きみが片翼 -You're my better half- vol.11 |
相良仁は、一度決断したら、即日、獅子奮迅の勢いで活路を開こうとする男だった。
仁の頭の中では常に「母子ともに健康」の出産の図が描かれていた。
とはいえ、自分の手で子供を取り上げるというその決心は、十人中十人が無謀だと答える挑戦であることも充分心得ていた。
現代医学において医療機関で出産するのが「常識」の中、自宅出産を、それも医師でもない夫の手で取り仕切ろうとしているこの出産は「尋常ではない」に尽きる。
それでも仁は、一世一代の重い責任をそれほど幅の広くない両肩に勢いよく「えいっ」と背負うと、最良の結果を追い求めて最初の一歩を踏み出した。
まず、仁はELG派遣本部に一報を入れると簡潔に状況説明をし、これからの予定をボットナムに伝えた。
「おまえ、本気か? コスモ・アカデミーで産科学の講義を受けるだと?
何のために医者がいるんだ。少しは医者を信用しろ!」
仁の決意を聞かされた上司の声は、落ち着かなくうわずっていた。
「だーかーらー、俺が医者を信用したってあいつが拒否してたんじゃ診察どころじゃねえんだってさっきから言ってるだろがっ!
これは俺なりに考えた最善策なんだよ。
とにかくっ、リリア本人が直接通院しなくてもいいように手を打ちたいんだ。
俺だってさ、医療機関そのもの全部を信用してねえわけじゃねえんだよ。
いいから、紹介状を送ってくれよ。
とりあえず、俺の恩師が大学の医学部で細胞生物学を教えてるから、教授から産科のほうに話をつけてもらおうと思ってんだ。
あのメディカル・センターのセンセ方に教えてもらっても俺は構わねえけどよ、やっぱり餅屋は餅屋だろ?
腕があっても教えるのがうまいとは限らねえからな。
だから、今現在、教鞭をとってる現役のセンセ方に頼もうってんだよ」
「そこまで言うなら勝手にしろ。ただし、無理するなよ。
赤ん坊のことも大事だが、おまえがぶっ倒れたらそれこそどうにもならんのだからな」
「言われるまでもねえよ」
仁は環境庁ELG派遣本部課長の肩書きを持つボットナムから紹介状を強引にもぎ取ると、即座に母校である宇宙総合大学コスモ・アカデミーにアポを入れた。
ELGとして活躍する教え子の突然の連絡に驚きながらも、医学部教授であるブライトンはたいそう喜び、
「直接お会いして相談したいことがあるのですが」と仁が申し出ると、「運がいいな。明日ならちょうど空いているぞ」と画面いっぱいの笑顔で返された。
翌日、仁は出かける支度を済ませると、
「じゃ、行ってくる。オーウェン、何かあったらすぐ連絡してくれ。
若作り、おまえはとにかく無理するなよ。一日三食きっちり食おうなんて考えるな。
手の届くところに食いモン置いといて、食える時に食うようにしろ。
いっぺんにたくさん食おうなんて考えるんじゃねえぞ。ちっとずつ摘むくらいの気持ちでいいんだ。
とにかく、少しでもいいから腹に入れるんだぞ。わかったな」
あとのことをオーウェンに頼むと、起き上がるのさえ辛そうなリリアを残すことに後ろ髪を引かれながら、恩師ブライトンに会うべく出かけて行った。
母校だけあって、仁は大学敷地内の地理に明るかった。
医学部校舎を懐かしく仰ぎ見ながら迷うことない足取りで闊歩(かっぽ)する。
正面玄関入り口で受付嬢に軽く頭を下げると、「こんにちは。どのようなご用件ですか?」とにこやかに迎えてくれた。
「ブライトン教授と約束をしている相良です」
「お待ちしてました。少々お待ちください」
笑顔を返した受付嬢が間髪いれずにブライトン教授の教官室に来客の連絡を入れる。
「どうぞ。教授はすでにお待ちです。ご案内致します」
「教授の部屋は今もE14エリア?」
「はい。左様ですが……」
「だったら結構。わかりますから」
受付嬢が一瞬、訝しい表情を見せるが、仁が「昔ここの学生だったんです」と言い添えると、納得したのか軽く頷いて、「では奥へどうぞ」と促した。
勝手知ったる古巣を仁はゆっくりと歩いていく。
記憶の中より少しだけ古く感じる建物が、過ぎ去った年月を感じさせた。
感傷的になりそうになる気持ちを抑えながら、幾多の研究室の前を通り過ぎてゆく。
目的の教授室の入り口で足を止めた仁は、セキュリティーの呼び出しのパネルに触れるようとして、ふと違和感を感じた。
在籍していた当時とは二世代ほど改良されたものだろうか。
パネルボードが真新しくなっているのを見て、卒業してすでに十年が経っているのだと、改めて感慨深く思った。
入室の許可を求めると、「何用だ」とすぐさま返された。
教授のぶっきらぼうな口調はいつものことだ。
マイクを通すとより不機嫌そうに聞こえるのも、あの頃と変わらない。
「相良です」
「おお、よく来たな。入りたまえ」
途端に開いた扉を通り抜けると、奥の席に白髪頭のブライトン教授が座っていた。
「久しぶりだな。元気にしとるか」
「その様子だと、教授は相変わらず学生たちの尻を叩いているようですね」
「そりゃ年長者の務めだからな」
親子ほどの年齢の離れたふたりは、数年ぶりの再会を握手を交わして喜び合い、お互い目をほころばせた。
「相良、おまえは全然変わっとらんなあ。まるで今も学生のようじゃないか」
「教授は少し老けられましたね。そのお腹もますます貫禄が出てきたってとこですか。
お忙しいとは思いますが、精々摂生に努めてくださいよ。
専門が生物とはいえ、一応、教授は医学部で教えてるわけだし。
ああ、確か医師免許も持ってましたよね。医者の不養生なんて馬鹿らしいですよ」
「まったく。その口の悪さも変わっとらんな。
で、今日はどうした? ここに来るのは何年振りだ? えらく珍しいではないか」
笑顔で水を向けてくれた恩師に仁は頬を引きしめると、真摯の視線を返しながら、「実は」と話を切り出した。
教授には嘘偽りなく、最初から事実を語るつもりでここに来ていた。
ブライトン教授の人となりを知っているからこその仁の判断だった。
開口一番に他言無用をきつく頼んで、おそらく銀河連邦でも滅多に類を見ない切羽詰った家庭の事情と自分の健康状態を、仁は事細かに説明した。
ブライトン教授は天使を娶った珍事な結婚話に腰を抜かすほど驚き喜び、そして仁の不運としか言えない運命に「何てことだ」と言葉少なく呟く。
喜びと哀しみがブライトンの中で渦巻いてるのが、その表情から見てとれた。
「きみがそんなことになっていたとは……。
銀河連邦でも最高峰と呼ばれるこの大学で最先端と呼ばれる医学を携えながら、きみに何もしてやれないなんて本当に情けないな」
そう言って、コスモ・アカデミーの次期学部長と囁かれているブライトン教授は、仁の将来と才能を惜しんで目頭を押さえた。
「すまん……」
「いえ。でもこれでわかっていただけたと思います。教授にだからお願いするんです。
十ヶ月、いや……、八ヶ月で出産に必要な知識を俺に叩き込んでください。
最低限の外科処置を含めて、妊産婦の扱い方を知りたいんです。
生まれた赤ん坊は専門の医者に任せられますが、リリアはおそらく駄目でしょう。
今でさえ医者を拒否しているくらいですから、出産という非常事態の時などに『他人』など近づけるはずがありません。
へたすりゃ命取りになります」
その場合、危ないのは医者側です、と仁は付け加えた。
上司の紹介状を渡しながら、仁はさらに大学へ協力を仰(あお)いだ。
「いくら正式な紹介状があるからと言ってもだな、これは無茶苦茶すぎるぞ。
きみは医者でも医学生でもないんだ。
天下のELGとは言え、医療においてはきみは素人なんだぞ」
「ええ、それは重々わかってます。でもお忘れですか、教授。
俺は外部の医学部からここの生物学部に転科してきたんですよ。
一般基礎ならこの頭の中に入ってます」
仁は自分の頭のトントンと軽く突いて、にやりと笑った。
「ですから教授、あとは出来るだけ多くの症例を頭に入れてその対処法を学べばいい。違いますか?
