルターを建設した技術者たちや環境庁の職員をはじめとする政府関係者たちも同様である。
どんな子供が生まれてくるのか。リリアは大丈夫なのか。
不安の中にも幸せな気持ちを見出してきた周囲の人々の数は仁が想像する以上に多かった。
「アンリ教授。こちらの準備は整いました。
はっきりとした陣痛はまだのようですが、おそらく明日中には生まれるでしょう。
新生児医療チームにも連絡しましたから、これから彼らと共に現場に向かいます」
「よろしく頼むよ。くれぐれも妊婦の機嫌を損ねないよう気をつけてくれたまえ。
初産の場合、彼女にとって陣痛の痛みはまさに未知数だからね。
セリーア人の能力を解放されたら、それこそ近辺区域すべて壊滅状態になってしまう。
無痛分娩を受け入れてくれればこんなに気を揉むこともなかったのだろうが……」
「仕方ありませんわ、教授。セリーア人はセリーア人の文化や慣習があるのです。
私は今回、改めて勉強させられました。私たちの物差しで物事すべてを計ってしまってはいけないことを。
そう、彼が教えてくれましたわ。今回の出産も、何があろうと最後はきっと彼が何とかするでしょう。
この分野に限っては彼に医師免許を与えてもいいくらい、彼自身、最低限の技術と知識は充分身につけてますから大丈夫ですわ。
あとは、彼流に言うなら、成り行きに任せましょう、というところですか」
真面目一辺倒の秘蔵っ子の愛弟子から、「成り行き」などという不安定な言葉が出るとはアンリ教授は思わなかった。
彼らの影響の大きさは、まさに疑う余地がない。
深い事情を抱えた一組の夫婦が、愛弟子の女医の狭まった視界を拡げてくれたことに感謝せずにいられなかった。
アンジーはこれまで以上にいい医者になるだろう。
アンリ教授は明るい未来に心を馳せた。
「素晴らしい日になりそうだな」
「ええ、必ず。そうなりますわ。では教授、またあとでご報告させていただきます」
アンリ教授との回線を切ると、アンジーは声を張り上げた。
「特別医療班、予定通り出発します! 機材の移動は迅速、丁寧に!
あちらに着いたら防御服を必ず着用してください。
いいですか、いつでも地殻変動が起きる覚悟を忘れずに!
保育器は緊急用に二台用意! さあ、みんなでファーストを迎えに行きましょう!」
いくつもの力強い声が返り、アンジーは大きく頷いて笑顔を浮かべた。
その穏やかな表情は医療スタッフたちを驚かせるほど働く喜びにあふれた女性の美しさを滲み出していた。
氷の微笑で知られた優秀な女医アンジーはいつも冷静で、こういう事態で笑顔を見せる女性ではなかったはずでは……?
特別医療スタッフたちは戸惑いつつも、更なる緊張を滲ませながら、互いに笑顔で、「よし、行くぞ」と気合を入れる。
緊張しないでいるのは無理だった。それはここにいる誰しもが抱く同じ思いだった。
これから待ち受けるのは、おそらく医療に従事する者として生涯にただ一度見(まみ)えるかどうかのファースト誕生の瞬間である。
自分たちはこれから、特別な出会いに向かおうとしているのだと、改めて気を引き締めた。
陣痛の間隔が狭まった。
十分間隔が、いつの間にか二分間隔になっていた。
仁とリリアは居間で出産に臨んでいた。ふたりだけでここにいるのは必然のことだと仁は思う。
三重の半浮遊式構造のこの居間がさっきからずっと揺れ続けている。
リリアを抱きしめながら、仁は、部屋のあちこちからミシミシと軋む音が建築構造の限界を伝えてくるのを、「頼む。耐えてくれ」と祈りながら聞いていた。
改めて、今のリリアの精神状態では出産の現場に仁以外の者が近付くのは無理だったと感じ入った。
今にも潰されそうな、家屋が発する悲鳴のような音が高くあがるたびに、セリーア人の自然分娩の大変さを改めて思い知らされる。
こうなる可能性が大きかったから、仁はリリアの世話は自分ひとりでしようと決めていたのだが、この揺れの大きさは予想以上だった。
「おまえも辛いだろうが、頼む、力を抑えてくれ。
制御が外れたら俺たち三人どころか周りの大勢も危ねえんだぞ」
仁はひとりで何もかも背負うつもりは毛頭なかった。
手が足りない部分は助けを求めるつもりでいた。
新生児の扱いに信頼をおける医療スタッフを選出してもらい、生まれたら子供はすぐに彼らに預けるつもりで別室で待機してもらっている。
そこにはオーウェンもいて、すぐに連絡着くようにしてあった。
オーウェンは今もシェルターの中の仁からの精神感応力を通じて分娩の進行状況をスタッフに伝えてもらっている。
(みんな、赤ん坊が生まれるのを楽しみに待っててくれてるんだ。だから、リリア頑張れ!)
