きみを希う vol.6



 貴人用の四頭立て四輪大型馬車に随行した騎馬隊が町に入った途端、小さな町は騒然となった。王宮からの増援部隊の到着である。

 騎士隊は二種類の衣装を初夏の風になびかせていた。黒衣の近衛騎士が馬車を取り囲み、その前後を青衣装の宮廷騎士が二列に並んで闊歩(かっぽ)している。

 騎馬隊が通り過ぎるさまは優美にして圧巻であり、多くの人の子たちが足を止めて茫然と見入った。小さな町にこれだけの騎士隊がやってくるのは稀なことで、人の子たちは何事かと興味津々の体(てい)で騎馬隊の行く先を見守っている。好奇心の強い子どもだちが少しでも近づこうと身を乗り出そうとするのを母親が窘めている姿があちこちで見られた。騎馬隊の目指す先が町でも評判の料理の美味しい宿屋だと知れると、あそこの店ならば揚げたての鳥が料理が一番うまいだの、いやいや魚の煮付けが一番だのと自分の舌を信じる常連客たちの料理自慢もはじまった。美味そうな料理の話を聞いているだけで、食欲をそそる匂いが漂ってくる気がするから不思議である。気もそぞろになるものが出て、自然と腹も空いてきたのか、唾を飲み込む音や腹の音が賑やかにあちこちで鳴り響く。

 小さな町での騒ぎである。すぐに巡監使たちの耳に騎馬隊到着の知らせが入ってきた。ミッターヒルを先頭に巡監使一行は即座に宿屋の前まで出て行き、増援部隊を待ちかまえた。

「見えたぞ! 援隊だ!」

 遠目に小さかった騎士隊の隊列がどんどん大きくなっていく。あっという間に眼の前までやってきて、貴人用の馬車が宿屋の真ん前でピタリと止まる。すかさず馬車の扉が開き、痩身の若い男が身体を屈めて降りてくると、巡監使の部下たちは一斉に姿勢を正した。

 若い男が地面に足を着き背筋を伸ばすと、群を抜いてとても背が高いことがわかる。金が混じった特徴のある赤い髪はほとんど癖がなく、とても柔らかそうだ。彼が動いて起きる微風にさえ、さらりと靡いた。

 ミッターヒルはその若い男の朱金の頭髪を懐かしげに眼を瞬かせると、次の瞬間には深く溜め息をついていた。どうしてあなたがこんなところに? そんなに王宮は人手不足なのですか。そう言わんばかりの大きな溜め息だった。ところが、呆れたようなその仕種を裏切って、巡監使の表情は喜びに溢れている。そんな上司の複雑な風情(ふぜい)を見た部下たちは互いに眼を合わせて、訳がわからないとばかりに首をひねった。

「やあ、ミッターヒル。すまない、遅くなった」

 馬車から降りたばかりの明るい赤毛の男がミッターヒルを見て微笑んだ。

「わざわざあなたご自身がいらっしゃる必要などなかったでしょうに。それほどまでに王都は退屈なのですか。とはいえ、こうしていらしてしまったのであれば致し方ない。歓迎しますよ、ハリー」

 ふたりは固く手を握り合う。

「相変わらず手厳しい挨拶だな。きみたちの活躍については報告を受けているよ。きみにこの件を任せてよかった。ゆっくり酒でも交わしながら詳しく話を聞きたいところなのだが、いかんせん、こちらにもいろいろと都合ができてしまったのだよ。早速だがミッターヒル、モースに向けて出立してほしい。そちらの準備はできているか?」
「もちろんです。すぐにでも出られます」
「結構。それとだ、きみのところにウッドロー伯爵代行がいるだろう」

 赤毛の男は緑の眼を泳がせて、人一倍小さな存在を見つけると、「ああ、きみだね」とすたすたと歩いてセシルの前に立った。

「私はハリー・ハンクス・ハイマイエ・ル・ティモエだ。やっと会えたな。本来ならば伺候前に顔を合わせる予定だったのだが……。こうして会えてよかった」
「お初にお眼にかかります、ピアジュ侯爵。ウッドロー伯爵代行セシル・セイラ・セイリッシュ・ル・オトゥールです」
「セシルか。私のことはハリーでよいよ。ああ、畏まるな。そんなに固くなられるとお互い気疲れしてしまう。」
「申し訳ありません。ではお言葉に甘えさせていただきます。ハリーさま、とお呼びしてもよろしいでしょうか」

 セシルは深々と頭を下げた。

「よい。さて、セシル」
「はい」
「ここでのきみの任務は終了だ。これからきみは私と行動をともにしてもらう。例の荷を王都に運ぶついでに別件の用事を頼みたい。よいな? 詳細は馬車の中で話そう」

 再びミッターヒルに緑の視線を投げた。

「モースに向かうにあたり増援の騎士たちを連れてきたが、数は足りるな?」
「充分です」
「これ以降、隊の指揮はきみに頼む」
「承知いたしました。では彼らに食事休憩を与えたのち、行動に移します」

