きみが片翼 -You're my better half- vol.9



 銀河連邦政府の雇用条件には各種の有給休暇が用意されている。
政府が率先して職員の福利厚生を充実させなければ、「おまえのところもちゃんとやれ」と大きな顔をして民間企業に指導することができないからだ。

 各省庁には相互救済を目的とした共済制度がある。
各共済組合は労働組合法、健康保健法をはじめとする法の基準を満たした事業が義務付けされており、研修期間を終えて正式に採用された職員は自動的に組合員となる。

 勤続年数一年以上の職員であれば、銀河連邦標準時間で年間三十日の有給休暇が与えられ、最高三十日まで翌年に繰り越せる上、結婚、忌引、出産、育児、療養など各種さまざまな特別有給休暇が利用可能となる。
また、それらの際には勤続年数に関係なく、その金額は微々たるものだが、もれなく祝い金もしくは手当金も支給される。

 仁が技術開発生物研究所に顔を出したのは、秘密の花園での結婚式から三十日後のことだった。

「ふー。オーウェンが淹れてくれたお茶を飲むとやっぱりホッとするぜ」

 結婚休暇と休日、そして溜まりに溜まっていた有給休暇を費やした、入庁以来初めての長期休暇を振り返りながら、仁は茶請けに出されたみたらし団子と青海苔煎餅に手を伸ばして舌鼓を打つ。

 結婚が理由の三十日間の休暇取得は慣例範囲以内の日数であって、特に長いほうではない。
環境庁共済組合の規定で決められている結婚休暇、本人の結婚の場合は十五日間だが、仁のように休日分や有給休暇分をつけ足せば、九十日間の長期休暇さえ取ることも可能なのである。
もっともすべて、仕事の折り合いがつくならば、が前提とされるが。

「マジに落ち着くなあ、ここは」

 行儀悪く椅子の背もたれにダランと寄りかかって、ずずず、と再び番茶を啜る仁の顔には、「極楽極楽」と書いてある。

「仁、もう一杯飲むかい? ホント元気そうで何よりだよ」

 あたり一面には、縁側で日向ぼっこをしているかのような空気が緩やかに流れている。
十年来ペアを組んできた付き合いの深さが安心感と安堵感をかもしだして、居心地のいい空間を築いていた。

「なあ、ガイダルシンガーってやっぱりアレからすぐ枯れちまったんか?」
「うん、それは見事にね。
使徒星では雑草みたいな一年草らしいから、枯れてしまったのはやっぱり環境の違いかもしれないねえ。
どうやらこっちでは育つのも早いけど枯れるのも早いみたいだ」

「……そっか」

 現在、ガイダルシンガーのすべての種子はリリアの手中にある。
銀河連邦政府のお偉方が何と言おうと、
「最初に言ったでしょ? これは回廊を渡る同胞のためのものだからって。
あなたたちにあげるとはわたしは一言も言ってないわよ?」
そう言い張る彼女は頑として所有権はセリーア人にあると断言して譲らない。

 リリアが使徒星から銀河連邦側に持ち込んだ種子はもともと三百粒。
その後、実験栽培に六十粒を費やし一時は数が減ってしまったが、残りのうち百粒が見事に花を咲かせたため事態は一変した。

 ガイダルシンガーはひとつの花から三粒の種が得られる。
つまり現在、リリアは四百六十粒の種子を所持していることになる。

 そして──。

 増えたのなら少しくらい譲ってくれてもいいじゃないか。
そんなふうに利潤分の分け前に預かろうと甘い考えにふけるのはどこぞも一緒であった。

 当然、銀河連邦政府もガイダルシンガーの開花情報に喜び勇んで、早速、交渉をすることにした。

 交渉担当はその歴四十年の白髪交じりの官僚と、苦労知らずのキャリア組の若い男の対照的なふたりがあたることになった。
彼らは内心はどうあれ、リリアの前に現れると平伏するように頭を垂らしながら、「わずかでもいいのです。譲っていただきたいのですが」とへりくだった態度で接してきた。

 しかし、仁の予想通りというべきか。
「いやよ。これらの種子は今後、回廊を渡ってきた同胞のために保管するんだもの」とリリアの返答は素っ気ない。

 連邦政府には物欲と同等、もしくはそれ以上に自尊心や面子というものがあるということを仁は充分知っていた。
普段なら、一個人のそんな無礼な態度には官僚の威信と権限でもって速やかに対処するところなのだろうが、いかんせん、ガイダルシンガーには体面よりも何百倍、何千倍もの価値があるのは明白だ。
ましてや相手はセリーア人。
「そうおっしゃらずに」と物腰柔らかく誠意を持って、彼らは根気強くリリアを説き伏せること尽力し続けるしかなかった。

 とはいえ、どれほど足を運んでもどんなに誠意を見せても結果は同じだった。
リリアが色よい返事など返すはずがないのだ。
仁は自分の妻の性格を知っていたので、素直に了承などするわけないと知っていた。
だから、わずかにだが担当者に同情すらしていた。

 仁には連邦政府が欲しがる気持ちもわかるのだ。
感応能力があるとされるガイダルシンガーは生物学者にとって夢の植物である。
花が咲いたところを見たことがあるとはいえ、その能力はまだ未知なるものだ。
セリーア人が回廊を渡るのに必用な栄養源であることも魅力のひとつだし、どんな成分を秘めているのかもわからない。

 そのガイダルシンガーの種子取得の任務となると、おそらく彼らの昇進や左遷もかかっているに違いない。
そんな状況で連邦政府の官僚が簡単に退くわけがない。

 案の定、交渉は難航し続けた。一貫したリリアの態度には、揺れや迷いなど微塵もない。
きっと上からは必ずうんと言わせろと尻を叩かれているのだろう。担当のふたりは必死だった。
だが、リリアのところに顔を出せば、「うっざいわねー。嫌なものは嫌なのよっ!」とけんもほろろに追い返される。
その繰り返しだった。

 だが、同情を抱くのも三日までだった。
七日も続けば、リリアだけでなく仁もさすがにおもしろくなくなってくるというものだ。

 仮にも自分たちは結婚したばかりなのだ。
熱々の新婚さんなのである。
新婚家庭のところにこうもたびたび訪問されては、さすがにいい加減にしてくれと言いたくなる。

 そして、その日もベテランの男が、「そこを何とかお願いします」と慣れたように頭を下げる姿が仁の黒い瞳に映っていた。

 順風満帆の人生を歩んでいたキャリア組出身の若い男のほうは、これほどの屈辱は初めてなのだろう。頬がピクピク引きつっている。
修行がたらねえな、と仁が思っていると、案の定、自分の存在を否定された気持ちにでもなったのか、それともいつまでも求めるべき結果が出ないその焦りを怒りに変えるしかなかったのか。
「もういい加減に諦めなさい」と突っぱねたリリアに、若い男の堪忍袋の尾がプツリと切れた。

