きみが片翼 -You're my better half- vol.6



大きな羽ばたきを緩め、速度を落として下方を見やる。

 目標地点を確認すると、翼の動きをこまめにしながら、リリアは技術開発生物研究所の裏庭に舞い降りた。

 当初、リリアの怒りは、仁ただひとりだけに向けられていた。

 あと余命五年というのは本当なのか。それが本当ならどうして教えてくれなかったのか。
自分の失礼な態度を少しでも注意してくれていたら、こっちも事情を察して言葉を選ぶことができたのに。
教えてくれなければ配慮すらできないではないか。

 また一方で、怒りはリリア自身にも向けられていた。

 どうして二十年後の話など持ち出してしまったのだろう。どうして、今までケンカばかりしてしまったのだろう。
知っていればもっと優しい言葉をかけられたのに。知っていれば、もっと優しく接することもできたのに。

 けれど、そんなふうに造り上げた態度など、仁はきっと喜ばなかっただろう、ともわかっていた。

 どうして、仁以外の人からこんな大切な話を聞かされなきゃいけないのだろう。

 どうして、仁がそんなことになっているのだろう。

 どうして。

 どうして……?

 疑問ばかりがリリアの脳裏を駆けめぐった。
聞きたいことは多すぎるくらいあるのに、確かめたいのに確かめるのが怖かった。

 それでも、リリアは一刻も早く仁の顔を見て安心したいと思った。

(チビっ、いるんでしょう?)

 リリアは翼をしまうのも忘れて、懇意のELGの姿を探し回った。

(どこなのっ!? チビっ、もう帰ってるのっ!?)

 焦りで乱れたリリアの声が大音響となって、α類テレパシー・コミュニケーションの能力者の頭に奇声のハウリングを起こす。

(チビっ、いるならいるって言ってっ!)

 研究所には仁やオーウェンのほかにも研究職に勤しむ多くのELGが所属している。
リリアが叫んだ途端、研究所内に散らばっていた彼らは今にも頭が割れんばかりの酷い頭痛に悩まされ、何人かは頭を抱えてうずくまった。
強い反響に酔う者さえいた。

 リリアの叫びに影響を受けたのは、彼らだけではない。
α類テレパシー・コミュニケーションの能力を持たない外部の一般市民たちの中にも、違和感を察する者もいた。
一瞬、胸に不安がすうっと過(よ)ぎり、哀しみと恐れが香水のように身体に纏わり付く。
リリアの焦る気持ちが伝染してゆくと、誰もが何かをしなくてはいけない気持ちになり心が急いた。

 それは迷子の子供が母親を探しているような激しい気持ちにとても似ていた。
じっと待つだけなんて考えられない。早く探し出して、一刻も安心したい。
心細くて誰かと一緒にいたくなる。 誰か助けて、と思わず叫びたくなってしまう。

 栽培室、資料室、数多くのドーム型飼育室。リリアは時には翼を羽ばたいて移動した。
狂おしいほどに走り回りながら、息を切らせて仁を探す。

 そうして二度目に料理室を訪れた時、リリアはやっと冷蔵庫を覗き込んでる仁を見つけた──のだが、当の仁は、「よう、若作り」と言ったきり、リリアを振り返ろうともしない。

「大声で何を叫んでやがるんだ。まったくおまえってさ、ホントわかってねえよなあ。
もう少し、自分の能力考えて行動しろって。それじゃあ、他人の迷惑顧みずってやつじゃねえか」

 リリアの悲鳴のような精神感応力をそう諌めつつも、リリアのほうなどちらりとも見向きもしない。
それよりも、冷蔵庫の残り物で何か作れないか考え込むところはいかにも仁らしくて、途端にリリアの気がふっと緩んだ。

 先ほどの男たちはリリアの機嫌ばかり伺って、腹黒い心を隠しながら自分に笑顔を向けていたのに。

 こんなふうに自分を見てくれない男のほうがいいなんて。

 なぜだろう。今は一度もリリアを見ようともしない仁のその態度がすごく温かくてホッとする。
怒りも哀しみも驚きも。不安さえも拭い去って。そこに仁がいるだけで、顔が緩んでしまう自分がいる。

「チビ、いるならいるで返事くらいしなさいよ……」

 憎まれ口もいつものまま。リリアは昨日までと何も変わらないのだと心から思いたかった。

──違うと言って。嘘だと言って。おまえ騙されたんだよ、とお願い言って。

 心から否定してほしいと願いながら、中腰になって冷蔵庫の中に頭を突っ込んでいる男にリリアは尋ねた。

「ねえ、チビ。……あんた、あと五年しか生きられないって本当、なの……?」

 唇が、かすかにだが震えてしまう。

 なのに、そんなリリアの差し迫った心情など綺麗に無視して、仁は「あン?」と驚いたようにリリアを振り向いて、ニヤッと笑うと、
「そりゃ嘘だ。聞き違いだろ?」
リリアがほしいと望んだ言葉をちゃんとくれた。

