きみが片翼 -You're my better half- vol.7



休日開けの朝一番、仁は大荷物を抱えて出勤した。

「オーウェンっ。あの迷惑オンナ、どこにいやがるっ!?」

 ドンッと荷物を机に置くと、二十歳以上も年の離れた目上のオーウェンに向かって、「お茶をくれっ」と偉そうにふんぞり返る仁はツワモノである。

 だが、十年来の相棒のデカイ態度など、オーウェンにとっては日頃のことで、
「いったいどうしたんだい。それに、その大きな風呂敷……」
何かあったのだろうかと、いかにも不機嫌そのものの仁の顔を心配そうに覗き込みながら、実際のところ、彼の好奇心はしっかり風呂敷に向いていた。

 そもそも風呂敷の中からほのかにいい匂いがしてくるからいけないのだ。
気になってしまうのは人情というものだろう。

「んん? コレは鳥の照り焼きだね? そうだろう? いやぁ、照り焼きとは久しぶりだねえ。
ニンニクの、この食欲をそそる匂いがまたたまらないよ。
仁自慢の甘辛醤油タレに漬けたアレは絶品だからねえ。
……って、もしかして、これ、朝から作ったのかい?」

 オーウェンは、風呂敷の大きさからして中には重箱が隠されているに違いないと睨んでいた。
もしかしてどころか、今朝作ったばかりとしか考えられないその出来立てほやほやのいい匂いに、今にもゆらゆらと吸い寄せられてしまいそうになる。

 この弁当への力の入れ具合には感心しきりだ。
仁の力作にありつけるとは今日はなんて素晴らしいんだ、と数時間後のランチを脳裏に描いて、オーウェンの胸は高鳴った。

「ったくよぉ。俺はなあ、何も作りたくてこれを作ったんじゃねえんだよっ!
あの若作りのヤツ、一昨日の夕方、ふらっと帰ってきたと思ったら、『夕飯、作っといて』って言ったっきり、またふらりと出て行きやがってよぉ。
そんで夜遅くに帰ってきて、今度は俺が風呂に入っている間にまた消えやがった。
それから朝方またふらりと戻ってきて、『お弁当、お願いね』とか何とか言いたいことだけ言いやがって。
そしたら朝メシ食って出て行ったきり、これまた夜まで戻ってきやしねえし」

 オーウェンは、仁のこの二日間の話を「ふむふむ」と頷きながら聞いていた。

 これではまるで仕事中毒のダンナを持つ主婦の愚痴を聞いているようだ。
そんなことを思ったとしても、さすがにそれは言葉にはしない。
こういうところは、はやり年の功である。

 沈黙すべきところにはしっかり口の堅さを発揮して、
「それは大変だったねえ。それで今朝もお弁当作ってきたのかい?」
苦労が絶えないねえ、と仁の肩を叩いて、やんわりと慰めてやる。

 伊達に長年付き合っていない。十年も女房役をしてきたのだ。
仁の扱いには慣れたものだった。

「極め付けに、だ。あンの若作り、ここんとこずっと瞬間移動を使ってどこぞに出かけやがって。
そんな目立つことするなんて信じらんねえったらありゃしねえよ。
あいつ、何してやがるんだ。ッたく、こんなに気を揉ませやがって」

 ふらりと出かけてふらりと帰ってくる。
そんな行動ですらリリアにしては珍しいことなのに、帰って来る時はいつもボロボロに疲れ果てているから、仁も心配になるのだと言う。

 もともと仁をいう男はさりげない気配りをする男だ。
それは彼の料理を見ればすぐわかる。
温かいものを温かいうちにおいしく食べてもらいたいを願う彼は、常に食べる人の笑顔を想像して作っている。

 そんな仁だからこそ、案じる想いが深いほど言葉もきつくなるのだろう。

「疲れてんならゆっくり寝りゃあいいだろうによっ!
夜中も昼間同様、いつの間にか抜け出して。今朝なんてな、日の出前っくらいに戻ってくるんだぜ?
こんなことしてて疲れなんぞ取れるわきゃねえだろう?」

 リリアのためにやむなく空けておいた寝台は、昨日の朝、仁が目を覚ました時はもぬけの殻だった。
なのに五分後、仁が洗面所から戻ってみると、死んだように眠りこけるリリアが寝台にいたりする。

 翼を拡げたまま爆睡する姿を見るたびに、「何やってんだ、こいつわ」と呆れてしまう。

「このオンナ、こんなとこで襲われでもしたらどうすんだよ。ったくよぉ……」

 無意識に剥いでしまう毛布を肩までかけてやりながら、仁は昨日、何度も深い溜息をついたのだった。

 リリアの行動はいつだって仁には突拍子すぎて、到底理解できない。
理解しようとして理解しきれないものほど気になってしまうからほとほと困る。

 たとえば、仁が食料品の買い出しから帰ってきた時のことだ。
誰もいないはずの部屋の中に、あるはずもない大きな羽根がなぜか床に落ちていた。

「あいつ、来てたのか……?」

 仁は手慰みにその白い羽根を指で摘んで、クルクルと回してみた。

「来るなら来るってちゃんと言えってんだ……」

 リリアは仁の留守中に戻ってきて、仁が戻る前にまたどこかに行ってしまったらしい。
せめてどうしてあともう少し待っていられないのかと、乳白色の淡い姿を想って仁はふと寂しくなった。

「クソッ! あの身勝手オンナ……。少しくらい連絡入れろってんだっ!」

 なぜか自分だけ置き去りにされたような気分を味わされているようで、それがすごく悔しかった。

 仁が重箱に弁当を詰めて来たのは、今朝、精神感応力でリリアに叩き起こされたからだ。

(朝ご飯、食べに行けそうもないの。お願いっ、お弁当作ってきてっ!)