オーウェンの声がさっきからずっと頭に響いて聞こえたいた。
「聞こえるか。オーウェンの声が。頑張れって言ってんのが」
「痛い……痛いよ……、チビ……」
「痛いのは子供が生まれてくるからだ。もう少しで俺たちの子に会えんだぞ。
頑張れ、リリア。この一年間、この日のためにおまえも頑張ってきたんだろ? もう少しだ。もう少しだから」
──頑張れ。頑張れ。頑張れ。
居間とした独立したシェルターの分厚いドアを締め切り、ソファーや椅子を片付けて、床に毛布やクッションを引きつめた上にリリアは横たえてからすでに五時間は過ぎていた。
苦しむリリアが時折、身体をひねっては額に汗を滲ませる。
仁がタオルで拭ってやると、痛みを堪えながら力弱くリリアが微笑んだ。
本人は自分で自分の念動力を抑えると言って、防御壁を作る努力をしていたようだが、あまりの陣痛の痛みに一瞬気が遠のいたのだろう。
瞬間、仁は身体が大きく左右に揺れるのを堪えた。
その空間が浮構造のシェルターの中でなかったら、避難勧告を必要とするほどの大地震を観測していたかもしれない。
それほどの大きな揺れだった。
細くて高い声を短く発したリリアが、ガクンと上半身を床に倒れこんだ。
仁はリリアが怪我をしないように、倒れる身体を受け止めた。
リリアを抱きしめる形で背中を床に打ち付けられる。
慌てて腕の中のリリアの様子を伺えば、早い息を繰り返して痛みを逃しているところだった。
「大丈夫か? 頭打ってねえか?」
「うん……、大丈夫。あり…がと……」
動いていれば痛みが治まるかように、それからもリリアは何度も無用に身体を動かした。
そのたびに仁はリリアを包み込むように、時には腕を、時には胸を、全身を差し出して、リリアの陣痛に付き合った。
そうこうしているうちに、その瞬間が近付いてきた。
子供の頭髪が初めて見えた時、仁の心臓はどきんと大きく高鳴った。
──黒髪だ!
それはしっとりと濡れていた。
灯りを反射して一瞬銀色に見えたが、よくよく見れば仁にそっくりな漆黒の髪だった。
「もう少しだ! とにかくいきめよ!」
頭が出るまでがこれまた大変だった。リリアが悲鳴をあげながら力を入れる。
額や首筋に汗の玉をびっしょりと散らしていた。
乳白色の髪が濡れて額に張り付いている。
仁は自分の汗はそのままに、リリアの額や首筋を何度も拭い清め続けた。
子供の頭が出ると、首にへその緒が巻きついているのがわかった。
首を絞めないように、仁はへその緒を緩めながら、片方の肩を出す。
いきむのをやめて、息を短く吐くようリリアに指示した途端、子供はするりと出てきた。
緊張で冷たくなった自分の手には、火傷しそうなほど熱く感じる赤子の小さな身体。
仁はしっかりとその手に受け止めながら、命の重みを味わっていた。
──生まれた! 俺の子だ!
「ウ…ッギャア」
生まれたばかりの赤子の鳴き声が部屋中に響く。
壁に反響して、ひどく響いて聞こえた。
興奮した頭に、生まれた実感がひしひしと染み込んでいく。
(今、生まれたぞ! 男の子だ! 元気に泣いてる。リリアに抱かせてからすぐそっちに連れてくっ!)
(仁! おめでとう! こっちはいつでも準備万端だ! いつでもいいぞ!)
仁の腕の中の赤子はわずかに血で汚れていたが、肌の色が際立って白いのが見て取れた。
──肌のこの白さは母親似だな。
小さな身体はいつまでも炎のように熱かった。ほかほかと湯気があがるのが今にも見えるかのようだ。
それほどに「生」を感じさせてくれた。
「あ……」
リリアが心配そうにこちらを見ている。
「ほら、元気な男の子だぞ。よく頑張ったな。大丈夫か、抱けるか?」
リリアの顔は汗と涙でぐしょぐしょに崩れ、疲労の色がとても濃かった。
それでも布にくるまれた我が子に手を伸ばし、笑顔で抱くと、リリアは小さな手のひらを指先で優しくつついた。
「ホントに男の子……? 女の子、じゃないの……?」
赤子をくるんでいる布をちらりと捲れば、そこには確かに男の証拠が見えて、リリアは一瞬、納得できないといった顔をした。
そんなリリアの様子を見て仁は言った。
「男じゃやなんかよ。娘がほしかったんか?」
「そうじゃないわ。そうじゃないの……。だって、ファーストの男なんて願っても生まれないのよ……?
