眠れる卵 vol.6



 平坦だった道が上り下りの坂になった。
イクミル王国の北方に連なるオルデ山脈の雪化粧した雄々しい姿が大きくぼくらの行く手にそびえ立つ。

 気を失った晩から丸二日経って、求めるカルバ村の文字がやっとぼくらの前に現れた。
これも東の空が白み始めるころから見通しがきかなくなる夕刻まで、目一杯、馬上の人となって距離を稼いだ賜物だ。

 矢印の形の朽ちかけた板に、白く「カルバ村」と書かれた道案内の看板は、オルデ山脈の裾にあたるトリューナン村を出てすぐの、村の境界らしき川沿いにあった。
川と平行して走る道は細いが、馬が通れないほどではない。
ある一定の距離を置いて道脇に広く設けられた空き地があるところからして、荷車などが擦れ違いながらこの道を利用しているのが容易に知れた。

 オルデ山脈の入口に位置するカルバ村は、オルデの連なる山々の、低い方から数えたほうが早いふたつの山の裾に挟まれた三角地帯にある。
しっとりと湿った空気は、そのふたつの山、カル山とジスラノ山の裾野が壁となって篭りやすくなっているようだ。
村に足を踏み入れた途端、霧が出てきて、辺りを白く染めたのはきっとそのせいだろう。

 案の定の見通しの悪さに、魔導師の住む家を自力で探すのを諦め、
「一番最初に会った人に訊きましょう」
 提案した矢先に、早速見つけた村人に道を尋ねた。

 多くの知識を修めた魔導師は賢者として、特に医者もいなような小さな村では重宝がられる。
神官さえいないような場所では、神聖魔法を修めた魔導師は神官位を得られることから、魔導師が冠婚葬祭を司ることも珍しくはない。

 だが。

「魔導師? そんなもん、この村にはいないよ。何かの間違いじゃないのかい?」

 カルバ村には魔導師さえもいないと言う。

 ならば、小さな手がかりだけでも、と藁を掴む思いで、
「じゃあ、カンギール・オッドアイの呪いって聞いたことあります?」
そう尋ねたのだが、
「し、知らんよっ。そんなもん、あってたまるかいっ!」
ジェジェが掴まえた村人は急に怒り出すと、慌てて去って行ってしまった。

「参ったな。手紙の主にてこずるとは幸先悪いな」
「村の誰かが魔導師を雇った可能性もあるよね」
「ンなこと言っても、村人全員あたる時間なんてないっスよー」

「そうだよね」
「ないな。そんな暇」

 帰路に要する二日半。
そうなるとここにいられるのはギリギリ明日の昼までになる。何て忙しい。

「カンギール・オッドアイの呪いって言葉を聞いた瞬間、あの人、顔色変えたよね?」
「触れてほしくない言葉、か」
「禁忌……ですか?」

「ま、とにかく誰かしらから情報を掴まなきゃ話にならないだろう」

 結局、村長の家を別の村人に尋ねることにして、ぼくたちは馬を降りて歩くことにした。

 ふたりとも──いや、違う。ぼくも、だ。

 お互いがお互いを気遣っていた。



 一昨日のあの夜、ぼくが意識を取り戻しかけた時、囁きあうようなふたりの話し声が耳に届いた。

「あいつ、不安定になってる。
昔は他人に同調して、感情的に力を暴走させることなんかなかったのに……」
「ルティエさまはワタシに同情したわけじゃありませんよ。あれは貴方を──」

「違うんだ。そんなこと言っているんじゃない。
感情に流されてやばかったのはこの際どうでもいいんだ……。
初めて会った時から、あいつは結構うまく力を制御していた。
ここ七年使っていなかったから、加減がどうのってことはないはずなんだ。
風精を助けたいがために自分から力を捻り出したのを、おまえだって見ただろう?
制御は確実にできてるんだ。だから多分、年齢が問題なんだ」

