きみを希う vol.5



 王都などの大きな都で宿屋と言えば、一部で朝食を出すところもあるが素泊まりが基本である。繁華街には料理自慢の店が軒を連ねているので、観光を兼ねて好みの店を探すのも宿泊客にとっては楽しみとなっているからだ。

 だが、これが鄙びた田舎だと食堂を探すのも一苦労してしまう。

 日暮れ方にたどり着く客たちの中には、疲れた身体に鞭打っていちいち外に食べに行くよりもゆっくりと宿屋で羽を伸ばしたいと考えるものが多い。いつしか客の要望により宿屋は食事を出すようになり、地方に行けば行くほど食堂や酒場を兼ねた宿屋は珍しくなくなる。

 料理がうまいと旅人の口から口へと噂は広まる。少し遠回りにになっても宿屋の名物料理を味わいたいと思う客も出てくる。

 巡監使一行が入ったのはそういう料理自慢で知られた宿屋だった。特に昼時や日暮れ方ともなると出来立ての料理からのぼる湯気の熱気と美味しそうな匂いが外まで漂い、それがまた道行く客足を惹きつける。二階の客室にいても階下の喧騒が聴こえてくるほど、宿屋の食堂は活気に満ちていた。

 それでも、午前中の早い時間帯はいつも騒がしい食堂も鳴りを潜める。年季の入った傷だらけのテーブルや椅子の木の温もりが優しい朝の光に照らされて、懐古的な風情を漂わせ、朝の食堂にはゆったりとした時間が流れる。

 裏庭に植えられた木で羽を休める小鳥たちの、寝起きの耳に心地よく囀(さえず)りや宿泊した客だけが味わえる宿屋特製の栄養満点の朝食に舌鼓を打つ音。そして、旅立つ客の「世話になった。また利用させてもらうよ」の労いの声と、それに笑顔で応じる「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」の宿屋の主人の朗らかな声。外まで客を見送り戻ってきた主人が足を止め、食堂で和んでいる客たちの様子を愛おしむようにぐるりと眺めてから次の仕事に取り掛かるために奥へと引っ込んで行く、その主人の軽い足取り。それらひとつひとつが朝の憩いのひとときに彩りを添えるのだった。

「いいか、エルウィン。辞儀には大きくわけて立礼、引き足、折敷と三種あるからな。立礼はこれまた三種あって、会釈、敬礼、最敬礼がある。引き足は一種。折敷は蹲式(そんしき)と踞式(きょしき)の二種だ」
「なんだそりゃ。そんなにいちいち使い分けてるのかよ」

「エル坊、辞儀は礼儀作法の初歩の初歩だぞ。ここでつっかえてるようじゃ試験は今年も無理かもな」
「くっそ。何が無理だ。やってやるさ」
「その意気込みだけは買ってやろう。よし、まずは会釈だ。左腕を胸に当てて頭を下げる。軽く腰を曲げるんだ。こうだ、わかったか。じゃあやってみろ」

 朝起きて、セシルが階段を降りようとすると、いつもこの時間は静かなはずの食堂が何やら騒がしかった。何段か降りて、階段の手すりの柵からひょっこり顔を出してみると、いくつものテーブルが並ぶ食堂の真ん中で、赤毛の少年が何度も頭を下げていた。

「違う違う。そうじゃない、腕は水平に曲げるんだ」
「エルウィン、手が開いてるぞー。軽く握れよ」
「肘は張らな。格好悪いぞ」
「おまえ、会釈程度でここまで苦労するなよなあ」
「今時珍しい骨董品だなこりゃ。ただ頭を下げるだけなのにどうしてそんなに不器用なんだか」
「うるさいな! いいから外野は引っ込んでてくれ!」

 ぎこちなく挨拶を繰り返す少年の真正面に年長格の騎士ゲザルトが立っている。そのふたりを囲むように椅子に座った騎士たちがやいのやいのと囃し立てている。

 若い騎士たちが繰り広げているやんやの騒ぎは鎮まる様子がまったくない。その騒ぎたてる様子を少し離れたところで楽しそうに見物しているミッターヒルをセシルは見つけて歩み寄った。