 ハリーは二列に並んだ王宮騎士たちに労いの笑みを振る舞った。

「聞いての通りだ。王宮騎士隊はこれ以後、ギルバーベル巡監使の指揮下に入る」

 ミッターヒルが続いた。

「王宮騎士隊に告げる。半刻後、モースに出立する。それまでに充分な休憩を取るように。近衛騎士隊は彼らのあとに休憩に入ってほしい」

 新しい指揮官が隊の全体を見回し終わったと同時に、あらかじめ打ち合わせをしていたかのような阿吽の呼吸で隊長格の騎士が「解散!」と短い号令を発した。

 即座に二列に整列していた騎士隊は列を崩して、岸に押し寄せる波のように我先にと食堂に入っていく。突然の大勢の来客にすぐさま宿屋の厨房はてんやわんやとなった。

 セシルは焦った。熊のような男たちが突然波のように大勢押し寄せてきたのだ。たまったものではない。このままでは揉みくちゃにされてしまう。だが、宿の入口近くから離れたくても、暑苦しい男たちの波に揉まれて立ち往生するのが落ちだった。

 そのときだ。小さな身体をぐいと引っ張る手が、熊の大移動の波からセシルを救ってくれた。仰ぎ見れば、赤みがかった金色の髪が陽の光を反射して輝いている。エルウィンがセシルを見下ろしてにやりと笑っていた。

「おい、そんなとこにぼけっと立ってるなよ。おまえみたいなちっこいの、簡単に踏まれちまうぞ」
「そこまで私は小さくないわ!」
「喚くな喚くな。おまえ自分をわかってないな。実際小さいだろうが」
「煩いな、まだ子どもなんだ、仕方ないだろう。これから伸びる予定なんだ。あと数年したらそんな口を叩けなくしてやる。と、とにかく何にしても助かった。一応礼を言っておく。ありがとう」
「ふーん。それなら俺もどういたしましてと言うべきかな。まあ、殊勝なのはいい傾向だぜ」
「ふん。好きにほざいておけ」

 一陣の風が吹いた。エルウィンの朱金の髪がなびいて、陽の光に透けて黄金色に輝いた。セシルはその眩しさに、瞬間、眼を閉じて光を遮った。視界が閉じると、街の賑わいにはない甲冑の金属部分の擦れる音が鮮明に耳に響いてくる。甲高い音が緊迫感を醸し出してとても耳障りだった。

「どうした? 眼に埃でも入ったのか?」
「……何でもない」

 ゆっくりと眼を開き、俯いた顔を上げると、少し離れた先で繰り広げられる賑やかな宿の喧騒を背景に、上位貴族らしくなくどこか落ち着かない素振りでハリーが周囲を眼を走らせているのが見える。田舎町の風情が珍しいのだろうかとセシルが疑問に思っていると、ちょうどこちらを向いたところで、ハリーがぱっと花が綻んだように一気に表情を明るくした。年齢も地位もかけ離れた侯爵の明け透けさに、セシルはびくりと身じろいだ。あまりにも大貴族らしくない。意外だった。

「ああ。そこにいたのか、エルウィン。きみはどうする。私とともに王都に帰るかい? それともミッターヒルについて行きたいのかな」

 高官であるハリーが一介の従者に屈託なく声をかけたことに、さらにセシルは驚いた。

「へ? エルウィン?」
「なぜにエルウィン?」

 一瞬棒立ちになったのは何もセシルだけではない。食堂に入りきれなかった王宮騎士やハリーの警護に残っていた近衛騎士、巡監使一行の面々の多くの視線が、朱金の髪の少年に集中する。

 そんな周囲の興味津々の様子を憮然と受けとめて、
「もちろん、モースに行くさ。中途半端は性に合わないからな」
ハリー相手にきっぱりと少年が答えたことにも正直セシルはびっくりしていた。

 少年の毅然たる態度は不遜とも言えた。その場に漂う空気が一瞬にして張りつめる。周囲は固唾を飲んで見守っていた。

 最初に反応したのは、少年と長らく行動をともにしてきたヒューム、マーシャル、ジョルダンの三人の若い騎士たちだった。慌てて少年の不遜な態度を窘めた。

「これ、宰相補佐官の御前だぞ」

 ところがだ。

「よいよい。これは私の弟なのだよ」
「お、弟っ!?」

 ハリーが笑って抑えたものだから、ミッターヒルを除いた巡監使一行はぎょっと眼を剥いて少年から手を離した。

「そうかそうか。うまくやっているようで何よりだ。では今後もミッターヒルについて行きなさい。だたし無茶をしてはいけないよ、エルウィン。わかっているね」

 ハリーは弟可愛さに相好を崩してどさくさまぎれに抱きしめようとする。その行く手を遮ったのは、エルウィンの上司であり守役でもあるミッターヒルだった。

「ハリー、よろしいですか」

 エルウィンはほっと息を吐きだすと、とりあえず感謝の視線を上司に投げた。だが感謝するには少し早かったようだ。

「このままエルウィンを同行させるのはこちらとしてもやぶさかでないのですが。今後の話になりますが、任務遂行ののちはそのままウッドローにやろうと考えているのです。いかがでしょう?」
「ウッドロー? ああ、セシルの領地だな」
「はい。エルウィンが伺候試験に合格するにはそれが最善だと思いまして。エルウィンがイクミル本流の礼儀作法を身につけるのにこれはいい機会です。それに意外とセシルとは相性がいいようですし。見ていて微笑ましいほどの師弟振りなのですよ」
「どこがだ!」