「眠れる卵の影響が?」

 ジェジェの問いに、シンは応えなかった。
その代わり、ぼくの指に、そっとその長い指を絡めてきた。

 ぼくは咄嗟のことで驚いた。
まだ身体に力が入らなくて、瞼さえも重く感じて開けることもできずにいたこの身体に、この時ばかりは本当に感謝した。

 すでに意識が戻っていると、ぼくはどうしても気付かれたくなかった。
どんな顔をふたりに晒したらいいか、わからなかったからだ。

 魔導師を目指す者なら、一度は夢見る「指の称号」。
その取得を目前にして、学びの塔を去る決意をしたシン。

 きみがぼくのところに現れたこと自体が、全ての答えなんだと本当はわかっている。
性の決定がなされていないカンギール人の末路が短命なのは、きっとその中途半端な身体に不安定要素があるからなのだろう。

 ぼくの場合は、カンギール・オッドアイの力の暴走という形で現れようとしていた。
解き放たれた力の暴走なんて、そんなことが許されるわけがない。
事態はぼく自身だけの問題じゃなくなってしまう。
暴走した時にもしも誰かが近くにいたら、力に巻き込まれる可能性が非常に高くなる。
それだけはどうしても避けたかった。
何の関係もない他人の心を、ぼくが勝手にいじってしまっていいわけないもの。

 一昨日の朝、目覚めてすぐに、ジェジェとぼくは互いに「ごめん」と頭を下げた。
だけどそれだけで、そのあとは何も尋られもしないし、訊きもしなかった。
三人が三人とも話をふることを避けていた。

 ぼくらは何事もなかったように馬上の人となり、先を急ぐことだけに集中したのだった。





 カルバ村の第一印象は、ひっそりと霧の中に沈んだ村。
まるで村全体が大きな湖の底に沈んで、湖畔からは白い靄が湖一面を覆い隠しているような、湖水地方の夜明け前の朝のような印象を受けた。

 村の家並みを見渡しながら歩みを進めると、村人たちがそれぞれ手足を動かし働いている姿が見られた。
彼らは黙々と作業をこなしているのだが、その熱心な姿からはなぜかまったくと言っていいほど活気が感じられない。
沈んだ雰囲気の中、世間話の話し声すら小声なのだ。

 それでも、村の中心に掘られた井戸の辺りには軒先で編み物している娘たちの他愛もないおしゃべりや子供の駆け回る明るい姿が、白い霧の帳から透けるように明るい光となって井戸を照らしていた。
まるでそれは、木漏れ日の中の村人の様子を描いた風景画の上に白い真綿を薄く散らしたように霞んでしまって、霧の流れ次第では彼らの姿を捉(とら)えるのも難しくなる。

 途中、擦れ違った村人に村長の家を尋ねると、村の要の井戸を通り過ぎた少し坂を上った高台にあると教えてくれたが、始終、値踏みするかのような不躾な視線を投げてきた。

 霧に濡れた土は滑りやすく、なだらかな坂でも足下はおぼつかない。
枝で滑り止めを施された高台に続く奥行きが広めの階段に、霧の中の生活が忍ばれた。

 階段を登りきると、ところ狭しと深緑の苔に覆われた石垣が現れた。
村長の平屋の家はその石垣に囲まれるようにして、高台の頂きあたる平坦な場所にあった。

 その石垣の内側にぼくらが一歩足を踏み入れた瞬間、
「お願いですっ! カリ・エラを僕に下さいっ!」
雷を連想させる意思の通った男の声が、カルバ村の静寂を切り裂くように聴こえてくる。

 懇願に近い声は、ひっそりと佇むこの家には不釣り合いに思えた。

「何度来られても返事は同じだ。ムスタム、あの娘でないと村は救えないのだよ。わかってくれ」

「こんなのって……。余りにも酷いですよっ!
村が救えるならカリ・エラがどうなってもいいと言うのですかっ。
村は救えても、それでは僕らは救われない……。カリ・エラを失うなんて考えられない。
僕は絶対諦めませんっ」

「仕方なかろっ! 村のためなんだ。村が食い繋ぐにはそれしか方法がないのだよ。
わしだとて好んで手放すんじゃないんだ。さあ、もう帰ってくれ。わしの立場もわかってくれ」

 勢い良く締まる扉の音が、容赦なく若い男を拒絶した。
その閉じられた厚い木製の扉の前で、男は何か言いたげに口をわずかに開きつつ、それでも何も声に出さないまま拳をきつく握り締め、これからどうしたらいいか、そんなふうに途方に暮れたような顔で、空ろに視線を漂わせていた。
二十代前半らしき中肉中背の男の撫で肩の体躯が、ますます脱力した様子を際立たせる。