「おはようございます、ミッターヒルさん。いったいこれは何事です?」
「おはよう、セシル。昨夜はぐっすり眠れましたかな?」
「は、はあ」

 昨日の入浴時の喧騒を知られているのかと思い、セシルは頬をぽっと赤らめた。そんなセシルにミッターヒルは「いいからいいから」と笑顔を見せながら、テーブルに頬杖をついていた手をどかして隣りに座るよう勧めてきた。セシルは勧められるまま席に着いた。

 あちらでは依然として奮闘が繰り広げられている。

「会釈はそんな感じでいいだろう。次は敬礼だ。十五度ほど腰を曲げて……。背中を曲げるんじゃない。尻が出てるぞ。──それくらいできればまあまあか。最敬礼は三十度曲げて。そうだ、さすがにこれはすんなりできたか」

 中央で行われている挨拶の練習は立礼三種を終え、次の段階である引き足へと進んでいた。

 同僚たちの様子を不思議そうに何度も眼を瞬きながらセシルはじっと見つめていた。そんなセシルのどこかあどけない仕種をミッターヒルは可愛らしく思いながら、くいと顎で示して言う。

「あれは見てわかる通り、礼儀作法を特訓しておるのです」

 セシルがくるりと振り返り、ミッターヒルと真正面から眼を合わせた。不思議そうな顔で見つめてくる幼い領主代行に巡監使は、「実はですな」と決まったばかりの今後の予定を話しはじめた。

「今朝方早くに王都から早馬が到着しました。二日遅れで一個中隊も王都を出立したようです。その中隊ですが、すべてが我々に合流するのではなく、一小隊は例の安宿を家宅捜査したのち押収品を積んで王都に引き返し、また一小隊は我々が保管している水車小屋の押収品を受け取ったらそのまま王宮に持ち帰り、残りの部隊は我々と合流したのち、そのままモースに向かうことになりました。ここまではよろしいかな」
「はい。ではそれまでは……」

「ええ、中隊が到着するまで我々はこの地にて待機となります。それでしばらく時間が空きましてな。この機会にエルウィンを扱いてやろうと皆が乗り気になりまして、あの有様ですわ」

「あの……、練習しているのは見ればわかりますが。確か、彼は騎士を目指しているのですよね? 今頃あのような礼儀作法の一番の基本を習っていて今度の試験に間に合うのですか?」

 すでに今年の宮廷伺候試験まで四か月を切っている。今は初夏だ。夏の盛りが過ぎ去って秋が訪れ、試験が行われる晩秋となるのはあっという間である。

「食わず嫌いというか、これまで儀礼や作法には見向きもしなかったのですが、さすがにそろそろ焦りだしたのでしょうよ」
「ですが、見たところ、あれほど不慣れではなかなか大変でしょうに」

「実はあのエルウィン、昨年の伺候試験で実技と筆記は見事合格したのだが、残念なことに一般教養で落ちましてなあ。国史や慣習は問題なかったようなのだが、いかんせん儀礼や作法が壊滅的だったようで……。このままでは今年も期待できそうにないし、まったく困ったものです」

「実技と筆記に合格って……。それってつまり、一般教養に合格していれば文武両方に同時合格していたということですかっ?!」

「いかにも。だから今年はそのふたつは免除となります。ですが免除されるのは今年限り。なのに基本の儀礼ですらあの有様ですからな。もう崖っぷちもいいところですわ」

 もうあとがないと言いつつも、ミッターヒルの表情には本気で焦っているようには見えなかった。

「信じられません。同時合格の可能性があったなんて、彼にそんな才気があるなど……」

 免除が今年限りというのは利用しない手はない。今年、合格を決めるのが一番いいのは確かである。

「意外ですか? しかしまあ、あの調子では今年も合格は難しいでしょうなあ」

 セシルはもう一度、食堂の中央を見やった。テーブルを挟んだ向こう側では教師役の騎士が右足をうしろに引く礼の模範を見せている。立礼が同性の男性に向けてのものとするならば、この引き足の辞儀は異性に対して行うものとされていた。左腕は立礼同様胸の前に曲げているが、右手は腰脇ではなくうしろに回す。これは剣から手を遠ざける意をなし、武装解除を表現している。慣習的に女性をダンスに誘う際にされる挨拶として知られた辞儀でもある。

