きみが片翼 -You're my better half- vol.10



 妊娠が発覚したその夕方から、リリアは顔を青くして、「気持ち悪い〜」と言い出した。

「何コレ、噂では知っていたけど信じらンないィ〜」

 リリアが言うには、卵生を選択した場合、胎生と違って悪阻はなく、四ヶ月後には大人の拳より幾分大きめの卵を産んで、母体は産卵後、一ヶ月療養するのがセリーア人の普通らしい。

「ならよ、出来ちゃった婚の胎生の場合はどうなんだ?」
「まあ、一般常識として一応習うけど……、胎生を選択する人ってホントに稀なのよねえ。
何しろ一生白い目で見られちゃうのよ?
ああ、わたしの場合は違いますからね、そこんところを間違えないでちょうだい。
わたしはちゃんとあんたと結婚して、それから望んで妊娠したんだからっ」

 ああ、そいつはわかってるよ、とその事実を一番理解している仁が強く頷いて、リリアの潔白を証明した。

「そんで? 胎生の場合は十二ヶ月後に出産だったよな?」
「そうよ。
胎生で生むのはもろもろの事情から世間体が悪いってのもあるけど、わたしたちが避ける理由のひとつに母体に大きな負担がかかるってこともあるわ。
でも地球人種はみんな胎生を選んでいるんでしょう? ホントにすごいわぁ」

「選ぶ……ねえ。卵じゃ産めねえっつうほうが正しいがなあ。
ま、とにかくおまえ、今日にでも病院に行って来いよ。
評判のいい病院、リストアップしてやろうか? 何だったら俺、一緒に行ってやってもいいぜ」

 セリーア人は地球人種と異なる人種だが、地球人種用の妊娠検査薬が使用できたことを考えても、妊娠による特定ホルモンの分泌物に共通点がみられることは間違いない。
地球人種との間に混血が可能だけあって、まったく異なる身体の作りというわけではないのかもしれない。
仁はそう推測した。

──何だかんだ言って、地球人種ってのは意外にすげかったりするんだよなー。
猫目族とセリーア人の夫婦には子供が生まれねえってのに、地球人種は猫目族との間でもバリバリ混血オッケーっていうしよ。
応用が利くっつーか、人種の坩堝っつーか。マジ、摩訶不思議な人種だよ。

 仁もオーウェンもELGとして今までたくさんの珍しい生物に接してきた。
これまで携わってきた仕事を振り返れば、純血種を保護する任務が大部分を占めていたことに改めて気づく。

 なのに今は、我が子というハイブリッドを宿したセリーア人の世話にあくせくしているなんて。
この現実があまりにも現実離れしていて、少しだけおかしかった。
仁の口元が自然と緩む。

──俺が父親になるなんてなあ。信じらんねえけど、これが現実なんだよなあ。

「何にしてもまずは病院だな」
「仁の言うとおりだね。まずは病院で診てもらったほうがいい」

「だよなー。ただでさえ妊婦の扱いなんて、こちとら専門外なんだからよ」

 種族が異なる夫婦の場合、いろんな面で手探り状態が続くものだとよく聞くが、パートナーが貴重種のセリーア人では、真っ暗闇の中を灯りなしで進むようなものだ。
ましてや、ただでさえセリーア人というだけでも稀有中の稀有の存在だというのに、今やリリアには妊婦という付加価値まで付いている。
勤続年数二十年を超えるベテランELGのオーウェンでさえ、セリーア人の妊婦に接するのは初めての経験だった。

 餅屋は餅屋。
ここは病院に任せたほうがいいとふたりが判断するのも当然の成り行きと言えた。

 ところが。

「病院? どうして病院に行くの? 病院ってところは治療を施すところでしょう?
わたしはどこも悪くないし、健康そのものよ」

 男たちに異を唱える声が上がった。リリアである。

「そりゃ俺だっておまえが健康なのはわかっちゃいるぜ。
だとしても、一応医者に診てもらって、妊娠経過を確認しとくべきだろ?」
「だから、どうして病院に行かなければならないのよ?」

「妊婦は病院に行くモンなんだよ」

 自然に湧き出た疑問を素直に口にするリリアに向かって、何を今更なことを訊いて来るんだと言わんばかりに仁は返した。

 オーウェンも強く同意を示しながら、
「男性の医者が嫌なら女医を探して通うといいよ。確か、病院によっては予約指名もできたはずだから」
リリアが通院を拒む理由が男の医者にあると見越してそう言ったのだが、
「通院なんて必要ないわよ。それに男がどうして出産に参加するの?
卵だろうが胎児だろうが、産むのは女性だけの仕事じゃないの」
リリアにとっては医師の性別がどうのというよりも通院そのものに疑問があるらしい。

「卵を産んだ後なら話はわかるわ。中には具合が悪い人が出るって聞いたことがあるし。
そういう場合は治癒能力者に診てもらうんだって話だもの……。もしかして、こっちでは違うの?」
「いや、一緒だよ。産後も確かに大切だからね。出産を終えた女性はしばらく安静にする必要があるよ」