 そこから去ろうとするムスタムと呼ばれた男が彼の深い溜め息と共に村長の家に向かうぼくらと擦れ違った。
振り返ると、ぼくらが今来た石垣を肩を落としながらゆっくりと下ってゆく背中が見える。

「ジェジェ」

 シンが視線で追跡を示唆した。
頷く先から、ジェジェが今登ってきた階段を惜しげもなく降りて行く。

 そして、ジェジェの背中も見えなくなると、シンはぼくに振り向き、
「行くぞ。話、合わせろよ」
次の瞬間、軽く扉を叩く音が二度続いた。

 案の定、先程、ムスタム青年と言い争っていた中年の男が戸口から顔を覗かせる。

 まだいたのか、と迷惑そうな顔が、人違いと気付くと、
「何とまあ。お客人が来るなんて年に何度もないことでしてね。
余所者呼ばわりして村の者が失礼をしませんでしたかな?」
初めは疑心の、次に期待の光を、その男、カルバ村の村長は焦げ茶色の瞳に瞬時に浮かべた。

 その変貌の理由は至って明快。シンが自分は魔導師だと自己紹介したからだ。
賢者、もしくは知識人とも囃立てられる魔導師は、そこらの下級役人よりも多くの知識と魔導を習得している分だけ信用がある。
「村中を覆う霧を調査し可能ならば風の道を作る。霧が籠るのを防ぐための来訪である」なんて、村にとって利益にこそなれ損失にならない提示をされては、霧による農作物の被害を憂いていた村長が、多大な歓迎の意を示したとしても至極もっともな話だった。

「中枢の御偉方がこの村の調査に乗り出されたのは、納税の減額をお願いしていた筋からですかな。
それとも何か良くない噂でも……?」
「地理学委員会の地勢調査結果で、地形的問題以上に霧の状態が酷すぎると判断されましてね。
それで、魔導的要素を考慮した再調査を行うことになったのです」

 これだけ滑らかに嘘を並べられると、この先のシンの言葉と舌の枚数の信憑性を疑わずにはいられない。
それでも一応、こうして、ぼくらは村長に快く招き迎えられたのだから、終わり良ければすべてよしとすべきか。

 村長の満面の笑みに迎えられ、早くこちらへと催促されつつ、シンは外套を手に家の奥へと連れて行かれた。

 その背を追って、玄関先に足を踏み入れたぼくだったけれど、シンのように即座に外套を脱ぐのには抵抗があったため、どうしても一歩も二歩も遅れてしまう。

 髪は黒く染められても、オッドアイの瞳は隠しようがない。
その瞳を隠すのに、外套のフードは重宝していたのだ。

──かと言って、さすがに家の中で外套を脱がないとなるとかえって怪しまれてしまうし。さてどうするか。

 ところが、その問題はあっという間に解決した。
落ち着きなく周りを見ていた隙に、脇から突然伸びてきた細い腕に、外套を奪われたのだ。

「どうぞ。お持ちいたします」

 ふいをつかれたその驚きがおさまらない中、玄関先に若い女性の声が響いた。
乳白色の長い髪が視界に飛び込む。

──彼女、カンギール人だ……。

 その背まで伸ばした長い髪をぼくがじっと見ていると、彼女は淡い茶色の大きな瞳をくるくると動かし、ぼくの眼差しに改めて気付いたように、ふいに視線を絡めてきた。

「まさか、オッドアイ……?」

 驚きに、続く言葉が喉に飲み込まれる。

 咄嗟にぼくの方が身体を退いてしまっていた。

「ごめんなさい。だってまさか、こんなところにオッドアイがいるなんて思わなかったから。
あなた、カンギール人、ね?」

 彼女には、染めた髪への言い逃れや瞳の色への誤魔化をしたところで無駄のように思えた。
こんな至近距離でばっちり顔を見られてしまったのだ。
黒く染めた前髪やフードで隠した左右異色の瞳もしっかり見られてしまったに違いない。

