生まれたばかりの朱里はとても小さかった。抱きしめる我が子はとても弱弱しい。
目も開けられない皺(しわ)だらけの顔。頭部は細長く伸びていて誰似なのかわからなかった。

 それでも黒い髪は父親のそれと同じ色で、それだけでもリリアは胸に湧き上がるものを感じていた。

「朱里……」

 仁が名付けた名前を舌の上で転がすように声にすると、すとんと胸に落ちてくる感触が何とも心地よい。
まるでパズルピースがぴったりとはまるごとく、すでにしっくりと馴染んでいるのがすごく不思議で、なぜかとても安心できた。

 唇をもぎゅもぎゅ窄(すぼ)めている我が子を抱き上げると、力強く胸に吸い付いてくる。

 ああ、この子はきっと強く生きてくれる。
そう信じさせてくれる力強さだった。

「朱里、私がママよ。よろしくね」


きみが片翼 -You're my better half- vol.13



 相良朱里と名付けられた赤ん坊は周囲の心配を吹き飛ばす勢いで、とにかく元気に育っていった。
そして、その成長ぶりは、「おまえ、そりゃ育ちすぎだろう」と仁が心配するほど早かった。

 生まれてすぐに母乳を飲みはじめた頃は一見、純粋な地球人種の新生児と何ら変わりなかったが、朱里はやはりリリアの息子だった。

「信じられねえ」

 仁がスプーンで離乳食を一匙掬うと、朱里は大きく口を開ける。
その口の中にしっかりと見える小さな白い物体。それはいつ見ても信じられないモノで。
何で生えてんだ、おまえそれはちょっと早すぎだろうと憂いたくなるほど、立派な前歯だった。

 仁にとって、それは摩訶不思議な現実でしかなく。

「マジに信じられねえ」

 つい何度も同じ言葉を呟いてしまうほど、これが本物の歯だとわかっていても、時たま感覚がついていけなくなる時があった。
出産関係のあらゆる知識を頭に詰め込むだけ詰め込んだはずなのに、あの知識は何だったのだろうと言いたくなるのはきっと仁に限ったことではないだろう。

 記憶を遡(さかのぼ)っても、リリアが朱里を生んだのは二ヶ月前に間違いはないのに、目の前の赤ん坊ときたら、スプーンの上にこんもりと盛られたご飯を目にした途端、あーんと口を大きく開けてくる。食に対する食いつきの良さも、ご飯がおしまいとなると隙あらば這いつくばって逃げ出そうとするところも、リリアを彷彿させるものがあった。

 玩具に向かって元気にハイハイをしている姿はどう見ても、ついこの間、この世に生を受けた赤ん坊には見えない。

「ったく、二ヶ月でコレかよ」

 普通の二ヶ月児はかわいらしく母親の胸に顔を埋めて、母乳を飲んでいるもんじゃないのか。
俺の医学的知識が間違っているのか、と訝しんでもおかしくない状況が目の前に広がっていた。

「完璧にあいつの血だな、こりゃ」





 朱里が生まれてくる時、仁の目にいち早く飛び込んできたのは自分譲りの黒髪だった。
目を開けるようになると、虹彩も黒々としていて、「こりゃまた強く出たもんだねえ」とオーウェンが感心するほど朱里は仁の外見の特徴を濃く受け継いでいた。

「確かに俺の……だよな」
「血のなせる業だよねえ」

 あの日、仁が朱里を我が子として初めて実感したのはその強烈な黒い色彩を見た瞬間だったし、誰しもがこの子は父親似だと言っていたから間違いなく自分の息子なんだろうと思う。
身に覚えはこれでもかってほどあるし、自分に似ていると言われて、少しの照れくささを覚えながらも満更でもない満ち足りた気分を味わっていた。

 地球人種の自分似の朱里。このまますくすくと育ってくれればいいが……。
そんなふうに自分をはじめとする周囲の面々が切実に願っていた──その矢先のこと。
日々を過ごすうちに純粋な地球人種の新生児にはあり得ないことが朱里の成長に現れ出した。
まず、朱里が母乳を欲したのはたったの半月だけだった。
これだけでもその片鱗が見えたと言っても過言ではないだろう。

 リリアが母乳を与えても泣きやまない。
母乳が足りてないのかと人工乳を与えても、しっかり飲むだけ飲んだあとまた泣き叫ぶ。
大きな口を開けてうぎゃーうぎゃーと泣くので、そのたびに仁が哺乳瓶を咥えさせるのだが、静かでいるのは最後の一滴が落ちるまで。瓶が空になった途端、再び泣き出してしまう始末だった。

「俺にどうしろってんだよ……」

 焦る気持ちで哺乳瓶と朱里を見比べる日々がしばらく続いたある日のこと、仁は大きく開いた朱里の口の中に頭を出している白い物体に気が付いた。

「ゲッ。これってばもしかしして……」

 まさかまさかと思いながら、ドロドロの、ゲル状の、ほとんど液体のような、食感というものを完全に無視した離乳食をスプーンに掬って朱里の口の中に入れてみると、この息子ときたらとろけるような笑顔を見せるではないか。
うわ、マジかよ。何でうまそうに食べるんだよ、と自分の作った離乳食に文句すら言いたくなるほどの衝撃が仁を襲った。
普通ここはぺって吐き出すとこだろう、と。