「銀河連邦政府に楯突いたらどうなるかわかっているのかっ! 俺たちを舐めるなよっ!」

 脅迫ともとれる傲慢な台詞を、ぽろっと言い放ってしまったのであった。

 この発言に真っ先にギョッと驚愕の表情を男に向けたのは、その男の上司であろうベテラン官僚その人だった。

──あーあ、切れちまいやがって。

 仁はちらりと自分の妻を見た。

 セリーア人にとって銀河連邦政府の肩書きなどを畏怖や畏敬の対象にはなり得ない。
『俺たちをなめるなよ』発言は確かに彼女の口元を歪ませることになったが、それだけだ。

 リリアは、小心者が何を言うか、と若い男の顔をじっと見ていた。
権力を笠に子犬が狼に吠えているようにしかリリアが相手を見えていないのが仁にはわかっていた。
どんなに優秀だろうが将来有望だろうが、この男ではリリアの相手にはならない。
仁の想像ではこの後、リリアがフンと鼻であしらって終わっていたはずだった。

 だが、その男は二度目の大いなる失敗を犯した。

「地上に降りたELGなんぞ役立たずでしかない。
そんな役足らずでも少しくらい役に立ってみたらどうなんだっ!
仮にもおまえも連邦政府の職員の端くれなんだ、説得を手伝えよ。
それとも妻が怖くて口が出せないのか?」

 仁に向けられたこの言葉は、りリアの表情を一変させるのに充分だった。

 ちなみに、この時リリアが浮かべていた表情について、後日オーウェンに訊かれても、長年の相棒にすら「恐ろしくて言えねえよ」と笑って仁は最後まで誤魔化した。
それほどに我が妻ながらに恐ろしかったのだ。
おそらくあの恐怖は生涯忘れそうにないだろう。
横にいただけで鳥肌が立ってしまう。そんな経験は初めてだった。

 泡立つ肌を擦りながら、「俺、知ぃらね」と自然と仁の足がその場から一歩退いていたことは、とにかくオーウェンにも内緒だと仁は自分に誓っていた。

 一方、リリアは、執拗な連邦政府の懇願と無礼にもほどがあるそれらの態度に、「そう、わかったわ」と一笑しておさめた。
だが、苛立ちを隠さないまま、「そっちがその気ならこっちにも考えがあるわよ」と言い捨てて、言ったそばから荷造りをしだした。
何でも一直線のリリアである。さすがにやることが素早い。

 ベテラン官僚が「どこかにお出かけですか?」と恐る恐る尋ねると、リリアは「ええ、ちょっとそこまで」とあくまでにこやかに笑顔で返す。
しばらくすると、リリアは仁に、「これ持って」と鞄を突き出してきた。
「あ?」と訝しげな表情のまま鞄を持った仁をリリアは掬いあげるように抱き締めると、勢いよく翼を拡げて舞い上がる。

「おい、どこ行くんだよ」
「宇宙港よ」

 リリアが宇宙に出るとはさすがに交渉担当のふたりは予測しなかったのか。
それとも追いきれなかったのか。
追跡はなかった。

「なあ、あんまり怒るなよ。俺は気にしてねえんだからよぉ」
「うっさいわねー。夫に売られた喧嘩を買わない妻がどこにいるっていうのよっ!」

 その後もリリアの怒気はしばらくの間、鎮まらなかった。
搭乗手続きを進める宇宙港のオペレータに、「新婚旅行なの」とにっこりと笑顔で返しながらも、その目は全然笑っていない。
仁もまた、自分たちの行き先を知るまでリリアの本気がどれほどなのか把握できていた。

 第一、「ちょっとそこまで」がロイタガ星系惑星トラザーヌまでの渡航だと誰が想像するだろうか。
知った時、仁は最初、まさかと疑った。
リリアが本気だとわかった時は、「嘘だろ……。わざわざあそこまで行くのかよ……」が口から自然と漏れていたほどだ。

 ロイタガ星系は中央銀河より少し離れたところに位置し、その第五惑星はトラザーヌ惑星銀行本店の所在地で知られている。
凶悪犯罪者だろうが悪徳商人だろうが、高額な顧客登録管理費や利用料を支払ってくれるならば、どんな素性であろうと顧客そして受け入れる。

 その、トラザーヌ惑星銀行の鋼の矜持は、連邦宇宙中でも殊更有名だった。
トラザーヌ惑星銀行は外部からのどんな圧力にも屈しない銀行でも知名度が高く、顧客情報の守秘義務は最上級に優先される。
どんな相手だろうと、どんなに執拗な要請があろうと、絶対に漏らさない。
連邦政府や連邦軍、惑星警察でも例外はない。

 つまり、リリアはガイダルシンガーの種子を預けるため、銀河一信用厚いと誉れ高いそのトラザーヌ惑星銀行本店に赴いたのだった。

 本店の貸し金庫は数あるトラザーヌ惑星銀行の貸し金庫の中でも特別仕様になっている。
貸し金庫の中身は顧客しか知らないし、行員にも知らされないのは本店も支店も同様であるが、本店の貸し金庫の鍵の条件は支店の形ある鍵とは違い、顧客が自由に設定できるようになっていた。
ありとあらゆる条件に対応できるように日夜、技術開発に努力を続けているトラザーヌ惑星銀行施錠開発部の自信の作である。
本店がどんな鍵を用意しているのか、その全容もまた外部のものは決して知ることができない。
形のない鍵さえ存在すると言われている本店の貸し金庫は、信用第一を誇るトラザーヌ惑星銀行の一番の売りでもあった。

 こうして、蜜月の最中、リリアは仁を伴って惑星トラザーヌとガリオ星系第四惑星ショルナ間を往復したわけだが、リリアの思いつきとも言える突発的なこの行動は、連邦政府にとって青天の霹靂だったに違いない。
近所を散歩するかのように出かけた上に、トラザーヌ惑星銀行を新婚旅行先に選ぶとはさすがに予測範囲外のことだったのだろう。
金庫に仕舞いこんだ今となっては、リリアを説得する以外に道はない。
そして、そのリリアの説得ほど骨が折れることはないのだ。

 その後、連邦政府の人事部に職員の適性について匿名で連絡が入ったらしいが、それが直接の原因かは不明だが、交渉を担当したふたりのうちの片方はそれからすぐに辺境惑星の地方支局書記補佐に左遷されたと噂が流れた。

 それからしばらくして、リリアのところに特大の最高級菓子折りが届けられたが、その噂まで一緒に届けられたかどうかまでは仁は知らない。
仁は箱をちらっと見ただけで、菓子折りの中身はすべてリリアが腹に収めてしまったし、噂のほうは「仏被りの鬼」の異名を持つ環境庁ELG派遣局の課長経由で耳に入っただけで、仁からは話をふることはしなかった。

 かくして、ガイダルシンガーの種子の所有権問題は一応の落着となった──。

 オーウェンは仁から休暇中の話を聞いた時、「そりゃまた素敵な新婚旅行になったもんだねえ」と一応その場では無難な感想を述べるに止めていたが、内心、「一粒たりとも絶対渡すもんか」のド根性がこめられたリリアのこの行動力に舌を巻きながら、密かにふたりに敬意と困惑の両方を抱いたものだった。