 研究所で会いましょう、と勝手にα類テレパシー・コミュニケーションをブチ切りされた上、
(鳥の照り焼き食べたい〜、照り焼きがぁ〜、食ぁーべぇーたぁーいぃ〜)
そんな呪いの呪文のように何度も繰り返して、「食べたい食べたい」を頭の中で語りかけてくるから、
(うるせえっ。そんなン知るか!)
完全無視して狸寝入りしてやる、のその決心も、
(……くっそ、どうしてこの俺がっ!)
そんなふうに呆気なく崩れてしまうことになる。

(作ってくれなかったら末代まで恨んでやるぅ。
あの世まで追いかけて、恨みつらみを並べ立ててやるわよっ)

 実は仁は食べ物の恨みの恐ろしさを心底知っている男だった。

 ELGは、そこがどれほど僻地だろうが、行きたくないといくら愚痴ろうが、任務遂行のためにはどこへなりとも行かねばならない。
その場所にしか生息しない生物を求めて、ひたすら宇宙を飛び回る。
そして、出張先での待遇はピンキリで、それなりに発展した文化とおいしい食事がいつも必ず用意されているとは限らないのだった。
保存食でしのいだ日々も多い。
栄養価を重視した保存食の味気ないことといったらそれは酷いもので、食材と道具さえあれば自分で作るのに、と何度思ったことか。
仁にはそういう経験が数限りなくあった。

(わかった。あとでちゃんと作ってやっから。とにかく今は、俺を安らかに眠らせてくれ)

 死んだあとまであんなオンナに祟られでもしたら堪らない。
日頃のセリーア人特有の食への探求心を知っているだけに、その恨みの深さが想像できて、思わず冷や汗がつう、と背中に流れ落ちた。

 眠気も一気に吹っ飛んで、仁は諦めの境地で台所に立ったのだった。

 そして、大きな風呂敷を抱えて研究所にやって来る道すがら、あのリリアのことだから、ここに来ればきっと弁当に飛びついてくるに違いない、と仁はそんなことを考えていた。
弁当を作ってきてくれ、と頼んできたのはリリアだし、あの食い意地の張ったセリーア人が朝食抜きの状態で食べ物を前にして、「おあずけ」を我慢するとは到底思えなかったからだ。

 だが実際は、リリアは弁当目掛けてやってくるどころか、いつの間にか三人の待ち合わせ場所になりつつある資料室にいつまで経っても姿を見せようとしない。

 具合でも悪いのだろうか。あの元気いっぱいの爆裂娘が?
ふいに浮かんだそんな仮定を頭の隅から追い払う。

 仁は、ずずず、とお茶を口に含んだ。
何をするわけでもなく、テーブルをトントンと指先で叩く。
あのウルサイ声や乳白色の色彩が身近にないと、どうにも落ち着かなかった。

 仰ぎ見ると、そこには自分の血液を固めた赤いピアスが見えた。

「オーウェン、あの若作り、マジ何やってんだ?」

 すると、片耳に仁の紅玉のピアスを飾る相棒のほうは至って普通で、その平然とした穏和な表情でもって、じっと自分を見つめている。

 何も大事など起きてはいない。
いかにもそれは事も無げなさまで、そんな毅然としたオーウェンを目にしてしまうと、特別なイラつきを覚えてる仁のほうがどうやらオカシイ感じがしてますます落ち着かなくなった。

 香り豊かな玄米茶はとても熱かった。
その熱さが、仁の熱くなった頭を最初うちこそ余計にカァッと熱くしたが、そのうち頭がすっきりしていくのがわかった。

 だからだろうか。

「リリアなら第五栽培室だよ。一昨日からずっと籠ってるみたいだね。
私もちょっと心配になってさっき見に行ったんだけど、なぜだか中に入れないんだよねぇ……」

 オーウェンの言葉もすんなり理性的に聞くことができた。

「あン? 一昨日から? 中に入れない?」
「そうなんだ。だから、どうしようかと迷ったんだけどね、やっぱりここは仁が来るのを待とうと思って。
こうして資料室で待ってたんだよ」

「つまりあいつはこの二日間、うちと第五栽培室を往復してたってのか?」
「どうやらそうみたいだねぇ」

 リリアが何か植物を栽培しているという話は聞いていない。
「歌姫」の研究でも、実際の栽培作業は仁とオーウェンが担当しているのだ。

「まったくあいつわっ、人騒がせな!」

 仁は即座に部屋を出て行こうとした。
その仁の背中に向かって、オーウェンが咄嗟に声を掛ける。

「えっ? 今から行くのかい?」
「俺に弁当を作らせといて、ありがとうの一言も言えねえヤツに一口たりともやってたまるかっ!」

 そうして、仁とオーウェンのふたりはリリアがいるはずの第五栽培室に足を向けた。
特に仁のそれは駆け出さないのが不思議なほど速いものとなっていたので、オーウェンは追いつくのが大変だった。