「まだ完璧には遠いが仕方ない、次に行くぞ。エルウィン、折敷には蹲式と踞式があると最初に説明したな、覚えているか。折敷は主君に対してする最上級の儀礼であるが、使用法が若干ことなる。受勲や褒美を頂く時には蹲式を、拝命する時は踞式の型を取るのが正式な作法だ。まずは蹲式からやって見せるからよく見てろよ」

 教師役のゲザルトが右足を引き、膝を床に就くと腰を下ろした。背筋はすっと伸ばしたまま頭を下げる。左足を直角に曲げて立たせ、右足もこれまた直角に曲げてついているのが、この蹲式の特徴でもある。左手は胸に、右手は弾き足と同じくうしろ手にする。

 踞式は、腰を落とし左足を直角に曲げているところは蹲式と似ているが、こちらは右足の踵の上に尻を置くのため丸く屈む型になる。左手は胸にあるが、右手はうしろ手ではなく右脇に伸ばし、手のひらを地に着けるのが正式なものだとゲザルトは説明した。

 その見本の型を見ていて、セシルはふいに思い出した。

「確か踞式は、拝命したあとすぐに動けるようにと、あのような型になったのでしたね」
「さすがによくご存じだ。そう、あれは動きやすさを配慮した型だと言えます。ですがセシル。実はあれにはもうひとつの裏の意味があるのですよ。知っておいでかな」

「え? そんなものがあるのですか」
「ありますとも。あれは許しを請う型とも言いまして、相手の怒りが解けるまで待てるように長期戦になっても大丈夫なよう体勢に工夫されておるのです。ちなみに蹲式も許しを頂く型でもありますが、こちらは誓いの型とも言い、主人や主君から褒美を頂く際はあの型を取り、褒美にに見合った働きを誓い、正しい行いを誓うのですよ。だから異性に対しては行えば、貞節を誓い、結婚の許しを請う意味となる。いずれ成人すればセシルもあの型をとることもありましょう」

「女性に結婚を申し込む時にする型であることは知っていましたが、そこまでの意味は知りませんでした」
「それは教え甲斐があるというものです。とにかく、あれだけはその気のない婦女子の前でするのは控えることですよ。酔った勢いで好きでもない相手にあれをしてしまい、結婚する羽目に陥った友人の実例もありますからな。あの型は人生を一瞬で変えてしまう抗い高き力を持っている。よく覚えておくことです」

「本当にそんな手違いがあるんですか。なるほど、使い道を誤るとなかなか危険な型のようですね」
「好きな相手以外の異性の前では酔い潰れない。それが賢明ですよ。これは友人の言葉なのですが、さすがに実感がこもってました」

 ミッターヒルは幾分、頬を引き攣るようにして笑った。その様子にセシルは感じるところがあったが、まさかご自分の経験ではないですよね、などと尋ねるわけにもいかず、こちらも愛想笑いで誤魔化すしかなかった。

 話を変えようとして、セシルは、「蹲式といえば」と何気なく切り出した。

「いずれ私自身もその機会があるのかと問われれば、まだまだ先のことにしか思えないのが正直のところで、おそらくとしか答えられませんが。あれをされたことなら私にも経験があります」

 ミッターヒルは思わず耳を疑った。

「は? 蹲式をされたことがあるとおっしゃる?」
「はい。七歳の時に」

「ええと、飯事などではなく、正式に?」
「ミッターヒルさん、飯事をする趣味は私にはありませんよ」

「それは……言葉が過ぎました、申し訳ない。ちなみに相手の男性はいくつくらい方ですかな?」
「確か彼とは八歳離れていたと思いますので、当時十五ということになりますね」