 連邦政府の執拗な要請に屈せずに一貫した態度を貫いたリリア。
そんな彼女の意志を尊重して、遥か遠くの惑星まで黙って付き合った仁。

 あの連邦政府を相手によくぞ一歩も引かなかったものだと新婚夫婦を褒めたくなったと同時に、「そんな無茶をして何かあったらどうするんだい」とオーウェンは心配になってしまうのだった。

「しかしまあ、よくぞトラザーヌ惑星銀行なんて思いついたもんだねえ」

 本来、それは銀河連邦側の世情に疎いリリアが知るはずもない情報だ。
ならば誰が彼女に事前に知恵を授けたのか、オーウェンはふと思った。
だが、それは考えるまでもないだろう。

 今更、連邦政府が獅子身中の虫を飼っていたことに気付いたところで、貸し金庫の扉はすでに閉められたあとである。
どう足掻いたところで、すでに手遅れでしかないのだった──。





「まるで爺さんがふたりいるみたいね」

 呆れたようなその高音の声音が、夫と夫の相棒が醸しだすまったりとした空気をばさりと切り裂いた。

「聞こえたわよ、チビ。さっきの言い方、アレは何よ? すごく気になるわね。
あれじゃあまるで、わたしと一緒にいるといかにも落ち着けないみたいじゃないの?」

 資料室に漂う空気を敏感に察しながら、リリアは意味深に薄ら笑った。
だが、その冷めたような微笑みは続かなかった。

 テーブルの上のみたらし団子と青海苔煎餅に気付いて、乳白色の目がキラリンと光輝く。

「あらん、これは何かしら? いやーん、おいしそうじゃないのっ。うふっ、いっただきまーすっ。
んん……。あ、この食感いい感じ。コレ意外といけるじゃないのよぉ」

 新たな味の出会いに、花が咲いたような満面の笑顔になったリリアはいつにも増して美少女だった。

 そんなリリアに仁は期待しないまま、「なあ、貸し金庫の鍵の条件って何なんだよ」とちょっと興味があったので尋ねてみた。
すると、「使徒星の座標よ」とすんなりリリアは返してくる。

「あ? 使徒星の座標?」
「そう。セリーア人なら誰でも知ってることだもの。
でもセリーア人でなくても、ガイダルシンガーの声が聞こえれば知れるんだけどね」

「それってつまり、ガイダルシンガーの感応力が鍵ってことか?
なるほど感応力かよ…。もしかして、『歌姫』の異名はそこから来てるって?
俺には聞こえなかったけどな」
「そうね、地球人種にはたぶん無理だわね」

「っつーか、ガイダルシンガーは全部貸し金庫の中なんだろ?
だったら、ガイダルシンガーの声なんて聞けるわじぇねえじゃんか」
「あら、私は全部の種を貸し金庫に入れたとは言ってないわよ。だから、はいこれ、あげるわ。
百六十粒あるはずよ。実験するなり観察するなり、あなたたちふたりで好きにしたらいいわ」

 リリアが小さな銀色のケースを無造作に机に置いた途端、カタンと金属製の音が部屋に響いた。
この銀色のケースの中には生物学者の夢がぎっしり詰まっているはずなのだ。
雑に扱っていいはずがないのに、リリアはまったく気にしていない。

「連邦政府があれほど欲しがっていた種子なのに、そんな簡単に単なるELGにあげてしまっていいのかい?」
「あら、いらないの?」

「誰もいらねって言ってねえだろ」
「だったらいいじゃないの。咲かせたのは私よ。私がどうしようと勝手だわ」

 ELGのふたりはお互い見つめあい、「おいおい、そんな勝手していいんかよ」と苦笑した。

「それに三百粒は確かに貸し金庫に入っているんだし。今のところはそれで充分よ」

 食べ出したら止まらないのか、ひとつ、またひとつとリリアの手が伸びてゆく。
すぐさまリリアの顔は、ひまわりの種を頬一杯に詰め込んだハムスターのように膨らんだ。

 だが、とろけるようなその満面な笑顔も長続きはしなかった。
食べるものがなくなったためだ。

 その頬の膨らみが小さくなるごとに、つまり、咀嚼速度が遅くなるごとに、リリアの笑顔はだんだんと曇りはじめていった。

 そして、最後の欠片をごくんと飲み込むと、
「ねえ、どうして誘ってくれなかったの?
こんなにおいしいもの、あんたたちだけで食べてるなんてひどいじゃない」
リリアは甘えるように頬を膨らませた。

 艶を含んだような乳白色の瞳、薄紅色に染まった目尻、ぷくんと餅のように膨れた白い肌。
ぷんぷん膨れるそのさまは世の男連中が目を見張るほどの可憐さだったが、彼女の夫にとってはそれはすでに見慣れたものになっていた。

 それでも仁が妻をじっと見詰めていると、リリアがジトッとこちらを睨み返してくる。

 こういう場合、何も言わなくてもお茶くらい出してくれるもんなんじゃないの?
何で出てこないのよ。早く出しなさいよ。何よ、気が効かないわね。
リリアの顔に、一瞬にして駆け抜けたそんな彼女の心情が仁には手に取るようにわかったが、彼は視線を湯飲み茶碗に戻し、見てなかった振りをして、また一口お茶を啜った。

 ちらりと見やれば、確かにすごい美少女がそこにいる。
誰もが生涯に一度は見(まみ)えてみたいと望む乳白色の双翼を持つセリーア人の五十歳のうら若き(?)女性が。

 純粋培養に育ったと言っても誰も疑わない清純なイメージを抱かせるその可憐さと、遠慮のない堂々とした態度がチグハグにうまく交わって、ここに「リリア」という名のひとつの生物を形成している。

 これが仁の妻、リリア・ティナ・セリアナン・相良──。

 ちなみに、催促すれば何でも出てくると信じて疑わないその一種の純真さの中に、本来あるべき新妻特有の気恥ずかしさや初々しさは微塵もないところがリリアをリリアと言わしめる所以かもしれない。

 ずっと遥か遠いところある「恥じらい」という言葉が仁の脳裏に浮かんで、一瞬、胸が躍る。
仁らしくなく、ほんの一瞬だけ、憧憬や慕情に似た想いを抱いてしまった。
目の前の現実が厳しいものでありすぎたため、つい夢見がちになってしまったのだろうか。

 新婚……。ああ、なんて夢のある響きだろう。
しかし、仁を取り巻く現実はどんな夢よりもぶっ飛んでいて、天使を娶ったこの現実こそが、事実、夢物語みたいなものだった。

 とはいえ、どことなく納得できない。
これでいいのか? いや、よくない。
仁は期待していた何かに裏切られたような気分になって、知らず知らずのうちに疲れたような溜息を小さく漏らしていた。