「ったく、若作りのやつ。あんなところで何やってやがるってんだっ!」

 仁の頭に再び熱が灯る。
案じるがゆえの焦りが怒りとなって熱くなる。

 どうしてリリア相手だとこんなにも心が大きく波立つのか。
仁は深く考えないまま、今はとにかくリリアを捕まえて、文句のひとつでも投げつけたかった。

 いつものように仁が食ってかかれば、リリアも「何よ、別にいいじゃないっ」と言い返す。
そうあるべきなんだ、と小さく呟きながら、仁は一心に第五栽培室を目指した。

 その先にいるリリアを求めて、ただひたすら前を向いて、仁は心を馳せたのだった──。





「何だこりゃ……」

 確かに第五栽培室には、オーウェンが言っていたように中に入ることができなかった。

「さっきもこんな状態でね。リリア、本当にいるのかな?」

 ふたりの前には第五栽培室の扉があった。
それもちゃんと開かれた扉が。

 だが、どうしても中に入れずにいた。
理由は、びっしりところ狭しとばかりに第五栽培室をいばらが充満していたからだ。

 扉を開けた途端、いばらのくねりくねった蔓(つる)が仁の目の前に網目模様の壁となって行く手を立ちはだかっている。
蔓についている葉はどこか苺のそれに似ていた。
だが、くるりとねじれた若い蔓はいかにも葡萄そっくりだった。

「こんな植物、俺は知らねえぞ?」

 植物学者である仁が、心もとなく、オーウェンを振り返った。

「私だって見たことないよ」

 オーウェンの意見も同様だった。

 仁は蔓の隙間から手を差し伸べて一枚、葉をむしってみた。

「やっぱり、苺のヤツにそっくりだ」

 だが、まさか苺がこんな匍匐(ほふく)性の、それも高木になるとは考えられない。

「どうなってんだ? こりゃ……」

 それに第五栽培室はこの間まで空き菜園だったはずなのだ。
こんなに成長した植物が存在していること自体がおかしかった。

「おい、若作りっ! 中にいンのかよっ! いるならいるってちゃんと返事しろっ!」

 幾重にも重なった蔓のせいで、暗くて栽培室の中はよく見えない。
それでも、淡い木漏れ日がずっと先に見えた。
陽光がガラス張りの天上から差し込んでいるらしい。
それは葉の隙間から漏れる光でわかった。

 そこはまるで鬱蒼と茂った森の中にいるかのような、そんな錯覚を覚えるほどのたくさんの植物で満ちていた。

 どうにもこれではリリアの姿を確認できそうにない。

「おいっ、いるのか、いないのかっ。返事しろっつってんだろっ!」

 返事がなければ当然誰もいないことになる。
そんなことは仁も重々わかっていた。
だが、なぜかリリアは必ず中にいるような予感がして、このまま諦めたらいけない気がした。

 だから、返って来ない返事をしばらく待ったのち、
「オーウェン、こうなったらレーザーナイフを使って突破するぞっ!」
仁はとうとう荒業でもって中に押し入ろうと言い出した。

「蔓を切り裂きながら進むってのかい?」

 仁が、「そうだ」と大きく頷く。

「わかった。なら、私はこれからレーザーソードを持ってくるよ。そっちのほうが役に立ちそうだ」

 今来た廊下を走り戻ってゆくオーウェンの背をちらりと見送ってから、再び蔓に向き合うと、
「俺を甘く見んじゃねぇっ!」
腰から小型ナイフを取り出して、仁はレーザー光を照らすと、目の前の蔓を、「せいのっ!」と一気に切り裂いた。

 左右にレーザーナイフを振り回しながら、人ひとり分が通れる道をひたすら作ってゆく。
まるで獣道だった。
軽く直径二センチはある蔓は、ナイフをもった右手を仁が振り回すたび、ばさりばさりと垂れ下がり、時には仁の身体を鞭打った。

「もう少し、か……?」

 第五栽培室の中央目掛けて先を進む仁の頬を、切り落とした勢いで葉が掠る。

「痛ッてえなっ! こんにゃろう! こいつ、よくもやりやがったなっ」

 二倍返しだ、と、蔓というより枝に近い太い茎を蹴りで返して恨みを晴らすと、今度は仁の頭や肩にぽとりぽとりと実のようなものが突如上から落ちてくる。

「うわあっ! な、何だってんだ……?」

 赤い実は見慣れた苺そのものだった。
だが、その大きさは親指ほどの普通の苺とは程遠い。
それは両手でちょうど覆えるほどの大きさをしていて、まるで夏みかん、もしくはグレープフルーツ並みの大きさがあった。
まったく尋常ではない。
試しに匂いを嗅いでみた、市販で売られている苺とそっくりだった。

 熟れてやわらかくなっているからよかったものの、まだ若いこんなものが上からどぼどぼ落ちてきたらそれこそ凶器である。
こいつ、どこから落ちてきたんだ、と仰いでみれば、仁の頭上にはまだたくさんの赤い実がなっている。
それも鈴生(すずな)り状態で。