──ああ、よかった。あれはやっぱりデマカセなのね。

 リリアはほっと胸を撫で下ろしながら、
「そ、そうよねえ。そんなはずはないわよね」
どうしてこんなタチの悪い質問をしてしまったのだろう、と今度は後悔にドキドキと胸が高鳴ってしまったのだが。

 リリアの頬が緩んだのはつかの間だった。

「正しくは最長四年だ。遺伝子治療を受けた去年の時点で、長くて五年って言われたからな」

 ちなみにへたすりゃ三年とも言われた、などと軽い口調で仁の口から語られた時には、リリアの乳白色の目は今にも零れ落ちんばかりに見開いて、その表情は愕然と固まったままになった。

「うそ……」

 そう、わずかな唇の隙間から零れた途端、
「……なぁんてな。驚いたか?」
仁の言葉に動転したリリアをからかって、仁がまたもや人の悪い笑顔を向けてくる。

「そういや、お偉いさんとの会食はどうだった? 久しぶりだったんだろ?
……くそ、碌なモンしか残っちゃいねえ。卵と生クリームか。若作り、おまえ、カルボナーラ食うか?
食うならスカモン、二、三個持ってきてくれや」

 そう言って仁は大鍋を棚から取り出して熱湯を鍋に入れて火をつけた。
ロングパスタを密封容器から取り出して、銀色のボウルに卵を割り入れる。

「おい、食うのか? 食わないのか?」

 はっきりしろよ、とスカモン採取にリリアを差し向けようとする仁はいつもの彼で。

 だから、リリアももう少しで騙されそうになってしまった。

 自分の寿命があと四年あるかどうかもわからない。
そんな大事な話をしているというのに、仁はまるで明日の晩のことを今から考えても仕方ないだろうとでも言わんばかりに今晩の夕食のことに集中している。

「た、食べるわよ……」
「なら、さっさとスカモン取ってきてくれ。頼んだぞ」

 何から訊いていいのか、リリアは考えがまとまらなかった。
霧がかかったように頭の中が真っ白になっていた。何だか身体がふわふわしている。
けれど胸の奥底はぎゅっと不安で押しつぶされそうなほど痛くて、何か怖いものがどこからかやって来そうで落ち着かない。

 ふらふらと、今はただ、リリアは仁に言われたとおりに動くしかなかった。

 仁はリリアが持ち帰ってきたスカモンをふたつに割って汁を絞ると、グリーンサラダのドレッシングを作った。
酢の代わりにスカモンを使ったピーナッツオイルのドレッシングは綺麗な淡い黄緑色をしている。

 仁はスカモンの絞り汁をカルボナーラのソースにも入れた。

「ホントは黄身だけのほうが濃厚なんだけど。
白身を残すのももったいねえし、全卵は全卵なりに俺は好きなんだ」

 仁の「好き」はまだ続いた。

「俺はさっぱりとレモン派なんだけど、オーウェンは黒コショウ派だから。
俺たちふたりともが食べるとなると、レモンも黒コショウもどっちも入れることになっちまってさ。
今日はレモンじゃなくてスカモン使うけど、おまえ、酸っぱいの苦手じゃねえだろ?
オーウェンには悪ぃがちょっと多めにスカモン入れようぜ。俺、好きなんだよ、コレ」

 仁のカルボナーラは、卵と生クリームのこってりソースのスパゲッティの上にハーブの葉が細かく刻まれて、淡い黄色のカルボナーラソースに緑のハーブがとても綺麗に映えていた。

 オーウェンがまるで時間を計ったように、食卓に皿を並べ終る頃にやってきて、
「やあ、うまそうだなあ」
立派な胴体を揺らしながら、笑顔で仁の隣りの席に着く。

「さ、食おうぜ。いただきますっ」

 目を閉じて手を合わせる仁の故郷のこの慣習も、今ではもう、リリアにも慣れたものになってしまった。
尊い生命を奪って糧にするのだから、と仁は食事の前後には手を合わせて目を閉じる。

「いただきます」と「ごちそうさま」は素晴らしい慣習だと、十年前からオーウェンも仁に習ってするようになったのだと言っていた。
当然、ふたりの影響は強く、今ではリリアも食事の前後には手を合わせて感謝の祈りを捧げるようになった。

 生命あるものたちに感謝して。今日もおいしいご飯をありがとう。

 リリアは使徒星では知り得なかったたくさんのことを回廊のこちら側で知ることができた。
仁やオーウェンとの出会いは、リリアにとってとても大きな出会いだった。
だから、その大切な人たちとの楽しい時間がもっとたくさんほしいと願ってしまっても、何ら不自然ではなかった。

 リリアは仁が洗い物の片付けをしている不意を衝(つ)いて、再度尋ねた。

「チビ、どうしてそんなに平然としていられるの?
あんた、あと五年も生きられないって言われているんでしょう?」
「おまえなあ、明日突然死ぬわけでもあるまいし。今からそんな心配してたって無駄だろ?
それよか汚れてる皿、そっちに入れてくれよ。俺はあったかいヤツ、何か用意するから。
もちろん、おまえも飲むだろ?」