あとは最低限の縫合技術の習得が必要でしょうがね。
俺だって今更医者を目指すつもりなどありませんから。
俺の手に負えないような異常事態の時は、リリアを気絶させてでも専門家に診せることを約束します。
出産までの妊娠期間についても定期的に俺がエコーを撮って、録画した映像を専門医に診断してもらうつもりです。
お願いしますっ。どうか俺に産科の教授を紹介してください!」
仁の危機迫った状況に憐憫の情や同情を寄せたブライトン教授だったが、それでも彼は渋い顔で反対した。
無謀に尽きる。危険が多い。出産をなめるな。
だが、何を言ってもかつての教え子は聞き入れなかった。
自分の説得に対し、仁は、セリーア人と地球人種は倫理概念が大きく違う、と根気よく懇々と語った。
仁の言葉は熱かった。勢いが感じられた。
熱意のほどがじわじわと伝わってくるのを全身でブライトン教授は感じていた。
その熱意がブライトン教授の冷静な心に火を灯していく。
ブライトン教授は自分の中の火がだんだんと大きくなっていくのがわかった。
反して、目の前の青年の間違いを正す気力がだんだんと失せていくのだった。
果たしてそれは本当に「間違い」なのだろうか。
最先端の科学の上に成り立つ常識とは、地球人種が得ている知識上の科学でのことである。
当の妊婦はセリーア人。地球人種でないのだ。
絶対に自分の判断が正しいと断言できないのではないだろうか……?
ブライトン教授は仁を見据えた。仁も真正面から自分を見つめていた。
恐れや不安もあるに違いない。
それでも、かつての教え子は、前だけを見て、自分の手で未来を導こうと奮起している。
仁の無謀な提案など、常識的に考えば了承などできるわけがないことは明らかだった。
だが、俗に天使と呼ばれる、存在自体が希有なセリーア人の女性を娶ったことからして、この男は常識外れなのだ。
地球人種とは異なる種族を相手に地球人種の常識を突き通すなど論外だった。
今、「常識」という認識の危うさを、ブライトン教授は改めて気付かされた。
頭の中に籠っていた靄が一陣の風に散らされる。そんな気分だった。
我々が知っているそれは水面のさざなみの上にあるようなもの。
風が吹けば水面は揺れ、模様も変わる。ひとつの模様に定まることはない。
ひとつの新たな発見が科学の歴史を大きく変える。
魚が地上や空の世界を知らないように、地球人種はまだ小さな「常識」しか知らないのかもしれない。
「確かに……。無謀な話だが、必ずしも非常識とは言えんな……」
口数が少なくなっていく恩師に反比例して、教え子のほうはより饒舌になっていった。
「教授もそう思うでしょう? それに対処しなきゃならないことは他にもあるんです。
俺が心配するのは出産時の二次被害です。リリアは念動力を使います。
これまでのことを考えたら、陣痛で理性が吹っ飛んだ時が一番危ないんじゃないかと……。
地殻変動……つまり、地震に繋がる可能性も捨てられません」
「地震? そっちは我々の専門外だ。手も足も出ないぞ!」
「ええ、ですからこの件につきましては環境庁のほうに頼もうかと思ってます。
精神波動が伝わりにくい鉛を使った資材で自宅を半浮遊構造にしてもらえれば、何とかなるんじゃないかと……」
最終的にはブライトン教授も仁の決意と信念の前に膝を折ることになった。
「常識」の概念を根っこから覆してゆく仁をたくましく思いながら、できる限りの協力を約束を交わす。
「きみの所属先のあの研究所ならコスモ・アカデミーと深く繋がりがある。
きみが大学に直接通えないようなら研究所で通信講座を受けられるように手配するから、まずは最低限の基礎知識を頭に入れたまえ」
もともと仁は可能な限り、リリアから離れないようにしようと考えていた。
それは短い結婚生活を覚悟しているふたりの希望であり、リリアの精神状態を考慮した仁の配慮によるものだった。
リリアと仁が互いに離れたくないと望んだそれには、いろんな想いがこめられていたのだ。
「いいかね、相良。まず、きみがすべきことは通常出産の流れを、つまり基本を把握することだ。
そのあとはとにかく、異常事態に備えなさい。
対処法を理論的に理解したら、過去の事例の映像を繰り返して見ること。
それと平行して外科的処置の鍛錬を行い、そこまで進んだら特例として研修医同等の扱いで実際の出産に立ち会えるよう私のほうで臨床のほうに話をつけておく。
ただし、計画出産の場合はあらかじめ日が決まっているが自然出産となると突発だ。
確実な日程などないに等しい。夜中に呼び出しするかもしれん。覚悟しておけよ」
「頑張ります。ご指導、よろしくお願いします」
仁は笑顔で答えたが、ブライトン教授の表情はまだ硬かった。
異種間カップルの出産に関する問題点は、仁の医療的技量不足だけに済まされない。
地球人種とセリーア人を父と母に持つ胎児の成長は、今ある医療の常識で計ってはいけない部分も出てくるだろう。
これから考慮すべきことがだんだんと増えていく。
それは予感というよりも確信だった。
「ここでひとつ問題が出てくる。きみの子供の出産予定日だ。
きみの話だとセリーア人の女性の胎生出産の場合、通常十二ヶ月かかると言うが、それはセリーア人の夫の子供を宿した場合だろう?