 一方、一気に天に向かって急上昇にご機嫌になった朱里は大き口をく開けて、もっともっとと催促した。
その姿は天使のようなかわいらしさで、仁は根負けしたかのように離乳食作りに勤しむことになった。

 あれよあれよという間に立派な前歯が生えた朱里は、生後一ヶ月を過ぎた頃には上下四本ずつ乳歯が綺麗に生えそろえ、奥の歯茎からもうっすらと白い頭を見せはじめていた。
乳歯が生えそろうのもそう遠いことではないだろうと思わせる成長ぶりは空恐ろしいもので、仁は、「おまえ、ホントに先月生まれたんだよな」と話せぬ我が子に向かってつい確認してしまう始末だ。

 朱里の成長の早さは食生活だけに留まらなかった。
寝返りをうったと思ったら、すぐに腰が据わり、つかまり立ちをするようになったと思ったら、翌日にはふらふらしながらも自分の足で前に踏み出そうとしだした。
それだけに留まらず、肩を揺さぶる仕種までしはじめて、この動きはどう見ても不自然すぎるだろうと仁は心落ち着かなかった。

「バランスの悪いロボットみてえ」
「あんたね、かわいい我が子に向かって何てこと言うのよ。これはね、羽ばたく練習をしているのよ。
ほら、ここを見て。この肩甲骨のところを一生懸命動かしてるでしょ。かわいいじゃないの。
翼がなくてもさすがに私の子よねえ。本能なのよ」

 そうリリアが説明している間も、バタバタ手を振り回しては、朱里はつぶらな瞳で仁をじいっと見つめてくる。
そうして、餌を求める雛鳥のように大きく口を開けて、「あーあー」言って食べ物を催促してくるのだった。
完璧にご飯をくれるのは仁なのだと認識している朱里だった。

 まるで一年という時間を早送りしたかのように、出来ることが一日一日、格段に増えている。
昨日と今日では成長の差が著しすぎて、朱里から一瞬たりとも目が離すのが何だかもったいない。
仁は朱里にべったりで、朱里も仁にべったりだった。

 ママだかまんまなのかわからない言葉を口にしていたので、「俺はパパ。まんまはこっち」と繰り返しながらその小さな口にスプーンを運ぶと、すぐに朱里はそれらしい言葉を楽しそうに口にする。

「おまえなあ、何にしても急いで育ちすぎじゃねえ。もちっとゆっくりでいいんだぞ」

 まるで父親の限られた命を哀れむかのように早く成長しようとしているようで、それがすごく不憫に思えて、つい出てしまった呟きだったのだが、リリアが偶然それを拾った。

「何馬鹿言ってるのよ。チビのせいなわけないじゃない。
親の都合で子供がバカスカ大きくなるわけないでしょが」

 一蹴して笑って取り合わないところはさすがに仁の事情を知った上で結婚を決断したリリアである。

「チビ。あんたは誤解しているわ。
赤ちゃんっていうのはね、本来飛べるようになってから歩けるようになるものなのよ。
朱里は普通に育ってるわよ、もうちょっと安心しなさいよ」

 リリアが頭を撫でたり頬ずりしたりすると、朱里はキャッキャッと笑って喜んだ。

「まあ、この子は羽根なしだから……。もしかしたら飛べない分、早く歩こうとしてるのかもしれないけどね」

 朱里の黒い髪と黒い瞳はリリアのお気に入りである。
黒い瞳に自分の姿が映し出されているのを見ると、まるで仁に見つめられているようでドキドキしてしまう。
ましてや、丸くて大きな瞳はとても愛らしく、「なぁんてかわいいのぉ〜。さすが私の子♪」と猫かわいがりしたくなってもこれは不可抗力だとリリアは言う。

 出産したばかり頃、リリアはしばらくの間、大人しく横になっていたが、じっとしていられたのは三日が限界だった。
すぐさま床離れをして、
「だぁってチビばっかり朱里をだっこするなんてずるいんだもの。
それにチビのあれ、なっちゃいないのよ!」
アレコレと精力的に子育てに口を出すのはリリアらしいといえばリリアらしかったが。
実際はリリアは朱里の世話に手を出してくることはほとんどなかった。





 仁が慣れたように朱里のおむつを換えるのをじっと見つめながらオーウェンがぽつりと零す。

「しっかし、リリアって本当に口を出す専門なんだねえ」
「あいつが言うには、これも先の短い俺のためなんだとさ。
俺っていう父親の存在を目一杯植えつけさせる機会を与えてやってるんだとよ」

 今、リリアはここにはいない。
どうやら家の中にはいるらしいが、仁からは何も説明がない。
自分がやってきていることは知っているはずなのにどうして顔を出してこないのだろう。
何か手が離せない用事があるのだろうか。
オーウェンは不思議に思った。