 リリアがいくら真剣な顔を向けても、仁は鼻歌交じりにするりとその話題を避(よ)けてしまう。

 マグカップを棚から取り出しながらオーウェンに、「今度はトマナスでパスタ料理してみようぜ」と、トマトとナスを掛け合わせた新種トマナスのおいしい調理の工夫に余念がない。

 そんな仁を気に止めながら、仁の指示通りにリリアがビルトイン式の食器洗い器に今夜使ったすべての食器を仕舞う。
すると、仁が即座にそれに気付き、「お。ご苦労さん」とリリアの腰をかするように横から手を伸ばしてスイッチを手早く押した。

 触れてもいないのに、ほんのりと仁の温かい体温が伝わる。
黒髪のつむじがわずかに見え隠れして目が放せない。
自分とは似ても似つかないその濃い色の髪はいつもは真っ黒のはずなのに、照明の明かりに照らされると濃紺に見えた。

──まるで宇宙の色だわ。

 回廊を抜ける間、視界に入るのは小さな星々とこの深い色だったとリリアはとても懐かしく思った。

 ずっとそこにあるべきものだと思っていた色彩がなくなってしまう。
それを思い浮かべることは宇宙の崩壊を想像することと、とても似ているのかもしれない。

 乾燥までのフルコースが稼動し始めると、仁は何事もなかったようにリリアから離れた。

 それは時間にして一瞬のことだったが、リリアには五分にも十分にも感じられたほどの長い一瞬だった。

──嫌よ……。消えてなくなるのは我慢できない……。

 リリアの胸がぎゅうと萎んで苦しくなる。

 この苦しみから早く逃れたくて、リリアの視線は助け手を求めて彷徨った。
誰でもいいから、と縋るように、菓子器にクッキーを盛り付けているオーウェンの腕に自分の腕を絡めて別室に連れ出す。

「お願い、教えて。チビがあと五年も生きられないってどういうこと? それ、本当のことなの?
あなたなら知ってるんでしょ?」

 ことの真相を追究して、この嵐のような吹き荒れる心を一刻も早く宥めたい。

 リリア、きみも騙されたのかい? あれは仁の悪い癖でね、本気にしたらだめだよ。
そんなふうにオーウェンが言ってくれたら、きっと今夜は安心して眠れるとリリアは信じていた。

──だから、お願い。みんなしてわたしを騙してみたんだって言って。そしたら絶対、信じるから。

 オーウェンが「大丈夫だよ」と言ってくれたら、絶対、その言葉を信じて、「やってくれたわねっ」と逃げ惑う仁を懲らしめてやるのだとリリアは心に誓いながら、オーウェンの返事をじっと待った。

 沈黙がふたりの間に静かに流れて、心臓の早鐘だけがやけに大きく響いて聞こえた。

「リリア」

 だが、やっと口を開いてくれたオーウェンは、仁と違ってリリアが望む言葉をくれなかった。

「きみ、どこからその話を聞いたんだい?」

 オーウェンのたったそれだけの短い台詞が、リリアの願いを無残にも打ち砕いた。

「じゃあ、チビは長くて四年だって言ってた……、それもホント……?」

 オーウェンは最初、視線を彷徨わせて何か考え込む素振りを見せた。
しかし、そのうち意を決したようにリリアを真っ直ぐ見てこう言った。

「きみには本当のことを話そう。だけど今は仁がいる。明日、仁は休みのはずだから……。
リリアがここに来れるなら私は資料室っで待ってるから、話はその時にしよう。いいね?」

 今すぐ聞きたかった。仁のことならすべて知りたかった。
だけど、仁のことを誰よりもよく知るオーウェンが話してくれると約束したのだから、リリアは待とうと思った。

「わかったわ」

 一日でも早く詳細を知って何か手を打たなければ、と内心焦る気持ちがないでもなかったが、ここは素直に承知して、明日、対策を練ることにしよう。
だが、あれこれと明日のことをいろいろと想像してしまい、今夜は眠れそうにない。