 オーウェンは、初産婦の場合は経産婦に比べて回復に時間がかかることを説明し、「とにかくね、妊娠したら赤ちゃんと母体の経過を診るためにも地球人種の妊婦は通院するのが一般的なんだよ」と説得を試みた。

「ふうん。こっちにはすごい能力者がいるのねえ、念動力の応用かしら。
透かし見して遺伝子異常があったら操作するってことかしらねえ……。
あ、でも、遺伝子が問題じゃない場合もあるわけね。っとすると、治癒能力も必要になるわけだから……。
すごいわあ、治癒能力と医療能力の両方を併せ持ってるってことになるのねえ」

 セリーア人の常識では特殊能力者の存在が身近なのかもしれないが、ここは銀河連邦側である。
仁とオーウェンは顔を見合わせて、「ちょっと違うぞ」と肩を竦めた。

 地球人種の中には確かに念動力を使える者もいるかもしれないが、セリーア人のように回廊を渡って来れるほど能力が高い者がいるとは思えない。
そんな存在がゴロゴロいたら、今頃噂の種になっているはずだろう。

 何より、リリアの頭の中では、医療機器の存在がすっぽり抜け落ちていた。

「こっちの医者は道具を使ってお腹の中の子供を診るんだよ。
妊婦に超音波をあてて、その超音波の画像で赤ちゃんの様子を知るんだ。
私たちELGが使う道具の中にも超音波を出すものがあってね、見えない中身を見る場合には重宝してる。
ほかの放射線に比べて超音波で診るのが今のところもっとも安全な方法だと言われてるからね。
妊婦の中には妊娠によっていろんな病気や症状が出る人がいるから、その診察や処方もしてくれるし。
だから仁も私も母子ともに元気で頑張ってほしいから、リリアに病院に行くように勧めてるんだよ」

 だが、リリアはオーウェンの説明を聞いて、ますます不思議そうな顔をした。

「何を言ってるの? それは産卵を経験した女性の仕事でしょ?
医師とは言ってもつまりは他人じゃないの。
わたしの場合だって本来ならば、卵を生んだ経験を持つ血族の女性に産卵を手伝ってもらうはずなのよ?」
「確かにここが使徒星だったら、きみの血族の女性が手助けしてくれるんだろうね……。
でもここは使徒星じゃない。リリア、ここにはそういう人たちがいないってことはわかるね?」

「まあ……、そうね。つまり、わたしはこちらの方法で生まなきゃならいってこと……?」
「そういうことっ。
おまえさ、病院で生むつもりねえって言ってっけど、それならいったいどこで生むつもりだったんだ?」

「え? だって普通、家で生むんじゃないの?」

「確かに……」と、リリアの言うこともある意味正しいと仁とオーウェンは思った。

「実際、稀に自宅出産を選択するカップルもいるけどねえ。
でも、それでも産科医か助産婦が立ち会ってるんじゃないかな?
夫婦ふたりだけで出産を迎えるなんて滅多にないことだと思うよ。
それにリスクを考えるとねえ、やっぱりお勧めできないかな……。
規模はそれぞれだけど、やっぱり医療施設で生むほうがいいだろうねえ」

 こちらの普通とあちらの普通、どれをとって普通と考えるべきか、ふたりの男たちは一瞬わけがわからなくなる。

「とにかく、病院選びだ。この近くでなるべく評判のいいとこ探そうぜ。
リリアのこの様子じゃ女医限定にしといたほうが無難なようだしな」

 そう言って、仁が端末で病院を検索しようと抽出項目を入力していると、割り込むようにELG派遣本部から交信が入った。

「きっとウィリアムだ。昨日、連絡しておいたんだよ。仁がパパになりそうだってね」
「うっ、余計なことすんじゃねえよっ」

 とはいえ、ここで無視しようものなら、あとで何を言われるかわかったものではない。
そう判断した仁は、苦虫を潰したような顔で嫌々ながらも回線を開いた。

 案の定、いかつい顔を極力抑えつつ、してやったりの笑みを浮かべた上司の顔が画面いっぱいに映る。
その意味深な迫力に目にして思わず背筋に悪寒を走らせた仁は、瞬時に画面から顔を背けていた。

「よお、パパ。おめでただってなあ。おまえが父親になるなんて、この世の中、摩訶不思議だらけだな」

 開口一番、ボットナムからパパ呼ばわりされたことにますますムッとした仁は、自分の頬がカチンコチンに強張るのを知る。

「俺は課長のパパじゃねえよ。用がそれだけなら即刻切るぜ」
「おいおい待て待て。そう逸(はや)るなよ。
おまえの奥さんが妊娠したのが本当なら、こっちも伝えたいことがあるんだからな。
環境庁の指定病院のひとつで第一官庁メディカルセンターってところがある。
おまえ、聞いたことがないか?
そこの研究所からだと少しばかりかかるだろうが、滅茶苦茶遠ってほどじゃない。
そこのメディカルセンターで以前、ファーストが生まれたって情報を掴んでな。
だから、行くだけ行ってみてはどうかと思ったのさ」