「それにしても、もろもろの買い出しもすべて仁が請け負ってるんだろう? それも朱里を連れて。
せめて外出する時くらいはリリアに朱里を預かってもらったらどうだい?」

 ここに来る途中、赤ん坊を背負いながら手に荷物を抱えている男の後ろ姿を見かけた時、女房に逃げられたロクデナシ亭主か、大変そうだなとオーウェンは同情したものだ。
「よォ、オーウェン。早かったな」と仁が明るく振り返らなかったら、もう少しで憐憫の情の眼差しをいつまでも向けているところだった。

「リリアは朱里の母親なんだし。何でもかんでもきみひとりが背負わなくても──」
「あいつなぁ……。あいつもいろいろあるんだよ」

 言葉を濁しながら、仁が汚れたおむつを持って立ち上がる。

「わりぃ、ちょっとコレ捨ててくるわ。朱里、オーウェンじいちゃんと大人しく待ってろよ」

 立ち去る仁の背中を見送りながら、オーウェンはふと思った。
仁って実は結婚相手としては優良株だったんだねえ。

 すると、朱里がぶぶーと口から涎を垂した。
仁の姿が見えなくなって、朱里はどうやら拗ねているらしい。

「どうやら最高のパパでもあるようだね」

 それにしても、と思う。
気持ちを切り替えて、オーウェンはわずかに眉を潜めた。
あの奔放な仁の妻はいったい何をしているのか。
理由はどうであれ、仁ばかりに負担がいっているように見えるのはいかがなものか。

 そんなオーウェンの心情を無視して、朱里の小さな手がパタパタとわずかに強張ったオーウェンの頬を叩いてきた。
わずかに生えた顎の髭のジョリジョリした感触を不思議そうに何度も確かめる朱里の黒い瞳がきらきらと輝いている。
その愛らしさに思わずにへらと顔全体の筋肉が緩んでしまうオーウェンだった。

「きみは本当にかわいらしいねえ。その顔立ちはママ似だよねえ。
この成長の様子からして、どうやらママの血が濃いのかな。
結局、満十二ヶ月もお腹の中にいたのだしねえ。
でも、頼むから他人を振り回すような性格にだけはならないでおくれよ。
我が道を行くのはきみのママひとりで充分だからね」

 オーウェンが朱里を抱き上げると、朱里はきゃはっと笑い声をあげた。
黒々とした瞳がオーウェンの締まりがない顔をしっかりと映している。

 孫と言ってもいいほどのかわいい赤ん坊に会うために、時間の合間を縫ってはせっせと相良家に通ってきているオーウェンの爺馬鹿ぶりは自他ともに認めるもので、朱里を抱く手つきに躊躇する様子はまったく見られない。
朱里をあやしているそんな相棒の姿に、戻ってきた仁は眩しそうに目を細めた。
そうして、「さすがに慣れたもんだな」と笑う。

「でも、きみには負けるよ。ほら、もうパパのほうに行きたがってる」
「当ったり前だろ。こんだけ世話させといて、俺より懐かれたら落ち込むぜ」

 軽くいなして、お互いひと通り笑い合った。
間に挟まれた朱里がふたりを見比べながら、再びパタパタとオーウェンの頬を叩いてきた。
仲間外れにするなと言っているようだ。

「そうだったな、おまえも男だもんな。男同士、仲間に入れてやろうじゃねえか」
「朱里、よかったね」

 穏やかな時間が男たちの間に流れた。幸せなひとときだった。

 他人から見たら、このような平凡な日々などとても小さな幸せでしかないのかもしれない。
だが、ふたりには、これが至極贅沢な時間なのだとわかっていた。

 朱里が仁の膝の上によじ登ってきた。

「わかったわかった。抱っこしてやるから大人しくしろって」

 少しもじっとしていない朱里を仁はひょいと抱きかかえる。
途端、まるでそれを合図にしたかのように、仁は悪戯を思いついたガキ大将のような、裏に一目あるような目をオーウェンに向けてきた。

「大事なこと忘れてたぜ。
実はさ、おまえを呼んだのは朱里の相手をさせるためじゃねえんだよ。見せたいものがあるんだ」
「へえ、面白そうだね。何だい、いったい」

「いいからいいから。こっち来いって。ま、見てのお楽しみだ」

 そう言って、仁に連れて行かれた先は、変わり映えしない家屋の裏だった。

 相良家の住まいは中心街から離れた郊外にあった。
家の裏に林が広がっているような辺鄙な場所だが、少し行けばスーパーマーケットや住宅街があるのでそれほど不便なわけでもないと仁は言う。
人一倍目立つ存在のセリーア人のリリアにとっても、ここののんびりとした田舎風情の濃い穏やかさは好ましかったと言える。

 家屋の裏に仁が趣味の自家菜園を作っていることはすでにオーウェンは知っていた。
とはいえ、どうやら仁は野菜や果物の実り具合をオーウェンに見せたいわけではないらしい。
仁は菜園を抜けて、迷いなく林の中に入っていった。オーウェンも黙って仁の背中について行く。

 林を少し入った先には、一面の野原が広がっていた。
遠目にも多数の雑草が生えているのが見える。
近くに寄るとシロツメクサやタンポポなどの一般的な雑草が処狭しと生えているの知れた。