 自分の意向を無視してどんどん決められていく今後の予定に、エルウィンは唸った。ハリーは弟のいつもとは違う焦りように片眉を上げて、おや、これは珍しいこともあるものだと興味を惹いた。

「ウッドローか……。なるほど、それも一案だな」

 イクミル王国といえば聖王嫡流の王家が統治する大国である。イクミル風の作法や仕種は流れるように優美で華やかだ。身に付けられれば弟にとって財産にも武器にもなるだろう。

「かの伯爵家は確か数代前にイクミルから花嫁を迎えていたのだったな」

 ハリーはカンギール人の子どもを改めて見すえた。視線を受けて、セシルは軽く一礼してから答えた。

「はい。おっしゃるとおりです。私の曽祖母はイクミル王国ロザイ公爵家の出身です」
「イクミルのロザイと言えば、臣籍降下した王子が継いだことで公爵位を賜った大貴族だな。今のイクミルの王統はロザイの男子を養子に迎えた流れだと聞いている。なるほど、イクミル本流というのは疑う余地もないな。ふむ、確かにエルウィンにはよいかもしれぬな」

 ハリーが迷ったのは瞬きする間だけだった。

「了解した。この件に関してはミッターヒルのいいようにするがいい。──エルウィン、よくよく頑張りなさい」

 エルウィンはけっと乱暴に吐き捨てた。が、お節介なことに、「よかったな。これで何とか合格の見通しがつきそうだぞ」とミッターヒルが強引に朱金の頭を押さえつけて、「ほら、きみからもハリーに礼を言いなさい」とぐいぐい上から力を入れてきたため、仏頂面をハリーに晒すことは叶わなかった。

 一方、そんな表情豊かな弟の様子をじっと眺めていたハリーの顔は先程から柔らかく解れっぱなしである。

「しばらく会わないうちに随分丸くなったものだなあ。エルウィン、兄は嬉しいぞ」

 うんうんと嬉しそうにハリーは何度も頷いた。対して、どこに眼をつけてやがるとエルウィンはくわっと牙を剥いて意気込む。だがそれはふがふがと空気の抜けるような変な音にしかならなかった。ミッターヒルの武骨な手が電光石火の早業でエルウィンの口を塞いだためだ。

 エルウィンはミッターヒルの腕から逃れようと抗ったが、自分よりも二回りも体格の優れた男の鍛えられた腕力を見せつけられただけだった。俊敏の動きを誇るエルウィンだが、こうもがっしりと二本の腕で囲い込まれてしまうとさすがに身動きは取れない。

 それでもこのままいいようにされるのは癪だった。今の自分では到底敵わないのだとしても、勝手に自由を束縛されるのは我慢ならなかった。

「あと五年、いや三年でこの腕から抜け出して見せる! 見てろよ! まだまだ背だって伸びてるんだからな!」

 そんな反抗的なエルウィンに、ミッターヒルが年長者の余裕の笑みを浮かべてこっそりと耳打ちをした。

「いいかね、エルウィン。ここでハリーに盾突いてみろ。きみは即刻、王都直行が決定だぞ。当然そのままティモエの屋敷で缶詰生活再開だ。よくよく考えたほうがいいと思うのだが、どうかな?」

 エルウィンは手足をばたつかせるのをピタリと止めた。

 急に従順になった少年の様子にセシルは眼を見開いた。滅多に見られない不可思議な情景がそこにあった。思わずじろじろと見てしまう。先ほどから随分驚かせっぱなしだ。

 一方、普段の大人びたセシルを知っているミッターヒルは、「ほお、これはまた」と面白そうに受け止めていた。真っ直ぐに注いでくる視線がいかにも年相応の子どもらしくて好ましい。

 それからの行動は何となく気が向いたからとしか言いあらわせない。自分でも理由がはっきりとしないまま、漠然とただ一石を投じたくなったのだとしか言えない。気がつけばミッターヒルはカンギール人の子どもに囁いていた。

「ハリーはエルウィンを溺愛していて、できれば手元にずっと置いておきたいと思っているのですよ。だがエルウィンのほうはこの通り、自立心が素晴らしく旺盛でしてなあ。そこのところがちょいとばかり兄弟ですれ違いがあるのです」

 セシルはえっ、とミッターヒルの顔を凝視した。巡監使が頷くと、セシルの口から細い息がわずかに漏れた。

 セシルにとって、エルウィンがハリーの弟だというのは衝撃の事実だった。ましてや、兄弟関係がいささか複雑であるらしいとなればセシルも人の子だ、まったく興味がないというと嘘になる。

 年の離れた弟に何かとちょっかいをかけて楽しんでいるハリーの茶目っ気な行動が眼の端に入った。うんざりとした顔をしながらもエルウィンは律儀に兄の相手をしている。自分を構ってくる兄に対し、実は満更でもなさそうだ。