「すると今は十八くらいになってますな」
「彼はウッドロー領の近隣の領地の子爵家の嫡男で、正式に婚約も交わしていました。こちらの都合で一年も経たないうちに破棄していただくことになってしまいましたけど……、まるで兄のようにいつも優しくしてくれました」

「婚約破棄とは、それはまた……。ああ、あなたが爵位を継承することに決まったからですな」
「ええ、そうです。婚約は女性化が前提でしたから。でも、理由が理由だったので、先方もすんなり納得してくれました。彼にはどうしても爵位を継がないといけないのかと言われましたが、兄が亡くなって、残されたのが私だけとなれば致し方ありません」

 それはごねたと言うのであって、すんなりと納得したとは言わないのではないかとミッターヒルは思ったが、男女の機微に聡いとは言えないセシルに説いても詮(せん)ないことと諦めた。

 この器量の良い容姿だ。その少年もよくぞ早くに眼をつけたものだと褒めてやってもいいところだが、十歳の今でさえ簡単に諦めてくれたと勘違いしているくらいであるのに、八歳のセシル相手に男心を理解しろというのはこれはもう無理を通り越して酷というものである。

 ふと、ミッターヒルはセシルが婚約を破棄したことについてどう思っているのか、興味を抱いた。

「それは残念でしたな。婚約を解消のおりはセシルどのもさぞかしお寂しかったのでしょう」
「それはまあ。仲良くしてくださった方が離れていくのはやはり寂しいものですから。でも、自分勝手かもしれませんが、あの時ウッドローはそれどころではなかったというのが正直なところなのです。何度か彼もウッドローまで来てくれましたけれど、当時の私は彼のために時間を割くのすら難しかった。祖父の体調もよくなく、後継と認められるために王宮にも足を延ばし、伺候試験が制定されると聞いてからはその受験準備に必死でしたから」

 恋を知らないセシルに恋をした相手の少年も不憫だが、確かにウッドロー伯爵家にしてみれば、それどころではない時期だったに違いない。

 十五歳といえば社交界に出られるようになる年齢だが、そうは言っても女性はともかく、男の十五はまだひよっこ同然に扱われるのが一般的だ。双方ともにまだ子どもといっていい年頃であれば、婚約を解消したところでこの先、別の相手を見つけるにしても不具合はないだろうと大人たちが考えたとしてもおかしくはない。

 相手の少年には時期が悪かったと同情する部分がないわけでもないが、話を聞く限り、そもそもセシルの元婚約者に対する執着がなさすぎる。これでは相手も身を引く以外なかっただろう

 貴族の結婚は家同士の繋がりを結ぶ意が強いが、身分が釣り合えば相愛同士で結ばれることも少なくない。少年に運がなかったのは、時期もそうだが、すべてがセシルの気持ちが育つ前に終わってしまったことにある。仮に少しでも期待をしていたというのであれば、何より彼にとって大きな衝撃は、おそらく恋い焦がれるような想いがセシル側にはなかったのだと思い知ったことではないだろうか。

 だが、七、八歳で恋を知れ、と言うほうが土台無茶な話なのである。それを求めた少年のほうが断然悪い。

 男心というものは、いくつになろうと不器用で思い込みが激しいものなのかもしれない。

 ミッターヒルは思わず漏れそうになる溜め息を飲み込むと、気持ちを切り替えるように、向こうでぎこちなく頭を下げているエルウィンへと視線を戻した。相変わらずのぎくしゃくとした動作に、眼も当てられないとはこのようなものを指すのかと少し頭が痛くなる。

「剣技は舞うように華やかなのに、なぜかああいう作法は苦手と見える。どうにかならないものか。──おお、そうだ。セシル、あれを何とかものになるよう、どうかビシバシと扱いてやってくれませんかな」
「え……。ちょ、ちょっと待ってください! あれってまさか、私がアレをですか?」