その『十二ヶ月』がきみの子に当て嵌まるとは断言できない。
ファーストを出産した地球人種の女性の場合はこちらの通常出産と変わらなかったとメディカルセンターの連中が言っていたとしても、それはあくまで地球人種の女性の事例だ。
それがきみの奥さんに通じると考えるのは早急だろう」
出産時期が特定できないということは、妊婦や胎児の成長具合の把握がはっきりしないことになる。
それだけでも、仁や仁をとりまく周囲の心構えが違ってくるのだ。
「やっぱりか。くそっ、まずはそこからか」
頭を掻きむしりながら、仁がぼやいた。
「ああ、大事なことだ」
「だったら、ここは中間をとって、十一ヶ月……ってのは駄目ですかねえ」
投げやり同然のように仁が零すと、
「現時点でそれだけ冗談が言えれば大したものだよ。
妊娠期間が十ヶ月になるか、十二ヶ月になるか、はたまたきみが言うように十一ヶ月になるか。
それは神のみぞ知るというところか」
ブライトン教授は、緊張に強張らせていた頬を急にふっと緩めた。
だが、その笑顔も一瞬のことだった。
「ただし、だ。妊娠期間が特定できないということは非常にまずいことに変わりない。
問題は予定日が定まらないとこちらの出方も決めかねることだ。
地球人種の通常出産でさえ、予定日を過ぎたら二週間以内に出すもんだ。
胎盤機能が落ちるからな。
陣痛促進剤を使って出産を促すか、帝王切開で取り出すかしないと母子共に危なくなる。
きみたちの場合、その予定日が定まらないとなると、その判断が付きにくい。
それに、いくら予定日から二週間以内と言ってもその数字ばかり気をとられてもいられない。
胎児の頭部が大きくなりすぎると骨盤の大きさによっては予定日ぴったりでも出て来れなくなるから、安易にもかまえてはいられないぞ。
その場合は予定日すぎたらすぐに取り出す必要があるんだから。
帝王切開を考慮しないというのであれば、そこは絶対抑えとかんといかんところだ」
産科医でなくてもこれくらい知ってるのは医学部では常識だぞ、とにやりと笑いながらそう言うと、ブライトン教授はそばの通信スイッチを押して秘書に連絡をとった。
「女性専科のアンリ教授を頼む。そうだ、産科婦人科科学研究室のアンリ教授だ」
そして、「きみたちの健闘を祈る」と仁を激励したあと、返信の着信音を受け、同じ医学部の産科専門の相手にこう言った。
「ここに相良仁というELGが来ている。私のかつての教え子だ。
突然だが、今回、環境庁……いや、銀河連邦政府の要請で当アカデミーは全面的に彼に協力することになった。
ついては、理由は何も聞かずに彼のために力を貸してほしい。よろしく頼む」
通信を切れたと当時に、仁は、「ご協力感謝いたします」と頭を下げた。
仁から差し出された右手にブライトン教授は両手でぎゅっと応えながら、
「無理はするな。それと、奥さんのことも大事だが、自身の身体も大切にしたまえ。
何かあったらまた来なさい。それと……、私でなくてもいいから、周囲にもう少し頼りなさい」
年長者からのせめてもの温言を与えて、仁の肩を何度も抱いた。
「頼りにしてます。必ず、何かの時には教授に相談しますよ」
こうして仁はその日のうちにコスモ・アカデミーの医学部に潜り込む手筈を整えた。
仁の奮闘はまだまだこれからも続く──。
ブライトン教授から紹介された産科医のアンリ教授は、強風の中歩いていたら吹き飛ばされてしまいそうなほどひょろっとした痩せた男だった。
おそらくブライトン教授のスラックスには二人分のアンリ教授が入るだろうというのが仁の第一印象だった。
始終、にこにことしていて、彼の見ているだけで力が抜けてしまいそうなそうな、教授という肩書がまるで似合わないその風体。
一言で言うなら医者独特の威圧感がまったくないのだ。
定期健診で通院慣れしている仁にとっても、初めて出会うタイプの医者だった。
息を吹きかけたら折れてしまいそうな弱々しいアンリ教授。
だが、そのアンリ教授の印象は、専門分野の話に移った途端、一変した。
精悍な顔つきとなり、声にも張りが生まれ、仁に何度も質問を浴びせながら、懇切丁寧に今後のスケジュールを提案してくる。
その姿は、医学を志す者の強い矜持を思わせた。
納得が行くまで説明を受けた後、仁はアンリ教授と相談しながら出産準備に必要な講義を選択した。
今後の六週間で、必要な通信講座をすべて受講し、基礎知識を入れ、一度大学に行って簡単な切開と縫合の実技を習い、受講後は研究所に戻って、人工皮膚で何度も練習を繰り返す。
最低限の知識と実技の取得とはいえ、必ず全うしなければならない必需の内容だった。
仁は当然ながら医師免許を持っていない。
にわか詰め込みなどでは医者の代わりが務まらないことを、仁は充分自覚していた。
だから、たとえ一定水準以上の技量や知識を得たとしても、自身の手で帝王切開をするつもりは毛頭なかった。
とはいえ、通常出産であっても一部の切開、縫合の可能性が当然のようにありうる以上、簡単な外科処置技術は習得とべきだと仁は考えていた。
すべて医療行為とみなされるものだが、出産にリリアが医師を受け付けない以上、無免許だろうが仁がするしかないと覚悟を決めていた。
一般の妊婦でさえ、医療機関に行くまでに間に合わず、自宅や医療機関に向かっている途中で出産してしまうケースがあるのだ。
医師の立会いもなしに自宅で出産したからと言って、妊婦当人や必死に妻を介助した夫を誰が責められるだろう。
緊急の人命救助の場合、医師免許の有無よりも人命が優先されるのである。
妻の出産を夫が手伝ったところで避難されることはない。
アンリ教授も渋々だったが、最終的には仁の意見に賛同を示してくれた。
あくまで仁は素人なのだ。生物学者という科学の基礎があっても医師ではない。
仁は無謀な挑戦をしたいのではなかった。ただ、自分の妻を助けたいだけだ。
リリアの腹部に視線が止まるたびに、どうしても気持ちのどこかに生れてしまう焦りと緊張。
仁は理性でそれらを抑えながら、必死に勉学に勤しんだ。
一直線にただひたすら目標に向かって努力する勉学熱心なその姿勢と、無理はしないという仁の考えに触れるごとに、仁の本気と仁が目指すものに、アンリ教授も共感していった。
医療に携わるものとして、科学の世界に身を投じるものをして、自分でもいつしか夢を見るようになった。
地球人種の父とセリーア人の母をもつハイブレッドの誕生。
一生に出会えるか出会えないかの奇跡と言っても過言でもないこの縁のなんと不思議なことか。
現実に、そしてこれほどの身近に、自分はこの千載一遇の機会に身を置いているのだ。