それなのに、まさかわたしが生むなんて……。嬉しいの。これはホントよ……」
信じられないわ、と繰り返すリリアが、今更ながらに気づいたように、ふと赤子の髪の色に目を留めた。
「あんた、そっくりだわ……」
匂い立つような晴れやかなリリアの笑みに、仁の心がどくんと浮き立つ。
黒髪の赤子は目を閉じたまま、いまだ開けていないが、リリアにはその瞳の色がわかっていたのかもしれない。
「きっと瞳もパパに似て、真っ黒に決まってるわ……」
自分とはまったく異なる色。だけどリリアの大好きな色彩。
リリアはまだ見ぬ我が子の瞳の色を確信していた。
つかの間、リリアに子供を抱かせると、仁は、「またあとでゆっくりな」と言って、リリアから子供を受け取った。
シェルターの厚い扉を開けた途端、冷たい空気が入り込むのと一緒にオーウェンがにょきっと顔を出してきた。
待ちかねたように、仁に向かって両手を差し出してくる。
「おめでとう! 早く子供を抱かせてくれ。みんな、首を長くして待ってるんだ!」
「ああ! あとは頼む。よろしくな!」
赤子を預かったオーウェンをたくさんのスタッフがすぐさま囲むのが見えた。
これから赤子は身体を清められ、体調を調べてから、また両親のもとへ戻ってくる手筈になっている。
例え健康状態に問題があったとしても、すぐさま対応できる体制を整えているので、仁は安心してリリアのもとに戻って行けた。
仁の手によって再び重いシェルターの扉が閉ざされる。
「さあ、まだおまえの仕事は残ってるぜ」
リリアはいまだぼおっとしているようで、身体が力が入らないようだった。
「さあ、いきめよ。これを出さなきゃまずいんだからな」
そして、後産がはじまった。
(仁、きみたちの赤ちゃんはすごく元気だよ。こっちはもう支度は済んだ。
リリアの準備が整ってるなら、これから赤ちゃんを連れていくけど?)
オーウェンが仁の顔を思い浮かべながら心の中で話しかけると、即座に仁から返事がきた。
(オーウェンッ! そこにアンジーいるかッ!)
少々焦り気味の仁の声に、オーウェンがすくさま反応した。
リリアが急変したのだろうか。仁の慌てようは普通ではなかった。
オーウェンはアンジーの手に手のひらを重ねて、仁の声を伝えようと試みた。
すると仁から説明を受けたアンジーが、「何ですって?! 胎盤が出ない? いきんでもだめなの?」と叫んだ。
突然、アンジーの口から漏れた言葉の重要性を一瞬で理解したスタッフたちが、パッとこちらを振り向いた。
(ああ、ダメみたいだ。だからこれから俺が掻き出すっ!)
「掻き出す? 今、掻き出すって言った? あなた、それどういうこと?」
(そのままだ。前に一度、そういう映像を見たことがある。だから何とかなると……思う。
……っと、今たぶん胎盤掴んだ。これを引っ張って、大、丈夫だ……。は、あ……、これで全部か……?)
アンジーの頭の中は真っ白になっていた。
「もしかして、今掴んだって……胎盤を?」
隣りのオーウェンに尋ねると、しっかり頷いてくるから、信じられない思いでその状況を頭で想像しながら思わず唸った。
「引っ張ったとも言ってたね……。まあ、仁のことだから無茶しないと思うけど……」
「あまりにも原始的すぎるわ! 何てことするのよ! 何て、何て男なの!