 そんな仁のツレナイ態度にムッとしたのは彼の妻である。

 リリアは、「私にもちょうだいっ!」とピシッと急須を指差した。
あくまでも男たちを働かせようとするその姿勢は既婚者となった今も変わらないままだ。

 それを見止めた仁が、「おまえなあ、少しは自分でやれよっ」と一応窘めてみたものの、相手は夫の言葉に素直に耳を傾けるような貞淑な新妻ではなかった。

 ちらりとそちらに一瞥を投げつつも、リリアは夫の忠告を綺麗に無視して、
「オーウェン、あのね。実は相談したいことがあるの」
真摯な乳白色の瞳をうるうると潤ませながら年長の友人のそばまで近寄ると、ずずずいっと顔を寄せていった。

 リリアの表情はとても固かったが、匂うような艶があった。
思わずオーウェンも仁もリリアの真顔を目にして、ゴクンとふたり揃って喉を鳴らす。

 何を言い出すのか、何が起きるのか、先が読めない。
何がしかの不安がふたりを襲う。
緊張が部屋の空気の温度を二度ほど下げたように感じられた。

 張り詰めた部屋の空気に、最初に落ち着かなくなったのは仁だった。
仁は自分の緊張を誤魔化すように湯飲み茶碗を唇に寄せた。
だが、それはタイミングがあまりにもよすぎた。

「ねえ、オーウェン。ちょっと聞いてくれる?
このガキったら、わたしの誘いを三回に一回は断わるのよ。これって許せると思う?」
「……は?」
「ぶっ」

 リリアの発言に目を丸くしたオーウェンは、同時に「おおっと」と逃げを打った。
仁が口に含んでいたお茶を突如吹き出したからだ。

「お、おまえ、何つーこと……」
「大丈夫かい、仁……」

「お、おう」

 濡れた口元を袖で拭いながら、セリーア人の女性というものはコレが普通なのだろうかと仁はリリアを訝しげに見つめる。
「えらい嫁をもらっちまったぜ」の言葉は、口の中でモゴモゴと濁すに留めておいた。
こんなの聞かれたらまったく洒落にならない。

「汚いわねえ。ぼけっとしてないでさっさと拭いたら?」
「う、うるせ。言われなくてもわかってら」

 憎まれ口を叩きながら、自分の頭が正常に働きはじめたことに仁はいくらかホッとした。
一瞬何が起こったのか、自分でもわからなくなっていたらしい。

「ったくよー」

 この妻といると非日常が日常になってしまう。
自分が信じている常識が常識ではなくなってゆくのが自分でも手に取るようにわかるから余計怖い。
まったくもって毎日がどきどきの繰り返しで、退屈なんて言ってられない。
ゆったりまったりなんて悠長に時間をお楽しんでいる暇などまったくないのだ。

 これがセリーア人を娶るということなのだろうか。

──ま、ちんたら考えててもしゃーねえぜ。とりあえず、まずはこっちが先だよな。

 仁は気を取り直して布巾を持ち出した。
そうして「めんどくせー」とブツブツ言いながら、テーブルを清めはじめた。

 そんな夫の様子を視界の隅に認めながら、今度はリリアが、「はあ〜」とわざとらしく盛大な溜息をつく。

「赤ちゃんはひとりじゃ作れないってのに。チビったらホントにわかってるのかしらねえ。
夫としての務めくらいちゃんと果たしてもらいたいもんだわよ。
老い先短いってのならそれなりにしっかりしてもらわなくちゃ。ねえ、あなたもそう思うでしょ、オーウェン?」
「三回に一回、ねえ……。そりゃあ女性に恥を掻かすのはよくないよね。それは仁が全面的に悪い。
リリアは真剣にきみの子供をほしがっているんだから、やっぱり夫としてここは協力してあげないと」

 再度、ずずず、と番茶を啜る音が部屋に響いた。
仁である。ほっとけ、と顔には大きく書いてある。

 一方、オーウェンは始終笑みを浮かべていた。
どうしてどうして楽しい話題じゃないか、とこちらの顔はいかにもそう語っていた。

 仁はのどかに微笑むオーウェンをキッと睨みつけると、「コンニャロ」と呟いた。
オーウェンが、文句タラタラの仁の顔にわざとらしくにっこりと極上の笑顔で返したからだ。

 そして、二ヶ月前の誕生日でめでたく五十歳を迎えた、しかしながら外見は十代と言ってもまだまだ通じる新婚三十一日目の新妻の悩みに対し、「うんうん、それで?」とオーウェンは楽しそうに続きをうながしたのだった。

「チビってばガキのくせしてもう枯れてるのかしら? これって根性なさすぎよね?
ねえ、オーウェンはどう思う?」
「どうだろうねえ、私は仁とはそういう関係になったことないからなあ。
女性の立場としての気持ちを問われても何とも答えようがないねえ」

 そういう関係があったらそれこそ大問題だろう、と仁が突っ込もうとしても無駄だった。
ふたりの会話はどんどん怪しい方向へ進んでゆく。
故意になのか、口を挟む余地など一瞬たりとも与えてくれない。
普通なら、このような問題は夫婦間で解決すべきことなのに、夫は完全に蚊帳の外に追いやられていた。

 さすがにこれだけ勝手に話を進められると、もうどうとでもしてくれ状態の諦め境地になるものだ。

 仁はヤケクソ気味に煎餅を手に取った。

「精がつくような食べ物ってこっちにはないの?」
「イモリの蒲焼とか、スッポンとかがいいってのは聞いたことあるけどねえ。
そういうサプリメントがあるのは知ってるけど……。でも仁が素直に摂取するとは思えないなあ」

 当然である。そんな怪しいものなんぞ飲めるか。
黙って仁はお茶を継ぎ足した。
ついでにリリアにもお茶を淹れてやる。

「だって、もっと頑張ってもらわなきゃ。それこそ時間がないんだから。
悠長にやってられないってこと、あなたからもこのガキにわからしてやってほしいの」

 ずずず、と啜るりリアの湯飲み茶碗のお中身は玄米茶である。
リリアは玄米茶の香ばしい香りがお気に入りだった。

「こっちにも計画ってものがあるのよねえ。
短くてあと二年だっていうのなら、あと一年で生んで、残り一年で子供に父親の顔を覚えさせなきゃって思うのよ。
くたばるほうはポックリ逝けばそれでいいけれど、残されるほうはそれなりに苦労があるんだから」

 この新妻は最初から夫が二年後には死ぬことを前提に話をしているのだが、オーウェンはにこにこと笑顔で耳を傾けていた。
その場の雰囲気はのどかな世間話を興じるそれに相応しく、どこにも違和感がない。

「でもね、リリア。二年というのは目安であって。
もしかしたら三年かもしれないし、四年後かもしれないよ?」

 だからそんなに焦ることはないんじゃないかなとオーウェンが言うと、その言葉など聞こえなかったかのように、
「あと三ヶ月経っても赤ちゃんできなかったら、わたし、どうしよう」
リリアは両手で両頬を押さえて、「どうしよう」を繰り返した。