 自分の突然の思いつきに機嫌をよくしたミッターヒルは、セシルが四の五の言うまえに、騎士たちに労いの言葉をかける振りをしてそばから早々に離れることにした。部下に有無を言わさないでしっかりと役目を果たすよう働きかけるのも上役の腕の見せどころというものだ。

「セシルとエルウィンか。ふむ、お互い子ども同士、意外にいい組み合わせではないか」

 歩みながら、思わず自分を褒めたくなった。

 巡監使が近づくいていくと騎士たちは席を立って道を作ろうとしたが、右手を上げてそれを抑える。

「構うな構うな。あちらで見ていたぞ。たいそう熱心だったな。さすがに正式に騎士に採用されただけのことはある。おまえたちもとりあえず基本中の基本の作法くらいは忘れていないようで安心したぞ。──ゲザルト、ご苦労だった。だがエルウィンにはなかなか苦労させられていたようだったが」

「何分にご容赦を。エルウィンも筋が悪いわけではないのでしょうが、とにかく慣れていませんからね。少し続ければどうにかなるとは思いますが、すべてはこれからの練習次第でしょう」

「ああ、そのようだな。それでだ、次からはセシルに教師役を変わってもらうといい。セシルは快く了承してくれたぞ」

 それを聞いたエルウィンが、「冗談じゃない!」と突然噴いて割り込んだ。セシルも誰も快く引き受けてなどいないと内心喚くが、こちらはどうにか声に出さないよう礼儀を保っていた。

 エルウィンはちらりとセシルを見、どうにも納得できずに口に出さずにはいられないらしい。

「あんな餓鬼に教わるなんて勘弁してくれよ」

 両手を広げて巡監使に訴えた。

 案の定のエルウィンの反発に、ミッターヒルは予想通りすぎて笑いたくなった。

「そう言うな。いくら幼くてもセシルはちゃんと伺候試験に合格しているのだぞ。儀礼作法がめためたな結果に終わったきみとは違う。相手は官吏手形を正式に得ている、それも最年少合格者というおまけつきなのだ。これほど優秀な先生はいないだろうが」

「ちゃんと官吏手形を持ってるからと言って教えるのがうまいとは限らねえさ。そうでしょう?」

 そこまで言われてしまってはセシルも黙ってなどいられない。

「私にも言わせてください。やる気のない生徒に付き合うほど、私は親切でも物好きでも暇でもありません」

 エルウィンは余計にむっと表情を強張らせた。

「やる気、よのお。確かエルウィン、きみは今年の試験には必ず合格すると豪語していたな、あれは法螺かな」
「誰が! 絶対合格してやるさ。それで来期には巡監使になってやる! 必ずだ!」

「試験に合格したからといってすぐに巡監使になれるわけではないのだがなあ。まずは巡監使補佐となって修業するのだが、それはこの際おいておこう。そこまで強い決意があるならぜひでもないではないか。しっかりセシルに教えてもらいなさい。セシル、エルウィンもこう言っている。とりあえずやる気はあるのだから、どうか今度の一般教養に合格できるよう協力してあげてほしい。免除が受けられるのは今回限り、どうしても合格させてやりたいのです。この通り、よろしくお願いしますよ」

 この場で一番の上役のミッターヒルに頭を下げられては無下に断るなどセシルにはできなかった。

「わかりました。そういうことでしたら、ビシバシとやらさせていただきます」
「俺は納得してねえぞ!」
「いい加減にしなさい。誰のためだと思っている。独学で試験に挑んでも限界があるのだときみも悟ったのであろうが!」

「えっ? まさか昨年の試験、彼は独学でもって武官の実技と文官の筆記を合格したというのですか?」
「いかにも。だが一般教養はありえないくらいの出来の悪さだったらしいです。さすがにまさかこれほど挨拶すらまともにできないとは私も思いませんでしたわ。これでは不合格になっても当然でしょうな。合格させろというほうが無謀と言うものです」