「おっ、そりゃまたナイスタイミング! たまには課長も気の効くことするんだな」
「たまにはは余計だ、この野郎。そんで奥さんのほうは、その……どうなんだ?」

「どうって、今もげーげーやってるぜ。少し静かになった感じでちょうどいいや。
実は今さっきもさ、使徒星では通常、親族の産卵経験者に手伝ってもらうモンだから病院行かねえっつってきかなくてよ。
ま、俺がボチボチ連れてくし、何とかうまく言い含めるからそれはいいんだけどよ」
「ところ変われば文化も慣習も変わるからな。ましてや、相手はセリーア人だ。
今はお腹の子供のことを第一に考えて奥さんを大事にしてやれよ。
銀河連邦政府率いて精一杯応援してやるぞ」

「そりゃ大層な応援なこった。だったらよ、病院の請求書は環境庁宛に送っていいか?
リリアの管轄はどうせ環境庁か外務省だろ?」
「そんなものは外務省に送れ。そっちのほうが金が動きやすい。
ただしメディカルセンターのほうに連絡するつもりなら環境庁の名で予約しとけよ。
そのほうが目立たないだろうからな。
あそこは環境庁の指定病院だ。それも異種族間同士のカップルを頻繁に扱っているという情報だ。
すべて個室で、陣痛から分娩、産後までその個室ひとつでこと足りるって話だから。
それなら外部と院内関係者との接触も最小限で済むし、おまえの奥さんには都合がいいだろう。
おまえがELGであることを言えばちっとは優遇もされるだろうし、とにかく至れり尽くせりの病院らしいぞ。
いいか、ELGの威信をかけて絶滅危惧IA類を守れ。人手がいるなら遠慮なく言えよ。そっちに回す。
この出産はELG派遣本部総力かけてでも成功を収めなければならない一大プロジェクトだということを忘れるな」

「一大プロジェクト……? マジかよ、勘弁してくれよ。
ま、そっちはそっちで勝手に盛り上がっててくればいいさ。
でもよ、先に言っとくが、俺にとっては自分の子供が生まれるって認識しかねえからな。
こっちにまでそちらさんの熱意を押し付けンじゃねえぞ。
とりあえず病院の紹介の件については礼を言っとくわ、ありがとよ。用がそれだけならもう切るからな」
「ちょい待て仁……ッ」

 ボットナムの声は突然途絶えた。

 ボットナムから必要な情報を得たとみるやさっさと通信をブチ切った仁は、今度は即座に環境庁の名で第一官庁メディカルセンターに診療予約を入れた。
もちろん、備考欄に「女医希望」と忘れずに付け足しておく。

「何がELG派遣本部総力をかけた一大プロジェクトだ!
生まれてくる子供のオムツ替えでも手伝ってくれるってんならともかく、ご大層に周りがギャーギャー騒いだところで生むばっかりはリリアだけにしかできねえ仕事じゃねえか。
男なんて何の役にも立ちゃしねえよッ!」
「まあまあ、そんなにいきり立たないで。彼も彼なりに心配してるってことだよ、仁。
さ、とにかくリリアが食べられる物でも作ろうじゃないか。
ご飯とパンが駄目なのはもうわかったから、あと何の食品が食べられないのか試してみよう。
地球人種の妊婦の場合は、空腹だと余計気持ちが悪くなる女性もいるらしいからね。
リリアがそうかはわからないけれど、お腹の中の子供の半分は地球人種のきみの血を引いていることだし。
とにかくチャレンジあるのみさ」

「ああ、そうだな。とりあえず少しでも食えるモン探さないとな」

 ピピッ、と通院予約完了の受信を知らせる音が鳴った。
仁は返信を開いて内容をざっと確認すると、改めて「俺も付き合うからよ、とりあえず病院行っとこうぜ」とリリアに勧めた。

 その後の食事で、仁とオーウェンはリリアが鶏肉と生のレタスが食べられないことを新たに発見し、「マジかよ……」と仁は苦虫を噛み締めるように呟いた。

 その日から、口の肥えた我がままな愛妻を満足させるため、特製メニュー作りに頭を悩ましながら食材探しに駆け回る仁の姿が研究所のあちらこちらで見かけるようになった。
「妊婦へオススメの食材がありましたら、相良仁のところまで」のフレーズが一陣の風のごとく研究所内に吹き抜け、趣味と実益を兼ねて珍しい食材を栽培していた環境庁の研究員たちの協力により、ありとあらゆる食材が仁のところに集った。

「ありがとな、助かるぜ。こんだけあると思いっきりいろんなことに挑戦できるってもんだ」

 滅多に目にすることができないものや、栽培するのが難しいもの、おいしくても傷みやすく流通に向かないもの、調理方法に工夫が必要なものなど。
店先では手に入らない食材を前にして、思いっきり料理がしてみたいと思わない料理人がいたらもぐりだろう。
そう仁が思うくらい、多種多彩な食材が揃った。