 新婚一ヶ月の新妻の悩みは簡単には解消されない。

 そんなリリアの気持ちを汲んで、オーウェンも、
「そんなに焦らなくてもいいんじゃないって言いたいところだけど。
まあ、どうしてもって場合は不妊治療を受けるって方法もあるんだから」
優しくリリアを慰めながら希望を示唆する。

「そうね、それもいいかもしれないわ。手を打つには早いに越したことないし。
今すぐ妊娠したとしても……、それでも二年後やっと一歳。
うまい具合にチビが四年生きたって赤ちゃんは三歳にしかなってないんですものね」

 リリアは真剣に即妊娠を考えているようだった。

 人間の寿命を、それもまだ二十七歳という若さで命の期限を言い渡されている夫の短すぎる余命を話題にして、こうも明るく相談を持ち込む新妻など滅多にいるものではない。
かといってこの新妻は財産目的で夫が死ぬのを指をくわえて待っているような腹に一物(いちもつ)があるわけでもないから、オーウェンもつい微笑ましく思えてしまう。

 何しろ個人資産でいうなら、新妻のほうが夫に比べてはるかに金持ちでなのである。
銀河連邦政府の賓客であるセリーア人の待遇はそれこそ別格。
仁の手料理に魅了される以前は、三度の食事を三ツ星レストランですませ、五つ星の最高級ホテルのプレジデント・スイートルームを常宿にしていたリリアである。
夫が早死にしたところで新妻に利得などまったくないに等しかった。

 が、ここまでが仁の堪忍袋の限界だった。

「おまえらなぁ、さっきから俺の目と鼻の先で何てこと話してやがるんだっ!
それに若作りっ! 少しは恥じらいってモンがねーのか、おまえわっ!」

 すでに二年後には死んでいることになっている夫は今のところ元気が有り余っているようである。
加えて、耳まで真っ赤に染め上げて、ふるふる肩を震わせているその様子からして、夫のほうが数倍も妻より純情と言えるだろう。

「だって、三回に一回は断わるってのは本当じゃない」
「あんなのはなっ、一日にそう何度もするこっちゃねーんだよっ!」

 ますます茹で蛸のように顔を赤らめながら叫ぶ仁のその内容のほうが、改めて考えると苦笑ものだとオーウェンは思った。

「あら、そうなの? こちらの新婚さんって冷めてるわねー」

 リリアは思いっきり「初めて知ったわ」と驚きの表情で仁を見た。

「いやあ、中には好き者もいるけどねえ。こればっかりは個人差だから……」

 そう言葉を紡ぎながら、当の夫より新妻の扱いに慣れているかのごとく横槍を入れたオーウェンが、ふと思いついたように首を傾げた。

「リリア、もしかして……。三回に一回ってのは一日の中でのことだったのかい?」
「そうよ。当然でしょ。数打ちゃ当たるって言うじゃない」

 そういう問題じゃないっ、と新妻の隣りでは夫が今にも憤死しそうなほど慌てている。
真っ赤に顔を火照らせた、今にも照れ死にしそうな仁が視界に入って、同じ男としてさすがにオーウェンも気の毒に思った。

「男の立場から言わせてもらうと、それは仁にも同情の余地があるかなー、と思うよ」
「立派に同情の余地ありまくりだっ」

 すかさずオーウェンの援護に仁が乗る。

「でもね、これもそれもこのチビが早死にするから悪いのよ?
せめてあと二十年……、ううん、この際十五年でもいいわ。
そんだけ生きてくれるのなら、赤ちゃん作るのも十年くらい余裕みたってわたしは全然構わないのよ。
でも実際はそうはいかないでしょ? ほら、そう考えたらわたしが急ぐのは当然だと思わない?
早死にするのは間違いないんだから」
「何度も『早死に』言うなっ! 俺はまだ死んじゃいねーぞっ!」
「そうだねえ。そう言われてしまうと身も蓋もないねえ。
確かにリリアの考えにも一理あるし、この問題はやっぱり夫婦間で解決するしかないようだね」

 ははは……、とどこまでもにこにこと笑って答えるオーウェンは、あくまでこの問題については他人事と最初から決め込んでいた。

 だが、オーウェンのふたりに向ける視線はとても優しい。
妻が腕を絡めた途端、「くっつくなっ!」と真っ赤に照れる仁を、年上の相棒は慈しみの表情で朗らかに見つめている。

 リリアが馬鹿正直に仁の余命を話題に出しても、まるで明日の天気が雨になったらいやだなあくらいの感覚で、笑って流しているのがとても不思議だった。
まさかふたりがこんなに明るくこの話題を口にするような夫婦になるとは想像したことがなかったので、この予想外の状況はとても嬉しい誤算だ。

「でも、リリアは本当にいいのかい? セリーア人の女性は普通、卵生を選ぶもんなんだろう?
胎生は体裁が悪いって以前言ってたじゃないか」

 使徒星でのセリーア人の常識では、卵を産んで専門機関に抱卵を委託するものと決まっている。
出産するまで胎児を腹の中に宿し続ける胎生は「できちゃった婚」以外はありえない。
リリアがかつてそう語っていたことを思い出して、オーウェンは少し心配になった。

「だって、しょうがないじゃない。
これから元気な卵を産むとなるとその準備期間だけで二ヶ月かかっちゃうんだもの。
ましてやそのあと産卵まで四ヶ月、孵化するのに更に三十ヶ月。そんなの時間かかりすぎ!
ちんたらしてたら間に合わないわよ。
そんな調子で挑んでいたら赤ちゃんをこの手に抱く頃にはチビなんて生きちゃいないわよ」

 ひどい言われようだった。

「胎生なら十二ヶ月で済むし、それにわたしたちの場合はちゃんと手順を踏んでいるのだもの。
道徳観念から見ても許されるはずだわ」

 だって正式に婚姻関係を結んでいるんですもの、と明るく言い放ったリリアは本当に嬉しそうだ。
この結婚を心から喜んでいるのは誰から見ても明白だった。

「それにね、オーウェン。もう手遅れかもしれないわよ?」
「手遅れ? どういうことだい?」

「だって、もしかしたらもうここに赤ちゃんがいるかもしれないでしょう?」

 その大胆発言に、仁が「ぶはっ」と口の中のお茶を鼻から吐き出し、気管に入ってしまったのか、ひどく咳き込んだ。

「もう、さっきから何やってるのよ」と一瞬呆れた顔を仁に向けつつも、自身の腹部を擦りながら、「赤ちゃん、できてるといいなあ」と呟くリリアの表情はとても優しげだ。
うっとりと夢見る表情で自分の世界に入ってしまったリリアはこれ以上もなくとても幸せそうに微笑んでいる。

 新妻のそんな姿を目にして、思わず仁は羞恥に顔を火照らせた。

 思い当たることがありすぎるくらいある身としてはここはひたすら黙りこんで、汚した机の上をせっせと綺麗に拭くことに専念するしかない。
そう、すべてにおいてここはぐっと我慢するしかない仁だった。