 だから、リリアは、今夜は絶対仁の部屋で眠ろうと決めていた。

 考えることが余りにも多すぎて、心がボロボロになりそうで。
どこでもいい。一番安心できる場所で一刻も早く眠りたかった。

 オーウェンと連れ立って仁のところへ戻るなり、リリアは仁に寝袋の用意をするように話した。

「今夜はあんたんとこで飲み明かしましょ」

 もちろん、寝袋は仁が眠るためのものである。リリアが使うわけではない。

「げー、おまえ、また俺ンとこ、泊まるつもりかよ」
「いいじゃない。あんたンとこに泊まれば、おいしい朝食にだってありつけるんだもの」

「俺はおまえの料理番じゃねえやいっ」
「黙らっしゃいっ! 年長者の言うことは素直に聞いたほうが身のためよ、チビ」

 いつもの仁。いつも通りの会話。

 それはすでにリリアにとって誰にも譲りたくない一番の宝物になっていた。

 このひとときがあまりにも幸せで。

 それが儚いからこそ、余計に貴重になってしまったのだと気付かないまま、リリアはただひとりの人をすでに選んでいたのだった──。





「あれは二年前のことにだったよ。リリアはカスピル辺境地域って知ってるかい」

 オーウェンは約束を守る男だった。そして今、その約束を確かに果たそうとしてくれている。

 リリアは一言一句聞き逃さないよう、両手を握り締めながらオーウェンの言葉に聞き入った。
リリアの目尻はほのかに赤い……。



 昨夜、無理矢理押し掛けた仁の部屋でリリアは浴びるほど酒を飲んだと言う。

 かわいい酔っ払いに絡まれながら仁が明け方まで付き合わせられたことも、すでにオーウェンは知っていた。
昨夜遅くに「助けてくれぇ」と相棒から救助通信がオーウェンの個人アドレスに届いたからだ。
もちろん、禁酒中のオーウェンは「力になれなくてすまないね」と返事をするしかなかったのだが。

 今朝は、仁も酷い二日酔いに苦しんでいるらしい。

 なのに、仁より軽く二倍は飲んだはずのリリアは、けろりとした顔をして、
「情けないわねえ。そんなことじゃオトコが廃(すた)るわよ、しっかりしなさいっ」
二日酔いで仁の耳元で活を入れながら今朝も朝食を作るよう命令し、ついでに弁当まで作らせたというから、オーウェンは苦笑するしかなかった。

「寝てればそのうちマシになるわよ。じゃ、行って来るわね」
「どこへでも行け行け。もうここへは帰ってくるな」

 イテテ、と頭を擦りながら、リリアに脅されるように弁当を作った仁は、リリアが玄関席で靴を履く時にはすでに寝台に崩れ落ちるように寝入っていたと、リリアはオーウェンの顔を見るなり笑いながら語って聞かせた。

「オーウェン、あなたお酒は? イケル口なのかしら?」
「仁よりは飲めると思うけど。あ、でも顔にすぐ出る性質は一緒かな」

「チビより強いならまだいいわ。今度一緒に飲みましょね」
「あ、ダメダメ。悪いけど、私は今、禁酒中だから。ゴメンよ、頼むから酒の席には誘わないでおくれ。
酒の席のあの雰囲気は好きでねえ、私は甘い誘惑に弱いんだよ。
だから、申し訳ないけど誘わないでくれると助かるかな」

「もう、こっちの男ってだらしないのねえ。だったら、わたしは誰と飲めばいいのよっ。
みんな付き合い悪すぎよ」
「ふふふ、まあいいじゃないか。昨日だって仁がちゃんと相手してくれたんだろう?」

「まあ……ね、おつまみもおいしかったし。チビも乱酒じゃないだけマシかしらね」
「仁はすごく弱いんだよ。すぐ酔っ払って赤くなるだろう? それにちょっと陽気になっておしゃべりになる。
だから、みんながおもしろがってますます飲ませたがるんだ。
そういや、中には酔ってる仁をかわいいって言って熱心に介抱した子も何人かいたなあ。
仁はどうやら母性本能をくすぐるらしくてね。結構、隠れたところで人気があったんだよ」

 技術開発生物研究所の資料室で、オーウェンとリリアは「おはよう」と挨拶を交わすと、まずはこんなふうに今朝までの出来事を歓談しはじめた。

 オーウェンが淹れた緑茶はおいしいかった。
手土産の煎餅をぱりぱりと摘みながら仁をネタにして、ふたりで頬が疲れてしまうほど笑った。

「それじゃ、チビも少しはモテるんじゃないの。よかったわ」
「そうだねえ。 私たちは地上勤務になった当初は本庁勤務だったんだけど。
本庁だと受付の子や事務の子たちがよく仁をからかってたりしてたなあ。ほら、仁って童顔だろう?
本人の前でそれ言うと怒るんだけど、女の子たちにはウケがよかったみたいだったよ。
仁は童顔はナメられるからよく嫌だって言ってるけど、どうやら自分の見てくれがそれなりにいいってことに気付いてないんだよねえ。
だから、隣りで見てるとホント楽しいよ。若いっていいなあってね。
仁は背が低いことも結構、気にしているようだけど、女性陣のほうはそんなに気にしないようでね。
外見だけじゃなく、ちゃんと中身を見てくれる人だって今までにもいたんだよ。
ただ、仁はあの通り、料理も洗濯も掃除も人より遥かに達者だから、自信喪失する女性は多かったんじゃないかな。
そうそう、話しやすい男友達としては抜群だって聞いたことがあるよ。
弟にしたいって言ってた女性もいたしね。
でも、そう言ってくるのっておもしろいことにだいたいが仁より年下の子たちなんだよねえ」

 あの子たち、きっと仁の正確な年齢を知らなかったんじゃないかな、とこれまたオーウェンは朗らかに笑った。

「だけど、一年前くらいからかな。もともと乱暴だった仁の口の悪さがこれまた磨きがかかっちゃってね。
だから、仁は怖いって言う子も増えて……。その頃だったかな、私と仁はこっちに移ったのは。
この研究所にも女性職員はいるけど、本庁に比べたらずっと少ないし、仁はあの通り、植物に囲まれていれば幸せっていうところがあるから、ここ一年は余計、女ッケなんてなかったねえ」

