きみが片翼 -You're my better half- vol.8



第五栽培室のお化け苺は当然のごとく、衛生管理局のもとで品質検査を受けることになった。
もちろん、合格するまで食用に用いることは許されない。
仮に認可がおりたとしても、更に三世代の栽培に成功しなければ新種とは認められない。

 結局、リリアが作りあげた規格外の植物は、排除されることも何かに利用されることもないまま、第五栽培室とともに当座の間、全面使用禁止となった。
当然、始末書ものである。

 だが、当事者がセリーア人だったため、今回、外務省の懸命な擁護を受けられたのが幸いし、結局、回廊の向こう側とこちら側の環境の違いが原因の突発的な事故で処理され、環境庁の上層部も仁やオーウェンに監督責任を問うことなく、注意勧告で事を収める方向に話が進んだ。

「無害なんだから、そこまで騒がなくてもいいじゃないの。ねえ、そう思わない?」
「おまえは少し黙ってろ」

 男たちの何よりの救いは、第五栽培室から出てきたリリアに失恋を引き摺った様子がなかったことだ。

 リリアは何も変わらなかった。
仁の自信作の弁当を男たちよりも余計に平らげ、ケロリとした顔でいつものように仁と言い争った。
相変わらず仁のところに居ついて眠り、朝、仁をともに研究所に出勤してきては仁の作った料理をおいしそうに食べ、いつもと変わらない時間が三人の上に降り注いだ。

 穏やかな日常の繰り返し。平温な日々。

 ところが、変化のない日常に慣れ親しんだ頃、さも何事もなかったかのように、リリアが花畑を作りたいと言い出したものだから、男たちは慌てた。

「花畑だと?」
「ええ、そうよ」

 第五栽培室全域閉鎖の大騒動は、ふたりのELGにとって、まだ記憶に新しい出来事でしかない。
なのに何食わぬ顔で、「場所を貸してほしいの」と言われても、「そんなの困る」が仁とオーウェンの正直な気持ちだった。

 にっこりと天使の微笑みを浮かべるリリアは、お化け苺事件などなかったかのごとく、都合の悪いことはすべて時の彼方に放る姿勢がみえみえで、なお悪いことに、リリアは当然貸してくれるものだと信じてるから始末に終えない。

 その朗らか表情には、依然として栽培室ひとつ封鎖したことに対する反省の色など微塵なかった。

「安心して。大丈夫よ。今度は遺伝子操作をするわけじゃないの。ただ、この手で植えてみたいものがあるのよ」
「……へえ」

 前科者の「今度こそは大丈夫」という言葉ほど信じられない言葉はない、と仁は確信している。
確かに更生する者もいるだろう。だが、再犯に走る者が多いのも事実だった。

「で? 何を植えたいんだ? おまえ、園芸が趣味なわけじゃねえだろう?」

 相手は栽培室を丸々ひとつ駄目にするほどのオンナなのだ。
やすやすと軽い気持ちで場所を与えるわけにはいかない。

 だが、我が道をゆくリリアにとって仁の冷たい視線など、視界の隅に飛び回る羽虫程度の存在でしかなかった。

 にっこりと余裕の笑顔を返しながら、
「お花畑を作りたいの。一面に白い花を咲かせて大きな花束を作るのよ」
うっとりと綺麗な花畑を脳裏に描いて、「素敵でしょ?」と熱く語るリリアはいかにも夢見る少女そのものだ。

「俺には花畑で遊ぶ趣味ねえし」
「あら、いろいろと遊べるのにもったいない。チビ、女心を理解してないわねえ」

 確かに、仁には女の気持ちなどわからなかった。
「あれだけ大それたことをしておきながら今度は花畑だ? あん? 何だそりゃ」の心境になっても当然だろう。

 仁は花の生態にはとことん興味があるが、花を摘んで楽しもうとは思わない。

 こんな時、女という生物の行動は未知数だとつくづく思う。
わかろうとしてもどうせわからない。
どうせ、どこまでも理解できないのなら、はじめから放り投げるのが手っ取り早くて楽でいい。

「ったく、五十のクセして何が花畑だ。オンナってはいくつになってもこれだから……」

 参る、と言おうとして、でも無理だった。

「ぐえッ」と喚いたのも、突然、痛みが舞い込んできたのも一瞬で、顔がジンジンと熱を持って一気に身体が火照る。
目に涙がわずかに滲んで、それがすごく沁(し)みて目が開けられない。

「ほいつ、はにひやがる!」

 気がつけば、仁の頬にリリアの拳が綺麗に決まっていて、拳を握った状態のリリアが目の前にいた。

「五十じゃいけない?! 誰だって年はとるのよ?!
あんただってあと三ヶ月したらまたひとつ年をとるじゃない! それと同じよ!
あんたね、わたしの年齢(とし)をごたごた言うくらいなら、その前にプレゼントのひとつでも持ってきなさいってなもんよ!
それにお花畑のどこが悪いっていうの?!
ふんっ、花のひとつも咲かせられないヘタレのくせに生意気言ってんじゃないわよ!」

 今月、リリアは誕生日を迎え、きりのいい数字となった。
またひとつ、仁と年齢が離れたのをリリアは意外に気にしていたらしい。

「おいおいおい……、今は俺の年齢なんか関係ねえだろが。
第一、花どころか、栽培室ひとつダメにしたのはどこのどいつだよ……」

 そうは言っても、リリアの迫力を前にして、仁の声はいつもよりも小さい。

 たかが五十。されど五十。
女性に年齢の話題を振るのは種別を問わず礼儀に欠けるものなのだと、宇宙共通の常識のヒトカケラを、この日、二十七にして仁は身を持って知ったのだった。

「いいじゃないか、仁。植物を育てるのは楽しいもんだよ?
すくすくと成長するのを見守るその喜びを、今度はリリアだって味わいたいだけさ。
なあ、そうだろう、リリア?」
「……まあね」

 一発殴って気が済んだのか、リリアがオーウェンに微笑み返す。

「希望的には、だいたい二十平方メートルほどの土地がほしいの。適当なところってあるかしら?」

 オーウェンとの間にテーブルを挟んで身を乗り出すと、具体的内容に話を戻した。

「第十一栽培室でよければ。
ただし、あそこはほんとに何もないただの空き地だから土壌作りからしないといけないけど。
それでもいいかい?」
「充分よ」

 花畑を作るのなら妥当な広さだろうと、オーウェンは第十一栽培室の使用許可をリリアに与えようとしたのだが、そこに仁がまたもや口を挟んだ。

「おい、おまえが自分で耕すんだぜ? 土壌が硬いと育ちにくいんだ。
本気で植えるつもりなら、土を掘り起こすとこからしなきゃなんねえ。
そういう力仕事もおまえが全部するんだぜ? そんでもか?」
「大丈夫よ。スコップを貸してくれるなら自分でするわ。平気、自分ひとりでやりたいの」

「リリア、無理はしないんだよ」
「ありがとう、オーウェン」

 そう言って、リリアはにっこりと微笑んで礼を述べたが、「ひとつお願いがあるの」とすかさず付け加えた。
第十一栽培室を借りるにあたってひとつだけ条件があるのだと言う。

「今回の花畑は自分ひとりで育てたいから、ふたりとも見に来ないでほしいの。
綺麗に咲かすことができたら必ず見せてあげるから。それまでは絶対見ないで」

 リリアの我がまま振りに、「おまえは鶴かよ!」と仁は思わず呆れたが、ひとりで土壌作りからしなければならないのが余程心配だったのか、
「ハーブ系のを植えるんだったら石灰を混ぜろ。野菜を作るように土壌を中性にしとけよ」
第十一栽培室へと向かおうと背を向けたリリアに振り向きもせずに簡単な助言を与えた。

 リリアが資料室から去って、ふたりきりになると、仁は落ち着きなく貧乏揺すりをしはじめた。

 そんな仁の仕種を横目で見ながら、
「心配なら見てくればいいのに。けど、仁はリリアをフッちゃったんだよね」
オーウェンはぴしゃりと言い放って、仁が逃げようとしていた現実をわざと浮き彫りにして突っつく。

「仁は勝手だよ。リリアの気持ちなんか何もわかっちゃいない。
今までは、余命のことを伝えれば、みんな仕方ないって去って行った。
だから仁は楽できたけど。残念だったね、リリアはそんな楽なんかさせてくれやしないよ。
私はね、ずっと思ってたよ。
かわいそうなのは仁だけじゃない、彼女たちだって充分かわいそうだった、とね。
仁は自分で気付いてないだけで、ずっと篩(ふる)いにかけてきたんだ。友人も恋人も家族も何もかもだ。
大きな石粒だけ残して、ほかの砂は綺麗に落として。そうやって、仁はリリアも篩いにかけたんだよ?
仁、自分で気付いていたかい?
彼女がただの友人に戻るように仕向けてさ、それで本当に後悔しないのかい?」
「後悔なんて、俺がするかよ……」