「もしかして、あれはあれで複雑な心情をかかえている……?」

 兄弟でふざけ合う。そんなやり取りができる彼らがほんの少し羨ましく思えた。セシルにはもう二度と戻ってこない時間だからだ。

 セシルは久しぶりに兄のことを思い出した。兄もやはり自分に至極甘かった。何かと頭を撫でるのが癖で、その度にセシルの長い髪はくしゃくしゃになったものだ。昔、家族がそろっていたころ、セシルは腰まで髪を伸ばしていた。父も兄もセシルの真っ直ぐな乳白色の髪をよく褒めてくれた。母は毎日櫛で梳かしてくれ、時には複雑に編んでくれた。そうして、美しく編まれたその出来栄えを誇らしげに見て、「あなたがにっこりと微笑めば、いずれどんな男性だってあなたの前に膝をつくわ」と娘自慢をしていた。母を見て子煩悩だと父が言えば、ご自分こそ鏡を見てみなさいと母も笑って言い返していた。兄は兄で、嫁ぎたくないのならいつでもウッドローにいてもいいんだぞ、自分が一生養ってやるからなと言い、父も兄に大いに賛同して、母から親子ねえと呆れられていた。

 自分が嫁ぐ日がくるなどずっと先のことで、それまではこんなふうに笑い声に囲まれた日々が続くのだとセシルは信じて疑わなかった。そう、あの日までは──。

「セシル、大丈夫かい?」
「──あ、はい」
「何度も呼んでもぼんやりとしていたね、疲れたのかな?」
「いえ、少し家族のことを思い出していただけです」
「ご家族? そういえば、きみはウッドロー伯爵のお孫さんでしたね」

 孫が伯爵代行を名乗っているということは、伯爵の息子夫妻が亡くなっていることを意味する。

「はい。恐れ多いことに、ついハリーさまに兄の面影を重ねてしまいました」

 その言葉で、ミッターヒルは亡くなっているのは両親だけでないのだと知った。

「そうか、セシルには兄君がいらしたのですか」
「はい。とても優しい兄でした。兄弟仲もすごくよかったのだと思います」

「差支えなければ聞いてもいいかね」
「構いません。両親と兄はハンギトに向かい途中に船が沈んだのです」
「ハンギト? まさか、シンラスの戦いの火付になったあの水難事故に……?」
「本当なら私も兄たちと一緒に公用船に乗るはずでした。父はウッドローに生える高山植物に薬草としての効能があるか調べてみようとハンギト行きを決めたのですが、見聞を広めるいい機会だからと兄と私を誘ったところ、これを聞いた母が久しぶりに家族そろって旅行したいわと言いだしまして……。日頃から父は母に甘かったので結局四人で行くことになりました」

「島国のハンギトは医療技術が進んだ交易国家ですからね。それほど大きな島ではありませんが、多くの国から多種多様の珍しい特産物が集まるのでたくさんの商品が買い付けに来ます。その商人たちもまた自分たちの商いをしていくのでどの港町も三日に一度は市が立つのでいつも賑やかなのですよ。父君はハンギトをご家族に見せてあげたかったのですね」

 あの繁栄する街を知っている身としては、子どもたちに見せてあげたいと思ったセシルの父親の気持ちがわからないではなかった。

「でも楽しみにしていたそのハンギト行きだったのですが、私は前日から体調を崩してしまいまして……」
「ひとりだけ一緒に行けなかった?」
「はい」

 急遽、祖父とともに領地に残ることになったセシルは、出立の朝になっても熱っぽい赤い顔で床に就いていた。当然見送りすらもかなわない。両親と兄は公用船の出発日が迫っていたためセシルの回復を待たずにウッドローを立つことにした。これはただの家族旅行ではなかった、ウッドローの今後の交易事業がかかっていたのだ。

「だが一緒に行かなかったお蔭できみはこうして生きている。あの船に乗らなかったのは幸運でしたよ」

 セシルが乗るはずだった公用船はハンギトに向かう途中で水難事故にあい、両親たちはそのまま二度と帰らぬ人となった。セシルは家族と一緒に出掛けなかったお蔭で死なずに済んだのである。

「そうですね。幸運だと思わなくてはいけないのでしょうね」

 セシルは耳にかかった乳白色の髪を一房摘んだ。結びきれなくて髪が頬にかかってしまい、邪魔に思って耳に掛けるのが近頃癖になってしまっている。今朝、うしろひとつに結んだ髪は馬の尾毛のような立派な長さはない。結んだ髪先に指でつんつんと触れるとどこか痛く感じるほど短くて貧相だった。

 だが、これでも伸びたほうだ。二年前、ばっさりと切ったこの髪を見て、悲痛の面持ちで嘆きわめいてきつく抱きしめてきた乳母の姿を思い返すたびにぎゅっと胸が締め付けられる。あの時、初めてうなじをさらすほど短くした。まだ秋だというのに竦むほどに背中が寒く感じたものだ。

 その短かった髪も今では肩を超すまで伸びて、辛うじてひとつに結べるまでになった。それだけ月日が過ぎたということだろう。

 最近、セシルは家族とのあたたかい在りし日に想いを馳せるたびに感じることがある。年々、両親や兄の面差しがだんだんとぼやけてゆくような気がして、とても怖くなる。いつまでも鮮明に覚えていたいのに、いつかあの懐かしい声音も顔も忘れてしまうのではないかと不安の影がつきまとう。絶対に忘れたくなかった。