 研究所勤務になったばかりの頃は本庁の女の子たちが昼時とかの仕事の合間にたまに交信してきたものだが、一年経った今ではそれもほとんどなくなった、と急須に湯を注ぎながらオーウェンは言った。

 口の悪さが仁の優しさを霧の向こうに隠してしまう。
だから、女の子たちはどこに向かって歩いたらいいかわからなくなる。

「私はね、ずっと仁は損してると思ってたんだ」

 オーウェンは、「私はそれほど他人の気持ちに機敏というわけでないけれど」と前置きしつつ、
「この年になるまで、恋愛もそれなりに数をこなしたからね。若い頃に一度結婚も経験してるし。
人生いろいろ経験すれば、それだけいろんなことを考えるようになるもんなんだよ」
それになぜか同僚たちから愚痴もよく聞かされたしねえ、と苦笑した。

「ELGは本来、長期出張が多いからね。どうしても留守がちになってしまう。
奥さんや恋人よりパートナーと過ごしている時間は長いから、男女のペアだったりするとあらぬ誤解も生まれてしまうんだ」
「あなたたちのパートナーだった人の中にも女の人がいたの?」

「まあね。あ、でも、仁は私が初めてのパートナーだから」

 幾分慌てたように、「だから、仁にはいないよ」と手を振るオーウェンは珍しく、片方の口元をかすかに上げて自嘲ぎみに微笑んだ。

 その、何とも言えない諦めたような笑顔は、まさに彼の過去を匂わしていて、リリアはオーウェンの気持ちを察して黙り込んだ。

 そのリリアの心情を今度はオーウェンが察して、「参ったなあ」と穏やかな笑みを浮かべながら頭を掻く。
朗らかに頬を緩めたオーウェンの眼差しはとても温かく気持ちのいいもので、リリアはやっと肩の力を抜くことができた。

「そんなにたいしたことじゃないんだ。お互い、今に満足しているんだから」

 リリアの申し訳なさそうな顔を目にしたオーウェンは、開き直るかのように、「昔、離婚してね。ホントに昔のことなんだよ。もう二十年以上も前のことなんだから」と口火を切りだす。

 仕事と家庭の両立は難しい。
ふたりの間に子供がいたならまた違ったろうが今更の話だ、と言葉を濁しながら、オーウェンはお茶を啜った。

「今は彼女もふたりの男の子に恵まれてね、シリンカという惑星で幸せに暮らしているよ」

 離縁したふたりは今でも時折り連絡し合っているのだと言う。

「彼女とはもともと親友みたいなところがあったんだ。もちろん、結婚していた当時は愛情があったよ。
男として女性に向けるもののね。
それでも今、考えれば、それは熱愛というよりは友情に近い愛情だったのかもしれないけれど……」

 かつて愛した妻が別の男性のもとで幸せに暮らしている。
遠く離れた元妻の幸せをオーウェンは心から喜んでいるようにリリアの乳白色の瞳には映った。

「リリア。私はね、きみが仁のことを気に入ってて大切な友人として心配しているだけなら、大切なことはやっぱり仁本人から聞くべきだと思う。
だから、ほかの女の子たちが仁に騒いでいた話とかの類(たぐ)いだったらいくらでも私はきみに話しあげられるけど、彼個人のことについては、はっきり言って、私から話すことは何にもないんだよ。
ただし、これはきみが友人として仁を想ってくれてる場合だ。
もしも、きみが友人としてではなく、ひとりの男として仁を見ているならば……」

 オーウェンはテーブルに湯飲み茶碗を静かに置いて、じっとリリアを見つめた。

「私は相良仁の最後のパートナーとして、彼について知っていることすべてをきみに話そう。
どんなことでも、だ。約束する。
きみが知りたいのなら私の記憶を見せてもいい。力の強いセリーア人なら人の記憶を読めるんだろう?
かつて私の祖母がそう話していたよ。
私はね、このおよそ十年、私が見てきた仁に関するすべての記憶を本気できみに託してもいいと思っている」

 リリアは仁のことならば何でも聞きたいと思っていた。
それは失くしたくないモノを救う方法を見つけるためにも必要なことだった。

 絶対、いつでもそばにいて、近くで生きていてほしいモノ。
そこにあるべきモノ。リリアのそばになければならないモノ。

「あのね、わたし、チビを使徒星に連れて行って、家政夫として雇ってやろうかとも思ったのよ。
半分は冗談のつもりだったんだけど、でも、半分は本気だったわ」

 以前は惑星間を多忙に飛び回って華々しく活躍していた仁。
彼が心底から研究職を希望して、望んでここで働いているのならそれはそれでよかった。

 けれど、ELG派遣局副局長トーマス・ウインツの話し振りではそうは思えなかった。

「チビはまた何かヘマをしてここに追いやられたのかしら、とも思ったの。
でも、ここでのチビの様子を見ているとどうやらそうじゃないようだし。
だって毎日楽しそうに植物の世話してるじゃない?
そうやって、ここで植物に囲まれてる生活を望んでるチビも確かにチビの一部なのよね……」