 のちに、これらの食材を使って調理した仁のレシピが、新しい食材の調理例として広く世に紹介されることになるのだが……。
この時開発されたレシピが、多くの人に食べてもらうためではなく、ただひとりの人のために作られたものだと知る人は少ない──。





 数日後、リリアと仁は第一官庁メディカルセンターを訪れた。
メディカルセンターではボットナムの情報そのままに、個室病棟に案内され、担当医となる女医を紹介された。
簡単な挨拶を終えると、早速、リリアはいくつかの問診ののち、内診を受けることになった。

「ご主人は外でお待ちください」

 追い立てられるように看護師たちに部屋から追い出された仁は、そのぞんざいな扱われように、「産科なんてとこじゃあ、男なんて虫けら同然ってか?」の思いを噛み締めるのだった。
とはいえ、廊下でひとり悶々と待つ身は辛い。
廊下を通り過ぎるのは妊婦や女性の看護師ばかり。男の姿は滅多に見えないのが何となく寂しかった。

「まさに女の園だぜ……」

 それにしても、と思う。
想像してたよりリリアが素直に病院行きを承諾したことに、仁は少し肩透かし気分を味わっていた。
問診の時に時々言葉を詰まらせていたリリア。
その様子に少しの違和感を感じたが、悪阻の具合はいつもと変わらずの良くも悪くもない状態だったので、初めての妊娠ってのはこんなモンか、と仁は通りすがりの見知らぬ妊婦を横目で見ながら漠然とそんなことを考えていた。

 ところが。

(いやぁーっ! 助けて、チビっ!)

 リリアの声が脳天に響いた瞬間、周囲が一気に暗くなる。
そして暗くなったと同時に、仁の目の奥のほうで見たこともない情景がチカチカと映し出された。

 視線、視線、視線。いくつもの視線が突き刺すように痛い。
よくよく見れば、自分に向けて鋭い視線を向けているのは複数の男たちで、どの男も今まで一度も面識がない輩だった。

──あれは誰だ? なぜ全員、白衣を着てる?

 そう訝しんだ仁だったが。
次の瞬間、突然、目の前にリリアが振って沸いたように現れ、舞い落ちてきたものだから、仁の心臓は飛び出るかと思うくらい跳ね上がった。

 力強く抱きついてくる妻を床に落とさないようにグッと足を踏ん張って支える。
全身の筋力をくまなく使った。

「……ふー、何とかなったか。ったく、勘弁してくれよ。不意打ちは焦るだろが……」

 大事な身体を落とさずに済んだことにホッと息を整えると、今度は腕の中のリリアの様子が気になり出した。

「おい、若返り。大丈夫か?」

 身体をふるふると震わせるリリアは、ぎゅっと力強く仁に抱きついて離さない。

──妊娠がわかってから極力能力を使わないようにしていたってのに。この様子はただ事じゃねえ……。

 だが、さすがにリリアの出現は突然すぎて、何が起こったのかは把握しきれない。
今はただ、小刻みに震えるリリアを精一杯抱き締め返すことしか、仁がリリアにしてやれることはなかった。

 廊下の照明がジジリ、ジジリ、と音を立てながら点滅している。
一分もしないうちに非常灯に切り替わり、周囲が突如眩しく輝きだした。

 何が起きたのか。最初は仁にもわからなかった。
それでも、リリアが瞬間移動で自分のところに飛んできたのだということだけはしっかり理解できていた。
それから自分が見たあの情景が何だったのかを思い出そうとして、そのうち何かを思いついたように、仁はハッと顔をあげた。

「まさか……」

 眉間にゆっくりと皺を寄せてゆく。

 とあるひとつの仮定にたどり着いた仁は、リリアを抱えながら、リリアが先ほどまでいた個室のドアを足で蹴破る勢いで乱暴に開けた。
仁の行動には寸分の迷いなどなかった。

 簡易診察室へと早変わりした室内のカーテンをこれまた破り捨てるつもりで乱暴に引くと、内診台に変形した寝台が現れた。
その向こう側にももうひとつ、丈の短いカーテンがあり、そのカーテン越しに数人の医者の姿が見えかくれしていた。

「おいっ! これは一体どういうことだっ! 俺は女医を希望したはずだぞ。
なのにどうして男の医者がここにいるっ!?」

 よくよく部屋を見渡せば、その個室にはふたつ通用口があった。
今、仁が入ってきたドアのほかに、関係者専用の出入り口が存在していたのだ。

「お願いです。どうぞ落ち着いて……。どうか騒がないでください。
こちらは当病院の産科医、小児科医、そして研修医たちです。
奥さまはセリーア人とのことでしたので、当センターでも過去に例がなく、万全の出産を臨むためにも多くの視点で診察したほうがよろしいかと思いまして……。
多くの異種間カップルに利用していただいている我がメディカルセンターですが、実はセリーア人の女性が出産した事例はないのです。
滅多にない初めてのことに万全を期するためにも、この対応は不可欠なのだとどうぞご理解を──」
「ちょっと待てよ!
俺たちは、以前このメディカルセンターでファーストが生まれたって聞いたからやってきたんだぞ!」