「こっちだ」

 雑草地の中心より幾分外れたところに仁は歩いて行った。
そして、一段と雑草が伸びている場所で留まると、「オーウェン、ここ」と仁が地面の一点を指差した。
さまざまな緑色の葉の中に隠れるようにして、見慣れたそのギザギザの葉が目に入った。
刹那、オーウェンは息をつぶさに飲み込んだ。

「ガ、ガイダルシンガー? まさかこんなところに?」
「へへ。やっぱり驚いたか」

「どうして……」
「ポケットの中にさ、種が入ってたんだ。さすがにびっくりしたぜ。ンで、どうせならって増やしてみた。
こいつらはあの日の種の三代目にあたる。すっげえだろ。さすが俺」
「……きみって人は、まったく何をやってるんだ。
まあ、子育てに奮闘しながらも本職を忘れないところはさすがにELG根性というべきか。
それにしてもガイダルシンガーの増殖に成功していたとは……。ホント参るな」

 仁の言うあの日がどの日を指しているのか、オーウェンにはすぐにわかった。

「それにしてもすごい数だ。よく増やしたねえ。これ、リリアのお手柄だろう?」
「まあ、最初のうちは面白がって翼を拡げて……な。っつっても、あいつのことだ。
そのうちそれどころじゃなくなっちまって、俺任せになっちまったけど」

 セリーア人の羽根に反応して花を咲かせるガイダルシンガーは地球人種の植物学者泣かせとしてピカイチを誇る植物である。
そのガイダルシンガーをここまで増やすには、さすがにこの相棒といえど、セリーア人の妻の助力を必要とした事実は隠せない。仁ひとりで咲かせたわけではないことはわかっていた。
それでも大したものだと思うべきなのだろう、とオーウェンは思い直した。
実際、セリーア人の協力を得られる植物学者などそうはいないのだから。

「これだけ増やせただけでもすごいことだよ。本当にセリーア人の羽根の作用には恐れ入るねえ」
「あン? それは違うぜ。まあ、セリーア人作用ってのはまったくの間違いってわけじゃねえけど」

「え? 何が言いたいんだい、仁。これは私たちには手に余る花であることには違いないんだろう?」
「ところがだ。聞いて驚けよ。この代はさ、リリアが咲かして実らせたんじゃねえんだよなあ」

「……まさかだろ?」

 オーウェンはくっと笑った。仁らしくない冗談だと思った。

「俺が嘘を言うかよ。こいつらが証拠だ。
ガイダルシンガーは一定の条件下にあったらセリーア人の羽根がなくても咲くんだよ」
「一定の条件下で咲くだって?」

 オーウェンは目を大きく見開いて無二の相棒の顔を見つめた。

 育児休暇中の身でありながら、ガイダルシンガーの研究を続けていた仁。
自分の想像を遥かに超えたところまで彼の成果はたどりついている。
それが事実だと理解した瞬間、この男は自分の知らないところでいったい何をしていたんだと憤りに似た驚きがオーウェンを襲った。

「その顔は信じてねえな。俺だって最初は信じられねかったからその気持ちはわかるけどよ」

 仁はくしゃりと顔を崩してオーウェンに笑顔を見せると、「気が付いたのは偶然だったんだ」と話を切り出した。

「とにかく子育てしながらだったからな。
リリアが放置したガイダルシンガーの世話するのも中途半端になるのはわかってたし。
最初は自分でもホントにこんなことしていいのかって滅茶苦茶迷ったんだぜ。
ほれ、何しろこいつってばよ、滅多にない貴重な種じゃん?
ここに通うってつっても、少しも目が離せねえ朱里を連れてだからなあ。
研究所にいた時のようにきっちりかっちりの正確に実験観察なんてできるわけねえしさ。
家庭菜園の延長上程度の世話しかできねえのは最初からわかってたんだよ……。
けど、そのうち蕾がついて……。それでこりゃあひょっとしてって思ったんだ」

 毎日の観察だけは仁は欠かさず続けていた。何しろ雑草地で細々としている実験である。
研究所のような最新新鋭の器具も道具も何もなかった。
だが、仁は自身の観察眼だけは自信があった。

 そしてある日、仁は日課となった朱里の散歩がてらに雑草地に来たところ、研究所でオーウェンとふたりで栽培していた時よりも遥かに蕾の育ち具合がいいことに気付いたのだった。
最初、仁は、この地の環境がガイダルシンガーに合ったのだろうかと推察したのだが、ここの土壌は一般的な地質でしかない上に、これと同質の土壌での観察結果はすでに出ていたことを思い出した。

 この土壌にガイダルシンガーの成長を施すような作用は特になかったはずだと思い直した仁は、次の可能性を考えた。

「土じゃねえってことはやっぱりあいつのの羽根か?」

 セリーア人の翼がガイダルシンガーの成長を促して開花の鍵を握っていることはすでに実証済みだ。
だから仁はセリーア人が翼を拡げた際、ガイダルシンガーに与える影響範囲を推測した。
ところが、ここ数日のことを振り返ってみると、リリアはこの雑草地にやって来るどころか、空の散歩すらしていない。
それにいくら蕾の育ち具合がいいと言っても、リリアが翼を拡げた時ほどの急性さはないようだ。