「赤ちゃんかあ。そっか、そうだよねえ。ホントにできてるといいねえ」

 あの「歌姫」のブーケを咲かせた婚儀からすでに一ヶ月経つ。
新婚のふたりの間にその可能性がまったくないわけではないことがオーウェンには事のほか嬉しかった。

「それで、何か兆候がありそうなのかい?」
「どうかしら。まだわからないわね。
でも、今回が無理だとしても絶対この半年……、いえ、三ヶ月以内で妊娠してみせるわ。
だから、お願い。オーウェンも協力してね」

 この場合の協力とは、「仁をその気にさせてくれ」の協力だろうか、とちらりと仁に視線を投げつつ、オーウェンはリリアへ、「そういうことなら任せてくれたまえ。毎日くたくたになるまで仁を扱き使ってあげるよ」と充分な協力を約束した。

「俗に男というものは疲れるとその気になるってのは人間行動学でも立証済みだからね。
身体疲労に陥ると本能的に危機感を覚えるんだ。
すると死ぬ前に子孫を残そうと自然と繁殖行動を促すものなんだよ」

 夫を蚊帳の外に置き去りにしたまま、それからしばらく新妻と夫の相棒は子孫繁栄についての理論と実現について和気あいあいと、だが真剣そのもので話し合っていた。
その語らいは、二杯、三杯と急須を傾けても終わらなかった。

 リリアは切実にオーウェンに尽力を求め続け、その結果、翌日から朝の風景に「おはよう」の代わりに「調子はどうだい?」と、にこやかに仁に声をかけるオーウェンの姿を多くの職員が目にするようになるのだが……。
その意味するところがとても深いとは誰も知らない。

 そして、顔を真っ赤に染め上げながら素っ気なく返す仁の「うるせぇ!」と、連れ立ってやってきたリリアを交えてのオーウェンの「何事も積み重ねが大事だから焦らないんだよ」が、三人の朝の合言葉となりつつあった頃……。
「おはよう」とオーウェンが言う前に「あーん、今回は駄目だったぁ」とリリアが泣き出したのには、さすがにオーウェンも意表を突かれた。

 今朝方、妊娠していないことがはっきりとわかって家でもリリアはすごく落ち込んでいたのだと、あとから仁が教えてくれたのだが、仁までもがいつもより口数が少なくて、ふたりの落胆ぶりがヒシヒシと伝わって来るのだった。

 目に涙を溜めたリリアが俯いている。時折、ぽたりと水滴が落ちて、テーブルを濡らす。
リリアが握り締めているすでに皺だらけのハンカチーフが、ひたすらオーウェンの目を惹きつけた。

「今日の昼飯はおまえの好きなでかいパフェをつけてやるからさ。な、もう泣くな。
アイス、テンコ盛りだぜ。おまえ好きだろ?」
「大丈夫、次があるよ。そんなにすぐできてたら、この世の中出産ラッシュで大変なことになってしまうよ」

 それぞれがそれぞれの言葉でリリアを慰めたが、結局リリアはその後の七日間、ずっと落ち込んだままだった。

 塞ぎこむリリアが痛々しくて、仁は毎日アイス作りに精を出す羽目になってしまうのだが。
明けて八日目、「次こそは決めてやるぅ!」と拳を振り上げて、声高々と宣言するリリアを見て、オーウェンもほっと胸を撫で下ろすのだった。

 きっぱりはっきり仁に向かって、
「絶対、今度こそ作ってやる! 絶対あんたの子供、生んでやるんだからっ!」
今夜は寝かせないわよ、とリリアがすごい脅し文句を吐いて、仁を思いっきりのけぞらせたのには、さすがにオーウェンも唖然としたものだったが、次の瞬間には仁もオーウェンも声を出して笑っていた。

「おまえなあ、こういうのは焦ったってどうにもならねえんだぜ。
できる時は一発でもできるもんだし。できねえ時は百発やってもできねえもんなんだよ」
「でも努力しないで諦めるのは嫌なんだもの」

「努力っつってもなあ……。おまえの気持ちもわかるし、嬉しいけどよ。
正直言って俺は別にできなくても構わねえんだ。
俺のためだけに生むつもりでいるならマジにやめておけよ。
おまえには悪ぃが、子供が成人するまで世話できるかつったら、俺、絶対できねえじゃん。
子供のこと最後まで責任取るなんて、口が裂けても言えねえしさ。
だからこの際、別にできなくてもいいかなーとも思うわけよ。
そりゃ自分のガキの顔がもしも見られたらすげえだろうなあとは思うけどよぉ、
それだけが目的でおまえと一緒になったわけじゃねえしな。
俺はおまえに振り回されて生きるのもおもしれえかもしれねって思ったからこうして俺たち、一緒になったんだからさ。
だから、子供がすべてなんて思うのはやめとけよ」

 けれど、自分は約束をしたのだ。
仁に家族を与えるのだと。
仁の子供を生んで、仁の本当の家族を作ってあげるのだと。

 そんな想いをこめて、唇を噛み締めながらリリアは何度も首を振った。

「血が滲んでるぞ。そんなに噛むなよ」
「だって……」

 リリアの気持ちは仁としてもとても嬉しかったし、ありがたかった。
だからこそ、仁は、「おまえ、わかっちゃねーな」ときっぱり言っ放った。

「おまえはそう言うけどよ。おまえだって俺の家族じゃんか。
俺たち、ちゃんと結婚してるし。俺にはおまえっていう正式な家族がもうここにいるんだぜ。そうだろ?
それにオーウェンなんてまるで俺たちの舅みてーなもんだし。俺、結構自分でも恵まれてるほうだと思うぜ」

 ニヤッと笑って、ふたりも家族がいれば充分だ、と仁は優しくリリアを諭すのだが。

「何当たり前のことほざいてんのよっ。
それに子供だって、わたしがほしいから作るのに決まってるじゃない!」

 絶対諦めるもんか、とリリアの心はますます燃え上がらせるだけだった。

 リリアは仁のためだけに子供を作ろうと決心したわけではない。

「わたしがほしいのよ! だってふたりの赤ちゃんだものっ!」

 その熱くなった気持ちの分だけ仁に余計な負担を強いることになるわけだが、リリアにしてみればこれ以上切実な問題はないので、当然「協力くらいしろ」と結局はそこに行き着くことになる。

「協力、ねえ……」
「これだけ奥さんがほしがってるんだから、夫の務めとして協力しないわけにはいかないよねえ。
ね、仁? ま、精々頑張ってよ」

「う。改めて言われると照れるだろが!」

 こういう場合どんな顔をしていいかわからなくて、仁は頭をしきりに掻きむしった。

 それから、わずかに目尻を赤く染めた顔を天井に向けると、伸びをするように両の拳を上げ、大きく深呼吸をした。

「くそ。こうなったらとりあえず、やれるだけやってみるか」





 その後、仁とリリアは相変わらず何かとにギャーギャー言い合いをしながらも、穏やかな日々をしばらく過ごした。
暖かな陽気が強い日差しに変わり、樹木の緑は濃さを深めてゆく。