「確かに当センターにおいて、セリーア人と地球人種のハイブレッドの赤ちゃんの誕生例は数えるほどですが確かに存在します。
ですが、出産したのはすべて地球人種の女性で……。
出産経過は普通の地球人種の女性の出産と何ら変わりありませんでした」

 女医はキーボードを操作すると、個人名無表示の事例のデータをいくつか引き出し、仁に見せながら続けた。

「例えば、これによりますと……。
四十週と一日で三千百グラムの元気な女の赤ちゃんの誕生が確認することができますが……。
出産状況は正常、出血も普通。特に問題となったことは見当たりません。
これらのデータを見る限りでは、地球人種の女性がファーストを宿されても、出産そのものは地球人種間同士のカップルの場合とそう違いがないことがわかります。
ですが、今回出産なさるのはセリーア人の奥さまです。
当メディカルセンターでは過去の事例を参考にしたところで無意味と判断いたしました。
はっきり申しますと……、申し訳ありませんが、我々もセリーア人の方の出産をお手伝いするのは初めてであり、手探り状態で対応していかなくてはならないのです。
ですから、妊娠期間から出産後まで安心して過ごしていただくためにも、こうして各専門の医師たちに集まっていただたと思った次第です」

 女医が何を言いたいのか、理性では仁にも理解ができていた。
だが、リリアのこの脅えようを目の前にして、そんな理屈がまかり通るとは仁には到底思えなかった。

 リリアは女医が説明している間もずっと、仁にしがみつきながら身体を細かく震わせていた。
妊婦に強いストレスを与えるなど論外だ。
リリアのこの困惑とも取れる嫌がりようは尋常ではなかった。

 自分たち地球人種の常識を、そのまま何の疑問も抱かないままこれ以上リリアに強い続けたら、待望の出産を迎える前にリリアのほうが壊れてしまう。
そんな想像が脳裏を巡って、仁は思わず身震いした。

──俺は阿呆だ。何年ELGをやってきたんだっ!

 今更ながらに自分の妻は自分たちと異なる種族だと仁は痛感するのだった。

 リリアが自分たちとは違う環境で生まれ育った存在であると心の底から理解していなかった。
そんな自分のうかつさを仁は罵った。

 ぎりっと奥歯に力が入った。
気がつけば、仁は自然と歯軋りをしていた。

 リリアが自分たちと似ている姿で、同じ言葉を話し、情と交わすことが可能だったから、仁は自分の失敗に気付くのが遅れてしまった。

──俺は阿呆だ。リリアを地球人種の枠に嵌めちゃいけねえって、こんな簡単なこと……俺はわかっていたはずなのに……。
極端な話、野生の鳥を相手するつもりで扱ったほうが感覚が近ぇのかもしれねえ。

 今この瞬間、仁はリリアの夫として、生まれてくる子供の父親として、ひとつの決心を固めようとしていた。
ギュッと両の拳に力が入る。

「そちらの言い分はわかった。だが、担当医以外はとにかくこの場は遠慮してくれ。
今日のところは懐妊の確認と赤ん坊が元気に育ってるかがわかればそれでいい。
だから、こちらの女医さんだけに残ってもらえば事は済むはずだ」
「そうは言いましても、こんな稀なケースは滅多になく……」
「何かあったからでは遅いのですよ。万全の体制でもって挑むべきかと……」

「こいつの夫であり、赤ん坊の父親である俺がそれでいいってつってんだっ!
わかったらさっさとここから出てけっ!」

 きっぱりと言い切る仁に、医師たちは納得のいかない表情で未練がましく食い下がろうとしたが、仁がギロッと鋭い眼光を向けると、ついには何度も首を振りながら、しずしずと部屋をあとにした。

 患者の夫の意向にそって、部屋には女医と異種族カップルだけが残された。

 本来あるべき静寂が個室に戻ったと言える。

「……要するに、まだ腹の上からじゃエコーは使えないんだな?」

 仁が確かめるように女医に問う。
一変して、仁の声は落ち着いていた。
個室の壁がすべての物音を吸い込むように、声がまったく反響しない。

 対して、女医の声は幾分震えていた。

「ええ、妊娠初期は子宮近くからでないと映りません」

 仁の出方を伺っているかのように、女医は仁をじっと見続けていた。

 仁は女医の言葉に短く「そうか」と返すと、周囲の機器をざっと見渡した。

 生物学者でもある仁だが、実は学生時代に人体解剖学を受講していた経歴を持っている。
医学部の学生とは比較にはならないだろうが、生物一般を扱うELGの中では医学的知識に長(た)けている自信が仁にはあった。

 そして今、仁は生物学に転科する前に詰め込んだありったけの知識を総動員しようと気持ちを集中していた。

──この俺を、そこらのボンクラ亭主と同じに思ってもらっちゃ困るぜ。嘗めんなよッ!