「何ということです。もったいない! もったいなさすぎです! 礼儀作法など覚えてしまえば何ほどでもないのに! いいか、よく聞けエルウィン。今日から私が貴様の師になってやる。宮廷作法と儀礼をみっちり教えてやるからよく覚えろよ! 風呂の礼だ。有難く感謝しろ!」
「何が風呂の礼だ、だ。このチビすけが! 偉い口を叩くじゃねえよっ」

「悪いが、私は貴様よりも事実、ものすごく偉いのだ。悔しかったら一般教養試験に見事受かることだな。でなければいつまでも貴様は私に敬礼をする羽目になるぞ。ちなみにそんな態度ではいつ不敬罪に問われてもおかしくないからな、覚悟しとけよ。悔しかったらせめて会釈くらいで済ませるられるような地位まで上ってくるんだな」
「こんちくしょうめ! 覚えてろよ! 今夜もみっちり風呂で泣かせてやるからな!」

「ふん、そうやって一生喚いていろ。私にしてみれば一度も二度も恥を晒すのは同じことだ。その程度で私を屈服できると思ったら大間違いだぞ! 覚悟するのは貴様のほうだ。精々、私の扱きについてこい!」

 セシルの強気のもの言いに、唖然としたのはエルウィンだけではなかった。騎士たちも小さなカンギール人の啖呵に聞き惚れ、次には笑って応援に回った。

「よく言ったぞ、セシルどの。どうにかこいつにまともな礼儀作法を身につけさせてやってくれ」
「エルウィン、言われっぱなしでいいのかあ。悔しかったら俺たちが見惚れるくらいの所作ができるようになってみろ」

 そうしてセシルはエルウィンの即席の師となり、その後、時間をみつけては儀礼、作法の所作指導を徹底的に施すjことになった。

 この日の朝食時からすでに作法の手解きははじまっていた。

「何だ、そのスプーンの持ち方は! そんなふうにスプーンを握り締めるんじゃない! 違う! 馬鹿か貴様は! 二本指で摘んで掬うなんぞ不安定だと思わないのか!」
「握るなって言ったのはおまえだろうが!」

 エルウィンが無造作にスープを飲もうとすれば、それを見咎めたセシルがすぐさま不逞の弟子に喝を入れる。一口食べるごとにいちいち説教をされるので、エルウィンは苦い香辛料を口に入れたのような嫌そうな顔で食事をする羽目になった。

 セイルは容赦なかった。食事の礼儀作法をスープの飲み方から基本をみっちりエルウィンに叩きこんだ。

「握るなとは言ったが摘めとは言ってないぞ。いいかこうするんだ。そうだ、それでいい。……って、持ち方がマシになったと思ったら今度は何だ、その肘を張った食べ方は! それにスープは手前から掬うものだぞ。違う違う。こうだ!」
「てめえ、子どもじゃねえんだから、手なんぞ握ってくんな! 恥ずかしいだろうが!」

「仕方ないだろう! 言ってもわからない馬鹿を相手にしているのだから。実際の動きをなぞったほうが早く身につくものなのだぞ!」
「馬鹿って言うんじゃねえよ! 俺はこれでも利口者で通ってきたんだ」