「だったらね、仁。このまま彼女を手放すつもりなら、きみはもうリリアに優しくするべきじゃない。
昨日今日で、愛情が友情に変わるなら誰だって苦労なんかしないんだ。
振ったほうが振られたほうより辛いなんてありっこないんだよ? 仁は考えなさすぎだ。
相手のことを思うならもっと自分のことも大切にして、ちゃんと自身の胸に問いただすべきだ。
リリアのことを何とも思ってないなら、今日から彼女を部屋に入れるのはやめときなさい。
それは彼女のためにもならないし、仁は仁で彼女の強さに甘えてしまうだけだから」

 オーウェンが仁をこれほど強く諭すのは珍しい。
途中、仁はのけぞって思わず椅子から落ちそうになり、自分のその失態を笑って誤魔化そうとしたのだが、オーウェンの剣幕は小さな笑いのひとつさえも仁に許さなかった。

 長年、相棒と一緒にいて、これほど居心地が悪いのは初めてだ。

「オーウェン、そんなに怒んなよ。リリアは大丈夫さ。あいつはああ見えてしっかりしてるからよ」

 その軽い口調の仁の台詞さえも、オーウェンには気休めにしか聞こえなくてどうにもやるせない。

「大丈夫? 何が大丈夫なんだ? 仁はすぐ大丈夫って言うけれど、大丈夫じゃないのは仁じゃないか。
大丈夫だって笑って言ってるヤツに限って全然大丈夫なんかじゃないんだよ?
駄目だ駄目だ、死ぬ死ぬって言ってるヤツに限ってしぶとく生きて死なないもんなんだ。
仁、きみは少し頭を冷やしてリリアを見習いなさい。彼女は少なくとも仁より先に素直になった。
それだけの行動をちゃんと起こした。それはとても勇気がいることだ」

 失恋してからもリリアは普段と変わりなく研究所で過ごし、時には怒り、冗談を言い、とにかくよく食べた。

 くるくると変わる表情はとても見てて気持ちがいいほどで、あの第五栽培室で泣きはらしたのが嘘のようにころころとよく笑った。

「そんなこと言われてもよ……」
「おそらく、きみよりずっと彼女のほうが大人だよ」

 事実、俺よりうんと年上だろうが、と仁は言い返そうとしたのだが、到底そんな雰囲気ではない。
睨み続けるオーウェンの顔をまともに見られないのは、仁の中にわだかまりがある証拠なのか。

 そのうちに歯切れの悪い仁に痺れを切らしたのか、「ひとりで反省してなさい」と言って、オーウェンは資料室からさっさと出て行ってしまった。

「何をどうしろってんだよ……」

 ぽつんとひとり残された仁は疲れたように天井を仰ぎ見る。

 オーウェンの言いたいことやリリアのこと。
ひとつひとつ数え思い浮かべれば、考えなければならないことはいろいろありすぎる。逐一考えるのが億劫だった。

 第一、あと片手の年数すらも生きられない自分に何ができるというのか? 
もしかしたら新種の植物を作り出すことはできるかもしれない。でも、それだけだ。
人間関係をこれ以上複雑にして、「あとはよろしくな」と無責任に死んでいくなど仁には無理だった。

 取り残された幼い記憶が空調の音に混ざって煙る。

 唐突に昔のことを思い出した。
待ち合わせ場所に母も父も戻って来なくて不安で胸が張り裂けそうになった苦しい記憶。
ふたりが死んだことを聞かされた時は、どうして自分ひとりが取り残されたのかわからなくて怖かった記憶。
自分の居場所がどこにもなくて、夕暮れの中、帰る家があるという平凡さに憧れた寂しい記憶。
子供心に、いっそ自分も母と一緒に父のところへ出向けばよかったと後悔した記憶。

 ELGになってからは昔のことなどそれほど思い出しもしなかった。
銀河を飛び回るのに忙しくて、毎日が楽しくて充実していたから、生きている実感しか感じなかった。

 昔を思い出すようになったのは、発病して余命の宣告を受けてからだ。
残された者の哀しみを知っているからこそ、残してゆくものは少ないほうがいいと考えるようになった。

 オーウェンは仁の相棒として最後までそばにいてくれるだろうと、仁にはわかっていた。
そのオーウェンにさえ申し訳なく思っているのに、これ以上、ほかの誰かに相棒のような思いはさせたくない。

 時々、オーウェンはじっと仁を見つめて涙を流す。
その涙の意味に気付かない仁ではなかった。

 オーウェンと同じ哀しみを。
もしかするとそれ以上の哀しみを。
自分を好きだと言ってくれる相手にどうして残すことなどできるだろう。

 常に自分から切り離す。
それが、辛いのは自分だけではないとわかるからこその今までの仁の判断だったのに……。

──俺はずっと間違えてたのか?

 仁はふと思いついたように椅子から立ち上がると、第十一栽培室に足を向けた。

 リリアは大丈夫だ、と信じながら、今はただ、その姿を自分の目で確かめたかった。





 第十一栽培室ではリリアがスコップを振り上げて、土壌を攪拌(かくはん)していた。
額に真珠の粒のような汗を散りばめながら、懸命に大地にスコップを突き刺して、スカート姿だというのに足をスコップに乗せて体重をかけてさらに深く突く。

 最初に比べて大分慣れてきたのだろう。進み具合が早くなっていた。
思ったよりも早く攪拌作業は終わりそうだ。

 攪拌が終ると、リリアは仁のアドバイスにしたがって石灰を撒いた。手を真っ白にして、あたり一面に巻く。
そして、またスコップを持って、土壌をよくかき回した。

 一日寝かせたほうがいい、とオーウェンにでも言われたのか、リリアは石灰を混ぜ終わると、畑の中央に座り込んでじっと目を閉じてそのまま動かなくなった。

 何を考えているのだろう、と不思議に思いながら、仁はリリアの乳白色の姿をその黒い瞳でひたすら追い続ける。

 リリアはそのうち、すっと顔を上げると、スコップを倉庫に手際よく片付け始めた。
畑の端には拳ほどの石や以前植えてあった植物の根の塊が置いてある。
リリアは畑に戻って来ると、それらをすべて大きな廃棄袋に詰め入れた。

 リリアの一日目の作業はそうして終った。

 仁はリリアの仕事が終る前に資料室に戻ってきていた。
そして、第十一栽培室に行っていたことがばれないように、ガイダルシンガーの種の細胞データを引き出して、いかにもずっと自分はここで仕事をしていましたとばかりに体裁を繕った。

 だが、待てど暮らせど、リリアもオーウェンも一向に帰って来ない。

 どうしたのだろう、とむくりと不安が沸いた頃、まさにちょうどそこにリリアが戻ってきて、
「喉、からからぁ〜。う〜、チビ、何か飲物ちょうだいぃ〜」
しんと静まり返っていた資料室の中が一変した。
一気に陽が差し、眩しく輝いたような感覚に包まれる。

「花畑はどうした? 結構、進んだのか?」

 聞かずともわかっていることを仁はわざと尋ねた。

「久しぶりに身体を動かした感じよぉ、もう筋肉痛〜。身体中が痛ぃ〜」

 あとでマッサージしてよね、と女王様的発言をするリリアはどこまでもリリアで。

「おまえなあ、俺にそんなことさせんなよ! 按摩でもエステでもどこでも行きやがれっ!」

 そう言い返すのがいつもの自分らしいと仁は思った。

 これでいい。これでいいんだ、と自身に言い聞かせて、仁は昼食の用意をしに席を立つ。

 リリアに冷たい飲物を用意することも忘れずに、仁は、「大丈夫、これでいいんだ」を繰り返した。





 リリアの花畑はその後も順調に育っていった。

 一定の間隔をあけて種を蒔き、毎日欠かさず、リリアは畑一面に水を撒いた。

 仁が様子を見に通っているとは気づかないまま、リリアは午前中のほとんどを第十一栽培室で過ごした。

 種を蒔いてもすぐには芽が出ない。人の力でできることと言えば、肥料を与えることと水遣りくらいだ。
なのに、リリアはそれらすべて終わらせたあともその場から離れず、いつも畑の真ん中に座り込んで、目を閉じたまま何か考え事をしていた。

 じっと動かないリリアを見つめる時、仁は胸に小さな棘が刺さったような痛みを感じた。

 ピクリとも動かないリリアのその姿はいかにも幻想的な情景で、乳白色の髪や薄い色素の肌が今にも陽の光に透けてしまいそうに見える。
霧が出ているわけでもないのに、強化ガラスが張られた天井から、淡い色のカーテンのような陽光が差し込んで、
ほんのりとリリアの姿がぼやけて輝いている。

 淡い光を浴びたリリアは、まさに人の形をした白い光の塊のようだ。
手の届かない世界がまさにそこにあった。

 ある日、いつものように何気なく第十一栽培室に足を向けた仁は、そのじっとしているリリアを見止めて、思わず声を上げそうになった。

 リリアはいつものように畑の真ん中で目を閉じて、淡い陽光を浴びていた。
仁が驚いたのは、リリアが翼を拡げていたからだ。

 白い翼が陽に照れされて、ところどころ白金色に光って見えた。
その姿はとても神々しく、仁は昔、母に連れられ訪れた小さな教会に飾られていた宗教画を思い出した。

──よくぞ、まあ、名付けたもんだぜ。

 セリーア人の住む星を最初に「使徒星」と呼んだ者に尊敬の念すら覚えた。
それと同時に、どうしてそんな貴重種がここにいるのだろうかと、運命のイタズラを呪いたくなった。