「それでも、研究所で栽培していた時よりもここでのほうが格段に育ちがいいには違いねえんだよなあ」

 この差はいったい何なのだろう。
仁は気になった。

 そうこうしているうちに、仁はヒントを見つけた。
ガイダルシンガーを専門に扱ってきた植物学者であり、またセリーア人を家族に持つ仁だからこそ着眼することができたその発見は、リリアと朱里の会話がきっかけとなった。

「言っとくが、会話っつっても普通に喋るのとはわけが違うぜ。
例えばさ、朱里がじっとリリアを見てるとするだろ。そうすると、リリアがひとつオモチャを持ってくる。
それがさあ、毎回、朱里が最初からそれを持ってきてほしいと頼んだかのようにどんぴしゃなヤツみてえでさあ。それが百発百中なんだわ。
これでもELGの端くれだからな。もし、ふたりがα類の心話で話してんのなら俺にだってわかるはずだろ?
けど、俺にはこれっぽっちもわかんなかったんだよ。
朱里は『あ』とも『う』とも口をきいちゃいねえし。目で訴えてモノを特定するような仕種をしたわけでもねえ。
だもんだから、俺は最初、リリアが朱里の思考を読んで先回りして動いてるのかって思ったんだ。
そうそう、試しに朱里が同じような仕種を見せた時、俺、適当にオモチャを渡してやってみたけど散々だったぜ。
自分がとってほしいやつじゃなかったみてえでさ。
握るだけ握ったあとすぐさまポイって放っちまいやがった。
朱里のやつ、結構頑固なんだよな。マジに我がままっつーか、それしか見えてねえっつーか」

 そしてある時、リリアが朱里に、「ねえ朱里、そろそろαのほう使うようにしましょうね。あらあら違うわよ。そっちじゃないわよ。それはβのほう。パパと話したいならαを使わないとね」と言っているのを聞いて、仁は確信したのだった。

 今まで何もしていなかったようで、実はリリアはリリアなりに朱里を教育していたようだ。
どうやら母と子の間ではβ類の心話で会話をしていたらしい。
それはセリーア人でしかできない言語の習得教育だったのだろう。
それなら仁が理解できないのも頷けるというものだ。

 ELGが持つ精神感応力──俗にいう遠話や心話と言われているものは、α類と言われているものである。
一方、セリーア人たちはα類もβ類も自由自在に使い分ける。
とはいえ、通常使っているのはβ類と言われている。

 つまり、リリアの話によると、朱里が最初に使いだしたのはβ類ということで、「次はα類の特訓よ」だから、「パパと話したいのならαを使いなさい」と言いきかせているところなのだとか。

 ちなみに相良家の日常では、銀河連邦標準語が使われている。
だが、朱里が口に物を入れてしまったとか、危ないことをしようとした時などは、「やめろー!」と声に出しながら、ついつい(何してんだ、てめえ!)とα類でも叫んでいるのだと仁は言う。

「焦ってる時っておまえもそうじゃねえ?
心話使いながら、何となく声にも出してしちまってるってよくあるこったろ?」

 リリアもなかなか頑張ってはいるようだが、朱里はまだα類を上手に使えないようで、ある程度自由に使えるβ類で極力楽してしまおうとするから、教育ママ・リリアは最近殊の外おかんむりだ。

「私の言うことがどうして聞けないのよ」
「まあまあ、落ち着けって、そんなにすぐには無理だろうさ」

 赤ん坊相手に自分の思い通りに事を進めようとするなよ、と本来言いたいところだが、仁は黙っていた。
そんなことを言おうものなら、火に油を注ぐことになるのはわかっていたからだ。

「朱里。α類が無理なら声に出して言ってみなさい。これは『チビ』よ。『チビ』。もしくは『パパ』でもいいわ。
私は『ママ』よ。さあ言ってみて」

 だが、朱里はというと、ぷいっと顔を逸(そ)らして、無言の体を貫く根性を見せている。

「おお、すげえすげえ。こいついっちょ前に逆らってやがる。意外に根性あるじゃん」
「何、悠長なこと言ってるのよ。あんたこのまま朱里と話ができないままでいいの?
ちょっとは自分の残りの寿命を考えなさいよ」

 それを言われると耳に痛いものがある。

「朱里のクセに生意気なんだから。ホント誰に似たのかしら」

 そりゃあ母親が母親だからじゃないか。そう思っても、仁は利口にもこれまた黙っておいた。

 どうやら朱里は声に出して意思を伝えようとすることはα類を使うよりも遥かに苦手なようで、音声で言葉を表現するという動作を極力省こうとしてしまう気配が見える。

「声に出してじゃうまく伝えきれないものだから、もどかしくてすごくイヤなのはわかるけど。
だからってβ類ばっかり使おうとしちゃっうなんて……。
いいえっ! こんなことで諦めてたまるもんですか。朱里、いい? β類じゃあパパとは話せないのよ?
わ・か・る? わかったらα類で伝えるか、声に出して言いなさい」