 あの頃がもう二度と手が届かないのだとしても、遥か遠くの出来事のように思えてしまうのだけは嫌だった。

 セシルは痛みで記憶を繋ぎとめるように、唇をぎゅっと噛みしめた。





 部下たちがひとときの憩いを満喫している間、ハリーとミッターヒルは宿屋の二階の客室にいた。ふたりの間にに挟まれたテーブルの上には地元特産の雉料理が並んでいる。積もり積もった話をしながらゆっくりと食していため、運ばれてきた時分は湯気が漂う熱々の料理だった皿も、今では冷めてしまっている。それでも美味しく食べられるのは有難い。

 ミッターヒルはもとより、今では宰相補佐という高い地位にあるハリーもまた、数年前までは師団を束ねていた経歴を持つ騎士である。戦いともなれば何日も天幕の世話になりもした。作戦によっては野宿もあり得た。森に半日潜んだときは干し肉が齧れれば僥倖で、空腹でけもの道を歩き回るのは珍しくなかった。ふたりは安寧の場所しか知らない苦労を知らずの貴族の子弟とは違う。

 ましてや田舎料理とはいえ地元でも評判の味ともなれば、例え冷えていたのだとしても美味しく腹におさめることなど朝飯前だった。

「そういえば、ルイスさまのところに女の子がお生まれになったそうですなあ。お祝いついでに顔を見てくると以前おっしゃってましたが、いかがでした? ルイスさまはハリーにとっては姪姫にあたる方、赤子はやはりティモエ家譲りの赤毛でしたか?」
「いや、栗毛だった。夫の侯爵に似たようだ」

 ハリーの生家では赤毛の子どもがよく生まれる。赤毛で生まれた子どもの中にはハリーやエルウィンのように、成長する段階で髪の赤みが淡くなる場合もあれば、まったく変わらない場合もあった。ハリーの姉である王妃ビィビィアンがそれである。彼女は柊の実の汁で染めたような派手な赤毛を誇っており、娘のルイスも母親似の真っ赤な髪をしている。母娘はハリーら兄弟とは違い、年を経るほど髪が金色がかる様子はないが、ティモエの血筋によくあらわれる赤毛は彼女たちの誇りでもあった。
 
「そうですか。娘は父親に似ると言いますからね。それにしても浮かない顔ですねえ。何かありましたか?」

 眼の前にいるのは自分の元副官であり、親しい友人であるミッターヒルだ。この男を信じられなければ、ほかの誰であろうと到底信じきれない。おのれの腹心を打ち明けるとしたら、第一にこの男であると断言できた。

 ハリーは真摯な視線でミッターヒルの眼を射抜いた。ミッターヒルもハリーに倣って食事の手をとめた。

 数拍ののち、ハリーが重い口を開いた。

「ミッターヒル。きみの忠義を改めて問いたい。このオルゼグンの行く末に関わることだ」

 大切な友人にして、かつての元直属上司であるハリーの纏う気が鋭く変貌した意味を考えながら、ミッターヒルは慎重に応えた。

「私の忠誠はこの国オルゼグンに、しいては王家にあります。ハリー、よろしいか。私からもお伺いしたい。ずっと不思議に思っていました。あなたは臣下であるとはいえ、王家の血を濃く引いておられる。ヒューイッシュ王子に次いで王位継承権二位をもつ方と世間で噂されても申し分ない方だ。ましてや、陛下が正式に王太子を指名していない今、王位継承権の順位が崩れる可能性もあり得る」

 その言葉にハリーは頷いた。ミッターヒルもまた頷く。

「よい機会です、どうかお答えください。なぜ陛下は王子の立太子を拒んでおられるのでしょう。先のシンラスの戦いを含む多くの戦況のせいで今や王家の男性は陛下とヒューイッシュ王子しかいらっしゃらない。仮に王女さまがたの男のお子さまを立てることを考えておられるのだとしても、それはそれで問題がないわけではありません。アンジェラさまは他国に嫁いだため王位継承権は喪失しておられるし、ルイスさまは侯爵家に降嫁した身であられる。ましてや、このたびお生まれになったルイスさまのお子さまは女の子です。男子のみ王位継承が許されている我が王国において、ヒューイッシュ王子に次いで王位に近いのは、ハリー、あなただと考える貴族はとても多いのですよ。あなたの母君アマンディアさまは前王ケリムス・ケラン陛下の唯一の王女にして現陛下の妹君であられるのですから」

「まったく頭の痛いことだな。ルイスさまが男の子をお生みになればよかったものを」
「今更言っても詮ないことです」

 国王ケリムス・ケランは四十半ばを過ぎた美丈夫である。先王の在位が長かったため、年齢のわりには王座についておよそ三年とまだ短いが、臣下をうまく使っているなかなかの政治手腕だとすでに噂が流れている。

 国王と王妃の間には、第一王女アンジェラ、第二王女ルイス、そして末子のヒューイッシュ王子の三人の子どもが生まれ、はたから見ても夫婦仲は睦まじく、特に問題があるわけではない。

 オルゼグン王国では特に定めているわけではないが一夫一妻制が慣習となっている。だが、王侯貴族の間では後継者問題の解決策のひとつとして愛妾の存在が暗黙の了解となっており、特に国王ともなれば王統を紡ぐために、後宮を構えて多くの美しい側室を召すのは珍しくない。ところが国王は前父王にならうように妃は王妃だけとし、側室を娶るつもりはないらしい。王妃の三回目の出産で王子が生まれた途端、王の意向はさらに顕著になり、側室に関する臣下からの打診をますます強く拒むようになったのは知られた話だった。