なんと素晴らしい体験だろう。
こうして、アンリ教授は、自分の持てる知識と技術を能率よく仁に教示していった。
無茶とも思える量の課題もたびたび出した。
だが、仁は一度も弱音を吐かずについてきた。
学生たちの鏡にしたいと本気でアンリ教授が思うほど、仁は必死に医学を学び、理解しようと努力していた。
仁に付き合って数週間、真横で指導してきたアンリ教授が仁という男の人となりを理解しだした頃のこと。
仁は自分から指導医アンリに自分たち夫婦の事情をその時になって初めて打ち明けた。
おしゃべりに興じる仁の姿を今まで見る機会がなかったので、アンリ教授は仁のことをもともと寡黙な男なのだろうと考えていた。
だが、それは間違いだった。
仁は世間話に興じて集中力を乱したくなかっただけだった。
アンリ教授は、仁を取り巻くこの切羽詰った事情を聞かされた時、「もう少しで心臓が止まるかと思いました」と、のちにブライトン教授に語ったと言う。
「ブライトン教授、私も腹を決めました。最後まで彼に尽力することを誓いますよ」
アンリ教授は真の仁の支援者となってくれたことに、ブライトン教授は感謝の念を抱かずにいられなかった。
仁にとって、忙しい日々が駆け抜けた。
アンリ教授から、「これからは時間が許す限り、過去の事例を頭に叩き込みなさい」と助言を受けた仁は、出産の映像を随時流して見続けるよう心がけた。
毎日メスと針を握って人工皮膚相手に切開、縫合の練習を繰り返す。
あとの残りは、症例を知るための時間に費やした。
「男の産科医に独身が多いっつう悲しい実状の理由が身に染みてわかったような気がするぜ……」
ソコに映っている画像は、本来ならば男にとってはヨダレが出るほどの秘めたる世界だ。
その、男が永遠に求め続ける女性の身体の神秘の世界が、目の前にあますことなく赤裸々に映し出されていた。
こうして仁がじっとその画面を見ている間にも、夜な夜な無修正のその画像の商売取り引きには高額な金額が動いているのだろう。
男の欲望というものはなんと安っぽいことか。
仁は同じ男として、無修正のお宝に一喜一憂しているであろう男たちを思って憐れんだ。
いやと言うほど妊婦の悲鳴や胎児の心拍測定モニターの赤く点滅するランプを見続けている仁である。
女性の神秘な場所がどーんと目の前に画面いっぱいに大きく映ろうが、今更ヤマシイ気持ちなど起きるわけがなかった。
「何だかなー。そこにあるのは生き物でありながらモノでしかなくなっていくんだよなあ。
虚しいったらありゃしねえ……。
痴漢常習犯とかよぉ、この手の映像、牢屋の中でずっと流してたらどうなんだろなあ。
その気が失せたりしねえのかなあ」
「まあまあ、根を詰めるのも良し悪しだからね。
ほら、たまにはリリアに付き合って一緒にベビー服でも選んだらどうだい? そろそろ八ヶ月だろう?
出産準備をぼちぼちしたほうがいいんじゃないのかい?」
リリアのつわりが完全に治まったのは仁が医学部に通うようになって二ヶ月を過ぎた頃だった。
それまではリリアはほとんど毎日、資料室に持ち込んだソファに横たわり、「うう〜、気持ち悪ぅ〜」を繰り返しては、オーウェンを小間使いのように使って介抱させていたものだったが、つわりが治まるとケロリとしたもので、「料理でもして気分転換したらぁ?」と仁やオーウェンを唆(そそのか)す食欲旺盛な妊婦に早変わりしたのだった。
その当のリリアは今、通販ショッピングに嵌っている。
振り返ること数ヶ月前、自然なことなのだが、つわりが治まると徐々にリリアの腹部の膨らみは目立つようになっていった。
だが、その現実を前にして、リリアはわかりきっていたはずの身体の外観的変化にうろたえ、「いや〜ん、スカートが入らない〜」と怒ったり泣いたり笑ったり、と気忙しく感情を乱したのだった。
「こりゃ、妊婦独特のモンっつうより、単に翔べない鬱憤が溜まってんかもしんねえなあ」
仁やオーウェンはリリアの気分が少しでも晴れることを期待して、妊婦用品の通販ショッピングを勧めたところ、これが抜群の効果を発揮し、リリアはいたく気に入ったのだった。
以来、今では何かと「お洋服買わなきゃっ!」と嬉々としながら、通販サイトを訪れては隅から隅まで物色している毎日をリリアは送っている。
妊婦は体形の変化が著しい。
上から下まで着るものが新たに必要になってくる。
以前より豊かになった胸を誇示するかのように、「あら〜、また新しいの買わなくちゃ♪」と選ぶ下着の選択基準も、かわいらしさを優先に追求するのではなく、産後の授乳を意識したものへとだんだんと変化していった。
近頃では妊婦用品のほかに新生児用品、出産準備品などにもリリアの興味が広がっている。
めぼしいものがあると、仕事中のオーウェンを何かと呼びつけて、「これどうかしら? 赤ちゃんにどう?」と相談している始末である。
とはいえ、リリアは単に、「これかわい〜♪」と自分の気に入ったものを誰かに見せたい心境だっただけなのかもしれないが。
熱血勉強中の仁の邪魔をしたくないとリリアもリリアなりに仁に気を遣って、近頃はリリアひとりで物色していたのだった。
そうして、お腹の子供の実の父親の知らないところで、リリアは赤ちゃん用品をせっせと注文していった。
だから、リリアが何を注文しているのか、誰も把握していなかった。
発送されてきた大量の勝利品を目にしたとき、男どもは驚いた。
「おい、若作り。このピンクの山はいったい何だ……?」
送られてきたダンボール箱の中身は、薄紅色の花柄やクマさん、ピンクのウサギさんなどの女の子らしいかわいい系のものばかり。
仁は一瞬、くらっと目眩がした。
鮮やかなピンクの山を前に、ちかちかして目が痛い。
「おまえ、全部ピンクの服を買ったんかよ……」
どこを探しても船や車どころか、ライオンさんやゾウさん、キリンさんが見当たらない。
チェックもストライプすらもどこにもない。
青系など言語道断、黄色系の服すらない。
「あのよォ、まだどっちが生まれるかわかっちゃいねえんだからさ。
普通、白とか黄色とか、男でも女でもどっちが生まれてもいいようなモンを選ぶもんじゃねえの?」
ピンクのロンパースを一枚、仁が手にとって拡げてみると、それには苺の飾りがワンポイントについていた。
確かにコレはコレなりにかわいいのだろう……、たぶん。
おそらく、世の新米ママたちの乙女心をぐっと掴むのには充分な輝きを秘めているのかもしれない。
だが。
「こういうのはよ、ほれ、生まれてくる子供の性別がわかってから選んでも遅くはねえだろう?
