眠れる卵 vol.9



 カリ・エラの家の周りは、一面、白くぼんやり霞んでいた。
地に茂る雑草が、霧の白さで成り立つ世界に緑の低い層を作るさまは、とても幻想的だった。

 すべてが朧(おぼろ)──。

 その白い霞みに、ぼくのもうひとつの瞳の色が重なって見えた。

「ぼくがオッドアイじゃなかったら……」

 ぼくがシンを想い続けることを世界は許しただろうか。

「オッドアイじゃなかったら──」

 そんなこと、今更だ。それにオッドアイでなかったら、きっとシンと出会えなかった。

「陽の君の種族越えての恋。友よ、月詠の女神の安と信を託そう……」

 誰もが慣れ親しむ詩の一節が、ふとよぎる。
陽神ダイタルドと月詠の女神セレネの恋詩だ。

「想いを貫く難しさ、か。こればかりは、神も人の子もないのかもしれない……」

 陽(ひ)と月の合わさる「蝕」に出会った二柱の若き神々。
異なる神の民の恋は禁忌と知りながらも、二柱の若き神々は恋を貫く──。

 あまりにも有名なこの恋詩は、会うのもままならない恋人たちのために、忠臣である銀の使徒が二柱の仲を取り持つという、恋と友情を描いた物語である。

 序章、茜さす照る陽の民の眷属でありながら、二柱の縁を結ぶために、月族の属性の「銀」をその身に纏うことになった銀の使徒の誕生譚。
本章、禁忌の恋人たちの逢う瀬を中心に、神々がこの世界を去る瞬間までの二柱の苦悩。
終章、ひとり世界に残った銀の使徒の哀愁。

 連歌形式で詠われるこの恋詩の人気は、伝説の「聖なる者」が生存した時代、およそ千三百年前に絶頂期を迎えたと伝えられており、嘘か真か、その騒ぎ立てた様子さえもが詩となって残されていると聞く。

「聖なる者か……」

 それは、神々が人の子に託しつつも望んだ、愛の結晶とされる存在。
二柱の若き神々「ダイタルドとセレネ」の生まれ変わりと謳われた、ふたりの美しい人の子の間に誕生した、最も二柱に愛された者──と、伝わる御子の呼称。

 彼の名は──。

「確か、カンギール……」

 呟きが大気を揺さぶる──。
周囲の、張り詰めた気を敏感に察し、二の腕に鳥肌が立った。

 気が何かに呼応したように流れていた。

 霧の白さが、視界を覆う。
その白い世界に、霧を凝縮したかのような白い影が生まれ、徐々に白以外の色彩を浮き出す。

 そして、静寂のなかから、歩を進める者が現れた時、心休まる森の薫りと樹海の如く深い清涼の気を、ぼくは全身で感じていた。

 彼はそこに在るだけで、孤高だと知れた。

 長く伸びた四肢は細く、背高のわりに姿態は全体的に華奢だった。
ガラス細工の繊細さで象られた容貌に、わずかに赤みをさす唇。
二十二、三歳の外見に不釣り合いな、叡智を秘めた底知れぬ視線。
躍動感とは縁遠いそれらが不揃いな銀の髪にしっくりと馴染み、その生気の欠けた美貌は、まるで名高い彫刻家の会心の作品のようだった。

 何よりも、彼をより一層引き立たせたのは、垂れた前髪から見え隠れする額を飾るサークレット。
その中心に埋め込まれた宝石は、白石──。

 彼は一歩を踏み出し、また一歩とこちらに近付き、ぼくを見据え、ぼくを目指して距離を縮めた。

 そして、ぼくの右脇を、擦れるほどに近く通り過ぎた瞬間、彼の冷めた銀の瞳はぼくを見ることを放棄した。
期待した何かに裏切られたような自嘲的な笑みが、その時ばかりは表情豊かに、人間味帯びる。

 ぼくが彼の孤高な威厳に立ち向かえたのは、銀の瞳が彼に似つかわしくないほど枯れていたからだろうか。
『枯れている』と、ぼくが思ってしまうほど、ともすれば無気力な憂いた視線を、彼はぼくに向かって投げたのだった。



 どれほど立ちすくんでいたろう。
彼を引き止めたいと振り向いた時には、痩身の銀髪の青年はカリ・エラの家の扉を開けて、そのうしろ姿を消していた。

 ぼくは咄嗟に走り出し、あとを追う。

 飛び込む勢いで扉を開いた。

 見知った顔の面々が、奇襲を受けた戦士のように一斉に振り向き凝視する──はずだったのに、そこはカリ・エラの家の中ではなかった。

 あろうことか、家そのものさえ消えていたのだ。

 在るのは、濃密な霧のなかに、突然、飛び出した枝々。
腐りふやけた古枝が、まるで行き手を拒むように、ずっと先まで重なり合っていた。
自然が造った、倒れかけた木々が、そう……、まるで垣根のように折り重なって、枝を伸ばしていた。