 ヒューイッシュ王子という直系の男子がいるのだから必要ないと王に言われてしまえば、貴族たちは強く側室を推すのをはばからざるを得ない。王子の生母である王妃はゲディス公爵のひとり娘であり、ゲディス公爵ティモエ家といえば第二の王家とも影で呼ばれているほどの大貴族である。王妃の強い後ろ盾を敵に回してまで自分の娘を側室に推挙する勇気ある貴族などひとりもいなかった。

「こう申しては不敬となるやもしれませんが、ヒューイッシュ王子は良くも悪くも凡人でいらっしゃる。毒にもならなければ薬にもならない。将来、王となられたら周囲の意見が幅を利かせることになるのは間違いないでしょう。陛下がそれを案じて王子の立太子をさけておられるのか、この私ごときにはわかりませんが、このままでは前王陛下の二の舞となってしまいます」

 ハリーの母方の祖父にあたる前王ケリムス・ケランは、臨終の間際になってさえも当時王子であったテレンツ・テインを次期国王に指名しなかった。ただひとりの息子であったにも関わらずである。それは臨終の席に並んだ多くの貴族が知ることであり、今でも前王の近臣の中には、「ケリムス・ケランさまの立太子を最期まで拒んでおられるようだった」とむなしく語り紡ぐものさえいる。

 それなのに、亡き父王の成しように苦汁を嘗めたはずの国王が今また同じ轍を踏もうとしている。ミッターヒルはどうしても解せなかった。

「王妃はあなたやエルウィンの姉君であられる。陛下の甥にして義弟でもあるあなたは、元近衛隊第一師団団長であり、今は宰相補佐官として活躍するなど、文武両官吏のまとめ役を経験している。王国内の治政に深く携わっているそんなあなたを、陛下は今後どのような位置に据えるおつもりなのでしょう。私はそこをぜひ知りたいのです」

 ハリーとエルウィンの父であるゲディス公爵は二度結婚をしている。最初の妻は他国の貴族の娘で政略結婚だった。先妻の間には娘がひとり生まれ、十数年後、娘は美しく成長すると国王に嫁いだ。それが王妃ビィビィアンである。

 産後の肥立ちが思わしくないまま先妻が亡くなると、数年後、公爵はアマンディア王女を妻に迎えた。王女のほうがすごく乗り気で、ほとんど押し掛けるような形で降嫁したようだと当時随分話題となったとハリーは乳母から寝物語に聞かされていた。

「陛下が何をお考えなのか、それは私にもわからない。ただ、私もきみと同じ意見だ。おそらく陛下はできるだけヒューイッシュ王子の立太子を伸ばすおつもりなのだろうよ。だがそれは今、我々が考えるべき問題ではない。それにだ、仮に誰かが私のことを尊い椅子に近い存在だと噂しても、それはあってはならない未来だときみは知っているだろう? 万が一にも私では当座落ち着くだけで、そんなものただの一時凌ぎにしかならない。それでは次の混乱を大きくするだけだ」

 緑の強い視線を浴びて、ミッターヒルは頷くしかなかった。

 そして一見、まったく違う話をするかのように、耳にしたばかりの話題を出した。

「例の公用船ですが、セシルの両親と兄も乗っていたそうです」
「──それは気の毒なことだ」
「本当に」

 ハリーとミッターヒルは痛々しげな面持ちで互いを見つめた。

 階下の喧騒が窓辺から漏れてくる。

「ミッターヒル」

 少しの沈黙の後に、ハリーの堅い声が部屋に響いた。

「思い過ごしかもしれない。だが、見過ごしてはいけないのかもしれない。──まだ何とも言えないのだが、ルイス王女の初産を祝いに赴いた際、少し気になることがあった」

 この人がここまで緊張するのは珍しい。ミッターヒルは思わず肩に力が入った。

「気になることですか? 赤子は元気だったのでは?」
「いや、母子ともに健康だった。健康なのは何より喜ばしいことなのだが……。その生まれたばかりの女の子なのだが、赤耳班が出ていた」
「赤耳班? ああ、それは先の王妃のご実家であるジラッシェルンド侯爵家のお血筋が強く出たのでしょうね。現侯爵も生まれた時に赤耳班が出ていたと聞いたことがあります。赤耳班は生まれて半月ほどで消えてしまうという話ですから、あなたがルイスさまのお子さまの赤耳班を眼にしたのは幸運とも言えるんじゃないですかね」
「幸運、か。ある意味そうなのだろうな……」