これで赤ん坊が男だったらどうするんだ? ピンクばっかりじゃかわいそうじゃねえか……」
「あら、何言ってるのよ。生まれてくるのは女の子に決まってるじゃない」
どこからその強い根拠は生まれるんだ?
仁は不思議に思った。
「まだ性別判定してねえんだからさ。とにかく、いかにもオンナっぽいのはこの際、止めといてだな。
無難なとこにしとけよ。な?」
息子が生まれる可能性もあるんだぞ、と仁はあくまで訴えたのだが、リリアは聞く耳など持とうとしない。
それどころか、途中からでしゃばってきて文句を言うな、とでも言いたそうな顔をして、
「仮によ? 万が一、間違って男の子が生まれてきたとしても別にピンクを着せたっていいじゃないの」
男の赤ん坊にピンクの服を着せて何が悪い、とリリアは開き直るのだった。
「万が一? 間違って……?」
仁は、そんなに娘がほしいのだろうかと、リリアの希望を訝しみつつ、確かに赤だろうがピンクだろうが男が身に着けたとしても何ら悪いモノではない、と一瞬、男としての矜持をぐらつかせたのだが……。
「でも、俺的にはピンクはどうもなあ……」
赤ん坊は本来、自分の服の良し悪しなど意見しない。……というより、普通できない。
生まれたばかりの赤ん坊と完全な意思疎通など不可能なのだ。
よって、男に花柄模様のスカートを着せようが、それは母親の自由意思に左右される。
母親の希望に逆らうことなど生まれたばかりの子供には不可能。
あとは父親の温情に縋るしかないのだ。
とはいえ、初めて生まれてくる我が子が身につける服に注がれる母親の情熱の前では、父親の威厳など風に吹かれる塵に等しい。
だが、リリアが、「きゃ〜ん、かわいいっ!」と美少女そのものの笑顔を振りまいて、箱の底からスパンコールのパールピンクのレースが幾重にも重なったベビードレスを取り出した時には、さすがに仁ものけぞった。
「ピンクはともかく、男にそのテカテカヒラヒラはねえだろう……?」
「何言ってんの。赤ちゃんは何を着せてもかわいいのよっ」
だが、成長した息子がピンクのレースのベビードレスを着たおのれの赤ん坊時代の証拠映像を見せられて、果たして喜ぶだろうか。
いや、絶対喜ばない。それが元で家庭内不和なんてのも困る。
仁は父親として、同じ男同士として、その辛い心境が理解できたので、「せめて白のドレスにしてやれよ」と息子のためを思って口を出したのだが。
妻の美的感覚を認めようとしない夫のこの言葉を耳にして、リリアのスイッチがカチンと入ってしまった。
「さっきから、チビ。あんた、ホントにうっさいわねえ。
生まれてくるのは女の子なんだって、ずっと言ってるじゃないの」
買い物くらい自由にさせろ、とリリアが癇癪を起すと、ここぞとばかりに仁も返して、とうとう見解の相違における応酬が勃発してしまった。
「何で娘だってわかるんだよっ。もしかしたら息子かもしんねえじゃねえか」
「そっちこそ、何言ってるのよ。
羽根なしの男なんて滅多に生まれないんだから、娘に決まってるじゃないっ!
それともチビ。あんた、生まれてくる子が女の子じゃ嫌なの? 男の子がいいわけ?」
「いや、俺は元気に生まれてくれさえすればどっちでもいいけどよ……」
「だったら別にいいじゃない。生まれてくるのは女の子に決まってるわよ。
……ねえ、赤ちゃん。そうよねえ?」
自分の膨らんだ腹に向かって話かけるリリアはまさに天使のようなかわいらしさだ。
その性格の奥底にいくらかの凶暴さを秘めていようが、リリアの姿形だけを見るならば、妊婦である事実に多くの男が腹の中の子供の父親を恨み妬むのは必然的なほど、リリアの美少女ぶりは健在だった。
「だいたいねえ、羽根なしの男なんて十三人にひとりとか、七人にひとりとかって言われてるんだから。
男の羽根なしが使徒星に帰ってごらんなさい。一族そろって十日くらい飲めや歌えの大騒ぎよっ」
仁にとって「何だそりゃ」の使徒星の常識は本当に奥が深い。
「十三人にひとりとか、七人にひとりってよ、確率的に全然違うじゃねえか」
「しょうがないじゃない。
ある年は十三人にひとりで、またある年は七人にひとりって報告があったって話なんだから」
「そんなに男のファーストって貴重なのかい?」
オーウェンが興味津々に訊いてきたのにはわけがある。
オーウェンの祖母は羽根なしだった。
例え、女の羽根なしであっても、同胞のセリーア人たちにその誕生をたいそう喜ばれたと聞いている。
男の羽根なしの価値はそれ以上……、と想像しても、それがどれほどなのかはいまひとつピンとこなかったのだ。
「前にサミュエ種の共鳴能力の話をしたでしょう?
共鳴値は五段階に分かれてて、野生のサミュエ種はレベル二だって。
セリーア人と地球人種の間に生まれる羽根なしも共鳴能力を持つのよ。
ただし、セカンドやサードになると滅多に共鳴能力を持たないの。
だから、多少にかかわらず必ず共鳴能力を持って生まれてくる羽根なしはすごく貴重なのよ。
第一、回廊抜けてこっちで結婚相手を探そうなんて考えるセリーア人自体、本当に少ないんだから、羽根なしが少ないのもわかるってもんでしょ?
私だってチビと出会ってなかったら地球人種の夫を持とうなんて考えなかったわよ」
「へー。この場合、俺は喜ぶべきとこなんだよな?」
「当然よ! と・に・か・く、その羽根なしだけど。なぜか生まれてくる子は女の子が多いのよねえ。
その代わりと言っちゃあ何だけど、セカンドには男が多いの。
ちなみにその次のサードになると男女半々みたいね。
それにね、別に性別がどうのとか、数が少ないからとかで男の羽根なしが重宝されるわけじゃないのよ。
男の羽根なしが喜ばれるのは、男ってだけで最低でもレベル三の共鳴能力を持つからよ。
そのレベル三だって女の羽根なしの最高値なのよ?