 その存在を知らなければ、もっと楽な日々を過ごせただろうに。
知ってしまったら、人間の心は脆いから、つい手を伸ばしてしまいたくなる。
誰もが自分の想いのままに寄りかかってしまいたくなる。

 仁は、「マズイな」とひとりごちて、自然と漏れてしまう溜息を胸のうちに忍ばせた。

 畑に芽が出ると、リリアは一日中、第十一栽培室に籠るようになった。
それでも、何をするというわけでもなく、朝、水遣りを済ませると、いつものようにリリアはじっと目を閉じて、畑の中央で座り込んでいるだけだ。

 仁はどうにも気になって、ある時、食事をしに戻ってきたリリアに訊いてみた。

「ずっとあっちで何してんだ?」
「あっち? ああ、花畑のこと? えっとね、ずっとお話をしているの。
こちら側でも植物に話しかけると成長が早いって話を聞いたから、一応、試しているのよ。
そのお陰か、もう芽が出たのよ。早いでしょ?」

 リリアの態度は依然として変わらなかった。
仁が優しくしようが放っておこうが細かいことなどお構いなしに、ケンカを振れば同じだけ反発するし、仁が笑えばけらけらと笑い返してきた。
そして、普段はずっと第十一栽培室で過ごし、ヒマさえあれば新緑の小さな葉に話しかけている。

 リリアが何を話しかけているのか、仁は興味があって、第十一栽培室の集音機能を最大限に高めたこともあったのだが、結局、呟きひとつ聞こえなかった。

 リリアは精神感応力で語りかけているのかと思い、無礼とは知りながらも、聞き耳を立てたこともあった。
だが、α類テレパシー・コミュニケーションしか使えない仁にリリアの心の声を読み取ることはできなかった。

 リリアがβ類テレパシー・コミュニケーションで植物に話しかけているのだと気付いた時、仁は少なからずショックを受けた。

──突然、翼を見せられて驚きはしても、今までは胸が痛くなるなんてなかったのによ……。

 リリアの乳白色の髪や瞳は一目でセリーア人とわかる珍しい色彩をしている。
けれど、その特徴的な外見など、すでに仁には見慣れたもので。

 口を閉じてすましていれば誰もが振り返るような美少女で充分に通用するのに、がはは、と口を大きく開けて笑い、成人男子顔負けなほどの食欲(それも美食通)は、まるで美少女のきぐるみを着た豪快な男のそれ。

 けれど、どんなリリアでも、今まではいつだって仁が話しかければ、それなりの反応が返ってきた。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、拗ねたり。どんな時でも、いつだって言葉が通じるのだからわかり合えると確信していた。

 けれど、ここに来て、仁の胸に不安が巣くう。

 β類テレパシー・コミュニケーションで語られては、仁にはリリアの声が聞こえない。
リリアの望みも願いも苦しみも、何も理解してあげられない。

 わかり合えるなどと思ったのは仁の傲慢だったのかもしれない。
リリアはセリーア人で、あくまで地球人種ではない。

 翼を拡げたリリアが、胸の前に両手を組んでひたすら祈るように話しかける姿は、仁の黒い瞳に天使そのものに映った。

 誰もが望み、得がたいと思っている、希望が具体化したその存在。
眩暈がしそうなほどに焦がれる存在。

 なのに、その天使を、一度とはいえ袖にした男に、誰が聞こえないはずの神の声など聞かせるだろう?

 リリアは緑の絨毯に上で、ただひたすら神の言葉を紡いでいた。

「おい。何て言ってんだよ……。そんなんじゃ、俺にはわかんねえじゃねえかよ……」

 今、仁は初めて、リリアの存在をとても遠くに感じていた──。





 リリアが「絶対見ちゃダメよ」と口にしながらも、嬉しそうに花畑の成長を報告するようになって二週間が過ぎた。

 銀河標準時間で五月に入ったばかりのことだ。

「オーウェン。なあ、リリアが何の花を咲かそうとしているか知ってっか?」
「さあてね。リリアは後生大事に育ててるみたいだけど、どんな花が咲こうが、もうきみには関係ないだろう?
リリアに構うのはもうよしなさい、仁。きみはリリアの気持ちから逃げたんだから」

 オーウェンはいつにもなく長期にわたって仁に不満をぶつけていた。
一方、仁は仁で迷いながらも、オーウェンの言葉を無視してきた。

 常識のあるオーウェンから、「リリアから離れろ」と忠告を受けるたび、仁はリリアのいる花畑に行きたくなって困った。

 リリアから離れるのは寂しい。
それでも、いつかは手放さないといけないものなら、それは早いほうがいいに決まってる。

 なのに、心が揺れる。揺れてしまう。
もう少し、もう少しだけ、このままでいたいと願ってしまう。

 離れなければ、と自分に言い聞かせる中、実際、すでに一度は突き放したのだと思い知る。
そのくせ、姿が見えないと何かが足りなくて落ち着かない。

 だけど今は、花畑に行けば、祈るようにじっと目を閉じるリリアの姿が必ずあるから、そこに行けば、花畑にさえ行けば、
そこにリリアがいるから安心できる。

 行ってはいけないと思いながらも、つい足を向けてしまうのはそのせいだ。
いけない、と自己自制しようとしても、自分の気持ちが抑えられない。自分でも自分自身をどうにもできない。

 だが、そんな日々にもとうとう終止符が打たれる時がきた。
仁が花畑を覗こうとしても不可能になったのだ。
リリアが第十一栽培室周囲に念動力の防壁を張ったのだった。

 警備室で栽培室内の防犯カメラを確認しても何も写さない。集音マイクも何も拾わない。
扉は固く閉ざし、ひとり残らず例外もなく外部と遮断して、リリアは花畑を綺麗に隠してしまった。

「若作りっ、飯だぞ!」

 食事をしに栽培室から出てくるその時を狙えば扉の隙間から中が見れるかもしれないと淡い期待をこめて、仁がわざわざリリアを迎えに行っても、リリアは「はーい」と明るく応えて、振って沸いたように瞬間移動で仁の目の前に突如、ふらりと姿を現してくるから中の様子がまったくと言っていいほどわからない。

「お腹空いた〜。今日は何かしらぁ」

 仁の内心など露知らず、うきうき気分で足取り軽く調理室に向かうリリアに非はまったくない。そんなことは重々わかっている。
だが、わかってはいても、それでも仁の瞳にリリアのその無邪気さが小憎らしく映った。

──クソッ!

 燻るような苛立ちが、仁の心を占めてゆく。

「花畑はどうなってんだ?」
「やっと蕾がついたわ。もうびっくりよ、話しかけていると成長が早いの。
何となくコツがわかってきたからもう少しで咲くと思うわ。
そしたらあんたにも見せてあげるわね。だからもう少し楽しみに待ってて」

 そしてリリアはそっと唇に人差し指を立てて、
「これは秘密の花園なの。誰にも内緒よ」
鮮やかに微笑みながら、仁の目の前をひらりとスカートを翻(ひるがえ)して通り過ぎていった。

 まるで蝶のように捕まえようとすると逃げてしまう。
一度は向こうから寄ってきたのに、蝶は花から花へと移りゆく。

 それが蝶の本来の姿だと知ってはいても、仁は拳をきつく握り締めるしかなかった。

 手放すと決めたのは自分だった。
決別した蝶がどこのどんな花へ止まろうと、それは蝶のみが知ることだ。

 仁の胸の奥底で軋む音がだんだんと大きくなる。

 今にも捕まえられそうなほど近くに羽ばたく蝶は、何も考えずに花を求めて彷徨い舞う。

 執着するのが花畑だからまだ我慢できた。

 でも、もしそれが人間の男だったら……?

 見知らぬ男の胸に飛び込むリリアの姿を想像して、仁は胸元をぎゅっと掴んだ。

 大丈夫。俺は大丈夫だ。
いずれはこの痛みも必ずなくなる。
いずれ消えてしまうこの身なのだから──。

 そう、いつまでも自分自身に言い聞かせながら、蜘蛛の巣のような幾筋もの皺を胸に張りめぐらせた。





「よお、元気でやってるか? わかってんだろうな。おまえがくたばったりしたら俺の独壇場になっちまうぞ。
せいぜい気張ってくれよ」

 環境庁ELG派遣局からお客様がおいでです、と受付から連絡を受け取ったオーウェンがメインロビーに出向いてゆくと、そこには入庁同期のウィリアム・ボットナムの慣れ親しんだいかつい顔が待っていた。

 不揃いの無精髭が彼の顔を三分の一隠しているため、厚い唇がとにかく目立つ。
それ以上に、幅の広い額の真ん中にある大きな黒子が強い印象を彼の顔に与えていた。
ボットナムはオーウェンと同い年の五十一歳。
それでも、オーウェンと比べ、生え際がやや寂しいためか、いつもボットナムのほうが年上に見られた。

「もしかしてきみ、また逃げてきたのかい?」
「挨拶もなしにそれか。相変わらずまったく失礼な奴だな、おまえ」

 髪の色に近い焦げ茶の瞳がギロリとオーウェンの深緑の瞳を覗き込んだ。
その視線はとても鋭い。一般人なら、子供でなくてもびびって身体を縮めるところだろう。
まさに、額の黒子から受ける「仏」のイメージを綺麗に蹴散らす突き刺すような鋭さだった。