 ハリーはセシルと同じ言葉を絞り出すと、わずかに俯いて黙りこんだ。だが考えがまとまったのだろう。すぐに顔を上げた。

「事態はもしかすると悪い方向に動くかもしれない」

 真摯に憂いた表情がミッターヒルの眼を惹いた。

「確かめたいことがある。セシルを使うつもりだ」
「それは別件の用事とやらのことですか」
「そうだ」

 ハリーがなぜ硬い表情をしているか、ミッターヒルには思いつかなかった。

「もしかすると我が公爵家の問題だけでは治まらなくなるやもしれぬ。そうなると偉いことになる」





 休憩も充分とり、ミッターヒルが率いる一行がモースに向かうときが来た。

 その別れ間際、ウッドローでの再会を仕方なしに約束するセシルとエルウィンの姿が見られた。

「精々早いこと任務を終わらせることだ。今のままでさえ準備が遅れ気味なのに、このままだときみ、本当に次も落ちることになるよ」
「この小姑セシルめ! 人を焦らすんじゃねえよ! 待ってろよ、ウッドローに最短で行ってやる!」
「そこまで言うのなら待っててやろう。だが精一杯急げよ。きみが一定の水準に到達するなるまでどれほどかかるか知らないが、日々は刻々と過ぎている。あっという間に秋が来るぞ。ウッドローの秋は短い。すぐに雪で道が塞がってしまう。来た途端に帰る羽目になっても知らないからな。言っておくが、試験直前までウッドローに居つこうなんて考えるなよ。その頃にはウッドローは雪で覆われているはずだ。あの雪山を下りるのは命がけだぞ」
「王都に安全に戻るつもりであるならウッドーにいられる時間はさらに少なくなるってか?」
「そうだ。それだけ時間がないのだとゆめゆめ忘れるなよ、エルウィン」
「上から目線で言うんじゃねえよ! 俺を侮るなよ、この餓鬼が。俺はこれでも器用なほうなんだよ。やる気になったらできないものはないんだ」
「言ったな?」
「言ったさ」
「よし、言質は確かに取ったぞ。これで逃げることも投げ出すことも許さないからな。ミッターヒルさんの頼みだから仕方ない。面倒だがきみの根性を試してやるさ。ああ、それとウッドローに来るのなら自分の食い扶持分は働いてもらうからそのつもりで。うちはそれほど豊かではないのだからな」

 別れを惜しむというよりも、商談の駆け引きをしているかのようだった。それでも、再会の約束を交わすことには違いなく、そばで聞き耳を立てていたミッターヒルは「いい傾向だ」とほくそ笑んでいた。

 そうして巡監使の指揮のもと騎士隊がモース中立地帯に向けて出立した。

 彼らの無事を祈るかのように、柔らかな陽の光が馬上にある背を包み込むようにいつまでも明るく照らす。

 そして一行を見送ったハリーもまた、王都に向けて引き返すために号令をかけた。セシルはハリーと同じ馬車に乗るように指示され、恐縮しつつも受諾した。

 ふたりきりの馬車の中、馬が歩き出した途端、ハリーはセシルにエルウィンのことを尋ねてきた。これまでの弟の様子をどんなささいなことでも聞きたがるハリーは弟が大好きなのだと全身で表現していた。一部の羞恥に耐えられない事柄を除いて、セシルは自分の知っている限りの少年の話をした。にこにこと楽しそうにセシルの話に耳を傾けるハリーは、宰相補佐官の威厳などかなぐり捨てていた、弟に愛着するただの兄でしかなく。

「兄弟仲がよろしいのですね」

 そうセシルが言えば、ハリーは待ってましたとばかりに口を開いた。

「エルウィンとは十二違いでね、これだけ年が離れていると弟というよりも我が子のようで、すごくかわいいのだよ。私はあの子の名付け親でもあってねえ。エルウィン・エドルッド・エアリック・ル・ティモエ──あれの二の名のエドルッドは私が考えたのだよ。今でもよく覚えている。あの子が生まれた時、私と父と祖父がそれぞれひとつずつ名前を付けたいと手をあげ、名付け親に誰がなるかはすんなりと決まったのだが、誰が一の名を付けるか、名前の順番をどうするかで素晴らしく揉めたものだよ。とにかく三人ともがお互い一の名の名付けの権利を譲らなくてねえ。まったく父も祖父も大人げないだろう?」

 親しい仲で呼び合うのは一の名のため、必然的に人気が高くなる。

 そして十二歳の少年ハリーは目的達成のためには手段を選ばなかった。

「仕方がないから私は生まれて初めて駄々をこねてみせたのさ。あれは子どもにしかできない芸当だからね。使わない手はない」

 すでにそのころから策士だったのだと白状するハリーだった。

「だがどうやら私は役者にはむいてなかったらしい。父は私の嘘泣きに気付いて最後まで引かず仕舞いだった。さすがに祖父は子ども相手に大人げないと言って折れてくれたが……。世間で言われてる孫には弱いというのは本当だね。おそらく祖父にも私の拙い芝居はばれていたのだろうが、孫可愛さについには二の名の権利を譲ってくれたのだよ」

 オルゼグン王国には、韻を踏んだ名前は護符になるという言い伝えがある。この古い風習は今も貴族の間で色濃く残っており、嫡子や重要な立場の子どもが生まれると、健やかな成長を願って韻律で並ぶ三つの名前を授けるのだ。

 また、大事な加護が分散されたり削がれたりしないように、この特異な名を付けるべき子どもを親は真剣に選ぶ。韻律の名は、我が子すべてに与えていい名前ではないと言われているためだ。

 こんな話がある。ある親が生まれた子どもすべてに韻律の名を与えた。どの子もちゃんと無事に大きく育ってほしいと言う親心だった。ところが彼らの子どもはひとりも成人することなく、病気や事故で亡くなってしまった。欲にまみれてはいけないという戒めなのか。その話はあっという間に国中に広まり、我が子すべてに韻律の名を付けるのは良くないと信心深く言われるようになった。