 ところが、焦ったのは、諦めたようにフードを取るぼくより彼女のほうだった。

「ここにいては大変だわ。あなた、こっちに、私のうしろについてきて」

 カンギール人の女性はそういうそばから再び外套のフードをぼくの頭に被して、くるりと背を向け歩き出した。

 彼女の口を堅く引き締めた表情に煌く、一心に先を見つめるふたつの目。
その力強く先を見つめる意思を孕んだ彼女の目に、ぼくをすごく惹きつけられた。

 どこからこんな力が出てくるのか。

「あなた、早くこっちへ」

 彼女は逡巡するぼくの手首を素早く握ると力強く腕を引く。
ぼくは腕を引かれるまま、彼女のなせるままについて行くしかなかった。





 彼女は村長の家に続く坂を途中まで降りると、シンたちと通った時には気付かなかった分かれ道の先に続く、もうひとつの緩い坂を上っていった。
こちらの階段は村長の家に続く階段に比べて滑り止めの枝に苔が多く、道脇に植えられた木の通り道に突き出した枝振りといい、人の行き来が余りない寂れた様子が漂っていた。

 ところが予想を覆して寂れた階段の先には、村長の家よりもひとまわり大きい、今まで見てきたカルバ村のどの家より大きな立派な屋敷が鬱蒼とした森を背にして建っていた。

 彼女はその屋敷の扉をノックもなしに音を立てて開き、ぼくを急かして扉を閉めた。

「あ……れ?」

──閉じられかけた扉の隙間から、遠くこちらを伺うジェジェの姿が一瞬見えたような……?

「錯覚かな」

──いや、確かにあの赤毛はジェジェだった。

「ムスタム、ステラおばさん、どこっ? いるんでしょ? 急用なのよっ。ムスタム!」

 ムスタム──それは、ついさっき聞いたばかりの名前だった。

 そのあと、彼女はぼくの手首に赤く指の跡が残っているのを見つけて、
「ごめんなさい。つい急いでいたから」
とても申し訳なさそうに微笑んだ。

 それが謝罪にしてはとても晴れやかな笑顔だったので、なぜかぼくはどきどきしてしまう。
ぼくはこれまでカンギール人の乳白色の髪はどことなく「静」の雰囲気を醸し出す傾向があるように考えていた。
けれど、こんな笑顔を目にしてしまうと、髪の色うんぬんよりその人の人柄がやっぱり大切なんだって改めて認識する。

 先入観というのは怖い。

──ぼくの身近なカンギール人といえば、母さまくらいだったからなあ。

 彼女はいつも温かくて朗らかな気を纏っているが、「静」か「動」かと尋ねられれば、やっぱり「静」だとぼくは答える。
とは言っても、あの頑固一徹な父と長年夫婦をしているくらいだから、根は芯が強い女性なのだけど。

 貴族社会では当然と思われていた、ぼくを嫌悪する紳士淑女のあまたの視線。
だが、カルバ村への旅に出てみて、これまでの環境と価値観は、市勢には通用しないのだと改めて知った。
この相違は、狭かったぼくの世界に世間の寛大さと多彩な思考を眩しく照らした。

 誰よりも、一番この瞳を畏怖していたのはぼく自身。
ぼくこそが、オッドアイの殻に閉じこもることを強く望んでいたのかもしれない──と。

 この女性の笑顔はあまりにも眩しくてぼくの影を濃く映し出す。
彼女がもしオッドアイだったとしてもこの笑顔は変わらず輝いているのだろうか。

 ぼくはもっと強くなれるだろうか。





「何だい、カリ・エラ、大きな声を出して」

 屋敷の中は外見の鬱蒼とした雰囲気など微塵もなかった。
年期の入った家には違いないが小綺麗に掃除されていたし、窓際やテーブルの上には小さな生花が涼しげなガラスの器に生けられていた。
椅子には刺繍を凝らしたクッションがそれぞれ置かれ、淡い橙色のそれは窓から入る光を受けて部屋の雰囲気を明るくしていた。