 誰に見せるわけでもなく、仁はにやっと不敵に笑って見せた。

「エコーが映ったらセンセが診てくれ。
ただし、こいつにとってセンセはあくまで他人だ。そこんところよろしく頼むぜ。
聞くところによると、セリーア人の常識ではこの手のことは子を持つ血族の女性の仕事なんだとさ。
だから、センセは映し出された画像を見て判断するだけにしてくれや」
「ですが、エコーの処置をしませんと……」

「そいつは俺がやる。機種は違うがエコーはエコーだ。ELGが使うのと似たようなモンだろう?
わかったら、センセはエコー画像が出るまで別室で待機しててくれ」
「でもっ! あなたがいくらELGの方でもっ! 相手は人間の女性ですよっ、動植物とは違うんです!
それにこれは医療行為であって、医師免許を持ってない方にそんなことは許されません!」

 女医は断固にも、夫の立場を逆手に無理な要望をする仁にあくまで反抗した。
そんな女医に向かって、仁はフフンと鼻で笑う。

「医師免許? ンなモンはいらねえよ。これからするのは夫婦でやるちょっとしたオトナの遊びだかんな。
ダンナが奥さん相手にオモチャを使って遊ぶのは違法ってか? ちげぇだろ?
たまたまオモチャがエコーっていう機能付きで偶然子宮を映したところで、そいつは遊びの延長についてきたオマケのようなもんだろが?
ほら、何の問題もねえじゃねえか。なあ、女医さんよ。わかったら、こっからは俺たちだけにしてくれよ。
何しろコレは夫婦の間だけのオトナの遊びだかんな」

 仁はそう言って女医を言い含めると、ふたりっきりになったところで腕の中のリリアに囁いた。

「リリア、よく聞け。これからやるのは俺とおまえのいつものじゃれ合いだ。
ちょこっとお遊びをするが、やるのは俺だし。ここには俺たちしかいねえ。だからもう安心しろ」

 そうして、仁は内診台に変形した寝台を元の形に戻すと、ゆっくりをリリアを寝台に横たえた。

「男の医者がいたから怖かったのか?」

 リリアの首筋に囁くように尋ねると、
「だって……。嫌、だったんだもの……」
仰向けに横たわるリリアの上に覆いかぶさるようにキスをしながら、仁はリリアの身体に指を這わした。

 夫からされる愛撫は羽根で触れているかかのように優しく、硬直したリリアの身体と心をゆっくりとほぐしてゆく。

「足、開けよ。ちょっと冷てぇけど我慢しろな?」

 ゆっくりと、仁の冷たい指が敏感な肌に触れた。

「何、これ……?」
「別に身体に悪いモンじゃねえから安心しな。ただのジェルだ。
ただしいいか、よく聞けよ。これで濡らして指に代わりにこれからちょっくらオモチャを入れるぜ?」

 自分に今、触れているのは夫なのだと納得しつつも、「オモチャ」という言葉にリリアはピクンと身体を震わした。

「大丈夫だ、痛くなんかしねえよ。指とそんなに変わンねえから」

 気持ちよくしてから入れてやる、と言う夫は思いっきり楽しそうな笑顔を浮かべている。

「チビ、あんた遊んでるの?」
「ああ。これはただの遊びだ。俺がおまえで遊ぶのはいつものこったろう?
そんでもって、このオモチャは俺たちの子供を映してくれる優れモノっつうだけで……。
ほら、俺がやってんだから、おまえだって怖くなんかねえだろう?」

 画面に子宮の様子が映し出されると、仁は上着を脱いでリリアの下半身に被せて覆った。
リリアの状態を確認してから、「入って来ていいぜ」と仁は隣室の女医を呼びつけ、画像を指差しした。

「よお、センセ。頼むからあんたはスクリーンのほうだけ見ててくれや。
俺とリリアはまだ遊びの途中だからな。夫婦の遊びに他人が入るってのはよくねえじゃん?
俺たちは、センセがそっちのエコー画像を診て独り言を言ってくれれば助かるし、センセも患者を満足させて万々歳。
双方お互い大助かりって寸法だ」

 仁は女医にリリアの姿を見せるつもりなどなかった。

 女医も仁の考えをすぐさま察して、セリーア人を娶った夫の度胸と機転の速さに感服しながら、「わかりました」と頷いた。

 そうしてそれからしばらくの間、女医は淡々と独り言をしゃべり続けた。

 子宮内に着床した胎芽がようやく人間の形をとりはじめたこと。
脳や脊髄になる神経管の発達がはじまっていること。
心臓がちゃんと動いていること。

「地球人種で言えば、だいたい受精後三週間というところでしょう。元気に育ってますね。
これから二ヶ月ほどは特に注意が必要です。この胎芽の時期が非情に重要なんです。
胎児の奇形のほとんどは各種器官が形成されるこの時期に起こります。
薬や放射線、ウイルスの影響など、今が最も受けやすい状態ですから生ワクチンの接種や薬の服用は絶対避けてください」

 そう言って女医は仁とリリアに背中を向けながら、最後に「おめでとうございます」と短い祝いの言葉を述べると、「先ほどは奥さまに申し訳ないことをしました」とわずかに頭を下げ、静かに部屋から出て行こうとした。