 そして五月の挙式から二ヶ月が過ぎたある日、リリアは再び仁の胸で泣くことになった。

 二度目の不覚は一度目の時とは違い、リリアは大声で騒いだりしなかった。
「悔しい」とも「哀しい」とも「どうして」とも「チビのせいよ」とも言わなかった。
ただひたすら、ぎゅっと唇をきつく噛んで、声を殺してぽろぽろと涙を零し続けた。

 静かに。ただ、黙々と……。

 仁もまた黙って、ずっとリリアの髪を優しく撫で続けた。
リリアが泣き疲れて眠ってしまうまでその華奢な身体を抱き締めて、涙の跡が残り頬に口付けながら。
そうして、「次があるさ」と囁いた。





 八月になってリリアはわずかな出血をした。
それが引き金になったのか、リリアは「不妊治療」を真剣に考えはじめた。

 オーウェンに、「オススメな病院ってどこかない?」と尋ねては、仁に「止めとけ」と言われて反発し、頻繁にふたりは口喧嘩を繰り返したが、喧嘩の最中でもリリアは仁にぴったりとくっついて絶対離れようとはしなかった。

「病院行けばできるかなあ。行ったほうがいいのかなあ」
「別にいいじゃねえか。俺たちに子供ができねえなら、それはそういうモンなんだって諦めろよ。
医者の世話になってまで子供を作るこたぁねえって」

 仁ほどリリアがセリーア人だということを骨身に染みるほど知る者などいない。

 仁は、地球人種の医者にリリアを診せても確実に子供ができるとは信じてはいなかった。
通院までしてこれでリリアが妊娠しなかったら、その衝撃は今までの比ではないこともわかっていた。

「本当にそれでいいのかい? 不妊治療すれば今よりもずっと妊娠の確率は高くなるよ?」

 オーウェンが問うと、仁は真っ直ぐに視線を合わせて「いいんだよ」と答えた。

 リリアは最近情緒不安定で、涙を流しながら寝入ってしまうことがたびたびあった。
今日も仁のそばでテーブルに伏せるようにして、うとうとしている。

「こいつには『あの時不妊治療をしていれば』っていう逃げ道を最後まで用意しておきたいんだよ。
俺のせいにして怒ってよぉ。それでこいつの気が済むなら、それはそれでいいじゃねえか。
俺が死んだあと、こいつが自分を責め続けるよりも、俺を恨んで『まったくあのオトコのせいだ』っつって年中喚いてるほうが俺にしてみりゃずっとマシだ」

 時折、リリアが眠りながら流すその涙を拭いながら仁はそう言ってオーウェンに笑顔を向けた。

「そんときゃ悪ぃがこいつの愚痴に付き合ってやってくれな、相棒」
「馬鹿なことを。私ではリリアの慰めにはならないってわかってて言ってるのかい?
こんなリリアを見せられて私に何ができるって言うんだい。責任転嫁は許さないよ。
きみ自身で何とかするんだね」

 オーウェンはさっさと白旗を揚げて、「無理を言わないでくれ」と仁の願いを撥ねつけた。

 リリアが地上で求めるのはただひとり。
仁にしか、リリアの気持ちを動かすことなどできはしない。

 オーウェンは仲良く寄り添うふたりから目を逸らして背を向けた。

 そして久しぶりに仁に隠れて、ひとり静かに泣くのだった。





 仁が、「今夜、翔びに行こうぜ」と誘ったのは、リリアが暇さえあればじっと空を見ているようになったからかもしれない。

 仁はリリアと結婚してすぐに引っ越し、メッシーナ記念公園近くの郊外に一軒家を借りていた。
メッシーナ記念公園は市街を見下ろせる小高い山になっている。
たくさんの樹が植えられているので多くの野生動物たちも暮らしていた。
人の視線に暮らして住むよりも自然に囲まれてふたりで暮らそう。
それは仁の配慮だった。

「夜だけでもリリアが自由に翔べるようにしてやりてぇんだ」
「それでこんな辺鄙なところへに引っ越しを決めたのか。きみって奴は……」

 普段は言葉が足りない仁だったが、オーウェンだけには彼なりにいろんなことを打ち明けていた。

 乳白色の綺麗な天使はとても目立つので、街灯の明るい場所では夜でさえ人目を避けるのは難しい。

 日が暮れてからメッシーナ記念公園は自然が多く残っているだけあって、星空がとても綺麗に見える。
夜景を見に展望台までやってくる恋人たちも時折いたが、それでもリリアが翼を拡げて夜空の飛行を堪能するにはメッシーナ記念公園はとても都合のいい場所だった。

「少し空はガスが出てるみたいだけどよ。今夜は満月じゃねえし。
月明かりもそんなに明るかねえからちょうどいいじゃん」
「そうね。久しぶりに翔ぼうかしらね。ねえ、どうせなら頂上で夕飯を食べましょうよ。
あ、お夜食も作ってね。ふたつお弁当持って行くの」

「おまえなあ、いい加減夜遅くまで食ってると太るぞ。ぶくぶく太ったらいくら何でも翔べなくなるんだからな」
「へーんだ、太ってなんかいませんよーだ。それにそうなったら念動力使うから別にいいもの。
ほらほら、とにかくお弁当作って! わたしは水筒用意するから」

 久しぶりにはしゃぐリリアに安堵しながら、「しょうがねえなあ」と仁は大量のサンドイッチを手早く作った。

 丘の頂上まではリリアが仁とお弁当を大事に抱えて連れて行ってくれるだろう。
向こうでリリアがひとり飽きるまで空を翔んでいる間、彗星でも見つけてみようか、などと考えながら、仁はデザートのフルーツもたくさん用意した。

 日の入りを待って、空が暗くなると、「行くわよっ!」とリリアが翼を大きく羽ばたかせて、お弁当を抱いた仁を抱えて空に舞う。

「な、んか、重くない? すっごく重い気がするんだけど、これってお弁当が重いのかしら?」
「最近、食ってばっかりだったもんなあ。おめえ、もしかして太ったんじぇねえ?」

「うっさいわねっ! チビのクセして態度デカイんだからっ!」
「おーおー。悪かったな小さくってよっ。悔しかったらてめぇが縮んでみやがれ」

「どうしてわたしが縮まなきゃならないのよ。それを言うなら、あんたがデカクなればいい話じゃないの」
「うっせー、そんなこと言ってると弁当やんねーかんなっ!」

 羽音に混じって繰り返される空中での応酬はピンポン玉のように気持ちがいいほど上に下にと跳ね返された。

「頂上って……、こんなに遠かった……?」

 心なしかリリアに疲れが見え始めた頃、やっと頂上の空き地にたどり着く。

 着地した途端、リリアはゼエゼエと息を切らせて草の上にうつぶせになって寝転んだので、
「おい、大丈夫かよ。マジに体力落ちてんなあ。おまえ、もちっと運動したほうがいいぞ」
仁は、「ほらよ」と水筒のお茶を差し出して妻の労をねぎらった。

「ありがと……。それにしてもヘンねえ。こんな丘、前はへっちゃらで超えてたのに。
本当に太っちゃったのかしら?」
「ああン? そうか? そうは見えねえけどな。どれ、見てやろうか?」