「お願い、この人を匿ってほしいの。あなた、ステラおばさんよ。えっと……」
「あっ……と、ルティエと言います」

「ルティエさんとおっしゃるの。ごめんなさいね、お名前も伺ってないで。驚くわよね?
突然見知らぬ女に連れて来られるのだもの。でも、この村はカンギール人には敏感なの。
特にオッドアイは危険だわ。できるだけ早く村から出たほうがいい。
これからお連れの方も呼んでくるから、ほかの人に……特に村長に見つかる前にここから去って。
ああ、このステラおばさんは安心していいのよ。大丈夫、黙っててくれるわ」

「ちょっと、カリ・エラ。この子、カンギール人なのかい?それにしちゃ髪が黒いけど……」

 ぼくを伺い見る女性は、髪にちょっと白いものが混じってはいたけれど、恰幅のいい体格が健康的というべきか、豪快に見えた。
おそらくぼくの母より年かさの人らしかった。
活きの良さといい、肝っ玉母さんって、こんな人のことを指すんだろう。

「よく見て。この金に緑の斑の瞳は陽の神眼、カンギール・オッドアイ独特のものだわ。違って?」
「そりゃ、そうだけど。──あんた、ルティエさん? この家にいる間はその外套を脱いでも大丈夫だよ。
夜暗くなったら隣村まで案内してあげるから。それまではここにいるといいよ」

「ちょっと待って下さい。あの、ですね。ぼく、まだ理由がわからないんですけど。
ここ、カンギール人に対して迫害みたいなのがあるんですか? 隠れなくちゃいけないほどの……」

 今までだって、御世辞にも「好意的」とは言えない視線は数えられないほど浴びてきた。
それでも身の危険を感じるような、そこまで酷い扱いを受けたことはない。

 この旅は慣れないことばかりが続く。
それだけぼくは今まで籠の中にいたってことで……。
今更だけど、こんなぼくでも温室育ちだったのか、と痛感させられた。

「ごめんよ、そりゃ普通はびっくりするよね。
この村ではいい意味でも悪い意味でも、カンギール人を特別視してるんだよ。
あんたみたいなオッドアイはさもあらんって奴でね。昔は生き神さまみたいに崇め奉られていたほどさ」
「それっていつ頃の話ですか?」

「そりゃ昔のことだよ。ざっと五十年以上も前のことだねえ」
「私のおばあちゃんも、オッドアイは精霊の愛し子の証しだとよく話してくれたわ」

「そうとも。
ここらだってオッドアイがいた時分は風や水、お日さま……、とにかく自然そのものに愛されていたんだよ。
彼(か)の人がそぉっと幹に振れただけで、新緑の葉っぱがサザァーと波打つんだ。
そのさまなんざ、樹木さえ喜びに打ち震えている感じがしたものさ」
「あ、じゃあ、そのカンギール・オッドアイに会えますか? 訊きたいことがあるんです。
ぼく、あまり時間がなくて……」

「言っただろ? 五十年以上も前だって。最後のひとりはあたしが小さい頃、亡くなっちまったよ。
この村にはもうオッドアイはいないし、カンギール人だって今じゃこのカリ・エラひとりだけだしね」

──何か手掛かりが掴めるかと思ったのに。やっぱり甘かったか。

「でも」

──そうだよ! この村最後のカンギール・オッドアイは、少なくとも五十年以上前には存在してたんだ。

「それなら、その人のこと──」

 話して頂けませんか、とは最後まで続けられなかった。
庭先へと続く扉が大きな音を鳴らして、突然勢いよく開いたからだ。

 ぼくは予告なしの大きな音に飛び上がらんばかりに驚き、カリ・エラやステラにいたっては驚愕に彩られた顔で扉のほうを凝視した。
彼女らの四つの瞳は、その一瞬の大きな音が過ぎても扉から離れることはない。
何が起きたのか、ぼくも振り向こうとした。が、振り向こうにも突然背中から抱き締められて、身動きが取れなくなった。

 強張る身体が次の声でますます竦み上がってしまう。

「ルティエ、無事か。よかった……」

 胸に回された腕は、シンのそれ。
彼の頬がぼくの肩口に埋まり、彼の息遣いを感じただけで、ぼくの身体は熱く震えた。

「おまえ、途中でいなくなるし。ジェジェが連れ去られたなんて騒ぐからちょっと焦った。
おい、聞こえてるか?」
「耳元で言われたら聞こえるに決まってる。も、いいだろ。放してよ」