「ほう、これまでの程度の低さがわかると言うものだな」
「何だとう!」

「喚く暇があるなら、スープの一皿くらいまともに飲んで見せてみろ」
「ちくしょうめ! おまえは小姑なみに口煩い奴だ!」

 そんなふたりを騎士たちは少し離れたところで面白そうに見守っていた。

「意外にいい組み合わせかもしれないな」
「セシルどのはとても面倒見がいい。あれほどつきっきりで教えるのは余程の忍耐と根性がいるものだぞ」

 時間が経つにつれてだんだんと改善の余地が見られてゆくエルウィンのその著しい進化の変化に、巡監使や騎士たちは眼を見張り、「ほお」と感心した。

 反対に、お返しとばかりにエルウィンも相手が子どもだからといって容赦をしなかった。入浴の時、目隠しもせずに堂々とセシルの身体を磨きに磨いた。

「うわっ! 脇を触るなと言っただろう! この幼児趣味の変態め!」
「誰が幼児趣味だ! 色気のない子ども相手にその気になるか!」

「何を言ってる! 貴様もまだ子どもだろうが」
「おまえと一緒にするんじゃねえよ!」

「ふん。それにしても変態というところは訂正しないのだな」
「するに決まってるだろうっ!」

 巡監使や騎士たちに対しては常に丁寧な言葉遣いを崩さないセシルだが、エルウィンを相手にする時はその口調は激しいものとなり尊大になる。ある意味、元気はつらつで気持ちいいくらいの啖呵の切りようだ。

 そして、そんなふたりの覇気余りある生き生きとしたやり取りを見守る大人たちは、どこまでも呑気であった。

「いやあ、賑やかですなあ」
「若いってのは熱血でいい。セシルどのもエルウィンとは年が近いせいか遠慮なしだな」
「エルウィンの食べ方も随分綺麗になったものだ。まだスープだけという事実が哀しいが、それでも野草スープを啜る仕草が晩餐会の食事風景かと見間違うほどまでに洗練されてきたではないか。最初のころとは偉い違いだ」
「もともとセシルどのは女性として育ったそうだからなあ。作法や礼儀についての教養は深窓の令嬢並に身につけているらしいぞ」
「道理でエルウィンの動作が優雅になるはずだ。男が教えたらこうはいかん。どうしてももっと雑になるもんだ」

 ミッターヒルがにんまりと笑って騎士たちに問いかけた。

「どうだ。この捜索中にエルウィンの礼儀作法、何とか合格水準までいけると思うか?」
「いくらなんでもさすがにそれは無理というものでしょう」
「まだ生活習慣的作法ですら、すべて修めているわけではないですしね」
「第一、宮廷では右足から入室するのさえエル坊はまだ知らないのでしょう? 各貴族の名や家系図はそこそこ覚えているようですが、まだまだ宮廷に上がれるまでには行儀がなってないですよ」

「そうか。まだ作法を習うには時間が足りないか。では、この任務が終わったのちはウッドローにやるしかないな」
「エルウィンをウッドローにですか?!」
「そりゃあいい。みっちりセシルどのに扱いてもらえれば、ひょっとするとひょっとしますよ」
「何しろ、貴族と名のつくものを毛嫌いして作法すらも避けていたあのエルウィンが、セシルどのには嫌々ながらも従っているのですから。私を受け入れたのは大した実家ではないからでしょうし、エルウィンのあの貴族嫌いにつける薬があるとは思えません。セシルどの以外の貴族から教えを乞うのはなかなか難しいのではないですか」

 はじめに教師役をしていた騎士ゲザルトが、自分は貴族出身ではなく、父親は小さな領地の領主をしているのだと告白した。俗にいう、上位中級家庭出身だと言う。騎士ではあるが貴族出身ではない。だからエルウィンは彼からの教えを受け入れたのだろうとゲザルトは言いたかったのだろう。

「どうせ教わるのならちゃんとした師につくのが最善です。同じ動作でも、教える側の器量によって会得した所作にどうしても差が出ます。私よりもセシルどののほうが打ってつけですよ。何しろあちらはイクミルの本流式のようですから」
「セシルどのの曾祖母どのはイクミルから嫁いでいらしたのだそうだ」
「本場の作法を受け継いでいるということか」
「この先、宮廷にあがるのなら気品ある所作を覚えておいて損はないですしね。本流であれば間違いないですよ」

 ミッターヒルは部下たちの言葉に強く頷いた。

「確かにその通りだ」


   


この作品の著作権は、文・moroにあります。
当サイトのあらゆる内容及び画像を無断転載・転用・引用することは固く禁じます。