 一方で、リリアの脳裏に浮かぶのは、さまざまな惑星に出かけて行き、新しい世界に目を輝かせる仁の姿だった。
本来ならば、そうした生活を今も仁は続けているはずだったのだろうから。

「探究心いっぱいのあのチビのことだから、使徒星に連れて行ったらそれにりに喜ぶと思ったの。
向こうに行ったら、きっとあちこち見歩いて、そこらへん中の動植物に関心を示して、一生飽きない人生を過ごすに違いないって……」

 何よりも、仁に作ってほしかったものがあったから。

「わたしね、チビにわたしの子供の離乳食を作らせようとも思ったのよ。
これは嘘交じりっけなしの本気でね」

 あの料理の腕前ならば、きっと大丈夫。仁ならば、きっと平気。
相手がセリーア人の子供だろうが、毎食、笑顔で「おかわり」を言わせることができるはずだ。

 そう、心からリリアは信じていた。

「ねえ、オーウェン。わたしはわたしの可能性をすべて賭けて、チビのことを何とかしたいと思っているわ」

 それでも、「好き」とか、「愛している」とか。
どこまでも考えてもそういう言葉にはならなかった。

 けれど、仁がいなくならないようにするためならば、リリアはどんな手段もいとわないつもりだった。

「だから教えて、オーウェン。
わたしに何ができるのか、正確な判断と時間の短縮のためにはあなたの言葉が必要なのよ。
だから、チビのことならどんなことでも教えてほしいの」

 そうして、真摯な乳白色の視線をピタリと仁の相棒に定めて、
「お願いよ」
深く頭を下げて教えを乞うた。

「……わかった。ならば話そう、仁のために。そして……きみのために」

 それからオーウェンは観念したように、ゆっくりと語り始めた──。





「カスピル辺境地域って聞いたことがあるかい?」

 オーウェンは最初にそんな質問をリリアにした。

「いいえ、初めて聞くわ。有名な場所なの?」
「いや、ELGの間で有名なだけで、普通は一生耳にしないで終るような地名だと思うよ」

 オーウェンは左右の指を何度も絡みなおしながら話を続けた。

「二年前、私と仁は任務でそのカスピル辺境地域に向かったんだ。
その辺境の名のもととなったカスピル星系の第五惑星キランが私たちの目的地だった。
カスピル辺境地域でも生物が住めるのはその惑星キランだけ。
辺境だけあってまだ人が手を入れていない自然がそのまま残っていてね。
あそこでしか目にできないような珍しい動物や植物がたくさん存在するらしい、と少し前から一部の生物学者たちの間で噂されてて、話題の惑星になってたんだ。
それが一気に環境庁内で有名になったのは一年半前のことだ。
そして、今では訪れる者など滅多にいない惑星のひとつになってるよ」

 かつて、惑星キランにはELGが交代で調べに訪れていた。
オーウェンと仁も今から二年前、任務期間にして三ヶ月間、赤道付近の調査を担当していた。

 だが、レトマン・相良組が予定の勤務期間を無事終えて、帰還してから半年も経たないうちに、そのカスピル辺境地域は厳重立入禁止指定地域に指定された。

「原因は数人のELGが突然、c−FDで亡くなったからだ」

 その時、オーウェンは四十九歳、仁は二十五歳だった。
仲間の死にショックを受けながらも、多くのELGが原因を早く調査すべきだと主張した。
環境庁の一部ではしばしば話題にでるニュースであったが、当初、大々的に世間一般に公表されることはなかった。

「c−FDって?」
「消化器系の粘液性進行型悪性腫瘍、つまり、治療の見込みのない病気の略称だよ」

 環境庁がすべてのELGの健康診断をやり直しを行ったのは、レトマン・相良組が次の任務で宇宙港を出立する寸前のことだった。
突然、搭乗拒否命令が出て、オーウェンや仁だけでなく、すべてのELGが宇宙に出ることを禁止されたのだ。

 そうして、理由もなく、即刻、精密検査レべルの健康診断を受けろと言われ、宇宙港に足止めを食ったその足で環境庁の指定医療施設に連れて行かれてしまった。

「ELGはそれぞれの地域に散らばっている。地上勤務のELGなんて稀だ。
宇宙生活を一年以上している者などざらにいるというのに、全ELG対象に一斉健診をするなんて、上層部は突然何を言い出すんだと同僚たちと文句を言ったもんだったよ」

 ELG全員をそれぞれ五日間のドッグ入りさせた環境庁は、それから数ヶ月間、政界、経済界、法界、生物学会などさまざまな分野からいろいろと厳しい中傷を投げかけられた。
だが、その健康診断の結果は銀河連邦政府を揺るがすほどの大きな問題と発展した時には、「よくぞ迅速な判断をして被害を最小限に止めた」と連邦主席からお褒めの言葉があったという。