 胸の音が早打つのを止められない。聞かれるのはどうしても恥ずかしかった。
知られたくなくて冷たい口調と同時に、ぼくは、ぺちん……とシンの手の甲を叩いていた。

「はいはい、わかりましたよ。まったく、もうちょっとこのままでいてくれても罰は当たらないのに」

 シンがぼくの気持ちを察したのかどうかわからない。
けれど、半分おふざけ気味に万歳する形に腕を上げてくれた。

「どこ行く気?」

 再び扉の外に向かおうとする痩身の背を引き止めると、
「封鎖の結界解いてくる」
彼は顔だけ向けて、簡単に付け足した。

「裏口からの逃亡の可能性を考えて、ひとまず結界を作っておいたのさ。
拉致されたわけじゃないようだし、このままにしておいたら外には出られないわ誰もに入れないわで不便だろ?」

 用意周到な魔導師は言うだけ言って、颯爽と出て行った。
ぼくの返事など最初から期待してないのが見え見えだ。

「シン、って名かい。目っ茶苦茶いい男だねえ。
綺麗過ぎるってのは怖いんだって体験、この年齢で初めて知ったよ。
ほんと、あたしがあと四十歳若かったらねえ」
「あの綺麗な御連れさん、魔導師だったのね。だから、あなたのことすぐ見つけて……優秀な人だわ」

──綺麗って言葉、普通、男に使うかなあ。

 そんなふたりの会話がひと区切りした頃だった。
静かに開いた扉からシンのほかにもうひとり、撫で肩の青年が現れた。

「ムスタム、どこに行っていたの?」
「ホントだよ。うちの息子ったらこんな大事なときに留守してるんだからねえ」

 カリ・エラを見つけて、ムスタムの強張った顔がほっと安堵したかのように優しくなる。
カリ・エラのほうも、「しょうがないわねえ」と言いつつも、彼に注ぐ視線は優しかった。
目は語る、恋は隠せない。どうやらふたりはお互い憎からず想っている仲らしい。

「この人たちは? 見かけない顔だけど……」

 訝しがる態度を隠しもせず、ムスタムが口火を切った。

「ルティエさんに、魔導師のシンさんよ」

 すかさずカリ・エラがその場を取り作るようにぼくたちを紹介するだが、ムスタムは食い入るような不躾な視線をいかにも余所者のぼくらに向け続けた。
初対面の人から、こんなに面と向かって見つめられるとは思わなかった。
ほとんどの人はぼくと目を合わせるのを避けていたから。

 けれど、これほどの不躾な視線は居心地悪くて、とてもじゃないが落ち着かなかった。
ムスタムの執拗な視線が外された途端、ぼくは思わず、ほっと吐息してしまった。

 この緊張は重症かもしれない。

「客人はともかく、カリ・エラ。俺、さっき叔父さんのとこ行ったんだ。
やっぱりあの人の考えは変わらないようだ。こんな馬鹿げた話なんか絶対ないよな」
「お客さまの前よ。その話はあとにしましょう。ね、ムスタム。それより今日はお願いがあるの。
ステラおばさんには話したのだけど、少しの間、このルティエさんをここに置いてくれないかしら。
この人が日中歩き回るのはまずいと思うのよ」

「別にいいけど……。でも、余所者相手にそこまで過敏にならなくても……」
「あら、カンギール・オッドアイでも?」

 ムスタムの視線は、再びぼくに止まった。

 どうもこの視線は苦手だ。彼が何を考えてこんな視線を向けてくるのか、ぼくにはさっぱり思い当たるふしがない。
ぺこりと頭を下げたけど、彼のほうはいまだ何かを思案中のようで、ぼくの挨拶など目に入っていないようだった。

「とにかく、明るいうちは外出を控えて。
この家には空いている部屋がいくつかあるから夜になるまでここにいたらいいわ」

 親切な申し出に、
「この家は村長宅より広いようですね」
シンが部屋中に視線を巡らして呟いた。

「ああ。うちは代々村長をしてたからねえ。この子の父親も村長だったんだよ。
あたしの亭主は十年前に崖が崩れた時、古木の下敷きになってねえ。
そこのカリ・エラの両親と一緒に、さ……。ま、昔の話だよ。
亭主が死んで、次の村長になったのが亭主の弟のジュターなのさ。もう会ったかい?」
「前村長の妻であるあなたが村長に選ばれることはなかったのですか?」