女の羽根なしのレベル三なんて、それこそ滅多に生まれないってのに。
レベル三が最低レベルだってんだから男ってホント得よねえ」
セリーア人は基本的に女よりも男のほうが、生まれながらにして強い能力を持つ種族だった。
黙識族という出自のリリアは女性の最高値レベル八の個人能力値を持つが、セリーア人の最高能力値レベル十には足元も及ばない。
「赤ちゃんが生まれたら、いつか必ずレベル十を捕まえなさいって教えるの。
おーほっほっほ……。玉の輿狙いよぉ」
回廊を抜けるセリーア人は限られる。
高い能力を持つセリーア人たちだけがこちら側に渡ってこれるのだ。
使徒星で多くのセリーア人の中からレベル十を探すよりも、こちら側に渡ってくるセリーア人の中から探したほうが遥かに確率は高い、とリリアは言う。
だが、この広い銀河連邦側でセリーア人と出会う可能性をリリアは全然考えていない。
「ふふふ。絶対、逃すんじゃないわよって今から言い含めなきゃ。
レベル十なんて上玉っ、滅多にいやしないだろうけど、とにかく頑張んなさいって発破かけなきゃ!
何事もチャレンジしなきゃだもんね」
まだ生まれてもいない子供に向かって、「レベル十ならあなたを使徒星に連れてってくれるわよ」と繰り返すリリアはまさに本気だ。
まだ娘と決まってないのにすでに嫁ぎ先を決めている気の早い母親リリアだった。
「……あのよ、レベル十ってのは確か男のセリーア人って決まってたよなあ?」
「当然じゃない。正確には『黙識族の』がつくけどね」
「ならよ、もし子供が男だったら、やばいんじゃねえ?」
「そんなことないわよ、同性カップルなんて珍しくないもの。あ、もしかしてこっちでは違うの?」
「あ〜、一部ではいるかなあ」
その仁の濁した言葉にオーウェンが補足する。
「確か、正式な婚姻も自治体によっては認められてるよね」
そのオーウェンの言葉に喜んだリリアは、「なら問題ないじゃない」とにっこりと笑った。
「男の子が生まれてくることはおそらくないと思うけど……。
正式な婚姻が結ばれるのなら、こっちでもあっちでも倫理上、不都合はないわ。
それにもし男の羽根なしが生まれたら……、わたし、自分を滅茶苦茶褒めちゃうわよっ!」
この言葉を聞いて、仁は「へ?」と一瞬わけがわからなくなった。
さっきと話が違うじゃないか。リリアは娘がほしかったんじゃないのか、と。
「だって、男の子だったら、最低で共鳴能力レベル三。もしも、もしもよ?
生まれてくる子がレベル五の羽根なしだったら、レベル十がいれば回廊渡り判定値七・五よ。
ふたりだけでも回廊が渡れるのよぉ〜」
リリアはさもあらん、とばかりにうっとりと夢見がちな表情で、「素晴らしいわ」と祈るように手を組んだ。
「とにかくだ。この服は返品しとけよ。買うなら男女兼用のやつにしろ。な?」
結局、話は振り出しに戻って、仁とリリアが改めて意見の応酬をしはじめようとしたその時、一応、三人の中では一番長い人生経験を持つオーウェンがひとつの案を提示した。
「それなら、リリアの言う羽根なしの男女の割合ってのを実際、調べてみたらどうだい?
十三人だが七人だかわからないけど、リリアがそう言うんだから、きっと使徒星では女の子に比べて男が滅多に生まれないってのは本当なんだろうけど。
もしかしたら、銀河連邦政府に個体登録されている羽根なしはそうとは限らないかもしれないよ。
赤ちゃん用品の準備はそれを調べてからでも遅くはないと思うけど?」
確かにその意見には一理ある、と異種族カップルは強く頷いて、
「そういうことならさっそく調べてみようぜ」
仁はキーボードに検索項目を打ち込んだ。
ところが。
「あン? おっかしいなあ」
何度検索してみても、「検索結果に該当するものが見当たりません」の表示が出てしまう。
「キーワードがマズイのかな?」
検索項目を「羽根なし」から「ファースト」に変更しても、再度検索した結果は一緒だった。
「『セリーア人』で調べてみたら?」
だが、それも不発で終る。
仕方がないので、職権乱用とは知りつつもELGの権利を使用して環境庁の情報管理局にアクセスしたのだが、今度は情報内容が重要機密水準に引っかかる旨が表示され、パスワード入力画面に切り替わった。
「重要機密ランク? これって何?」
リリアが画面を指して不思議そうに訊いてきたが、それは当然だった。
一般人には馴染みなどあるはずがない。ましてや、リリアは使徒星の住人である。
銀河連邦側の常識さえままならないのだ。
「重要機密ランクってのは、その情報がどれだけ重要かを示したものでね。
最重要連邦機密AAAランクから一番下のZランクまで七十八段階に分かれているんだ。
連邦政府の各省庁の情報管理局の中でも特に重要と判断された情報に付けられているんだけど、連邦軍の情報部と連結している情報だから、入り込むのは至難の業なんだよ。
それぞれのランクによって必要なパスワードが違ってくるしね」
「パスワード?」
「この場合のパスワードってのは認識番号と個人設定パスワードってことだ。
例えば俺のELGひとり分で……確か、Hランクまでだったかな、そこまでなら入り込める。
俺は主任扱いだからな。ちなみに一般ELGだとIランクになるのさ。
そんでもって、俺が見えるHランクも一般ELG三人がそろえば、これまた閲覧可能になる。
つまり主任ひとりは一般の三人分扱いになるって寸法さ。
一般が五人集まればそのまた上のHHまで見れることになってるし、多いほうが地位が低くても人数そろえばそれなりに見えるんだ。
今日のところは、オーウェンがいるし。ああ、こいつは係長クラスなんだ。
だから、オーウェンひとりで主任ELG五人分を上回るからGランクまで入り込めるって寸法さ」
だが、仁のパスワードを入力しても、更にはオーウェンのパスワードを入力しても、羽根なしの出生男女比は調べることができなかった。
「くそッ、いったいどうなってんだ」
「仁、検索項目のランキングを見たほうが早いよ。
セリーア人、もしくは羽根なしの項目で索引で見るんだ。
調べたい項目によって違うから……ほら、出てきた」
「あー、セリーア人の回廊渡り男女比・寿命がFで、使徒星の位置・セリーア人の回廊渡り男女比・条件がDランクかよ。
おいおいDランクってELG本部長クラスの承認がいるんだろう? マジかよ……」
「セリーア人の個人レベル能力規定もFだね。
あ、あったよ、これだ。羽根なしの共鳴能力規定、羽根なし出生男女比、これもFだ」