「ンげっ! おいおい、これじゃあ、まるでバナナか葡萄じゃねえか……」

 そこにあるのは、まさに幼稚園児が描いた絵のようなデタラメな果物だった。

 苺でありながら夏みかんほどに大きい。
その巨大な苺が葡萄のように群集して実っている。

──あれが落ちてきたら痛えだろうなあ。

 とりあえず仁はその場を離れようと目の前の蔓をそそくさと切って、頭を守りながら先に進んだ。

 網目のようないばらの防壁からやっと抜けると、ぽっかりと綺麗に穴が空いたような空間に出た。
どうやらいばらは第五栽培室の壁を伝わって伸びたらしい。

 栽培室のその中央空間には、菜の花に似た花が一面に咲いていた。
緑地の黄色い花模様の絨毯が敷き詰められているようにに見える。
だが、その菜の花もどきは菜の花ではなく、近くに寄るとそれがスミレほどの大きさしかないことに気づく。
まるで白詰草畑にレモンイエローの絵の具を撒き散らしたようだ、と仁は思った。

 その黄色い花畑の真ん中に、埋もれるように乳白色の長い髪が拡がっている。
リリアが大地を抱き締めるように、うつぶせに寝転んでいたのだった。

「よう、偉く派手なことしてくれるじゃねえか」

 仁がカサリと音を立てながらリリアに近づくと、リリアの身体がピクンを動いた。

 むくりと起き上がったセリーア人は力なく座り込んで、ずっと俯いたまま。
乱れた乳白色の長い髪がリリアの表情を隠していた。

「まったく、何やってんだ、おまえはよっ」

 一歩一歩、ゆっくりとリリアのそばに近寄ると、最後にリリアの目線と同じ高さに肩膝を立てて仁は腰を落とした。

「こんな化けモン、どうしたんだ?」

 仁の言葉にまたピクン、とリリアの肩が揺れ動く。

「……しよ……思ったの」

 リリアの声はあまりにも小さくて。

「あ? 聞こえねえよ」

 仁は、「はっきりわかるように言ってくれ」と、リリアにもっと近づいた。

 だが、リリアの表情が見えるところまで寄った途端、仁は驚いて、瞬間、身を引く。

「おまえ……泣いてンのか……?」

 ぽたり、と落ちた雫は、ちょうどリリアの手の甲の上に落ちた。

 大きな水滴だったせいか、落ちて跳ねた雫が仁のところまで飛んでくる。

 そしてそれは一粒だけではなかった。
びしょ濡れに睫を濡らして、大きな両の目から留まることなく涙を流している。

「わたし、医療能力者だったらよかった。そしたら、あんたを治せたかもしれないのに……」

 この二日間、リリアは念動力で遺伝子操作の実験をしていたのだと語った。

 リリアは頭に詰め込めるだけ遺伝子についての猛勉強をし、何度も実験を繰り返して、思い通りに生物を作り出せるかどうか、ずっと試していたのだと言う。
動物を使うのは怖かったから、まずは植物で試そうと思ったらしい。

 だが、いくらリリアが黙識族出身でレベル八の能力を持っていたとしても、微々たる力配分を可能とする医療能力と遺伝子学の深い知識なしに成功など見込めない。

 試行錯誤の末、掴み取ろうとしたものは、もともと銀河連邦側にある技術ではない。
詰め込める知識もこちら側ではたかが知れていた。

 だとしても、セリーア人の医療能力者からちゃんとした指導を受けられないとしても、リリアは諦めるわけにいかなかった。
遺伝子操作が自由自在に操れれば、仁の病気も治せるかもしれない。
希望の光を手放さないように、必死に頑張るしかなかった。

 だから、リリアにできることは、ただひたすら実験を繰り返すことだけで……。

 だが、結果はこの通り。
リリアには植物でさえ思うように作れなかった。

 思い描いた植物とはまったく異なるモノが生まれてしまうこの現実。
リリアは自分が何をしているのかわからなくなってしまった。

 自分はなんと、そら恐ろしいことをしようとしているのか。
リリアの心に新たな不安が生まれ、根付いていった。

 もしも、仁の身体で失敗してしまったら?
治すつもりで、仁ではない別のものを生み出してしまったら?
チャンスは一度だけなのに。
もし失敗したら、ただひとりしかいない仁を永遠に失うことになってしまう。
どうしよう。どうしよう……。

 植物でさえ一度もうまく操作できないのに、人の身体を遺伝子レベルで治療する自信などあるわけない。
綺麗な花や甘い果物が作れても、それだけではどうしようもない。
イメージ通りの遺伝子操作ができなければ、何の意味もなかった。
さもなければ作り出したものは、まさに化け物になってしまう。

「嫌なの。わたし、あんたがいなくなるのはどうしても嫌なの……」

 ぽたぽたぽた、と零れる涙は宝石のように綺麗だと仁は思った。

「だけど、わたしじゃ治せないの……。悔しいけど、できないの。どうしたらいい? ねえ、チビ……」

 絶対、嫌なの、と繰り返すリリアは恥ずかしげもなく、仁に縋るように泣くじゃくる。
何度も鼻をすすって手の甲で涙を拭きながら、それでも零れ落ちる涙は拭いきれなくて、頬を伝わった涙はぽたぽたと流れ落ちた。

 淡いピンクのワンピースは緑の染みをいくつもつけている。きっと草の汁だろう。
乳白色の長い髪には、黄色い花びらや萎(しな)びれた葉が絡んでいた。
よく見ると、リリアの手は真っ赤に染まって、まるで苺を潰したような汚れ具合になっていた。