「仏被りの鬼」の異名を持つボットナムは、オーウェンの悪友にして自称ライバル。
ボットナムとオーウェンは双璧の出世株と並び称され、実際、数年前まで同じ時期に同じように出世してきた。

 ボットナムのほうが一歩先を歩む形となったのは、環境庁ELG派遣局の課長に就任した時点でのことだ。
現在、オーウェンは係長待遇のまま、研究職に就いているので、その差は今でも埋まっていない。

 それでも、ここに来て出世に遅れが生じたのだとしても、それがライバルの能力を侮る理由にはならないことを、ボットナム自身、よく理解していた。

 第一、オーウェンの出世が止まったのはすべて相良仁のせいだ、と常々ボットナムは考えている。

 長年の好敵手がここに来て朽ちてゆくのが忍びなくて、時間を作っては、「早く今のペアを解消してほかのELGと組み直せ」と忠告しに、技術開発生物研究所に足を向けるのだが、いまだ、いい返事をもらったためしがない。
昔から妙に人当たりのいいくせにオーウェンは頑固者で、その意思の強さは部下から鬼と恐れられているボットナムが手を焼くほどの強情さだった。

 仁が生きている限りは自分のピアスは彼のものだ、とオーウェンが豪語するのを耳にするたび、彼を説得するのは簡単ではないのだと思い知る。
実際、ボットナムはこの一年半の間、嫌と言うほど同じ言葉を聞かされてきた。

 片方が出世をしたからといって、ボットナムもオーウェンも、お互い気兼ねなどしなかった。
言いたいことを言って腹に溜めない。それを信条としていた。

 かつて、ボットナムは、オーウェンの人柄を他人に訊かれた時、「鏡のような男」と答えたことがある。
相手に合わせて態度を変える。そっくり同じものを映し出す。
その切り替わりは絶妙で、若い職員が笑顔で話しかければ好々爺の笑顔で返しながら、敵意を隠さず悪意を持ってやってくる輩には、どこの軍師かと思わせるような冷酷さを発揮する。
下心を隠し持つ相手には掴みきれない態度で接し、皮肉れた者にはのらりくらりと天邪鬼な口を叩く。

 敵に回して怖いのはこういう相手だとボットナムはつくづく思っていた。

 だが、相手に応じて態度を決める。この姿勢は、信用に値する人間に対してはそれ相当の信頼を示してくれることにほかならない。
腹を割って話せば、正直な応えが返ってくる。熱意も真剣さもぶつけた分だけ、同じだけ返ってくる。
ボットナムは知人にオーウェンのことを、味方ならばこれほど心強い男はいないと話して聞かせたこともあった。

 地上勤務に甘んじようとするオーウェンを惜しむ知友は、何もボットナムだけではなかった。
その一風変わった性格を気に入っているモノ好きは意外に多く、だが、そういう類の輩に限って常時銀河を駆け巡っているもので、たまに亜空間通信を出先から送ってくればいいほうだった。

 今、オーウェンが抱える問題は実は仁個人のことだけではない。オーウェン自身の健康問題も残されている。
気の知れた友人とはいえ、寿命に関する深厚な話題に触れて、「研究職などやめて本来の仕事に戻れ」と諌めの言葉をかけられる人間は数がしれる。
当のオーウェンはいつも同じ返事しか返さないから、当然、声をかける人間はひとりふたりと減っていく。

 ボットナムはオーウェン相手に何事も口うるさく言い放てる稀少の悪友とも言えた。
環境的にも付き合いの深さ的にも、今現在、直接オーウェン本人に言い寄れるのはボットナムくらいなものだろう。

「鏡のような男」と呼ばれるオーウェンが、その「鏡」を出さないトクベツな相手。それがボットナムであり、仁だった。

 ボットナムが顔を出すたび、一応、オーウェンは笑顔で迎えてくれる。
だが、本当に「一応」だった。
その深い緑の瞳が心から笑っていないのを、ボットナムはしっかり気づいていた。

 毎度毎度、ボットナムが怒鳴ろうが喚こうが、オーウェンはいつも揺るがず、言葉に棘を含ませて応酬してくる。
もちろん、一癖も二癖もある不敵な笑みも忘れずに。
ふたりは喧嘩友達とも言えた。

 それでも、どんな仕打ちをされてもボットナムがオーウェンに構うのには彼なりの理由があったのだった。
哀しいかな、ボットナムには、これほど馴れ合える友人がほかにいなかったのである。
中間職特有のストレスに始終悩ませられているボットナムにとって、相手の顔色を気にしないでいられる関係ほどありがたいものはないのだ。

 だが、今日はいつにも増して、オーウェンの機嫌はよろしくないらしい。

「派遣局の課長もヒマなもんだねえ。その無精髭もどうにかしたらどうなんだい? みっともないったらありゃしない。
これでよくまあ課長職についていられるこった」
「うるさい。この髭はわざと伸ばしているんだ。それにおまえなんぞに俺の苦労がわかってたまるかっ」

「あ、そう。だったら早く帰ったら? こんなところでウロチョロしてないでさ。
本当はやらなきゃならない仕事がたんまり溜まってるんだろう?
きみは意外と計画性が欠けているからねえ、詰めの甘さは命取りだよ?
どうせ、また外の空気が吸いたいとか言って逃げてきたんだろうけど、いくらここがELGご用達の研究所だからってそんなにしょっちゅう来るもんじゃないよ。
だいたい、課長は現場へ出ずに指示するのが仕事なんだからね? 
まったく、その年になってそんなこともわからないなんて、ホント情けないねえ」

 課長という役職に就いてしまうとペアは自動的に解消となり、現場から引き上げなくてはならなくなる。
それも、オーウェンが昇級試験から逃げている理由のひとつだった。

「ウルサイ、ウルサイ、ウルサーイッ」

「仏被りの鬼」も昔馴染みには形無しである。
オーウェンには女房との馴れ初めも筒抜けだし、若気の至りで手痛い目にあってきたオンナ遊びの実態もしっかり握られている。
脛を持つ身は肩身が狭い。口達者のオーウェンに口では勝てない理由などそこかしこに転がりすぎてて、ボットナムには不利すぎた。
オーウェンの弱みをひとつも掴めずにいるから反撃の余地もない。

 とはいえ、ボットナムもこれまで大人しく言いなりになっていたわけではない。
「これもそれも離婚経験があるにも関わらず、おまえの私生活が綺麗すぎるからいけないんだ。
男の片隅にも置けないヤツだ」と八つ当たりしながら、ひとつでも弱みさえ掴めればこれ幸いと、策を弄(ろう)したことも幾度かあった。
「少しは出会いを求めてみたらどうだ。その年でヤモメ暮らしは辛いだろう」と、お気に入りの店に連れて行ったことも一度や二度ではない。
艶かく灯るネオンの店のドアをくぐった途端に、きらびやかな女の子たちが寄って来て、
「あ〜ら、ボットちゃんったら、お友達を連れてきてくれたの? 嬉し〜い。さあさ、こちらへどうぞ」
「いやあねえ、今日もこんなところにお豆がついちゃってるわ。ボットちゃんったら、しょうがないわね〜。
いつものように食べてあ・げ・る。じっとしててね〜」
案の定、そんなこんなでいい気持ちにしてくれて。
オーウェンの隣りにも、店一番のかわいこちゃんが座ってくれたから、これはシメタと思っていたのに。
「ほお、今でもこんなところに通っているのか。相変わらずだな、きみは。奥方はきみの寄り道先を知っているのかな?」と、鼻の下を伸ばしたオーウェンを見られるどころか、逆に更なる弱みを握られてしまって、結局、散々な夜となってしまった。
ボットナム、一生の不覚である。

「ところで、本当におまえは大丈夫なんだろうな? まさか発病などしておるまいな?」
「心配してくれるのか?」

「誰がするか。おまえみたいなのはだいたいにして世にはばかるもんだからな」
「何だそれは。私は憎まれっ子か?」

 ボットナムには信じきれないだろうが、実はオーウェンにとってもボットナムは憎みきれない友人だった。
優秀なクセして自分に対しては隙を見せるところがまたカワイイ、がオーウェンの見解で、「逃避」を口実に使いながらも、こうして自分の身を案じて職場まで様子を見にきてくれる友人の気持ちは正直、本当にありがたかった。

「先日の検査でも異常なかったよ。お陰さまでまだ大丈夫のようだ」
「そうか。で、あいつのほうはどうなんだ? もう一年過ぎただろ?」

 仁の話題になるとボットナムもさすがに苦々しい顔になった。
仁が嫌いなわけではないが、オーウェンの足を引っ張るのが許せない。

「一生現場で楽しみたい」ともっともな理由を連ねるオーウェンだったが、本当のところ、オーウェンが課長職の就任試験を受けない最大の原因は仁にあることなど明らかだった。