「ねえねえ、これなんてAAAよ。AAAってどんな人の承認がいるの?」
リリアが指し示したのは、「セリーア人・羽根なしの個人名・個人詳細情報」だった。
「これがAAA?」
仁は思わず隣りのリリアの顔をじっと見てしまった。
「AAAってのは連邦主席の許可がいるんだよ。
仁、きみって日頃からAAAの個人情報を呼び捨てにしてるんだねえ」
つくづくリリアのセリーア人としての価値を仁は思いっきり思い知らされたような気がした。
ましてや、もしかすると今後、自分が名付けた赤ん坊の名がAAAランクに登録されるかもしれないのだ。
その限りなく高い可能性を思って、「うー、マジかよ」と唸った。
「とにかく、羽根なしの男女比はFランクだから……。
これはどうにも私たちだけの力じゃ何ともならないねえ」
だが、オーウェンはキラリと目を光らせた。
「ここはひとつ、もうひとりの婚姻届の承認者に力を貸してもらおうじゃないか」
即座にELG派遣本部に連絡を入れると、仕事に埋もれているはずの課長を呼び出した。
「ちょっと問題が起きてしまってね、きみに何とかしてほしいんだ」
そう切り出して、ボットナムに羽根なしの出生男女比を調べてもらうことにする。
「Dランク? 本部長に掛け合えってことか?」
「リリアの使徒星での情報と連邦側の情報を照らし合わせたいだけなんだ。だから個人名はいらない。
男女比と、できれば羽根なしの出産状況がわかると助かるんだが……」
「本部長は今、出張中だ。亜空間通信でないと連絡がつかんところまで出ているんだ。
Dランクでは私でも無理だしな。とにかく、本部長が帰り次第頼んでみるとしよう。
結果が出たらこちらから連絡するから、それまで待て。いいな」
ボットナムがすんなり引いてくれたので助かったが、どうしてそんなこと知る必要があるのだと突っ込まれても、
「さすがにベビー服買うのに知りたいんだとは言えないね」
オーウェンは苦笑しながら、見た目はすごく若い一組の夫婦をちらりと見た。
重要機密などと言っても、利用する側の意識はこんな程度だ。
第一、リリアを毎日目にしている仁やオーウェンにしてみれば、AAAランクの最重要機密がマタニティドレスを着て歩いているようなものなのだ。
今更、FランクやDランクと言われた内容に驚くような面々ではなかった。
「出産状況ねえ。セリーア人だけの情報サイトが確かあったような……。
こっちに来たばかりの頃、そんな話を聞かされた気がするけど……」
「そんなら一応、調べてみようぜ」
気軽にリリアが提案したセリーア人専用サイトを検索してみたら、
「うう、マジにヒットしちまったじゃねえか……」
サイトそのものは確かに存在していた。
ただし、これも専用IDとログインパスワードが必要となっている。
ところが。
「パスワードは……えっと、そうそうアレアレ。
わたしってば、教えてもらったことちゃんと覚えているじゃないの。
あとはIDね。こうなったら適当に名前を入れてみよっと」
リリアがキーボードを操作した途端、簡単に入室許可が出てしまい、仁とオーウェンは目を見張った。
唖然としている間にも、リリアは嬉々として鼻歌交じりにメニューを上から順に開いて回る。
「あ、これ、個人指定の伝言板もあるわ〜。
ちょうどいいわ、一緒に回廊を渡っていきた仲間に当分帰れそうもないって伝えておこうっと」
リリアは短い伝言を書き終えると、今度は質問事項を検索をかけて目的の羽根なしについて情報を取得した。
「おい、仁。これ、軍の情報部が管理しているサイト、だったりして……?」
画面の背景には、軍の徽章が刻印風に薄く浮かび上がって見えた。
「マジかよ。こんな安易に重要機密に直結してていいんかよ……」
「おそらくセリーア人に関するものだけ抽出可能なんじゃないかな?
彼らの場合、銀河連邦に散らばってしまったらお互い連絡をつけるのも大変だろうからね。
でもね、仁。これ……、さすがっていうか当然っていうか、亜空間通信扱いになってる、よ……?」
亜空間通信は遠い星々まで通信が可能だが、通信費がとても高く政府や軍でさえ、余程の重要連絡の際にしか使わない通信手段だった。
「……支払いはどうせ情報部じゃねえの? ここの管理があそこだってんなら」
「そ、そうだよね。仮に請求が来ても外務省に回せばいいよね? だってリリアが使ってるんだし……」
目を見張るほどの請求額がきたところで自分たちに払えるわけがないのだから、と仁とオーウェンはふたりで目配せして、
「おまえがアクセスしてるんだからな、そこんところをよーく覚えとけよ」
リリア自身に使用者としての自覚を持たせて、男ふたりは傍観を決め込むことにした。
だが、支払いに関してはこれで一安心と仁たちが胸を撫で下ろしたところで、突然、リリアが、「ああ〜、全然違う〜!」と叫んだものからびっくりしてしまう。
「女の羽根なしは三十一人、男の羽根なしは四人ですって。何これ。これってホントなの?」
そこには、リリアが使徒星で見聞きしたある出生に関する数字とはまるで異なる数字が表示されていた。
「おい、待てよ。こいつは一年間のもんじゃねえぞ。これ、もしかしたら総数だ」
「今までに銀河連邦に登録されてる羽根なしのすべてのを合わせてこの数字ってことかい?」
リリアはある年は十三人、またある年は七人の羽根なしが生まれていると言う。
つまり、ある二年間に二十人の出生が確認されているだ。
ということは、この使徒星側の情報が正しいとなると、この銀河連邦軍情報部の情報が間違っていることになる。
「つまり、生まれても表ざたにしてないってことか……」
「故意に出生届けを出していないのかもしれないね。
届ける前に使徒星に連れて帰った場合もあるだろうし……」
だが、最後のくだりにはリリアが、「それはないわ」と首を振った。
「いくら羽根なしの赤ちゃんに共鳴能力があろうと、訓練もしてないのに能力を発揮するなんてできないもの。
それに、赤ちゃんを連れてあの回廊を渡るのは無茶よ。
せめて少なくても十歳くらいにならないと……。
でも、それでもかわいそうなくらいなんだから。
あの暗黒の世界を潜り抜けるのは大人でもかなり精神力がいるのよ」
「リリアの言うことももっともかもしれないけど……。
もしも十年間、出生届けも出さずに隠して育てたとしても、ひとりふたりならともかく、これほどの数に差があるのはおかしいと思わないかい?