「センセ、ちょっと待ってくれ」

 女医を呼び止めた仁が白衣のうしろ姿に向かって「ありがとよ」と礼を述べる。

 その一方で、
「この映像は保存されてねえよな? そんなことしたら夫婦の寝室を勝手に覗き見したことになっちまうぜ?」
個人情報漏洩(ろうえい)の懸念を払拭するのを忘れなかった。

 最後の最後まで手を抜かない。
それはELGの仕事でも万事共通することだ。

「保存はされていません。ご希望なら、マスターデータをお渡ししますわ」
「ああ、頼む。ついでにマスター以外は削除しておいてくれや。
悪ぃけど俺、このセンターにはリリアの情報を残す必要性ってのを感じてねえから。
仮にもし本当に必要なら、俺から環境庁に申し入れしとくし。それでいいだろう?」

 その後、仁はリリアを連れて、技術開発生物研究所にまっすぐ帰った。

「リリア、心配するな。俺が何とかしてやるから。おまえはただ俺を信じてろ」

 ぽんぽんと宥めるように妻の背中を叩いて、仁がにやりと強気に笑う。

 リリアはじっと夫の顔を見つめ、小さくこくりと頷いた。





「どうだった?」

 駆け寄ってきたオーウェンの手に、仁は笑顔で、「いろいろ勉強になったぜ」と言いながら、胎児の画像データの入ったチップを乗せた。
上機嫌な仁に、オーウェンは、「そりゃよかった」と笑い返す。

 ところが突然、仁がリリアに、「おまえはもう無理して病院に行かなくていいぜ」と言い切ったものだから、オーウェンはびっくりして咎める視線を仁に向けた。

「何を言い出すんだ、仁。リリアや赤ちゃんに何かあったらどうするんだい。
まさかきみがそんなことを言い出すなんて」

 オーウェンが前言撤回を執拗に求めても仁はどこ吹く風で、「俺がいいっつってんだからいいんだよ」とまったく耳を貸そうとしない。

「こいつにとって、今はストレス与えるほうがよくねえんだよ。
今のところは元気そうだし、赤ん坊もちゃんと育ってるみてえだから、異変がない限りはこいつの好きにさせてやりてぇんだ」

 ぐったりと疲れた顔で微笑むリリアを労わるように、仁は、「ここに休んでろ」と仁はソファに横たわるよう勧めた。

「何か冷たいもん持ってきてやる」
「ん。ありがと、チビ」

 そして、部屋を出る際、仁はすかさずオーウェンに目配せをした。

 数分後、あとから部屋を出てきたオーウェンに、仁は無言で顎をくいっと傾けると、足先を調理室に向ける。

 調理室に入ると、仁はさっそくレモン水を作り出した。
手を動かしながら、「俺はもう少しでポカするとこだったぜ」と自嘲気味に呟く仁に、オーウェンが、「何かあったのかい?」と心配そうに尋ねる。

 仁が今日の病院での出来事を掻い摘んで説明すると、「それは……、ちょっと心配だね。仁、これからどうするんだい?」とオーウェンも表情を曇らせた。

「今回、さすがに思い知った……。
ここにリリアの血族の女のセリーア人がいねえ以上、出産は俺が仕切るしかねえんだってな。
出産の手助けをしてくれる女の医者もあいつにとっちゃ赤の他人でしかねえ。
そんなあいつに、冷静になれっつっても無理な相談なんだよな。
つくづく甘かったぜ……。俺、医者にリリアを託して楽しようとしてたんだ。
でもよ、まったくあいつときたら、俺に楽なんかさせちゃくれねえんだよな。
俺が楽したらあいつは駄目になっちまうんだよ……。だから、決めた。子供は俺が取り上げる。
これから可能な限りレクチャー受けて、俺ひとりであいつの出産に立ち会おうと思う」

 オーウェンはぽかんと口を開けながら、唖然とした表情で相棒の一世一代の決断を聞いていた。

「レクチャーって……出産のかい? きみが赤ちゃんを取り上げる?
そんな……、素人の手に負えるわけがない……」
「オーウェン、そりゃ違うって。どんな優秀な医者でもあいつにかかっちゃみんな素人になっちまうんだよ。
俺、今日の医者にもセリーア人の妊婦なんて初めて扱うからわからねえって言われちまった。
だったら俺も医者も初めてなのは一緒じゃねえか。
いや、あいつが他人じゃねえっつってる分、逆に俺のほうが有利なくらいだ。
大事なのは何を一番とするかなんだ。今、一番まずいのはあいつにストレスを与えちまうことなんだよ。
多分、他人があいつを追い詰めるより、俺がやるほうがずっとマシな結果になる……。
そんな気がするんだ。
それによ、俺だってこれでも生物学者の端くれだ。
それなりに基本は掴んでるし、何も医学全般をこれから頭ン中に詰め込むってわけじゃねえ。
俺が覚えなきゃなんねえのは妊産婦の扱いだけで、出産さえ乗り切れればそれでいいんだからよ。
なぁ、少しは俺を信用しろって」