「すべてのELGを検査した結果ね、ある一定の条件を満たした者すべてがc−FDウィルスに感染していたことがわかったんだよ。
それに、わかったのはそれだけじゃない。
c−FDウィルスは空気感染や接触感染ではうつらない、直接、『それ』を体内に入れた場合だけ感染するってこともわかったんだ。
そして、それは特定地域に持続的に多く発生する病気だということもね。
ある一定の条件とはつまり、『カスピル辺境地域』──。
検査結果で陽性だった者はすべて過去にカスピル辺境地域、それも惑星キランに着地しているELGたちだったのさ。
つまり病因は、惑星キランの水にあったんだ」

 今では、c−FDウィルスはカスピル辺境地域の風土病だと知られているよ、とオーウェンは付け加えた。

 そして、とても悔しそうに、震える唇からくぐもった声を漏らし、
「あと一年! あと一年早く厳重立入禁止指定地域に指定されていれば!
あの二年前の任務に就かなければ、こんなことにはならなかったのに……」
壮年のベテランELGは祈るように両手を握り締めるときつく目を閉じた。

 過去を変えることはできない。
けれど、未来は変えられる。

 だからこそ、両の手のひらで顔を覆いながら後悔の念に苦しむオーウェンに、リリアは凛と背筋を伸ばして声をかけた。

「原因は水だけ? ほかにはないの?」

「あ、ああ……。あそこの水を飲まなければ感染しないんだ。だから、短期滞在者は陰性反応だった。
短期滞在の場合は飲料水を確保してゆくのが普通なんだ。
持参した水だけで用が足りるのなら現地の水を利用する必要はないからね。
そういう幸運な者はすべて陰性反応だったんだ」
「三ヶ月の任期は短期扱いじゃなかったのね……?」

 苦しみや哀しみに囚われて、チャンスを逃したくない。
まずはどんな小さなことでも情報を仕入れなければ。
原因追求が第一歩。どこかにヒントが隠されているかもしれない。

 リリアはまだ明るい未来を諦めていなかった。

「短期ってのはせいぜい10日間だね」
「そう……。でも、ちゃんと対応策を用意して行ったのでしょう?

「我々も愚かではないからね、現地の水を使用する場合は必ず消毒殺菌を欠かさなかったよ。
それでもc−FDウィルスを排除するには洗浄技術が足りなかったようだ。
大気感染ではないらしいとわかったのは惑星キランに訪れても必ずしも陽性反応が出るわけではないとわかったからだ。
陰性が短期滞在の者たちばかり出たのが決定打だった。
私と仁は三ヶ月の滞在だったから一週間分の水を持参して残りは現地調達で済ませたんだ。
あの三ヶ月間、仁なんてあの星で新種の植物採取に喜々として飛び跳ねてたよ。
確かにね、あそこは見たこともない植物が多かった。けど……。
ねえ、リリア、信じられるかい?
こんな目にあっても仁は、あそこは天国みたいだったって言うんだよ……。
まったく、何が『天国みたいだ』だ! リリアだってそう思うだろう?
いくら珍しい植物がたくさん見つかったって、そんな発見よりも仁のほうがずっと大事じゃないかっ」

 魔が悪いことに、仁は検査で陽性反応が出たあとすぐに発病した。

「あの三ヶ月間の辞令がなければと、今までも随分呪ったよ」

 仁に隠れて何度も泣いたのだろう。言葉を綴るごとにオーウェンの目が潤んでくる。

『ここには仁がいる』──。

 リリアは昨日のオーウェンの言葉を思い出していた。
それは、いくつもの想いがこめられた重い言葉だと思った。

 仁の前では泣けないと、そんなふうにリリアには聞こえた。

 しんしんと、オーウェンの苦しみがリリアの胸の奥に染みてゆく。
リリアは、自分の頬がまるで凍りついたように強張っているのを知った。

「感染しても、発病するまでの潜伏期間が長い者もいれば短い者もいる。
だから環境庁も気付くのが遅れたんだ。仁はカスピル辺境地域へ行った翌年、発病した。
このc−FDは粘液性だから外科的手術が効かないと言われている。
胃をすべて取り除いて小腸を伸ばして胃の代わりにしたところで、胃液は再度、c−FDに侵されてしまう。
そうなればそれこそ激痛との戦いだ。
今の医学ではc−FDが発病したら遺伝子治療しかないって医者は言うんだ。
だけど遺伝子治療ってのにはいいことばかりじゃない。副作用が当然付きまとう。
このc−FDの遺伝子治療の場合はおよそ三年の余命が保障されているが、今までこの治療を受けて長く生きた者でもせいぜい五年だ。
三年の保障……、そう、その三年のために、仁は二十六歳でこの遺伝子治療を受けた。
受けなければ、余命二ヶ月だと言われたから選択の余地などなかったんだ。
だけど、いくら治療を受けても余命三年……っ! 私は怒りでどうにかなりそうだったよ。
医者は仁にこう言ったんだ。『うまくすれば五年生きられますよ』とねっ!」