「おまえが努力してくれたってのは……、おまえのその姿を見れば誰でもわかるさ。……ありがとな。
けど、もう気にするな。誰だっていつかは死ぬんだ。
生きとし生けるものならば、生まれた時から死に向かって生きてるもんなんだぜ。
セリーア人のおまえだって例外じゃねえよ。それが何百年先のことだろうが、おまえだっていずれ死ぬ。
俺の場合はそれが他人(ひと)より少しみじけぇだけだ。これは誰もがいずれは通る道なんだよ。
それが早いか遅いかの違いがあるだけで、逃れることなんざ誰もできやしねぇんだ。
生きた時間の長さも大切かもしれねえ。けどよ、生きてる間に何をするかのほうが大事だろ?
たとえばだ、俺がいなくなってもスカモンは残る。数十年後にはスーパーで安売りされているかもしンねえ。
俺が生み出したスカモンがこの先みんなに受け入れられて、そこにあるのが普通になってるのってすげえと思わねえか?
俺はいなくなっても、ずっとスカモンは残ってゆくんだ」

 仁はリリアの頬をそっと両手で包み込むと、涙の跡を無造作に袖口で拭った。

「ほら、もう泣くな。おまえは泣いているより怒ってるほうがおまえらしいぜ、若作り」

 乱暴なのに優しい仕種。
それこそが、泣かない仁の代わりに泣くオーウェンの涙を拭う時の仁の癖なのだとリリアは知らない。

 掴みたくて掴めない仁の声に、リリアはそっと目を閉じて、また涙を流した。

 何度も拭い取ってくれるその優しさに、いつまでも浸っていたい。
この時間が一秒でも続いてほしいから、リリアはどうしても目を開けることができなかった。

「まあ、一番はやっぱり笑ってる顔がいいけどよ」

 仁は、「死は誰の上にもいずれ訪れるもの」だと言う。
けれど、それでもリリアは仁を失うのは嫌だった。
だから、「嫌なの」を繰り返して、肩を震わして泣き続けた。

 嫌なの。あんたがいなくなるのは嫌なの。
どうしてこんな目に合うのがあんたじゃないといけないの?
誰にでも平等に死が訪れるというのなら、それはずっと先でもいいでしょう? 百年先でもいいはずよ。

 地球人種の平均寿命は百三十歳。仁の人生ははそれよりも百年も短い。

 いつか訪れるその日なんて永遠に来なければいい、と願いながら、リリアはいつまでもさめざめと泣いた。

 絶対、失いたくないものなど、実はそれほど多くはない。
なのに、遠くない未来、リリアの指の隙間から零れ落ちてしまうものは唯一無二のもので。
その代わりなどこの世界にありはしないのだ。

 絶対なくしたくないものなのに。消えてしまう。いなくなってしまう。

「……ねえ」
「ん?」

「あんたのこと、もっと教えて。何でもいいの。話して聞かせて」

 リリアは涙声で仁に頼んだ。

「聞かせてっつってもよぉ。俺のことなんて聞いても全ッ然、おもしろくねえぞ?」

 仁はそう言ってまた逃げようとしたのだが、リリアが何度も「お願いよ」と繰り返して、余りにもしおらしく言ってくるので、「どうせつまんねえぞ?」と言いながらも、ぽつりぽつりと語りだした。

 まず、リリアはどうして仁がELGになったのかを聞きたがった。

「ああ、そりゃ従兄の影響だな。俺、コスモ・アカデミーに入る前は伯父さんちで世話になっててさ。
そこの兄ちゃんがELG志望だったわけよ」

 この話をしたら長いぜ、と笑うと、仁は両親の話をしはじめた。

「俺の親父は軍医だったんだ。そんで、俺のおふくろってのが結構いいとこのお嬢さんで。
最初、おふくろの父親、つまり俺の爺さんはどこの馬の骨とも言えない男になんぞ大事な娘をやってたまるかっつって、お嬢さんとの付き合いを認めてくださいって言ってきた親父を門前払いしたんだってよ。
どうしても娘がほしけりゃ医者か弁護士になって出直して来いってわざと付け加えてさ。
俺の親父があまり裕福な育ちじゃないってこと知った上で爺さんはそんなことを言ったんだろうが……。
やっぱさ、医者になるにしろ弁護士になるにしろ、その手の職業に就くには本人の努力のほかにも先立つものがまずは必要じゃねえ?
いくら医学部や法学部に受かったところで学費が払えなきゃ大学には入れねえし。
爺さんにしてみれば、これで諦めるだろうって思って言ったんだろうが、親父は親父でおふくろを手に入れるのに死に物狂いだったようでさあ。
考えたもんだよな、親父のやつ。連邦軍の士官学校の医学部に入ったんだよ。
士官学校の場合は卒業後、数年間、従軍責務を全うすれば全額学費はタダだかんな。
それで親父は約束通り、医者になっておふくろと結婚したわけだ」

 医学部の場合、学費が高い分、ほかの学部に比べて従軍期間が八年と長かった。

 仁の父は学費返済のために軍医として一生懸命に働いた。
戦場ではいつだって医者や看護士が不足している。
結婚してからも滅多に家に帰って来ない父だった。

 その仁の父が怪我をして戦場離脱することになった。仁が五歳の時だった。
母が父のことが心配だからと、父が入院している病院まで迎えに行くと言い出し、現地の治安が悪かったため、仁の身を案じて別行動をとるように言い残して母は出かけて行った。
予定では、宇宙港近くのその病院で母は父と合流し、そのままふたり一緒に出国して、その後の療養先で落ち合うことになっていた。