「それは無理な話だね。あたしはもともとこの村の人間じゃないんだよ。
隣の村からここに嫁いできたんだ。
多分、あんたたちも通って来たんじゃないかい? トリューナン村ってところなんだけどねえ」
「結構、閉鎖的な村なんだな」

 かすかに聞き取れるほどの小さな声で、ぽつりとシンが本音を漏らした。

 でも、一方では、いかにも調査のために正式に派遣された魔道師面して、
「この村に伺った要件はこの霧の調査のためです。
魔導的要因も考慮したいのでいくつか質問しますから応えていただけませんか?」
シンの情報集めには余念がない。

「宮仕えさんかい。そいつはよかった。
国に保護されているオッドアイなら村のみんなも事を荒立てることはしないだろうさ。
ルティエさんは本神殿に身を寄せてるのかい?」
「あ、いや、ぼくはその、ロザイのほうに……」

 突然話をふられるのは困りものだ。シンのように上手く取り繕ろえない。

「ロザイ? そういや十年以上も昔に聞いたねえ。オッドアイの子供がロザイ侯爵に庇護された話を……。
あれはおまえさんのことだったのかい。あの時分、みんながよく言ってたねえ。
どうせならロザイ領よりもこの村に来てもらいたかったってね」

 ぼくはステラから先ほど聞いたばかりの、かつてこの村にカンギ−ル・オッドアイがいたという話をシンに伝えた。
すると、シンは、代々村長を歴任していたのならほかの村人よりかは情報通のはず、と判断したのだろう。
しばらく彼女たちにいくつか質問を続けた。

 そして、ひととおりの話を聞き終わると、
「霧が籠りだしたのが五十二、三年前か。
この村最後のオッドアイが亡くなったのもその頃となると……。
そのオッドアイの存命時分を知っている者がいたら、ぜひ話を聞いてみたいな」
シンは感慨深く、喉を鳴らした。

「悪いけど、あたしは子供の頃、この村に遊びに来た時に一度会ったくらいで,ほとんど覚えちゃいないんだよ」

 ステラが本当に申し訳なさそうな顔をしている横から、
「私の祖母なら知っているはずです。でも、もう年で足も少し不自由なの。
祖母から話を聞きたいのでしたら家のほうに来ていただけると助かるんですけど」
カリ・エラが、どうでしょう、と進み出た。

「ぜひお願いしたい。ところで……」

 そうして、シンはにっこりと微笑んで、
「この村に魔導師は? 多分、中級以上の魔導師がいるはずですが?」
確信を持った声でふたりの女性に尋ねる。

「そんなもん、いないよ」

 素っ気なく応えたのはムスタムだった。

「カルバには優秀な子供を学びの塔に入れてやれるほど、余計な金なんかない。
いくら魔導の才を持った子が生まれても、塔に入る金が工面できないんじゃ魔導師にはなれないだろ?
こんな貧乏村、食っていくのがやっとだからな。働ける男たちはみんな揃って出稼ぎにいく。
この村に残ってるのは年寄りか身体の不自由な者、あとは女子供くらいだ。
どうだい? 魔導師なんていっこないだろ?」

「では働き盛りのあなたはどうして村に?
見たところ健康そのものだ。やっぱり村長の甥子となると違いますか?」
「馬鹿言うなっ! 俺だってカリ・エラのことがなければ大事な仕事放っといて帰省なんかしないさっ」

「では、その大層な理由となりうる『カリ・エラのこと』とやらをお聞かせ願いたい」

 こんな時、シンの絶対的な有無言わさないこのような態度こそ、王子という高い身分を持つ上の者たる覇気であり、自信の塊であるとつくづく思う。
ただの魔導師が、ここまで高飛車なはずがない。
年下ながら、これほどの覇気余りある魔導師を目前にしては、ただ人のムスタムは観念するしかなかった。

 彼は腹を括ったのか、途切れ途切れにこれまでのことを話し始めた。

「霧のせいで作物はものにならない。税さえ滞納している貧乏村だ。
そんな村が食い繋ぐには村の娘を売りに出すほか手がない……」

──何をこの人は言い出すのだろう。

 娘を売るって? 自分の恋人を?