 それももう一年前の話だ……、と言って、オーウェンは静かに涙を流した。

「仁は銀河標準時間でいう七月生まれだから、あと三ヶ月したら二十八歳になる。
保障されたのは二十九歳までで、医者の言う通りなら仁は最長でも三十一歳までしか生きられない。
信じられないよ。二十年前、私が三十一歳だったことを考えたら……。
仁は一番長く生きても、今の私より二十年も短い人生だなんて。
こんな馬鹿な話なんてあってたまるものか……」

 仁は一ヶ月に一度、精密検査を受けている。副作用の具合を診るためだ。
研究職という地上勤務は検査に通うには都合がよかった。
だから、仁も快く辞令を受けたのだと言う。

「仁は思う存分好きな植物に囲まれて暮らせるからすごくラッキーだなんて言うんだよ。
珍種や新種の植物研究に余命を賭けるのもいいだろってね。まったく仁には呆れてしまうよ。
自分から離れるようにわざと人間相手には乱暴な口利くくせに、植物には優しいなんて。
もともと乱暴だったそれがちょっと増しただけだ、なんて言ってるけど。
仁のこと本気で好きになって告白してきた子だっていたんだよ? なのに、仁は……。
『俺はおまえのことより植物のほうに興味がある。
こんな俺なんか早く忘れてもっといい男見つけて幸せになれ』って言って。
私こそ、仁に『馬鹿じゃないのか』って言いたくなるよ。自分の幸せをもう少し考えろってね……」

 リリアは涙を零すのを我慢していた。涙が溢れて目に溜まっている。
少しでも動いてしまったら、あと一度でも瞬きをしてしまったら、もう堪えられないのがわかったいた。
だから、リリアはずっと睨むようにオーウェンを見てしまっていた。

 オーウェンには感謝しきれなかった。

 仁が寿命をまっとうするその最後の時まで、オーウェンは無二のパートナーとして仁に付き合うつもりでいる。
オーウェンの右耳を飾る仁の赤いピアスが誇らしげにきらりと光っていた。

 リリアは感情が高ぶるのを抑えつつ、オーウェンから仁について聞き出したことを頭の中で整理しようとした。

 すると、ひとつのことに思い至った。
ELGとして仁とずっと仕事を組んできたオーウェン。
この彼もまた、仁とともにカスピル辺境地域に向かい、惑星キランでの任務を遂行したのだということに──。

「……オーウェン。もしかして、あなたも陽性反応が出たの?」

 c−FDウィルスに感染しても発病までの潜伏期間は人それぞれだとリリアに教えてくれたのはオーウェン自身だ。

 リリアは仁の無二の相棒だけでも感染してないことをひたすら祈った。
彼がセリーア人の末裔であることが少しでも感染予防に影響を起こしてくれることを一途に願った。

 だが。

「この十年、どこに行くにも仁と一緒だったからね。……大丈夫だよ、私はまだ発病はしていないから。
きっと仁の墓くらいは作れるさ」

 五十を過ぎたばかりの男に好々爺らしいという表現はかわいそうだわ。
頭の片隅でそんなことを思いつつも、オーウェンの泣き笑いの表情はまさに「笑顔の似合うおじいちゃん」だとリリアは思った。

「もしも二年前に戻れるならば、左遷覚悟でカスピル辺境地域の任務を断わってるよ」

 オーウェンは、もうやり直せない「もしも」を考え、今までずっと悔やんできた。

 だが、リリアは違う。

「オーウェン、部屋をひとつ貸してちょうだい。場所がいるの。少し実験したいことがあるのよ」

 振り返ることはしない。
ひたすら前を向いて明日を見つめて生きている。

 仁と対等に立ち並ぶリリアならば、すべてを受け入れてくれるかもしれない。
そうどこかで思っていたからこそ、自分はリリアに話して聞かせたかったのかもしれない。
オーウェンは今頃になって自分の本能に改めて気付いた。

「場所? 栽培室程度でいいのかい? それとも飼育室ほど大きい場所が必要かね?」

 前向きなところは仁と一緒だった。

『うしろを振り返るヒマがあったら、さっさと前に進もうぜ』

 オーウェンの耳に、仁の口癖が蘇る。
いつだって、オーウェンの相棒は、「さあ、行こうぜ」と笑顔を向けて先を行く男なのだ。

 リリアはすっくと立ち上がって、オーウェンを見下ろして、にっこりと微笑む。

「とにかく、わたし、やるだけやってみるわ」

 そして、このリリアもまた、前だけを向いて強く羽ばたく女性なのだ。

「……やっぱり、きみたち似てるよ」

 オーウェンはそう言いながら、限りある生命の儚さを憂(うれ)うのだった。

 仁とリリア。とても似合いのふたりなのに……。
なのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 ほんの少しでも彼のことを思うだけで涙もろい癖が出てしまって困る。

 オーウェンは泣き顔を隠すように、咄嗟に俯いて唇を噛んだ。

 ああ、これではまた仁に叱られてしまう、と──。



illustration * えみこ



えみこのおまけ




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