「宇宙港とか医療施設とか福祉施設ってのは本来、非戦闘区域になっててよ。
最前線だろうが、絶対の中立区域だって決まってるもんなんだ。
なのに、この世には信じられないアホがいてな。
プロの戦闘機乗りが何をとちりやがったのか、敵軍基地と間違えて誤射したんだ。
そりゃあ、一発でドッカーン、さ。一瞬で、病人も怪我人も医者も、何もかも建物ごとブチ壊しちまった」

 仁の軍嫌いはその頃からと言っても過言ではない。

 そうして、戦争孤児となった仁は親戚をたらい回しされた末、母方の伯父に引き取られることになったのだった。

「伯父さんって人がさ、爺さんの跡を継いで料亭を営んでて。そいつがこれまた老舗の料亭でよ。
伯父さんとこには息子と娘がひとりずついて。
特に上の兄ちゃんは爺さんや伯父さんから、おまえが跡継ぎだって期待されてて、三つの頃から板前修業させられてたんだ。
なまじ兄ちゃんに料理の才があったから、その期待もますます大きくなっちまったみたいでさ。
ホントは兄ちゃん、料理人よりなりたいモンがあったのになあ……」

 リリアは仁が何を言いたいのか、やっとわかった。

「その従兄のお兄さんはELGになりたかったのね……?」
「ああ。兄ちゃんは何をさせても器用で、その上、努力家でよ。勉強のほうも成績よかったんだぜ。
だから、コスモ・アカデミーにも十中八九受かるだろうって言われてた。
そんでもな、ELGの卵であるゴールドカード保持者になるには、学科だけ点取れても駄目なんだよ。
ELGになるための最低条件っておまえ、知ってっか?
ELGってのは精神感応力がなけりゃなれねえんだよ」

 実は仁の従兄は夢を諦めきれず、家族に黙ったまま、α類テレパシー・コミュニケーションの適性検査を一度受けたことがあったのだった。
だが、結果は散々だった。

 仁がそれを知ったのは、仁自身が適性検査にパスした時だった。
従兄が仁に話して聞かせたのだった。

『おまえの親父さんって、意外と由緒ある家系の出なのかもしれないね』

 精神感応力の才能は遺伝性だと言われている。
仁の母方の血筋にはその才には恵まれていなかった。だが、仁の父方は違ったのだ。

「俺の親父の親戚には、神社の宮司してるのとかがいてさ。
あ、誤解すんなよ。すっげーちっちゃくて、風が吹いたら砕けちまいそうなくらいボロっちい神社なんだぜ。
まあ、そんで、昔っから普通のヤツより勘が冴えてたり、占いが当たったり。
ちっとばかり変わった人間を輩出してた家系らしいんだわ。
俺、その従兄の兄ちゃんの影響ってすっげー受けてたから。
俺も純情だったっつーか、影響受けやすかったっつーか。
兄ちゃんが夢見たELGに、やっぱり俺も憧れてさあ。
『仁なら受かるかもしれないぞ』っておだてられたのもあって。
最初は医者志望だったんだけど、ダメもとで適正検査を受けたんだな、これが。
そしたらよー、見事、受かっちまって。俺もたまげたけど、兄ちゃんはもっとたまげてたなぁ」

 伯父夫婦も祖父もそれなりに仁をかわいがってくれたが、料亭を営む家には住み込みの職人や女中も多く、人の出入りも激しかったので、一般家庭の団欒というものはほとんどなかった。

「兄ちゃんが、おまえが羨ましいって言った時、俺、すごく気まずかった。マジに、悪いなって俺、思った。
ELGになりたかったのは本当は兄ちゃんで、俺は兄ちゃんの背中を見て憧れたクチだから。
兄ちゃんは、そうだな……、まるで籠の中の鳥みてぇだった。
小さい頃から板前になるよう望まれて、そういうふうに育てられててよ。
なのに、俺は自由で、どこにでも行けばいいって。そんな感じだったからな」

 コスモ・アカデミーに入学が決まり、家から逃げ出すように一人暮らしを始めた時、俺がいなくなってもあの家は何も変わらないのだろうという寂しい気持ちと、これからは自分の夢としてELGを目指すんだという意気込みと、従兄の視線を気にしないですむといったホッとした気持ちとが複雑に入り混じっていた。

「あそこは俺の家じゃなかった。いてもいなくても一緒だなんてとこは家じゃねえよ」

 仁の従兄は、仁がELGになった時、とても喜んでくれた。
忙しいだろうが一度くらい戻って来い、とも言ってくれた。

 けれど、仁は知ってしまったのだ。
「一度くらい戻れ」と言うが、それは「ずっと一緒にいよう」とか、「いずれ帰ってくればいい」という誘いではない。
自分はあそこの人間にとって、どこまでもいずれまた出てゆく者なのだ。
優しくされても、それはともにある家族とは違うのだ、と。

「……つってもよ、俺、今は兄ちゃんに感謝してるんだぜ。
ELGはもともと兄ちゃんの夢だったけど、俺の夢でもあった。
兄ちゃんがいろんなこと話してくれたから、俺の世界は広がったんだからな。
そうそう、料理の基礎も俺、兄ちゃんに習ったんだぜ」