 リリアは我が子の教育方針について、報告や希望は口にしても、これまで仁に相談したことは一度もない。
この様子では今後も仁の意向を聞くつもりはないようだ。

 逆に相談されても困ると仁は思っているから、夫婦としてはこれでうまくいっているのだろう。

 最近の相良家の子育て事情をひととおり聞かされたオーウェンは、「それはそれは大変そうだね」と肩を竦めるしかない。

「さすがにきみのところは特殊な家庭環境だけあるねえ。
そりゃあ地球人種の我々からしてみれば範疇を超えた教育問題だ。
サードの私でもβ類はお手上げだからねえ」
「だろ? 朱里がβ類ばっかり使ってて困るなんて言われても、こちとらぜーんぜん聞こえねえしよ。
ましてや途中で子育てリタイアするのがわかりきってんのに、無責任に中途半端な口出しなんかできねえだろ」

 そういうわけで、現在、朱里はα類の特訓中であり、リリアはできる限りα類で話しかけるよう努力中らしい。

 だが、朱里にしてみれば、自分の希望が伝わるβ類の使用を禁止されるということは理不尽でしかないだろう。
リリアに注意されるたびに鬱憤が溜まるのか、よく泣きわめくようになってしまった。

「情緒不安定ってやつだね」
「たぶんな」

 仁は、ああこりゃやべえなと思ったのだと言う。

「あいつがこんなに熱心な教育ママになるとは思わなかったぜ」

 予想外のリリアの一面に苦笑しつつ、仁は仁で手を打つことにした。

「俺にはβ類とかは手出しできねえからな。それにあいつの気持ちもわからねえわけじゃねえし。
どっちかっていうとありがてえっつうか。俺のためを思ってくれての教育ママだろ?
だから俺は父親として、朱里の鬱憤を晴らす役目を引き受けようってさ、思ったんだ」

 散歩に出かける時、仁はリリアとは逆にα類を使わないように心がけながら、銀河標準語で朱里に話しかけるようにした。
朱里が返事をしなくても構わない。
例えば花を見つけた時は──。
すげえな。かわいいな。ちっちぇえな。
自分が心から思った感想交じりの言葉を声に出すようにしてみた。

 朱里がじっと考え込むような仕種を見せても、例えそれがβ類を使っているんだろうなと想像できてしまったとしても仁は一度も叱らなかった。
そんな時は、ただ普通にしゃべり続けた。

「今日の空は少し白いな。昨日はすっげえ青かったのにな」
「ほら見てみろ、朱里。こんなところにちっこい花がいっぱい咲いてるぞ。
赤とか黄色とか、いろんな色があって綺麗だよなあ」
「へえ、こんなのも生えてんだ。この草はな、おもしれえ名前がついてるんだぞー」
「ほれ、舐めてみろ。甘いだろ? 蜜だぞ。うめえか?」
「朱里、こっちきてこいつの葉っぱを触ってみろ。ギザギザしてて……ははは、痛いってか。
葉っぱはそれぞれ形が違うんだ。触った感じも違う。おもしれえだろ」
「ああ、おまえが摘んだ花、いい匂いするなあ。リリアに持って帰るか」

 朱里はわかっているのかいないのか、曖昧な反応を見せながら、よちよち歩きで仁の先を自分の好きなように行く。
それでも、仁が歩みを止めると朱里も足を止め、仁が天を指さすと朱里も空を見上げた。
仁が道端に座り込んで花を指で突っつくと朱里もそれにならい、ふたりで小さな花をいくつも摘んだ。
仁が葉で作った舟を小川に投げた時、まさか流れていってしまうとは知らなかった朱里は、遠ざかる舟を指さして仁にすがって泣いて駄々をこねた。
仁が新たに葉で舟を作ると、最初は大事そうにしていたのに、やっぱり小川が気になるのか、何度も仁を振り返りながら、また仁に作ってもらえばいいと思ったのか。そのうち舟を小川にぽいっと投げた。
流れゆくその舟の動きが面白かったのだろう。
近くに生えている細長い葉を何度も指さして、「フン、フン」と鼻息を荒く、また舟を作ってくれと乞う。

 新しい発見に出会うたび、朱里は奇声をあげたり、はしゃいだりした。
仁が大げさに驚いて見えるから、朱里も楽しくなって一緒に驚いていたのかもしれない。
朱里は仁の真似をするのが大のお気に入りだった。

 それでも、朱里は時々、ひとりでじっと一点を見つめて大人しくしている時があった。

「おそらく、そんときβ類で独り言でも言ってたのかもしれねえな。
雑草地に連れていった時もときどきそんな様子だった。
ガイダルシンガーに何か惹かれるもんがあったのか、俺にはよくわかんねえけど。
朱里のやつ、おそらくβ類であろう独り言をここに来るたびにこいつらにぶつけてたみてえだ」

 朱里は使徒星に住む住人たちの言葉と言われている精神感応力β類を使えるようだが、あくまでも羽根なしと呼ばれる一代目の混血児であって純粋なセリーア人ではない。
なのに、朱里はガイダルシンガーに何がしかの影響を与えた──。