 夫の特権で仁がリリアの身体を撫で回すと、リリアは身を捩って抗った。

「馬鹿。こんなとこで何すんのよっ」
「いや、ここでヤルのもいいかなーと……。ほれ、場所変えるのも一興じゃん」

 そう言って、リリアの不安を笑い飛ばしながら、リリアの上に覆いかぶさろうとする。

 だが、リリアの胸に手を当ててキスをすると、
「チビ、何か、痛い……」
リリアが小さな声で助けを求めた。

「あン? どっか痛いのか? 腹か?」
「ちょっと胸が。触られると痛いの」

「胸? どれどれ……」

 女性らしく優しく膨らんだ胸を手のひらで包むように仁が触れてみると、ほのかに固く張っているのがわかった。

「ここ、痛いか?」

 乳房の膨らみにいつもと違う感じを見つけて、仁が少し力を入れる。

「痛いっ。そこ駄目。痛いからもう触らないで」

 その妻の声に手の動きを止めて、しばらくリリアを抱き締めながら夜空を見ていたかと思うと、
「帰ろう」
仁は急に立ち上がってリリアの腕を引っ張った。

「タクシーを呼ぼう。おまえはもう翔ぶな。あ……、いや。多分、おまえはもう翔ぶ力が残ってねえかも」
「どういうこと?」

「もしかしたら、おまえ……子供ができてるかもしれねえ。
俺さ、あんまりおまえが子供ほしがるからさ、前に妊娠初期の妊婦の症状を検索してみたんだぜ。
さすがにセリーア人の妊婦の症例は見つからなかったけどよ。
地球人種とセリーア人の間で交配が可能ってことは身体のほうも似てるんじゃねえかと思ってさ。
で、それには妊娠したら疲れやすくなったり、胸が張ったり、時には少量の出血があるって載ってたんだ。
おまえ、この間出血したろう? 今日だっていつもだったら楽々翔べるくせに、へーこら息切れしてるしよ。
だから、帰ろう。妊婦は風邪なんかひいても薬飲めねえから、夜、出歩くモンじゃねえんだよ」

 リリアは思いかけず両手で口を覆った。
「まさか、嘘でしょ」と、そう今にも言い出しそうなその言葉を留めるかのように。

 そして、大きく目をますます大きく開いて、乳白色の瞳に仁の照れたような表情を綺麗に映し続けた。

「参ったなあ、マジにできちまったんかよ……」

 ぽりぽりと頭を掻くその仕種が、リリアの目にはとても愛しく見えた。

「本当に……、妊娠したと思う?」
「十九八苦、間違いねえよ。
おまえみたいな元気なヤツがこんな丘を飛んだくれえで突っ伏すくれえだからな」

「ホントにホント?」
「ああ、何なら家に帰って検査薬で調べてみろよ。絶対、陽性反応が出るからよ。賭けてもいいぜ」

「陽性反応」という言葉に雷に打たれたような衝撃を受けたりリアは、花開いたような笑顔を浮かべた。
途端に、「早く早く」と率先して家に帰りたがる。

「おいっ、待てよ! 陽性反応は逃げやしねえってっ!」
「遅いっ! チンタラ歩いてないでさっさとしてよっ!」

 仁は重い弁当箱を抱えながら、久しぶり聞く自分を追い立てる元気な妻の声に笑みが零れてしまうのが止められなかった。

 ふたりは無人タクシーを拾って帰宅し、リリアは仁よりも先に駆け込むように家の中に入っていった。

 薬箱から妊娠検査薬を掴んで洗面所にひとり籠って数分後のこと。
あーん、と泣き声が洗面所のほうから聞こえてきて、仁は焦ってその扉を何度も叩いた。

「おーい、大丈夫か。しっかりしろよ。どうだったんだっ」

 ドンドン、と叩き続けること十数回。
扉が開いた瞬間、涙で顔をぐちょぐちょに崩したリリアが出てきて、「嬉しいよぉ」と叫びながら仁に被さるように抱きついてくる。

「赤いの、出たっ。ちゃんと赤ちゃん、いるって。うう、嬉し……、チビ、わたし、これで赤ちゃん産める……」

 あーん、あーん、と声を張り上げて泣くリリアがあまりにも強く抱き締めるから、仁は思わず死ぬかと思った。

「わ、わかった。わかったから力を抜いてくれっ」

 心なしか、家もぐらぐら揺れているような気もする。
ぶらんぶらんと照明が揺れて、いつリリアの上に落ちるてくるかと思うと、仁は気が気でなかった。

 そして翌日、すでに夜のうちに妊娠の事実を報告済みのオーウェンを見つけたリリアが喜び勇んで起こした行動とは……。

「ほらほら、これっ! 見て見て。ちゃんと赤いでしょっ!
こっちの赤いのが検査は正常ですっていう線で、こっちの赤いのが……ふふふ。
オーウェン、ほら見なさい。ちゃんと三ヶ月以内に妊娠したじゃないの。
さすが、わたしよね。抜かりはないわっ!」

 まるで棒アイスの当たりくじに当たったかのように妊娠検査薬のスティックをふるふる振り回しつづけるリリアは、「おーほっほっほ。さあ、これから頑張って産むわよっ」と声高々に笑うのだった。

「……こりゃ先が思いやられるぜ」

 初っ端から頭を悩ます仁に肩を叩きながら、
「何はともあれ、おめでとう、仁パパ!」
「うっ、俺はまだパパじゃねぇやっ!」
この喜びを相棒とともに満面の笑みで分かち合う。

「いい加減、諦めなさい。きみがパパになるのは確かなのだから」
「うー」

 余談だが、その朝、メッシーナ記念公園近くの一部地域で昨夜、地震二の地震が観測されたというニュースが報じられたが、震源地は深さマイナス三十メートルという観測史上初めてのことに地方気象観測所の職員は頭を悩ましたと言う。

「こんなことは信じられません。深さがマイナスなどというこの数値はおかしいです。
これが事実ならば震源地は地上ということになります」

 だが、仁とリリア、そしてオーウェンはそのニュースを知ることはなかった。
リリアの「お祝いしましょ」の一言が原因で、朝からご馳走を目一杯作らされたためである。

 調理室で一日中、缶詰状態で料理を作り続けながら、仁とオーウェンはお互いひそひそと囁き合う。

「おい、妊娠しただけでコレってのはどーよ?
これで子供が生まれた時っつったら俺たち、どうなるんだ?」
「三日三晩の祝膳……、本気で覚悟したほうがよさそうだねえ」

 しかしながら、仁たちに「頑張って作ってね」と料理を命じた本人が、その日から「気持ち悪い〜」と言い出したから一大事となった。

「おいっ、作れるだけ作れっつったのはおまえだろうがっ!
この大量な料理っ、俺たちふたりでどうしろってんだよっ!」

 まだまだ序の口。
仁とオーウェンは更なる苦労の日々を迎えることになるのだった──。



illustration * えみこ



えみこのおまけ




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