 ELGに憧れても、ほとんどの者が夢に破れてゆくのが現実だ。

「俺は適正検査に受かっただけでも幸運だった。ELGってのはマジにおもしれぇんだぜ。
長くやってるとびっくりするような経験も味わえるし、絶対この仕事って飽きるヒマなんかねえよ。
おまえみたいなヤツにも会えたし、知らないヤツから突然付添い役にされたりしてよぉ」

 そう言って、仁は何かを思い出したようにニヤリと笑った。

「俺とオーウェン、四年くらい前だったかな。出張の行きしなにさ、宇宙港で偉い目にあったんだ」

 見知らぬ男ひとりと女ふたりの三人連れから、突然、無茶苦茶な頼み事をされたのだと言う。

「三人のうちのひとりが、何とウエディングドレス着ててよぉ。俺とオーウェンに証人になってくれッつーわけよ。
よくよく聞けば、式場から逃げて来たんだって言うじゃんか。俺もオーェンももうびっくりさ」

 政略結婚されそうになっていた花嫁を助け出したのは彼女の親友と恋人だった。
連れ戻されるのは時間の問題だからと、彼らは見知らぬ他人の仁たちを捕まえて、ここで婚姻届を出したいから証人になってくれ、と頼んできたのだった。

 婚姻届は本人たちのサインのほかにふたりの証人のサインがないと提出できない。
花嫁の親友が証人になるのは当然としても、もうひとり、証人がどうしても必要だった。

「お願いです」と拝むように頼まれて、オーウェンと仁は最初、困惑したのだが、いろいろと事情を聞いているうちに彼らに同情するようになり、その場で式を執り行うことにしたのだと言う。

「結婚式を挙げたの? 宇宙港で?」
「ああ。花嫁さんは白いドレスを着てたし、ブーケもちゃんと持ってたし。
相手の男のほうも来客として花嫁奪還の式場に出席してたらしくてな。
ちょうど洒落たスーツを着てたから、全然違和感なんかなかったぜ。
でも隣りに立ってる花婿がエラく緊張してんのすげぇわかって。
やっぱり自分の結婚式ってはトクベツなのかなって思った。
俺、ベストマンしたんだよ、そん時。
俺もそんなんするのなんて初めてだったし。それも突発的にだったからな。
花婿の緊張がビシバシ伝わってくるわ、時間がないわで俺まで緊張しちまってさ。
でも……。花嫁さんがブーケから白いバラを一本抜き取って、男の胸ポケットにさしていたのが今でもすごく印象深く残ってるな。
いかにも幸せいっぱいの花嫁と花婿だったぜ」

「ベストマンって付き添い役のこと?」
「ああ、手伝い役の新郎方の男連中のことをグルームズメンっつって、そン中で特に親しいのをベストマンって呼ぶんだよ。
あン時は俺しか手が空いてなかったからな」

「あら、オーウェンは? 一緒にいたんでしょう?」
「ああ、あいつはもっと重要な役どころがあったからさ。
わかんねえか? 結婚式を執り行うのに必要な役柄がもうひとつあるじゃねえか。ほら、祭司だよ。
オーウェンのヤツが即席立会人になって式を取り持ったんだ。俺はあン時、まさにはまり役だと思ったね。
ま、あいつは離婚歴はあっけどよ、実際、似合ってたぜ。
もしもELGになってなかったら、もしかするとどっかでああいう仕事してたのかも、なんて想像しちゃったらよ、何か納得するもんがあってちょっと笑えなかったな。
何しろ、あいつはアレでも天使サマの末裔じゃんか。ホント、笑えねえよ」

 オーウェンはサードとはいえ、事実、天使の異名を持つセリーア人の血を引いている。
そんな存在を引き込むことができたなら、喜ぶ教会は多いだろう。

「宇宙港にいた客たちも一緒になって祝ってくれてさ。あれこそまさしく人前結婚式だったな。
花嫁さんなんてよ、化粧がドロドロに崩れるほどすっげー泣いててよぉ。そんでもすんごく綺麗だった。
いかにも幸せそうでさ、何か結婚式ってのもいいもんだなって、こんな俺でもあン時はホント、感動したもんだぜ」

 宇宙港には役所の出張所があり、すぐさま婚姻届は受理されたのだと仁は続けた。

 晴れて夫婦となったふたりは、仁とオーウェンに何度も礼を述べたあと、手に手を取って去って行った。
ふたりが去ってしばらくして、大勢の男たちが花嫁を探しにやっていて宇宙港をしらみつぶしに探していたが、結局fどれだけ探しても見つからなかったようで苛立ちを隠せずにいた。
仁とオーウェンはシャトルの搭乗時間まで、男たちのその慌てふためく姿を珈琲を飲みながらやり過ごした。

「実は訊かれたんだぜ、俺たち。ウエディングドレスを着た若い娘の行方を知らないかってさ」

 本人たちのことは知ってはいるが、行き先は聞いていなかったので、ふたりは正直に「知らない」と答えたのだと言う。

「だって俺たち、嘘言ってねえし」

 宇宙港のたくさんの人に祝福されて結ばれたあのふたりのその後の消息は今も知らない。
だが、今でもどこかで幸せに暮らしているといい、と仁は思っている。

「いい話ね」
「だろ?」

 そして、あの時の三人はこんなことを言っていたのだ。

『ELGの方ならば信用できると思ったんです。
確かに証人は必要でしたが、誰でもよかったわけではありません。
あなたたちならば、と思ったからこそお願いしたんです』

 仁とオーウェンの片耳だけの赤いピアスを見て、彼らは一目でELGだとわかったのだと話してくれた。

 ふたり一組で行動するELGの紅玉のピアスのことは結構知られた話だ。
特に環境庁のお膝元でもあり宇宙総合大学コスモ・アカデミーがあるこの惑星ショルナでは、知らない者のほうが少ないだろう。