 それでも生まれた子どもすべてに韻律の名を与える場合も生じる。セシルを取り巻く環境がそれに当てはまる。

 セシルの兄は、いずれウッドロー伯爵となる長子として韻律の名を付けられた。そしてカンギール・オッドアイの瞳を持ってこの世に生を受けたセシルにも、その生まれながらにして背負った業の深さを案じた両親は、我が子の行く末を少しでも守ってくれるようにとセシル・セイラ・セイリッシュという韻を踏んだ三つの名前を与えたのである。

 セシルと兄はふたりだけの兄弟なのに、ふたりとも韻律の名を持っていた。だから、兄が亡くなった時、名の戒めの伝承が頭をよぎり、セシルは小さな胸を痛めた。

 ハリーもまた、将来ゲディス公爵を継ぐ者として韻律の名を授けられたという。嫡子となれば当然のことだ。

 だがそれならば、エルウィンはどうして韻律の名を持つのだろう。

 セシルが思いにふけっていると、
「セシル、エルウィンと仲良くしてくれて嬉しいよ」
 この言葉で話を結び、歓談の時間はこれで仕舞いとばかりにハリーが顔つきを一変させた。

 ふと頭に沸いた疑問を投げかける好機をのがしてしまったのだと気がついてもすでに遅い。

 セシルもハリーに倣って気持ちを切り替えることにした。

「そろそろ仕事の話をするとしよう。この部隊はこの先で二小隊に分かれて行動することになっている。第一小隊は荷をこのまま王都へ運び、第二小隊は調査任務にあたる。セシル、きみには私とともに第二小隊に属して、調査の手伝いをしてもらいたい。ただし、これは公式任務ではない。現時点では私個人の頼みごとと言ってもいい。とはいえ、今後個人の枠を飛び出す可能性が大きいのだがね」
「つまり、先行調査ということですか?」
「そう受け取ってもらって結構だ。当然のことだが、調査内容は秘密厳守。ただし、エルウィンが尋ねてきたら答えるのは良しとする」
「は? エルウィン…ですか?」

 ここでなぜ、その名前が出てくるのか不思議だった。

 だが、その答えは簡単にハリーが与えてくれた。

「当事者のひとりとなりうるところにあれは立っているからな、差し障りない」
「わかりました。あの……」
「質問があるなら言ってみなさい」
「ありがとうございます。では──彼がもしも尋ねてこないまでも興味を持った場合はどうなのでしょう? こちらから話すべきなのでしょうか?」

「その必要はない。綻びに気づかないものにわざわざ知らせてやることはないし、気づいたのに見ないふりする輩など知る資格すらないのだから。地位や身分には当然権力もついてくる。だが、権力や権利を主張し、行使するのであれば当然義務もまた果たさなければならない。私たち貴族は責任を負って、領民を束ねる立場にある。そのような立場にあるものが無知ではいけない。それでは誰も守れないからな。きみも私も、貴族と名乗る以上、無知であることは罪となる。わかるな?」
「はい」

「私たちが貴族だということは変えられない事実でしかない。あれが口で何と言おうが、エルウィン・エドルッド・エアリック・ル・ティモエであることに変わりないように」

 親や生まれてくる場所を好きなように選べる赤子などいやしない。エルウィンがゲディス公爵家に生を受けたように、セシルがカンギール人として生まれてきたように、人の子は生まれるときに選択の自由など持っていない。セシルは身に染みるほどよくわかっていた。

 そしてハリーもまた、それを理解するひとりであり、弟にも同様の理解を求めていた。

「私は愚鈍な弟を持った覚えなどないのだよ。あれのことだ、いつかたどり着くに決まっているさ。そしてあの気性からして気づいたら絶対無視などしないだろう。それどころか嬉々として突いてくるに決まっている。大の貴族嫌いのあれが貴族の不正を見逃すはずがないからな」

 ハリーは唇の端を上げて妖しく笑った。

 まさにここにいるのは、とろけるように弟を溺愛する兄などではなく、王国の重責を担うに相応しい宰相補佐官ピアジュ侯爵その人だった。貴族の誇りを高く胸に掲げ、頑固たる自尊心を持つ貴族らしい大貴族、それがハリー・ハンクス・ハイマイエ・ル・ティモエなのである。

 鷹のような鋭い緑の視線で射抜かれたセシルは年長の大貴族の依頼に諾々と頷くしかなかった。まだ夏には早いというのに、小さな背中にじわりと汗が滲んでくる。

 セシルはハリーの夕焼けを思わせる赤い頭髪を眼に入れながら、偉い兄を持ったものだなと少しだけ不憫に思った。あの弟はこの兄からどれほど大きなものを求められているのだろう。自由奔放が似合うエルウィンのことだ。兄からの多大な期待をかけられて大きな負担にならないのだろうか。

 眼の前の侯爵の赤毛が夕焼けの色だというのなら、もっと金色の強いエルウィンの朱金の髪は朝焼けのようだと思う。一日のはじまりの色は未来を切り開く色でもある。

──逃げ足速そうなあのエルウィンがどこまで踏ん張るか見ものだな。

 この時、セシルはよもや自分もその当事者のひとりに数えられることになろうとは考えもしなかった。

 運命の歯車はすでにゆっくりと回りはじめていた。


   


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