 オーウェンが心から笑わなくなったのは、仁が発病してからだとボットナムは記憶している。

「今のところは大丈夫そうだよ。顔を見てゆくかい?
実はさ、最近、仁とやりあっててね。少し気まずいんだよ」

 仁とオーウェンは親子ほどに年の離れたペアのくせに親友のように仲がよかった。

 偶然、一ヶ月前、ボットナムはふたりが一緒に買い物しているところを見かけたのだが、その時も、仁といる時のオーウェンは、ボットナムといる時と違い、昔のように朗らかに笑っていた。
始終笑顔のふたりの親密な様子に、ボットナムは複雑な心境を味わったのをしっかり覚えている。

 そのふたりがケンカしていると聞いて、ボットナムの頬が思わず緩んだ。

「ほれほれ、そういうことならペア解消するのにいい機会じゃないか」
「そういうんじゃないよ。これは親しき仲だからこその忠告が起こした結果なだけさ。
私のパートナーは仁なんだからね。いいかい? 余計なことしないでくれよ。
もしもの時はきみの家庭を崩壊に追い込んでやるからね?
きみの余罪は腐るほどあるってこと忘れずに」

「ふん。口出すつもりなら覚悟を見せろとでも言うのか? まったく、こいつのどこが好々爺だ?
『人のいいオーウェン・レトマン』なんて聞いて呆れるぞ」

 オーウェンの「優しい」という評判を耳にするたび、何だいそりゃ、とボットナムはぼやきたくなる。

「現役を離れたくない気持ちはわからないでもないがな。いい加減、おまえも先のことを考えろよ」

 管理職にならなくてもいい、とヒラのELGで満足するオーウェンは、確かにいつも楽しそうに毎日を過ごしているようにボットナムには見える。
先に出世した自分に何の感慨も焦りも抱いていないのが少し悔しい。

 そんなオーウェンの平穏を見ていると、ボットナムは得たものも大きいが失ったものも大きかったのだと思わざるを得なかった。
正直なところ、今もふたり一組で行動している同期の友人を羨ましく思う気持ちを拭えない。

 とはいえ、男としてどこまでやれるか、行けるところまで昇ってみたいと思う気持ちもボットナムには強くあった。

「それで、原因は何だ? あの男のことだからな。
どうせ口は災いの元、あいつが言った言葉が許せなかったんだろう?」

 それは当たらずも遠からずだった。

「いいトコ突いてるねえ。相変わらず勘がいい。けど、仁が一方的に悪いわけじゃないから困るんだよ。
これは私の我がままなのかもしれないしね……。
仁に私が望む幸せを押し付けているだけなのかもしれないって思えてしまうところもあるから始末が悪いんだ。
良し悪しなんて、はっきりとした答えなどないのに。ホント、人の心は難しいね」

 ボットナムもオーウェンのパートナーである相良仁のことはよく知っていたから、ふたりの事情を知る者として、仁が言いそうなことは何となく察しがついた。

「もしかして……、あいつ、またオンナを振ったのか……」

 仁のこの手の話は初めてではない。だから、ボットナムも簡単に当てることができた。

「そいつはいつものことだろう? かわいそうだがこれも奴のポリシーなんだ。
俺も仁の気持ちがわからないわけでもないからな。
こればかりはおまえの肩ばかりを持つわけにはいかないな」

 この点に関してはボットナムは仁よりの見解だった。
女性の純情を弄ぶような振り方とは次元が違う。
仁の期限付きの余命を考えば、彼の行動には拍手を贈りたくなるほどだ。

「けど、今度の相手は特別なんだ。おそらく、仁にとって最後のチャンスになるだろう。
だって、あの仁が……、仁がなびいてるんだよ?
こんなことは今までなかった。彼女は仁に負けないくらい勇ましいんだ。
仁でなくてもあれは強烈な印象だ。私はね、ウィリアム、おそらくこれが仁の最後の恋だと思うんだ。
だから、彼女には悪いけど、仁の残り少ない人生をずっと支えてもらいたいと願ってしまう。
一緒にいれば哀しみが深くなるとはわかっていても、仁には彼女が必要なんだとどうしてもそう思えて仕方がないんだよ」

 だが、それはおまえの望みだけあって、奴の気持ちとは違うかもしれんだろう、とボットナムは言おうとしたのだが。
代わりに自分の口から出ていたのは素っ頓狂な裏返った声だった。

「うわっ、ちょっと何をするっ……! 俺にはそんな趣味はないぞ!」

 突然、オーウェンが気味悪いくらいの朗らかな笑顔を浮かべて、ボットナムの手を握り締めてきたものだからうろたえた、すわ天変地異が起きたのかと血の気が引く。

 だが、次の瞬間、初めて聞く鈴を転がしたようなかわいらしい女の子の声が頭の中に鮮明に響いてきたので、ボットナムはあんぐりと開いていた口を咄嗟に閉じて押し黙った。

 ましてや、黙って聞けといかにもオーウェンの顔が語っている。
そこからことの成り行きを読めば、今、ボットナムがすべきことは限られていた。
心鎮めて意識を「声」に集中する。それが得策だった。

(……本気なのかい? リリアは本当にそれでいいのかい?)
(どうして迷うことがあるの? わたしはもう決めたのよ。
だからお願い、オーウェン、これからすぐに用意してくれる?)

 かつて現役時代に、ボットナムもよく使っていた精神感応力。
それが、これ以上ないってほど明瞭な声となって頭の中に響いていた。

 それにしても、と疑問に思う。
ELGを束ねる派遣局の課長としての知識が「おかしい」と叫んでいた。
周囲を見渡しても、誰も声に反応していない。ELGが多く勤めるこの研究所である。
当然、精神感応力が使える者が多くいるはずだった。

 考えられることはただひとつ。
どうやら、この声は自分たちにしか聞こえていないらしい。

 通常の精神感応力は一定の距離までの同心円状内の周囲に発信される。
だが、自分が聞いている声はオーウェンを介さなければ聞こえない類(たぐい)のようだ。
オーウェンがボットナムの手を握ることで直接接触をはかり、先方の声を媒介しているらしい。

 オーウェンの顔をちらと見る。
スポットされた声を媒介するなんて他人に聞かせるとは何て奴だと感心する。
同時に、これだけの能力を持ちながらこんな場所に燻っているとは、とますます知己(ちき)の現状に口惜しさが滲んだ。
仁の小生意気な顔を思い浮かべて、ボットナムは思わず舌打ちした。

(わかったよ。それでさっきの件だけど、ここにちょうど適任者がひとりいるんだ。
私の古い友人なんだけど、彼も一応、ELGでね。今は派遣局の課長をしてるんだ)
(人選はあなたにお願いするわ。けれどお願い、口の固い人にして。
あなたの推薦なら信用できる人とは思うけど……)

(わかってる、その点は大丈夫だよ。何なら話をしてみるかい?
今、きみの声を彼も聞いているところだから。名前はウィリアム・ボットナム。私と同じ年の男だよ)
(今、接触しているの? ……ボットナムさん? リリアです。このたびはお世話になります。
オーウェンがあとから説明してくれると思いますが、どうぞ何を見ても誰にも話さないと約束してください。
もしもお約束を守っていただけない場合は、わたしなりのお礼をさせていただきますから。
必ず約束は守ってくださいね。それではオーウェン、そちらは頼んだわ。
わたしは最後の仕上げをしなくっちゃ)

(了解。リリアも頑張って)
(もちろんよ。待ってなさい。絶対、モノにしてみせるから。それじゃあね、オーウェン)

 ボットナムは呆気にとられた。
自分の知る限り、既存のELGの中に彼女のような声の持ち主はいないはず……。
となれば、つまりは掘り出し物となるわけで。

「彼女、きみだけをスポットしてきたのか? すごいな、ピカイチだ。
これほどの精神感応力ならELGにだってなれるぞ」

 さすがにELG派遣部を束ねる男は目の付けどころが違っていた。
だが、喜ぶ悪友の忠勇な心根にオーウェンは気力なく笑うことしかできない。
その「女の子」の正体を知った時の、「仏被りの鬼」が度肝を抜かすのを想像するのは至極たやすかった。

「とにかく、私はちょっと出かけることになったから。
頼むから、きみは私が戻るまで絶対ここにいてくれよ、ウィリアム。
きみの力が必要なんだ。ただし、彼女が言ったとおり、これから起こることは絶対秘密にしてくれ。
言っとくけど、約束不履行の際には私だってきみの安全は保障しかねるからね」
「怖いな。いったい何が起こるってんだ?」

「すぐにわかるさ。それじゃ、とにかく行ってくる」

 オーウェンがそそくさと早足で出かけるのを見届けると、手持ち無沙汰なボットナムはとりあえず喫茶室で待つことにして、メニューも見ずに珈琲を頼んだ。
すぐに運ばれてきた熱いカップに、ミルクをたっぷり入れて豪快に混ぜる。

「確か、リリアと言ったか? リリア、リリア……。どこかで聞いた名だな」

 そして、カップに口をつけた途端、一瞬閃いた考えに、ボットナムは、「あ!」と大きく叫ぶのだった。
あまりの驚きに勢いで身体を引いてしまったため、椅子ごと後方に転げ落ちる。

「熱ッ! アチッ。クソっ!」

 アチチ、アチチ、と珈琲に濡れた手を振りながら、「まさか、あのリリアか!?」とひとりごちて、周囲の冷たい視線を浴びつつ気まずい雰囲気の中、席に座りなおしてお手拭で何度も手を拭った。