 この惑星ショルナには多くのELGが住んでいる。
ELGを目指してコスモ・アカデミーに入学する学生も多い。
そういう学生たちはみんな、いずれ赤いピアスを耳に飾る日を夢見て、日々、励んでいる。

「ELGかぁ……。じゃ、チビの夢は叶った……わけね?」
「ま、とりあえず一応な」

 長年、仁が求めたもののひとつは確かに叶ったのだろう。

 憧れ続けたELGになって広い銀河をめぐり、たくさんの生き物と出会い、珍しい経験を積み重ねる日々。
仕事に追われつつも、毎日を楽しんできた仁だった。

「いつでもそこにあるのが当然なものって中にはよ、結構大事なのって多いんだぜ。
俺は両親を失くした時にそう思った。子供にしてみりゃ父親や母親なんていて当然のようなモンだからな」

 リリアは思った。

 仁の夢はひとつとは限らない。
仁にはまだ求めるものがあるのかもしれない。
もう二度と抱き締めることなどできない両親をいつまでも追い求めて、今もどこかで幼い仁が泣いているのかもしれない。

「ねえ、チビ。あんた、わたしのこと好き?」

 唐突に、リリアが尋ねた。

「何だよ、急に。……ま、キライじゃねえな」

 リリアは「そう」と小さく零すと、今度は質問を変えて再度尋ねる。

「なら、わたしと一緒にいて楽しい?」
「まあ、それなりに」

「一緒にいるの苦痛じゃない?」
「おまえ、ヘンなことばっか訊いてくるなぁ。キライな相手と馴れ合う趣味は俺にはねえよ。
ああ、もー。腹減ったな。よし、弁当食おうぜ。しこたま作ってきたからよ」

 だが、仁が立ち上がるのをリリアは上着を掴んで引き止めた。

「わたしはあんたのことが好きよ」

 リリアは仁を見上げながら、自分の正直な気持ちを告白する。

 けれど、仁の返事は──。

「俺もおまえのことは気に入ってるぜ、若作り。けどな、オトコを探すのならほかをあたれ」

 リリアが期待したものではなかった。
まさにそれは、オーウェンが話して聞かせてくれたものとそれほど変わりないものだった。

「おまえは黙ってればそれなりにかわいいからな。きっと素直に騙されてくれるオトコは五万といるだろう。
そんで、そん中から一番いいオトコ捕まえて、元気な卵を生んでくれや。
そうそう、できたら子供はダンナ似のほうがいいぞ。
おまえのその気性を継いだ子供なんて考えただけでもそら恐ろしいからな」

 オーウェンの言ったとおりだ。
「好き」と告げてくる相手に「ほかの男をあたれ」と優しく突き放して、仁はいつだって自分を孤独へと追いやってしまう。
そうして、相手の幸せを祈ってひとり死に向かって歩いてゆこうとする。

 仁は何もわかってない。
「好き」と言ったこの気持ちも。仁自身の気持ちも。
何もわからないままにすべてを突き放そうとしている。

 自分ひとりで何もかも決めて、相手を思いやっているつもりが傷つけている。
確かに仁の言葉で別の幸せを掴んだ女性は多いかもしれない。
けれど、それはすべての女に当て嵌まるかというと、そうじゃない。

「離乳食、作ってやれなくて悪ぃな」

 ずっと前に口にした冗談とも本気ともわからない言葉すらちゃんと覚えてくれてるくせに。
そんな偽善な優しさなんていらないわ、とリリアは苛立った。

 何度叫べばわかってもらえるだろう。
伝えたい気持ちはたくさんあるのに、いつも仁はするりとかわして逃げてしまう。

 だから、リリアはつれない想い人に怒りさえ抱きたくなった。

「チビ、お弁当食べるわよっ。とにかくまずは腹ごしらえよっ。食べて食べて食べまくってやるわっ」

 突如、元気ハツラツとなったリリアに圧倒されつつ、さっきのしおらしさはやっぱり演技だったのか、と仁は思わず疑った。

──やっぱりこのオンナは普通じゃない。それに、こういうリリアのほうがいかにもこいつらしい。

 仁は少しの寂しさを感じながらも、
「おう、しっかり食ってくれや。この俺サマを叩き起こして作らせたのはおまえなんだからな」
リリアとこうしてじゃれるのも満更ではない、と思った。

 いばらの陰からそんなふたりを、レーザーソードを抱えながら見守っていたオーウェンがいた。
リリアに笑顔を向ける無邪気な仁を無性に殴りたいと思っているオーウェンの気持ちなど、当の仁は知るよしもなく。

「お、オーウェン。来てたのか」
「……まあね」

 そうして仁とリリアは、ふたり肩を並べてオーウェンのもとに歩き出した。

 ふたりの想いは互いを包みながら、それでも交じり合うことがないままに──。



illustration * えみこ



えみこのおまけ




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