 この事実から導き出した仁の答えこそが、ガイダルシンガーはセリーア人の羽根の以外にも、精神感応力β類に反応して開花するという推定だった。

「成功例はまだ一代目でしかないからはっきりとは言えねえけど、おそらくアタリじゃねえかと思う。
慣例通り、三代開花に成功したら部長に報告しようかと思ってるんだ」
「それがいい。これが事実ならすごい発見だよ、仁。
道理で地球人種の植物学者泣かせの花と言われるだけある。
セリーア人の翼、もしくは言語が鍵だなんてね。さすがはガイダルシンガー、奥が深い」

 そして、それから半年後、仁は三代目のガイダルシンガーの開花に成功した。

「やったね、仁。さっそく報告しよう! 世紀の大発見、植物学界に殴り込みだ。
精神感応力をかぎわける植物の存在が日の目を見るんだ。こんなに興奮することはないぞ」

 自分のことのように喜び勇み小さな子供のようにはしゃいでは、オーウェンは仁を突っついた。

「気が早いな。言われなくてもレポートは仕上げるさ。当然、手伝ってくれるんだろうな、相棒」
「もちろんだとも」

「期待してるぜ」

 だが、稀に見るその研究論文は世に発表されることはなかった。

 論文をまとめはじめてしばらくして、仁が突然倒れたからだ。
過労とのことだったが、長年の相棒は察するものがあって、すぐさま飛んできた。

「動いて大丈夫なのかい」
「ああ。でもちぃっとばかしまだ怠いからソファに横にならせてもらうな」

 クッションを枕代わりにして仁は楽な体勢を整えた。

「なあ、オーウェン」
「うん。何だい」

 枕元にオーウェンを呼ぶと、仁は明日の天気の話をするかのように言った。

「俺さ、免疫力が異常に低下してるってよ。とうとう覚悟してたもんが来ちまったみてえだ」
「……嘘だろう。どうして今なんだ、これからが大事な時じゃないか」

 ふたりは免疫力の異常・暴走がさまざまな病気を引き起こす事実を正確に理解していた。
遺伝子治療を行う時、うるさいくらいに担当医から説明されたのだ。

 もともと爆弾を抱えていた仁だった。
だが、今後は近いうちに確実に臓器の疾患、細胞異常が急激に進行することになる。
大げさにいえば、仁の身体は風邪ひとつとっても大病になりかねないということだ。

「本当言うとこれまでにもさ、兆候はあったんだ。けど信じたくなかった。
おまえだけには言っておくけど……。実は朱里が生まれてからも、俺たち、子供できたんだよ。二度な。
俺はやめとけって言ったんだが、あいつがどうしてももうひとりほしいってごねてよぉ。
賑やかなほうが寂しくねえって言われたら協力するしかねえしな。
あいつが一時でも幸せになれるんなら俺はなんだってやるって思ってさ……。けど、ダメだった」

「ダメだったって……、それって──」
「ああ。流れちまった。二度とももともと育たない子供だったみてえで……。
リリアのせいじゃねえ。おそらく俺が原因だろうな。
オーウェン、俺さ……。テロメアが急激に短くなってるらしい」

 オーウェンはショックが隠せなかった。

 染色体が無秩序に融合するのを防いでいる染色体の両端に見られる一定の塩基配列の反復構造のテロメアは、細胞分裂にともない次第に短くなる。
一生の細胞分裂回数は限られている。
このことから仁が何を伝えようとしているかがわかる。

 仁は淡々と続けた。

「一度目は出産して直ぐだったから、そんなこともあるだろうって安易に思った。
いや、俺がそう思いたかったんだろうな。正直、自分でも認めたくなかったんだろう。
けど、二度目の今回はさすが偶然なんかじゃねえってつくづく思い知らされた。
流れた子供……、俺、見たんだよ……。
あいつは出血で倒れて、それどころじゃなかったから。見ちゃいねえのがまだ救いだった。
まったく酷えもんだったよ……。かわいそうに。俺の子だったばっかりにちゃんと生まれてこれなかった。
父親失格だよなあ、俺。
──そんなわけでさ、オーウェン。どうやら俺の遺伝子異常はやばいとこまでいっちまってるようだぜ」

「……二度目ってのはいつのことだい?」
「昨日」

「昨日? じゃあリリアは……」
「今は休んでるはずだ。朱里と一緒に」

 ここにいるのは男ふたりだけだった。
仁は横になっていたソファーからゆっくりと起き上がると、オーウェンの右手首をぎゅっと力強く掴んだ。

「こうなっちまったらもう時間がねえ。
あいつには俺の身体に起きてることをひととおり説明しておいた。
あいつは断固として認めようとしねえけど……、とりあえずは理解したはずだ。
なあ、オーウェン。頼みがあるんだ。これはおまえ以外には頼めねえ。聞いてくれるか」

「よせよ、仁。そんな言い方。まるで遺言のようじゃないか。
とうとう進行がはじまってしまったのだとしても、特効薬の研究は今もなお続けられているんだ。
これからだってまだ治る可能性だってあるんだ。だから最後まで諦めるんじゃない」
「そうだとしても今、おまえに頼んでおきてえんだよ。──頼みってのは朱里のことだ」