 今までもオーウェンは、仁の思い切りの良さと機転ある行動力に何度も助けられてきた。
仁は一番優先すべきことを見失わない。
かつて一緒に組んだことがあるどのパートナーたちよりも、仁は迅速かつ的確な判断力をするELGだと言える。
オーウェンにはその自信があった。

 だが、今回の場合は今までとは違う。前代未聞のセリーア人の出産だ。

「……勝算はあるのかい?」
「言っとくが、俺は初めて父親になるんだぜ?
オンナを娶るのも初めてなら、孕ませるのも初めてなんだよ。
勝算なんかなくったって、俺とリリアが納得してりゃいいじゃねえか。
それに俺たちの子供はそんなヤワじゃねえよ」

「でも……。でも、医者に任せて、きみがそばで立ち会うって方法もあるんだよ?」
「オーウェン、わかってくれ。そンでもあいつにとってはそれは『ありえないこと』なんだよ。
セリーア人の常識は俺たちのと似てるようで別モンなんだ。
卵生を選択するのが普通なセリーア人の常識の中で、あいつはそンでも俺のために胎生を選んだ。
それひとつとってもホントはあいつには普通じゃねえんだよ。
いいか、オーウェン。調子のいいことばっかし言ってるあいつに騙されんなよ。
あいつのアレは半分張ったりだ。
明け透けな言いようも大胆な行動も、半分遊びのじゃれ合いだからできンだよ。
本気のじゃれ合いは、おそらくあいつにとって崖から海に飛び込むようなモンなんだろうさ」

 セリーア人のじゃれ合いの論理を説かれても、オーウェンには今ひとつ理解できなかった。
だが、オーウェンと違い、セリーア人の女性を娶った仁には心底理解していることなのだろう。

 仁は作ったばかりのレモン水を一気飲みすると、もう一度作り直しながら声を落とした。

「あいつ……初めてだったんだ。五十になるってんのに、俺が初めてだったんだよ。
もしかしたらよ、キスするのも初めてだったのかもしんねえ……」

 オーウェンはぎょっとして仁を見つめた。

「まさか……だろ? あのリリアが?」

 ふっと口元を緩めて、「信じらんねえだろ?」と仁がせつなく笑った。 

「セリーア人の貞操観念ってのは俺たちが想像する以上にものすごく固いのかもな。
あいつは血族の女性という言葉を使って他人と区別したが……。
そこからして俺たちの観念じゃ、こりゃ物事図れねえぞって今回つくづく俺は思った。
産卵経験者でも血族の者じゃねえと立ち会えねえ。
親友みたいな、おそらく繋がりを結んだ女は特別なんだろうけど、でもそれだってもしかしたら俺たちが考える親友とは違うかもしんねえ。
使徒星の慣習や常識を俺たちの枠に嵌めて、『こうなんだ』っつって安易に思い込むべきじゃねえんだ。
言葉が通じるからって、それが同じ意味を持つとは限らねえ。
こっちの水があっちの炭酸水を指すことだってありえんだよ。
銀河標準語を流暢に話すっつっても、セリーア人の言語は本来、β類テレパシー・コミュニケーションだ。
もし、俺たちにβ類が扱えたら、リリアの言いたいことやその言葉の意味することを少しのズレもなく理解できるかもしれねえけど、俺たちにはβ類なんか使えねえしよ。
でも、α類使えるだけでもまだマシなほうなんだろう。
あいつはうまく両方使いやがるが……。音声よりも精神感応力のほうが感情をまっすぐ正しく伝えられる。
あいつはそういう言語の中で生きてきたんだよ」

 仁はじっと手元のレモン水の注いだグラスを見つめながら、手持ち無沙汰に時折、グラスを指で弾いてみせた。
すがすがしい音が、規則正しいリズムで何度も部屋に響く。

「あいつはおまえが思うほど強くもねえ。大胆でも、あばずれでも、大人のオンナでもねえんだよ……」

 笑っちゃうだろ、と言って困ったように頭を掻きながら、仁は、
「なのによぉ。あいつ、俺のオンナになったんだよなあ」
リリアの一大決心を悔いるように呟いた。

「だからよ、しょうがねえじゃんか。俺だけでもあいつのこと理解するよう努力続けるしかねえじゃんっ。
死ぬまであいつをわかってやろうって、努力し続けることしか俺にはできねえモンよ」

 どこまでも静かに語り続ける仁の心は凪いでいた。

 天使の本質を見極めようと努力する男。
どれだけの男たちがこれほどに天使を知ろうと恋焦がれるだろうか。

 うっすらと笑みを浮かべながらリリアの話をする仁は虚勢を張るわけでもなく、どこまでも自然体のまま生きている。

 そんな無二の相棒の俯いた横顔を見つめながら、ふとオーウェンは思った。

 あまたの男が存在するこの世界でリリアが仁を選んだ理由は、もしかしかするとそんなところにあるのかもしれない、と──。


illustration * えみこ



えみこのおまけ




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