「ど……し、て……?」

 ぼくの手にはまだ扉を開いた感触が残っていた。

 けれど、現実は違う。
足下には湿った土が広がり、所々に水が沁み出ていた。
カリ・エラの家付近とは霧の様子も異なり、ここのは、ほんのりとだが、霧が淡く緑がかっていた。

「どうなっているんだ……?」

──とにかく、まずはこの空間を出なくては。

 現状脱出が第一だと、本能が叫んでいた。

 霧の様子を伺っていると、そのうち服が霧を吸い込んで、肌にしっとり濡れた感じを伝えた。

「こんなに濡れるほど深い霧なのか?」

 不快感が肌を走ると同時に、その肌の冷点がぼくに風の存在を知らせる。

「霧が、動いている……?」

 細かい水の粒子は一定の方向に、白く霞んだ淡緑の闇目掛けてゆっくりと流れていた。

「この場合、行くしかない、か」

 叱咤するように自分自身に声を掛けて、意を決して、霧の出口を求めて奥へと進む。
淡緑の流れに沿って歩くためには、面倒でも四方から生えている古枝を掻き分けて進むしかない。

 湿り過ぎて腐食したらしく、枝は手を振り払っただけで、簡単に折れたり曲がったりした。
だから、道を切り開きながらにしては、想像したほどの困難ではなかった。

 とはいえ──。

 どれほど進んだろうか。額の汗が、目に入って染みた。

 周囲を白い闇に囲まれ、すでにどこから来たのか、わからなくなっていた。
淡緑色の霧の流れという目印がなければ、目指すべき「前方」にさえ迷い、堂々巡りを繰り返していただろう──。

 それからまた、息が乱れるほど歩いて……。

 やっとのことで、ぽっかりと、霧の止切れた場所に出た。
そこまで来て、ぼくは、ほんの少しほっと安堵した。

 そこは、今まで辿ってきたような、腐った古枝が取り巻く視界とはまったく異なる場所だったからだ。

 そこには、大きな木が、どっしりと一本だけ立っていた。
大人が三、四人で手をつないで一周するくらいの大木で、その幹は何種類もの深緑の苔に覆われている。

 でこぼこの地面から見え隠れする根。
幾筋もの太い根は曲がりくねりながら、周囲の地に広く這り巡らしていた。

 上を見上げれば、ぼくの背の倍ほどの長さの枝に、緑色の針緑樹独特の大きな葉。
枝の先のほうは重そうに垂れている。
もっと上のほう──大木の一番高いところは、霧のカーテンで隠した装いで見ることはできないが、霧に隠れた部分の枝振りを想像して楽しむ余裕が、ぼくの中に生まれていた。

「おまえ、この場所で何をしてる……?」

 いつの間にか、ぼくの隣りに見知らぬ人の子が座っていた。

「ひっ」

 それには本当に胸の音が飛び上がらんばかりに驚いた。

 ここには、誰もいなかったはず。誰かが近付く気配もなかった。
どう考えても、湧いて現れたとしか思えない。だからすごく怖かった。

 だが、声の主は、さらにぼくを驚愕の井戸へと陥れるのだった。

 その人の子の腰まで伸びた乳白色の髪はともかく、ぼくを見上げたその瞳の色は──金に斑の緑と青灰色の左右異色の、この見知った組み合わせ!