 オーウェンが急いで取りに行ったモノの重要性を考えると、悠長に珈琲を飲む気分になどもうなれない。

 こりゃとんでもない相手と約束をしてしまったもんだ、とボットナムがリリアの言葉を反芻しだした時、
(私だ。もうすぐ戻る。今、どこだい?)
オーウェンから特定人物にスポットを当てた連絡が入って、喫茶室だとボットナムは応えた。

 子供のようにドキドキと心臓が鳴り響いている。近頃では滅多にないことだった。

 セリーア人と会うのはボットナムの長年の夢だった。

 そして、それは今、もうすぐ叶えられようとしていた。





 その頃、リリアは第十一栽培室でハサミを片手に花を摘んでいた。
一本一本、白い蕾の花を、茎の長さを長めに切ってゆく作業を繰り返す。

 リリアはオーガンジー風のスカートをひらりひらりと揺らして、花から花へと蝶のように移っては白い蕾を摘んでいった。

(チビ……。チビ……、お願い、花畑に来て。もうすぐ花が咲くわ)

 リリアに呼ばれて仁が第十一栽培室を訪れた時、ここ最近の固い防御が嘘のように簡単に中に入ることができた。

 栽培室の中央のリリアの花畑だけが彩り鮮やかな緑と白の世界を創りだしている。
子供の拳ほどの大きさの、元気に育った白い蕾をひとつひとつずつ大切に摘むリリアの姿は、今日も天から差し込む陽光を浴びて白く輝いていた。
それはは仁の瞳に眩しく映った。

 しゃがみながら作業をしているせいでせっかくの綺麗な薄地の白いスカートの裾が泥まみれになっていた。

 久しぶりに栽培室に入った仁は、その花畑の緑の葉の多さにも驚いた。
リリアの白いスカートがその葉と葉の間を移りゆくたび、ギザギザの葉が元気よく揺れている。
大きく育った白い蕾は、萼(がく)に向かってだんだんと薄赤紫を彩って、リリアの腕に誇らしげに抱かれていた。

 すでにもう、彼女の左腕には重そうなほどにたくさんの花が摘まれている。
見渡せば、花畑にほどんど蕾が残っていない。
リリアはひとつ残らず花を摘んでしまうつもりらしい。

「若作り、これはいったい……」

 仁がやってきたことに気付くと、
「ああ、来たわね。もう少しだから、ちょっと待ってて」
リリアはふわりとスカートを翻(ひるがえ)してにこやかに微笑み返すと、再び作業に戻っていった。

 残り十数本ほどを切り終えて、およそ百本はあろうかという白い蕾の茎をひとまとめにしてリボンで括る。

 直系十センチメートル強ほどの太い花束を抱き上げて、
「いい香りがするわよ」
花に顔を近づけると、リリアは仁に差し出した。

「おい、まさか、これ……」

 すべての蕾を切り取られてしまった元花畑には、ギザギザの葉だけが残されている。

 リリアの腕の中の白い蕾に、仁には心当たりがありすぎるほどあった。
だが、これほど大きな蕾は見たことがない。けれど、この蕾も葉も見間違える仁ではなかった。

「おまえ、ガイダルシンガーを育ててたんか……?」

 今にも咲きそうなほど大きく成長したたくさんの白い蕾が、今、仁とリリアのふたりの間でわずかに首を傾げている。

「せっかく咲きそうなくらい育てたのに。おまえ、どうして切っちまったんだよ……」

 もしかしたら咲くかもしれなかったのに、と仁はとても残念そうに大きく膨らんだ白い蕾を見つめた。

 だけど、望んだ花束をやっと手にすることができたリリアは、まったく後悔などしていないらしい。
仁の正面にまっすぐ立つと、すっと真剣な視線をただひとりの男に投げかけて、突然、突拍子もないことを言い出した。

「ねえ、チビ、わたしはあんたが好きよ。わたしはあんたと一緒に空を翔びたいわ。どう?」
「……は?」

 仁は思わず聞き違いかと耳を疑った。

「チビ、わたしと空を翔んでくれる?」

 どうやら聞き違いではないらしい。だが、リリアのこの台詞は大問題だった。

「ちょ、ちょっと待て。おまえ、正気か?」

 これで白い翼を大きく拡げていたら、それこそこの言葉は尋常ではない意味を持ってしまう。
翼を拡げて、一緒に空を翔(と)ぼうと誘うのはセリーア人にとって正式な求愛行為に他ならない。
セリーア人の貴重さは、ELGならば誰でも骨身に染みるほど知っている。

「あんただって、わたしのこと好きでしょう?」

 個人の問題で済ますには、あまりにも稀少すぎるその存在。

 ましてや、仁は爆弾を抱えている身の上だった。

「おまえ、他人(ひと)の話をちゃんと聞いてたのかよ。俺はキライじゃないっつったんだ。
それによ。俺はたぶん、あと四年ももたねえんだぜ? 運が悪けりゃ二年後にはお陀仏だ。
そんな先の短い男をからかうヒマがあったら、もっと健康なヤツをたぶらかして来いよ。この前もそう言ったろ?」

 仁はいつだってすでに決められている現実だけを口にしてきた。
夢も希望もない、ただの世知辛い自然の摂理しか言わない。
それはまるで台本に書かれている決まり文句のようで。
いつもの言葉、いつもの別れ。結果はいつも同じなのに、今回はいつもよりほろ苦い。

 今までと同じように言っているだけなのに、どうしてこんなに苦く感じるのだろう。

「ほかの男なんて関係ないわ。わたしはあんたがいいって言ってんのよ?」
「だーかーらぁ、俺は残りみじけえっつってんじゃねえか。五十になると耳も悪くなんのか? え?」

「あんたこそ、何もわかっちゃいないわねっ。
ねえ、チビ、あんたまさか、わたしがセリーア人だってこと忘れたわけじゃないでしょう?」
「そりゃあ、ご立派な翼を一度ならずも見せ付けられちゃあセリーア人じゃねえとは言えねえな」

「だったら、知ってるでしょう?
セリーア人の平均寿命は四百歳。順調に行けば、わたしはあと三百五十年くらい生きるのよ?
仮にほかの地球人種の男を選んだところで、わたしが残されることに違いはないの。
それだったらわたしは、それなりに好きな男と百年一緒に暮らすより、一番好きな人と二年だけでも四六時中、一緒にいるほうがいい。
どうせ先に逝かれるのなら、わたしはあんたと一緒になりたいわ」

 仁はまさかそんなことを言われるとは思わなかった。
今までは、「健康な男を捜せ。もっと長い時間、一緒にいられるような男を見つけて幸せになれ」と言えば、相手は素直に頷いて、おとなしく去って行ったものなのだ。

 どうせ先に逝かれるのなんて決まってるのよ、なんて強気で返してくるオンナなどひとりとしていなかった。

「ついで言われてもらえれば、わたしはあんた以外の地球人種の男なんかいらないの」

 いつもの言葉、いつもの別れ。それでよかったはずなのに。

 先に逝かれて当然、とばかりに胸を張られたら、何て言ったらいいのかわからない。
何か言おうにも言葉が喉に詰まってしまって、結局、何も言い返せない。

「チビ、お願いよ。あんたの残りの時間をわたしにちょうだい。後悔なんかさせないわ。
わたしね、あんたの家族になって、あんたを幸せにしてあげるって決めたのよ。
ちゃんとあんたの子供を生んで、あんたが死んだあとも立派に育ててみせるから。
そしたらあんたは本当の家族を手に入れられる。
わたしはあんたに似たかわいい赤ちゃんがほしいのよ」

 一緒に暮らそうと言いながら、ひとり残されることを前提に話すリリアは本当に強い。

「とにかく早く生んであんたの顔を覚えさせなきゃ。何しろ時間が足りないんですもの」
「馬鹿じゃねえのか、おまえ。その見事な若作り振りならほかのどんな男だって落とせるだろうに」

 その強さに惹かれてしまう。
まずいまずいと思いながらも、つい寄りかかりたくなってしまう。

「オトコなんてあんたひとりで充分よ。相手がセリーア人の男だって同じ。
わたしはあんたとわたしたちの子供の面倒を見るだけで精一杯。
ほかの男はそこらの女に任せとけばいいわ」

 あんたがいいのよ、と繰り返すリリアのその執拗さが、泣きじゃくったあの日のリリアに重なって見える。

「ふたり一緒にいられる間はずっとわたしがあんたを連れて翔んであげる。
だから、わたしと一緒に翔びましょう。わたしはあんた以外の男に一緒に翔ぼうなんて言わないわ。
あんただけよ。わたしが連れて翔びたのは」

 仁はこれまで家族がほしいと本気で願ったことなど一度もなかった。

 なのに、どうしてリリアの言葉にこんなにも惹かれてしまうのだろうか。

 一緒にいられる時間が少ないことを承知の上で、どうしてリリアはこれほど凛としながら、自分に向かって「好きよ」なんて言えるのだろう。

 一緒にいたら。一緒になってしまったら。
もう二度と離れたくないと無理な望みを抱いてしまうに決まっている。
別れがますます辛くなって、刻まれる哀しみもより深くなってしまうだろうに。