無茶どころか無謀もいいとこよ!」
それでも、彼が行った対処方法はまったくの間違いではない。
彼は最低やらねばならないことを優先した。つまり、母体の身体を第一に考えたのだ。
胎盤の残したままでは大出血する可能性もある。命の危険となるかもしれない。
それを考えれば、仁がしたことはある意味とても正しい処置だ。
わかっている。理解もできる。
それでもアンジーは割り切れずにいた。
仁の判断力に舌を巻く気持ちと、その一見無謀にも取れる最良の手段の間に挟まれたまま、仁という男を認めざるを得ない理不尽さにさいなまれて、アンジーは少しだけ悔しさを覚えた。
何が起ころうと最後にはどうにかしてしまう。かの男の大きな力量に惹かれずにいられなかった。
思わず涌き出てしまう望みのない気持ちに戸惑いながら、胸にポツンと穴が空いたようなもの寂しさを覚えたとしても、それは当然だろう。
彼には美しい妻も、生まれたばかりの子供もいるのだ。
ましてや、彼に残された時間は残り少ない。
アンジーは自分自身を哂うしかなかった。
そうやって自分に都合のいいことしか考えない、都合のいい男しか選べない。
仁の負の面ばかりを並べて、最初から諦めることしかしようとしない。
計算高くて、変なところで脆い自分──。こんな自分が昔からアンジーは嫌いだった。
それに比べて、リリアはどうだ?
彼女は彼の命の期限を知ってから行動に出たと聞く。
逃げる仁を捕まえて、仁の未来を自分も彼と共有しようとした。
仁から紹介されたオーウェンからふたりの馴れ初めの話を聞いて、どれほど驚いたことか。
ああ、なんて強さだろう、とアンジーは自分を顧みて微笑んだ。
「あなたのお父さんとお母さんは本当にすごいわね」
生まれたばかりの黒髪の赤子にそっと囁く。
ちょうど、「もうあっちは大丈夫みたいだよ」とオーウェンに促されて、
「そろそろいいでしょう。あちらの準備も整ったようです」
アンジーはスタッフに改めて声をかけると、赤子を大切に腕に抱きながら新米パパとママの待つ居間へと向かった。
シェルターの扉をくぐると、リリアが横たわっているのが見えた。
着替えたのか、身奇麗にしている。
乳白色の長い髪をひとつにまとめて、リリアは目を輝かせてアンジーの腕の中の赤子を見つめていた。
「わたしの赤ちゃん?」
「そうよ。あなたの息子よ。名前はもう決めてあるの?」
アンジーから赤子がリリアに託されると、仁が赤子の顔を覗き込んできた。
「朱里。名前は朱里だ。
どこにいても、何をしていても、自分には帰る故郷があるんだと知っていてほしい。
迷ったら自分の中に流れる血を想うように。だからこの名をつけた。
リリア、おまえの故郷にもあやかってな」
以前、リリアは故郷の夕陽の美しさを仁に語ったことがある。
いつか仁を連れて行きたいと言っていたリリアだが、おそらくその望みは果たされそうにないだろう。
仁にはそこまでの時間が残されていない。それは仁自身が一番よく知っていた。
だからせめて息子には……。
その身体にリリアの血が流れてる限り、それを自身が望むなら、自分の力で叶えるがいい。
そんなふうに仁が願って付けた名前──朱里。
──なあ、朱里。
男なら、女になんかに頼らねえで自分でどうにかしてみろよな。
おまえはあの女の息子なんだから、それくらいできねえでどうするよ。
大丈夫。おまえならきっと何とかできる。その指標だけは俺が示してやるから、あとは自力で頑張れ!
ホント悪ぃな、俺にはそれくらいしかしてやれねえ。
おまえに名前を刻み付けて、おまえがあの女の息子だってことしか示してやれねえ。
先に逝く自分にしてやれることはそれくらいしかないのだと、仁は心の中で朱里に何度も詫びながら、仁は朱里が生まれてきたことに何度も何度も感謝した。
──おまえはあの女と俺を繋ぐ存在だ。
例え未来、その二本の足だけで立たなきゃならねえ時が来ても、おまえは孤独じゃねえ。
おまえに帰る場所がある限り、寂しくはねえんだ。なあ、わかってくれよ。
「朱里。その手で自分の未来を掴めよな。おまえならできる!」
──命ある限り、おまえのことを俺は守る。約束してやる。だから、早く大きくなれ。
おまえが自分の足で歩いていける、その姿を見せてくれ。
俺も頑張るから。一秒でもおまえと一緒にいられるよう努力するから。
だから、元気に生きてくれ。
あたたかな小さな身体がわずかに身じろぎして、朱里は仁が伸ばした指先を精一杯握り締めた。
「おまえ、すごい力だな……。偉いぞ」
銀河標準時間の七月。
この日、相良朱里は、地球人種の父、相良仁とセリーア人の母、リリア・ティナ・セリアナンの間に生を受けた。
同月、誕生日を迎えた仁は、二十九歳。
消化器系の粘液性進行型悪性腫瘍c−FDの発病により、二十六歳で遺伝子治療を受けてから、二年九ヶ月が過ぎていた──。
illustration * えみこ
えみこのおまけ
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