「カンギール・オッドアイっ?」

 男でも女でもよく見掛けそうな、綺麗でも醜悪でもない平凡な容姿のかの者は、平らな胸元からして女性ではなさそうだった。

 彼は、そのやや細めの目で、ぼくを見上げ、
「ルティエ。きみって懲りないね。また迷子になったのかい?」
そばかすをたくさん散らした頬を緩めて微笑んだ。

「あなた、どうしてぼくの名を? いったいあなたは誰、ですか……?」

 ぼくは生まれて初めて同類に会ったというのに、彼のほうはぼくを知っているようだ。

「へえ。私を知らないのか。まだきみの時間は満ちてないんだね」

 途端に彼の微笑みが、もの悲しそうに揺れた。

「あの……」

 彼の名前を訊こうと声が喉まで出掛かって、掠れる。

 ぼくの視線の先──彼の足下には、渦巻く白糸が見えた。
だが、糸だと思ったのはほんの一瞬だった。
実はそれは髪で、その主はようようにして白糸を辿ると安易に知れた。

「まさか……」

 白い頭髪は美しい顔をした男のものだった。
ただし、男の額には細い銀の角が突き出していた。下半身は白馬のそれ、だ。

 昔、読んだ本の中に、彼のような姿の白い獣がいた。

 その姿は仮のもの。
額の銀の角が象徴する本来の姿は──。

「一角獣……?」

 滅多に会えないはずの一角獣。そのわりに、ぼくは最近、目にする機会が続いている。

──シンと再会した時も思ったことだけど。
男には触れられないはずの一角獣がどうして男と行動を共にしているんだろう。

 ぼくには不可解ことばかりだ。

 だが、このカンギール・オッドアイの彼の場合は、当然の権利のように彼の手が一角獣の髪の一房を持ち上げたので納得できた。

「一角獣に触れる資格は、きみだけにあるものじゃないよ」

 その意を示すところはただひとつ。彼もまた、「眠れる卵」なのだ。

「きみはまた戻るんだろう? だったら、早く王宮に身を置くことだ。ほら、お迎えだよ」

 彼の視線の促す先に、先程の銀髪青年の無表情な美貌があった。
銀の彼を見つめるオッドアイの瞳がきらりと光って、幾分きつくなる。

「その子は返してもらおう」
「そんなにルティエが大切ですか?」

「おまえとて大事な『可能性』だった……。それを放棄したのはおまえ自身だ。
だから、我(われ)は現存唯一のオッドアイを連れて行く」

「でもね、スィヴィル。ルティエは私と同じ道を歩もうとしてますよ?
ねえ、まるで手のひらに掬った砂のようだと思いませんか。
今度もまた貴方は希望という名の砂を指の隙間から零すんだ」

「カリ・アセル、未練たっぷりに居座るおまえに言われなくない」
「未練などありませんよ。あるとしたら杞憂ですね。
ルティエにいられては、折角の私の選択が無駄になってしまいますから」

「カンギールが哀れだな。おまえのようなオッドアイを生み出すために子を成したわけではなかろうに」
「それこそ、貴方が口にすべきことじゃありませんよ。我らオッドアイはすべて被害者なのだから。
聖なる王子が子孫を残したのは貴方のためだ。
貴方の希望を適えるためだけに、布石にされた私たちの気持ちがわかりますか?」

「あの王子が適えたのは、我の……、ではない。子はウル・ゲルの希望だった……」
「それでもオッドアイが、貴方のために用意されたことには変わりないっ!」

 銀髪のスィヴィルは月の輝きを放つ銀の睫をゆっくりと伏せ、カリ・アセルから顔を背けた。

 そして苦悶の中、
「是、とでも、応えてほしいのか」
絞りだした声に続いて、不憫な子供でも見るように、再び哀しげな視線をカリ・アセルにそそいだ。

「我はおまえの気持ちなどわからない。だが、おまえもこの我の心のうちなるもの、わかるまい?」

 スィヴィルはそれ以上の言葉を語らなかった。
彼はぼくの肩を抱いて引き寄せ、その場から立ち去ろうと歩みだす。

 優に頭ひとつ分の差はある、ぼくより長身の彼を見上げて、ふと自分の心に問う。

──このふたり……、ぼくより断然オッドアイのことに詳しい。
古(いにしえ)とされる時代に生きた聖なる者や、予言者ウル・ゲルの思惑を世間話の感覚で討論するなんて、ぼくには考えられない。

 千年も前のことなのに、まるで知り合いの噂話をしているようなのだ。

「まさに我のよく知る者たちだ。
そなたらが『聖なる者』、『聖なる王子』と呼ぶカンギール、あの王子は悲しみの恋に殉じ、我をもっとも理解していたウル・ゲルは、その短い生涯を、王子と、そして久遠(くおん)の翹望(ぎょうぼう)のために捧げた……」

──久遠の翹望……?

 カンギール王子とウル・ゲル──彼ら、人の子ふたりの生涯にあたる数十年の年月を表現するのに、「久遠」なんてのは仰々しいのではないだろうか。

「それは我が陽主とかの御方の切望だからだ」

──え?

 ぼくはこの時になってやっと気が付いた。

──もしかして、スィヴィルはぼくの心を読んでいる?

 彼は当然とばかりに頷き、
「魂が長く身体から離れるのは危険だ。急いだほうがいいだろう」
ぼくの肩を抱いた手に力を込めた。

 ほのかな銀の光が彼の身体全体の輪郭を覆い、ぼくまでも包み込む。
視界が光で霞み、疲労感とともに一気にスィヴィルの記憶が押し寄せた。

 怒濤のように流れ込む、衝撃的なその知識の波。

 ぼくの意識は銀の使徒の表層意識の海原に漂いつつ、古(いにしえ)の時への扉を開いていたのだった──。






この作品の著作権は、文・moroにあります。
当サイトのあらゆる内容及び画像を無断転載・転用・引用することは固く禁じます。