 望みを抱けば辛くなるだけだと諦め続けてきたくせに、今更、そばにおきたいと願ってしまってもいいのだろうか。

「もしも……。
もしも、俺が健康体であと百年生きられるとしても、おまえは今と同じような言葉でもって、俺を口説き落とそうとすんのかなぁ」

 リリアにとっては二年も百年も同じことなのかもしれない。
一番大切なことは誰と一緒に過ごしたいか。ただ、大切なのはそれだけなのかもしれない。

 仁は一度俯いて、しばらくしてから勢いよく顔を上げ、リリアに真面目に向き直った。

「ひとつだけ条件がある」
「条件?」

「ああ。俺の横に並ぶ時は三センチ以上のハイヒールを履くな」

 ふたり並んで生きてゆくのなら、一緒に肩を並べて歩いてゆきたい。

 死がふたりを別つまで。

「それが守られるのなら俺も覚悟を決めてやる。
おまえとだったらこの先の生涯、絶対飽きることねえだろうから、俺もおまえに決めてやる」

 仁は胸を張って、リリアに「どうだ?」と笑って尋ねた。

 リリアはにっこりと微笑んで、
「そんなの簡単だわ」
即座に靴を脱ぎ捨てて、明後日の方向にぽいっと勢いよく放り投げた。

 そして、仁ただひとりを求めるように、大きく腕を広げてたたずんだ。

「チビ、わたしからは近づかないわ。あんたからキスするのよ。
ねえ、覚えてる? あんたが言ったのよ? 自分から近づくのは好きな人だけだって」

 惚れた相手にしか近づかないし、口説かない。
仁の信念がそうであるからこそ、仁からのキスはリリアが望む証しとなりえた。

「好きよ、チビ。さあ、キスをして」

 仁は、何てオンナなのだろう、とつくづく呆れた。
仁自身に確証を求め、逃げ道をすべて塞いでこの先ずっと逃げられなくする。
リリアは仁のすべてを受け止めるつもりでいる。まさに仁の人生までも飲み込もうとしていた。

「参ったな……」

 どこまでも強くてしなやかで揺るぎない。こんなオンナにはこの先二度と会えないだろう。
これでは仁が観念するしかないではないか。

「俺の完敗だ」

 仁は大きく一歩前に出て、リリアとの距離を一気に縮めた。

 リリアの腕の中の「歌姫」が仁とリリアの胸の狭間でカサリと音を立てて「苦しい」と喚く。

 邪魔だな。その仁の囁く声に、リリアが静かに目を閉じた。

 リリアのその穏やかな表情は、仁が求めて止まなかった、花畑の中にじっと目を閉じて祈るあの時のと同じもので。

 この手にしたくて。この手にしてはいけないと思っていたモノ。
それが今、自分を求めて再び手を差し伸べている。

 求めてもいいのだと、その手にしてもいいのだと。リリアの唇が仁を誘っている。

 同じ視線のその柔らかそうな身体をきつく抱き締めて、細い肩に顔を埋めたら、この胸の乾きも少しは潤せるだろうか。

「大丈夫」といつもオーウェンに応えながら、本当に言いきかせていたのは誰にだった?

「大丈夫」だなんて強がりだ。
だからなのか、今まで一度も仁の「大丈夫」はりリアには通じなかった。

 仁はもうリリアの前で嘘をつく必要などない。
誤魔化しなど無意味だった。

 天使の華奢な身体をかき抱いて、仁は囁く。

「俺、おまえのことずっと気に入ってた」

 古来より、天使は地上の男を魅了するものと決まっている。
だが、本当に天使をその手に抱き締めた男は果たして何人存在するだろう。

「おまえのこと、俺、どうやら好きみたいだ……」
「馬鹿ね、そんなのずっと前からわかってたわよ……」

「俺だって。おまえが俺のこと好きなことくらい、そんなのずっとわかってたさ。
だから……今度はナイフなんか飛ばすなよ?」

 強く、強くリリアを抱き締めて。
仁は想いのすべてをぶつけるかのように口付けた。

 唇を嘗めるように触れ合って。
大切なものをその腕にぎゅっと抱いて。

 思いっきり本気の熱いキスをした。

「大好きよ、チビ」
「おまえ、あんましスキスキ言うな。オフザケに聞こえるじゃねえか」

 天使は傷ついた心を見つけるのがとてもうまい。

「なら、もう言わないわ。その代わり、こうしていつでも抱き締めてあげる」

 いつだって本当は、こうして誰かに抱き締めてもらいたかったのかもしれない。
「天使」という名の幸せを掴んだ男の涙が天使の首筋にぽたりと落ちる。

「あんただけを抱き締めて、ずっと一緒に生きてあげるわ」

 男は黙って天使の抱擁を素直に受けた。
男は天使に逆らえない。

 そうして、天使は地上の男に恋をして。

 この瞬間、天使は自ら地に堕ちた……。





「それじゃあ、これから結婚式を挙げましょう」

 げっ、と呻いた声が仁の口から思わず漏れた。

「まさか、今からかっ!?」
「そうよ、今すぐ。何か問題でもあるの?」

 ウソだろー、と思いっきり嫌そうな顔をしても、すでにリリアの尻に敷かれている仁に拒否権などない。

「もう証人も揃えてるわ。婚姻届ももらってきてあるし」

 そう言ってリリアが立会いをしてくれるというふたりを精神感応力で呼ぶと、待ってました、とばかりに満面の笑みを浮かべるオーウェンともうひとり──仁の見知った顔が入ってきた。

「ボ、ボットナム課長……? マジかよー」

 ELG派遣局課長「仏被りの鬼」の困惑顔を見つけて、仁は思いっきりばつが悪い顔をした。

「チビ」

 何となく気恥ずかしくていたたまれない気持ちでいる仁を、リリアがいつにもなく甘い声で呼ぶ。

 仁が振り返ると、リリアがぱさりと白い翼を大きく拡げた。

「結婚式が終ったら一緒に翔びましょね」

 思いっきり正式なプロポーズをリリアにされて、わずかに顔を赤らめた仁は、もう観念するしかないかと人生最大の覚悟を決めた。

「毒を食らうなら皿まで、かよ……」

 そんな仁の覚悟を祝したのか、リリアの心意気に感服したのか。
翼の羽音に「歌姫」が揺れて、ゆっくりと百の蕾が花開く。

 一番最初に咲いた一本をリリアはブーケからすう、と抜き取ると、仁の胸元に綺麗に飾って、
「はいっ、これで立派な新郎のできあがりよっ」
リリアは威勢良く、仁の背中をポンと叩いた。

 生物学者の夢の花をこんなことに使ってしまってもいいんだろうか、と本気で困惑しながら、仁は立会い人のふたりに救いを求めてみたが、その花の価値を充分に知る彼らも唖然としてしまってまともな返事を返せる様子ではない。

「わかってるわね? これは内緒よ」

 リリアが口元に人差し指を立てて、先手を打って、「約束したわよね?」と男たちに念を押しさえしなければ、今すぐ喜び勇んで環境庁に報告しに行っていたことだろう。

 相手が見た目そのままのただの美少女ならば、彼らも完全無視を決め込んだだろうが、ここにいるのは銀河連邦軍の誇る護衛艦さえも通れないあの回廊を渡ってくるセリーア人だ。
簡単に怒らせていい相手ではない。

 一般人よりわずかながらでもセリーア人という貴重な存在と出会う確率が高いELGは、セリーア人に関する知識も多少持ち合わせているものだ。
当然、ボットナムも然りとなる。

 が、それはともかく、この場合、セリーア人という人種の特性そのものよりも、一個人の性格が問題だった。
普段のリリアの気性を考えれば、本気で怒る姿を軽く想像するだけでも恐ろしい。
とても、彼女との約束を破る勇気など涌きそうにないというのがオーウェンの本音だった。

 だいたい、世の女性にとって「気合を入れて当然」の大切な結婚式がこれからはじまるところなのである。
この場面で、どうして波風たてられようか。
女の晴れ舞台にケチをつけるには三倍返しの覚悟がいる。いや、まだ三倍で片がつくなら御の字と言えよう。
いかにも幸せそうな微笑みを浮かべる新婦の「ご機嫌」と宇宙平和を永続するためにも、ここは厳粛に式に臨む以外にない。
それは経験豊富なELGたちの英断だった。

 ただし、これだけは教えてくれ、と三人の男たちは口を揃えて懇願した。

「どうやってガイダルシンガーを咲かせたんだ? 何かトクベツな秘訣があるのか?」

 リリアは愛し子を愛しむかのように「歌姫」を胸に抱きながら、男たちに説明した。

「この花はね。使徒星では雑草のようなもので、そこらへんに好き勝手に咲いてるの。
それでわたし、思ったのよ。
もしかしたら今まで『歌姫』は咲きたくても咲けなかったんじゃないのかしらって。
使徒星にあってこちらにはない何か……その欠ける何かを補えすれば、こちら側でも咲くかもしれないってね」

 ガイダルシンガーは使徒星でしか生息しない草花である。
使徒星にあって銀河連邦側にないものなど、使徒星の環境を知らない地球人種たちに見つけられるはずがなかった。
地球人種の生物学者たちがこぞって長年悩んだところで、咲かすことなど最初から無理だったのだ。