「朱里?」

 仁はこのことはすでにリリアには話してあると言った。

「仁。きみはいったい……、彼女に何て言ったんだい?」
「……もし、俺が死んだら、おまえは朱里を置いて使徒星に帰れ。
おまえはおまえが思っているほど強い女じゃねえ。
おまえを理解できない人間たちに混じって、こっち側に残るのは無理だ。
いくら朱里がいるとはいっても、おまえにゃこっちの生活に耐えられねえだろう。
だから、おまえは帰るんだ。いいな。朱里はオーウェンに頼んどくから。
俺はおまえがボロボロになってほしくねえ。だから、頼むから帰ってくれ。──そう言った。
なあ、一生の頼みだ。俺が死んだらリリアに使徒星に帰るように言ってくれ。
そんで……、すっげえ我がままかもしんねえけど、朱里はおまえに頼みたい。
おまえが朱里を育ててくれねえか? 頼むよ、このとおりだ」

 深く頭を下げる仁に、「そんなのリリアが納得するわけないだろう。何を考えてるんだ」とオーウェンは深く溜め息をついた。

「聞いてくれ、オーウェン。俺は占い師でもなければ予知能力者でもねえ。
けど、あいつの夫で、こっち側じゃああいつを一番理解している人間だと思ってる。
その俺が断言するんだ。
どんなにあいつが頑張ったとしても、あいつはこっち側の感覚にはついてけねえ。
でも俺が惚れたのはそういう染まらねえあいつなんだよ。
あいつが苦しんだり傷ついたりするのがわかってて、俺が何もしねえわけにはいかねえんだ。
おまえと朱里には苦労をかけちまうことになるかもしれねえけど、あいつは俺が守るべき女だからな。
わりぃが俺は自分の女を取るぜ」

 一粒種の最愛の息子よりも、長年連れ添った相棒よりも、ひとりの女の幸せを俺は選ぶ。
そうはっきり明言した仁は再度、「わりぃ、オーウェン」と謝った。

「朱里を頼む。あいつが朱里を連れて帰りてえってんならそれもいい。
けど、あいつだけじゃあの回廊は通れねえ。
前にあいつから聞いたことがあるんだ。回廊を渡るには能力値の条件が必要なんだって。
あいつのレベルじゃあ朱里を連れて渡るのは無理なんだよ。
仮に仲間を募って渡るにしても、朱里はまだ小さすぎて耐えられねえだろう。
かといって、朱里が育つまでこっち側で生活するにはあいつの神経がもつとは思えねえし……。
だから、あいつはひとりで帰るのがいいんだよ」

「きみは私にリリアから朱里を奪えと言うのかい? 朱里だって……母親をきっと恋しがるに決まってるよ」
「朱里も大事だがあいつのほうがもっと心配だ。あいつよりも朱里のほうが絶対強いに決まってるからな。
何しろ朱里は俺の息子だ」

「……親馬鹿だな」
「ああ、子供ってのはかわいいもんだ。あいつに感謝だな。この俺が親になるなんてなあ。
まったく、いまだにこの現実が信じられねえぜ」

 まるで夢みたいだ。そう言って笑う仁を「馬鹿野郎」と罵って、オーウェンは涙で頬を濡らした。

「オーウェン。俺はさ、今ここに存在するだけでいいんだってずっと思ってた。
存在することに価値があって、ほかのことは考えられなかったんだ。
あいつにも話したことあるけど、スカモンとかがさ、みんなに知れ渡って。
そうやって俺が生きてた証しが残ればそれでいいって思ってたんだよ。
確かに、朱里は俺の血を引く息子で、俺の存在意義でもあるんだろう。
けど、朱里は現時点の俺の存在を示すものじゃねえよ。朱里はさ、未来なんだよ。
告知されたあの日、夢見ることをやめてしまった俺に朱里はもう一度夢見させてくれるんだ。
生きてるってのは存在するだけじゃ駄目なんだぜ。わかるか、オーウェン。
ちゃんと明日を思えねえと無意味なんだ。
自分自身で完結しちしまって、ただそこにいて息しているだけで生きるってのは何の価値もねえんだよ。
俺は朱里に気づかせてもらった。リリアがそれを教えてくれた。ホント、ありがてえよ
告知されたあの日、夢見ることをやめちまった俺に朱里はもう一度未来を夢見させてくれるんだ」

 こんな時にどうしてそんなに爽やかに笑えるんだと文句のひとつでも言いたいのに、胸の奥底からこみ上げるものが邪魔をして、ぐっと喉に詰まってしまって何も言えないまま。

「泣くなよ、オーウェン。泣くにはちぃっとばかし早ぇぜ。俺はそう簡単にはくたばらねえよ」

 ったく、しょうがねえなあ、と仁が袖を乱暴に目元に押し当ててくるからまた切なくなる。

「男だろう、オーウェン。泣くんじゃねえって」

 ごしごしと涙を拭う仕種はすごくぶっきら棒で、擦ったあとには痛みが残った。

「オーウェン、朱里を頼むな」

 強く擦られたせいでますます涙が沁みてくる。

 それでも。
いつもあとから痛みをともなったとしても。
不器用な仁の、心に温かくしみるこの仕種がオーウェンは昔から好きだった──。

                                                           つづく


illustration * えみこ



えみこのおまけ




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