この数はデタラメすぎる」
仁はオーウェンの言葉に耳を傾けながら、リリアに詳細な出生状況を調べるよう指示した。
個人名はさすがに伏せられているが、状況だけならば知ることはできるようだ。
だが、結果は仁が覚悟をしていた通りのものが出た。
情報部が把握する羽根なしはすべて地球人種の母親から生まれていた。
使徒星の父親を持つ羽根なししか掲載されていなかったのだ。
「もしかしてこれ、セリーア人の女性が持ち帰った卵の分が抜けているんじゃない?」
リリアの言葉に男たちはぎょっとする。
「お腹の中に卵を抱えてたら能力を最大限に駆使できないけれど、産卵してしまえば本来の力が使えるのよ。
だから、卵を抱えて回廊を抜けるって方法が可能になるの。
急いで渡れば抱卵するのにも間に合うだろうしね。
きっとそうよ、この数字はセリーア人の女性が母親である分が抜けているんだわ」
確かにリリアの話にも一理あった。
セリーア人による羽根なしの数に関する情報が使徒星に戻った数でないのだというのならば、この総数は銀河連邦側に残った羽根なしの数なのだろう。
だが、仁の脳裏にはもうひとつの考えが浮かんでいた。
「回廊を渡ってくるのはやっぱり男のセリーア人が多いんだろう?」
「そりゃそうよ。
黙識族は能力的に高いけれど、普通に考えても女性よりも男性のほうがレベルが高いんですもの」
「なら、おかしいじゃねえか。
だっておまえの話じゃ、回廊を渡ってくる女のセリーア人は少なくて、その少ないセリーア人の女たちは普通、地球人種とは結婚を考えねえってんだろ?
だとしたらよ、答えは見えてくるじゃねえか。羽根なしの卵なんて、そんなにたくさん存在しっこねえ。
それよりも、銀河連邦側に個人登録されていない羽根なしが何十人って存在するってことのほうが信憑性が高いぜ。
つまり、使徒星が把握している羽根なしの数の中に、連邦側が認知していない羽根なしたちがいるってわけだ。
どういう事情だか知らねえが、きっと個人指標が混血で登録されてねえんだろうな。
今でもどっかで純粋な地球人種としてこっち側で生きているのかもしれねえなあ」
セリーア人の親を持つ羽根なしは生まれたときから連邦政府の保護下に置かれる。
確かに政府に守ってもらえることは利点が多い。
だが、リリアを見ていても、セリーア人のこちら側の生活は利点ばかりではないことに、仁はすでに気付いていた。
羽根なしで生まれた子供が、セリーア人とは何の関係もない普通の地球人種の子供として暮らす。
それもまた、ひとつの幸せだと考えることができた。
常に他人の視線に照らされ、自分たちの常識さえも通じない世の中で日常を過ごすことは、仁にはそれほど幸せだとは思えなかったのだ。
なのに、セリーア人のリリアは、地球人種の仁と結婚をして、仁の子供を胎生で生もうとしている。
けらけら笑ったり、時には怒ったりして、仁のそばで今、幸せそうに日々を過ごしている。
自分の妻となったセリーア人のその一世一代の決心に、仁は心から感服するのだった。
「若作り。おまえってホントにすげえんだなあ。つくづく感心するぜ」
羽根なしの子供がセリーア人の常識と連邦政府側の常識の狭間で育った場合、いったいどうなるのだろう。
そんな不安が仁を脳裏を過ぎったが、それでもリリアの笑顔の前ではそんなものは微塵に消されてしまう。
仁の指先が、癖になった玉結びを作り出していた。
映像から実際過去に起こった出産例を学んでいる間も、こうしてリリアたちとの憩いの時間も、常に仁は手術糸を指に絡めて、玉結びの練習をする生活を続けていた。
小さな玉結びが透明な数珠の鎖を作り出してゆく。
穏やかな空気が若い夫婦の間に流れた。
だが。
「それで結局、ベビー服はどうするんだい?」
当初の目的をオーウェンが引っ張りだしてきた途端、穏やかな時間は消え去り、元の木阿弥となった。
「つまり、隠れた羽根なしの男が大勢いるかもしれねえってことだよな」
「そんなの使徒星側の情報を考慮すれば一目瞭然じゃないの!
どっちにしろ女の子のほうが確率高いのよ!
チビ、あんた、娘がほしくないの? 女の子はかわいいわよぉ〜。
きっとわたしに似て美人に生まれてくるんだわ」
「おいおい、子供ってのは二親に似るモンなんだぜ。
それに女の子ってのは普通父親に似るっていうじゃねえか。
あれだって、子孫を残そうっていう遺伝子のすげえとこだ。
異なる性別で遺伝子を拡げようって意思が目一杯感じられるじゃん。まったく自然の神秘だぜ」
「何言ってんのよ。女の子ならまだしも、男の子があんたに似たらそれこそかわいそうじゃない。
息子が父親に似てチビだったらどうすんのよ。見た目ってのは結構大事なのよ?
わたしみたいにチビでもいいっていう奇特なお嫁さんが来てくれればいいけれど……。
ほら、どうしても女の子って自分より背の高い男に目がいくじゃない?
チビが悪いとは言わないけど。やっぱりインパクトに欠けるのよねえ。
あ、その点、あんたはインパクトありまくりだったわねえ。そのアクの強さには目を見張ったわ。
何たって、わたしが惚れたくらいだもん」
夫を褒めているのかけなしているのかわからない言い方をリリアはするが、結局最後はリリアの言いたいことは落ち着くべきところに落ち着くのだった。
「やっぱり男の子だとしてもレベル十を捕まえるように教育しなきゃ駄目よねえ。
教え込むにはやっぱりはじめが肝心だわ」
つまるところ、リリアは面食いというよりはレベル十という輝かしい能力にひたすら弱いミーハーな母親なだけなようだ。
「おまえ、まだ生まれてもいねえのによぉ。またそんな絵空事言いやがって……」
気の早い母親は、今、まさに、「めざせ、上玉っ!」と拳を振り上げて意気込んでいる。
「目標、レベル十捕獲っ! エイエイオーッ!」
そんなリリアの掛け声が響く中、仁の机の端々に何本も長く連なる玉結びの鎖が、リリアの張り上げる声に合わせてわずかに揺れた。
おのおのが心から楽しみにしているその日まで、玉結びはこれからも長く伸びてゆく。
「ったく、この妊婦はよ……」
呆れながらも、ついついリリアの前向き明るさに笑みが零れてしまう仁だった──。
illustration * えみこ
えみこのおまけ
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