「それに思い出したのよ。
使徒星にはセリーア人以外の種族もいるんだけど、彼らの居住地区にはこの花はあまり咲いていないのよね。
それにこの花、あなたたちには聞こえないでしょうけど、今もほら、ちゃんと歌ってる。
だから、わたしたちの言葉で話しかけてみたの。そしたらどお? すごく元気に育ったじゃない?
それにね、育ててみてわかったんだけど、この花、わたしが翼を拡げるとますます早く育つのよ。
だから、セリーア人自身が開花の鍵だとわかったの」

 リリアはそう言って、ガイダルシンガーの一重の白い花びらを指の背で撫でた。

「歌姫」の小さな白い鳥を象(かたど)ったおしべが、リリアの腕の中で揺れるたびに青い球型のめしべの柱頭に白い花粉をつける。
三人の男たちは歓極まりながら、青い星のまわりを五羽の白い鳥が翔び回る「歌姫」の花を目に焼き付けた。

 ところが、男たちがもっと「歌姫」の優美な花を堪能しようと身を乗り出したその時。
突然、リリアが、「そうだったわっ! わたし、大事なこと忘れてたっ!」と急に慌てた声を出し、あたふたと落ち着きなく視線を彷徨わせたので、男たちもつられて、何事かと不思議そうに互いの顔を見合わせた。

「どうしよう、これ、こちら側ではすぐ枯れちゃうんだったわっ。こんな悠長なことしてらんないじゃない。
さっ、早く式を挙げるわよっ! いいことっ、こっちじゃこの花、十分ともたないって話なんですからねっ!」

 さっさとおし、と三人の男を急かせるセリーア人の新婦はものすごく強い。
ブーケが枯れては花嫁の名が廃(すた)る、とわけのわからないことを叫びながら、リリアは必死の形相で式を仕切った。

「オーウェン、あなた立会いするの初めてじゃないんでしょ! 経験者ならちゃんと進行してってばっ。
ほら、もう時間がないじゃない。こうなったら三分で終らしてよ、三分でっ!
チビ、あんたわたしを好きでしょ? さあ、早く誓いなさいっ!
あー、もう一分経っちゃったじゃないの。さっさと言ってったらっ、もお!」

 誓いの言葉を無理矢理新郎に誓わせて、新郎の一連の責務を全うさせようとする。

 ついでに立会人のひとりである「仏被りの鬼」に向かってぴしゃりと言って、
「そこのあんたっ! ちんたら書いてんじゃないわよっ。五十も過ぎててまともな字も書けないの!」
もっと綺麗な字を書きなさい、と叱咤しつつも急かしては、
「『この婚姻届、字が読めません』なんてことで受理してもらえなかったらすべてあんたのせいよ!」
熱血国語教師顔負けの指導力を発揮する花嫁リリアに逆らえる男はその場にはひとりとして存在しなかった。

「いいか、結婚式に関しては女に絶対逆らうな。
逆らったら最後、棺おけの中まで死ぬほど愚痴を詰め込まれるぞ」

 ほかにもさまざまな苦言を連ねて、結婚式というものは女性のためだけに存在するという世間一般的見解を、仁にじっくり言いきかせたいところだったが、時間がないと騒ぐリリアの前でそんなことに時間を要しようものなら、何百年と恨まれることはほぼ確実だったので、元既婚者オーウェンと現既婚者ボットナムは早々に諦めた。

 代わりにふたりは人生の先輩からのありがたい助言として、
「結婚とは我慢の連続だ。よく覚えとけ」
短いながらもぎっしりと重みの詰まった言葉を贈ることで新郎の健闘を祈ることにした。

「我慢ねえ。俺、ホントにやってけんのか……?」

 仁は人生の先輩たちの苦労を察して思わず結婚という未知なる世界に大きな不安を感じたのだが。

「大好きよ、これであんたはわたしのものだわ」

 再び「好き」を繰り返してにっこりと幸せそうに微笑むリリアに、「やっぱりヤ〜メタ」などとはとても言えなかった。
ここでそんなことを口にしようものなら、絶対、この惑星そのものが無事では済まされない。
一瞬、本気で仁は案じた。

 それに、とにかくこの花嫁ときたら滅茶苦茶かわいいし、すごく綺麗な女の子なのである。
今はにこにこと機嫌よく笑ってくれているから、ますます美少女ぶりが輝いている。

──恐ろしさを秘めたところが、これまた怖いも見たさの興味が涌くし……ってか?

 とはいえ、ここは仁の人生の一大事。

「やっぱ、早まっちまったかなあ、俺……」
「今更もう手遅れだよ、仁」

 オーウェンの手には、あとは提出するだけの婚姻届が握られていた。

 仁の口から、はあ、と溜息がひとつ、自然と零れた。
今後、何か問題が起きたら立会ってくれたこの証人ふたりを絶対引きずり込んでやる、と心に誓いつつ。

「仕方ねえな。こいつに付き合えんのは俺ぐれえのようだしなあ」

 自分自身の意思でもって、一部の男たちに「人生の墓場」と言われている世界の入り口に、こうして仁は足を踏み入れたのだった。

「おまえは偉い! 男のカガミだ!」

 仁の自己犠牲に賞賛の拍手を贈って結婚を祝う年輩のELGの笑顔が引きつっているように見えるのは気のせいだろうか。

「頑張れ、仁っ。何事も経験だよっ!」

 かつてその経験で苦い思いをしたオーウェンがこれまた勝手なことを言っている。

「これからが大変だぞ」

 ボットナムの脅し文句に仁はビビリながらも、干し乾いてひび割れていた心がしっとりと潤んで癒されてゆくのを感じていた。
どこかさっぱりとした気分がとても気持ちいい。
とにもかくにも、「おめでとう」の祝辞を浴びて、仁は満更でもない笑顔で、「ありがとよ」とふたりの証人に頭を下げた。

 式の最後に、リリアはブーケをオーウェンに預けると、
「さ、行くわよ。チビ」
仁の身体をふわりと抱き締めた。

 りリアに突然抱きつかれ、仁が、「うわっ」と大きな声を上げた瞬間、ふたりの身体が宙に浮かぶ。

「おまえなっ、行くってどこに行くつもりなんだよっ!」
「決まってるわ。これで晴れて夫婦になったのよ。することはひとつじゃない!」

 あんたのせいで早く赤ちゃんを作らなくちゃならないんだから、と恥ずかしげもなく胸を張って断言する新婦に、
「赤ちゃんって……マジかよ……」
天使を娶った男は真っ赤な顔をして今日、幾度目かの天を仰いだ。

 その間にも、リリアのブーケの「歌姫」は次々に萎びてはじめ、一気に茶色に変色しだしている。
花びらがぽろぽろ崩れて落ちてゆくさまは見事なほどに素早くて、まるで録画映像を早回しで見ているようだとオーウェンは思った。

「オーウェン、『歌姫』の種は全部わたしのものですからねっ。絶対、ネコババしないでよっ!」

 そんな新婦にあるまじき言葉を放つと、第十一栽培室の強化ガラスの天井まで一気に羽ばたいて、リリアは仁を連れて翔び去った。

 ふたりの姿が遠くに消え、第十一栽培室には三百粒の「歌姫」の種子とふたりのELGだけが残される。

「なあ、オーウェン」
「ん? 何だい?」

「セリーア人ってのは全部が全部、あんなんじゃないよな?」

 セリーア人と出会う機会をずっと夢見てきた男は、憧憬と現実のギャップに苦しみながらも、いずれはきっと慈愛に満ちた心根の優しい天使に会えるはずだとあくまでも夢見ることを諦めずに、これからも強く生きていこうとあらためて決心していた。

「仁、どうか幸せに……」
「せいぜい頑張れよ……」

 天使を娶った男のこの先の人生の哀歓を想って、ふたりは空に向かっておのおの呟く。

 仁に限らず、結婚という扉を開けた者ならば、誰しもの上に同じ受難が平等に与えられることを経験者たちは知っていた。

 自分と異なる他人と暮らす、その難しさ。
だが、苦しみや哀しみを分かち合い、乗り越えてゆくためにふたりが寄り添い、喜びをともに噛み締めるためにふたりともにあるのだから。

「何事も努力と忍耐。やっぱりこういう経験って人間一度はするべきだよね」
「……結婚を経験で済ませようとするおまえを俺は尊敬するぞ、オーウェン」

 ふたりは互いに笑みを交わした。

 花嫁と花婿が去った今、現実の厳しさを語ったところで誰も聞く者などいやしない。

 幸せに酔いしれてばかりもいられない未来を背負ったふたりの、遠く小さな姿を目で追いながら、できうる限りたくさんの穏やかな時間を見つけてほしいとボットナムとオーウェンは願わずにいられなかった。
 
 願わくば、ふたりともにある幸せが一分一秒でも長く続きますように。
祈りを捧げるかのように、再び空を仰ぐ。

 全開の可動式天井に青々と広がる空は雲ひとつなく晴れていた。

 その後、生物学者の夢の花園は、一枚の婚姻届のみを残してただの枯れ地と変わり果て、秘密の花園で執り行われた婚儀はこうしてひとまず幕を閉じた──。



illustration * えみこ



えみこのおまけ




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