 そんなこと、公に許されていいわけない。

「違う。売られるわけじゃないわ」

 自分の話をされているというのに、あくまでカリ・エラは冷静なようだった。

 その凪のように静かな口調に、ぼくにはちょっと違和感を感じた。
彼女の穏やかな表情は諦めとも悲しみとも違っていたのだ。

 どうしてそんな顔をしていられるのだろう。
恋人と引き離されることを穏やかに受け止められる強さは、彼女のどこから生み出されるの? 

「同じことさ。同じ山の麓のだってのに、隣りのトリューナンは豊かな村だ。
山の幸に恵まれ、この地域特産の赤蜜柑の出来もいい。
ほかの農作物の出荷も順調そのもの、左内輪の生活さ」
「トリューナン?」

「ああ。カリ・エラは、そのトリューナンの村長のとこに奉公しにいくことになったんだ。
村長には息子がひとりいて、そいつがカリ・エラを見初めたのが運の尽きさ。
奉公なんて体のいい言い草だ。何を奉公させられるやらわかったもんじゃない。
女好きで知られた馬鹿息子だからな。もう何人奉公に上がった娘が泣かされたか。
そんなところに好きな女を送り出せるか?
カンギール人だからって、奉公賃の前払いは上乗せしてやろう、とまで言ってきたんだ。
そんな見え透いた人身売買まがいなこと、村公認でしようとしてるんだぞ?
情けないったらありゃしないね。
娘ひとり差し出して、その金で食い繋ごうとする浅ましさ。反吐が出るよ」

「そんな言い方、もう止めて。私はただ奉公に行くだけよ。そんな悲しいこと言わないで」
「俺だって、言いたくない……。けど、事実そうなんだからっ」

「──その隣村の村長は、カンギール人だから高く値をつける、と言ってきたのか?」

 心なしかシンの声はとても低くなっていた。
鋭利な刃物を思わせる冷たい視線に、先程まで威勢のよかったムスタムもシンの気迫に呑まれて、ごくりと唾を飲み込んだ。

「そうだ。カリ・エラは二倍の値が申し出された」

 かすかに震えたシンのこめかみ。
下を向いたまま、「そうか」とだけ短く応えたけど、肌が触れ合うほど近くにいたぼくにはわかった。
シンはものすごく怒っていた。

「ここの村長のところに我々の仲間が今、行っている。その話の続きは彼からの情報が入ってからだ。
ここで話し合っても埒が明かない」

 貧しい村に生まれた娘の悲しい行く末が、ぼくにはとても辛かった。

 ぼくと彼女の行く道は紙一重。
生涯、陽の光も見られないような生活からロザイの父に救い出された──その偶然の幸運が、ぼくに訪れただけの違い。

 じわり、と目頭が熱くなった。ここで涙を流したらいけない。一番辛いのはカリ・エラなのだから。
彼女が明るく笑っているのにぼくが泣けば、それは優越感にひたるぼくのなかの、彼女への同情だ。
ぼくの幸運をカリ・エラに見せびらかすことになる。

 自嘲に落ち込むそんな俯き加減なぼくの頭に、シンの大きな手のひらがのせられた。
くしゃりと撫ぜて、ぼくの髪を指で梳く。

 この優しい仕草に、何もかも投げ出して縋れたら……。

「元凶は霧か。霧が晴れれば作物は育つのだろう?
霧が陽の光を遮ってるって言うんなら、風を吹かせてやればいいだけだが」
「おまえさん、魔導師だったね。できるのかい?」

 ステラの期待を込めた問いにシンは肩を竦めて、口許を少し上げただけの笑顔で応えた。

 シンの腕をもってしてみても駄目だったら、ほかの魔導師を呼んでも多分無理だろう。
ぼくはなぜだか自然とそう確信していた。

 風が吹きさえすれば──。

 ぼくは、気高き魔導師の背後に希望の光が見えたような気がした。






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